last call【最終案内】 そいつは突然目の前に現れた。
「おう、先に始めてんで」
ヴァッシュは部屋に一歩入って、その声の主を目にした途端固まった。一瞬遅れて今自分が開いたドアを背に勢いよく後退る。バン! と強かドアに背中を打ち、その衝撃に見ているものが夢ではないことを知る。
シングルの部屋、簡素なベッドのそばに置かれたテーブルでウイスキーのボトルを空けているのは、かつての友である。長い脚を組み、テーブルに肘をつく黒いスーツ姿。指に挟んだ煙草は紫煙を燻らせ、漂ってくる香りも間違いなく彼が好んでいた銘柄だ。
「なんや、ユウレイでも見たような顔やな」
こちらを見てにやりと笑う。その表情も、彼そのものだけれど。
いやおまえ、
おまえ。
「マジモンのユーレイじゃねぇかッッッ‼︎」
ニコラス・D・ウルフウッド。
牧師のくせにでかい重火器を抱えて、しばらくの間ヴァッシュと行動を共にした男。桁外れに強くて、桁外れに頑丈だった彼は若くして早逝した。長命であるときから見た目も歳を取らなくなったヴァッシュにとって彼といた時間は、ほんの瞬きの間のことだった。
それもかれこれ五十年は前のことになる。
「……で、なんっでココにおいでになったわけなんすかねぇ〜」
その友人と。
現在、まさかの膝を突き合わせて久しぶりの対面となっている。因みにウルフウッドは当時の外見のままだが、若干透けている。幽体というやつだった。透けているのに酒を汲みグラスを煽るという非常識さ。頭痛が痛い。
「そやからァ、ワイちゃあんとエエ子で待っとったんやけどな? 待ちの人数多くてずっと列が進まへんねん。あの世もけったいやろ。神さんたちもてんやわんやでな。あんまり進まへんからあっちこっちから苦情が出て喧しいのなんの。で、受付時間来たら呼ぶから下界行ってこいってな、急にフリータイム言い渡されてん」
何だフリータイムって。
「神様も大変なんだな……」
「で、気付いたらココにおったわ。トンガリがまだ生きとって助かったな」
「待ってそこだけ説明雑なんだけど?」
ヴァッシュは眼を眇めてもう一度牧師を検分した。
うん。憎らしいほどにウルフウッド。
「はぁぁぁぁぁぁぁ……」
「まぁ、いつ呼ばれんのか知らんけどあんじょう頼むで」
「はっ? それまでいんの⁉︎」
「おん」
ヴァッシュは混乱していた。人間よりも長い人生を生きているが、さすがにこんな事態に遭ったことはない。
幽霊と二人きり。やっぱり夢じゃないのかと頬を何度か抓ってみたが、普通に痛い。どこかで酒を引っ掛けてきただろうかと記憶をさらっても酒気のひとつも帯びていなかった。
現実だ。
「あ、言うとくけどワイ、ちゃんとベッドで寝るからな。半分詰めろや」
挙げ句の果てに言うのがそれか。
混乱を極めたヴァッシュの頭は考えるのをやめた。長旅で疲れているのだ。きっとそうだ。厚かましい幽霊は放っておくことにしよう。
ぽいぽいとブーツやコートを脱いで、さっとシャワーを浴びた。上がると宣言通り狭いシングルベッドの半分を非常識な幽霊が占拠していて、呆れながら隣に潜り込んだ。
じわり、背中に感じる温もり。
何だよもう。
本当にめちゃくちゃだな。
ユーレイのくせして何であったかいんだよ。
目をぎゅっと瞑ると不覚にも目尻に滲んでくるものがあって、流れ落ちるまえに寝てしまおうと思った。
朝になったら、もういないかもしれない。
「嘘だろ……」
翌朝。
果たして幽体ウルフウッドはまだ部屋にいた。
「おまえ受付番号いくつなの」
「三十二万八千二百三番」
「うお……」
あの世繁盛しすぎだ。
モーニングは二人分頼んだ。
「朝からよく食べるねぇ」と人の良さそうな主人が階下で包んでくれたが、朝からよく食べる幽霊がいるだけだ。反対に追加料金を払わずで心が痛む。
どうやらこの幽霊、ヴァッシュ以外には見えていないらしい。ヴァッシュがサンドイッチをオーダーしている間も何くれとなく背後から口を出してきたのだが、声も周囲には聞こえないようだった。
「生前のワイを知らん人間には見えへんのやな」
そういうものだろうか。
しかし実際、他の誰にも見えてないとなると自身の幻覚という線もやはり捨て切れない。
僕がイカれてるのか?
首を傾げてもぐもぐ、並んでパンを頬張る。
「なんか……おまえさぁ、ユーレイって、もっと」
何十年と空いているのが嘘のように、旧友との距離はあっという間に縮まった。
二人で見た景色も、二人で掻い潜った危機も、昨日のことのように思い出せる。それはヴァッシュの心の奥に鮮やかに刻まれていながら、何十年と蓋をしていたものだった。
隣に座る彼の横顔を見るたび、殊更鮮明になる短い日々。
そしてそこに、あたまりまえのように居座る──感情。
「おどろおどろしいと思っとった、か? ワイには思い残したことや悔いはないからな。神さんにも褒められたわ。キレーなもんやで」
感傷が一気に萎える。
そんなに明るいユーレイがいていいものだろうか。
いや、こんな昼日中にいる時点でもうかなりヤバい。自分も何かと化け物扱いされる方だが少し安心した。コイツよりマシだ。
「はぁ…。わかったよ、何でも付き合ってやるから。何がしたい?」
サンドイッチを食べ終わったヴァッシュは、ため息をつきながら同じく朝食を腹におさめた幽体に訊ねた。
幻覚だろうが幽霊だろうが、出てきてしまったものは仕方がない。何を言ったところであるがままを受け入れるしかないのだ。
牧師の手が顔の前に伸びてきた。透けているくせにやはりぬくもりだけは感じることができる。ソースがついていたのか、口元を拭った親指をぺろりと舐めてウルフウッドは屈託なく笑った。
それからの数日、ヴァッシュは幽体ウルフウッドとほぼ離れることなく過ごした。
街を一緒にぶらついて、一緒に飯を食い、一緒に眠る。
目が覚めるとだいたいウルフウッドの方が先に起きていて、ぼんやりとした視界の中に黒い形を捉える。名前を呼ぶと「おん」と返ってくる。そんな遠い日を思い出すようなやり取りに安心するようになってしまった。
──同時に。
目覚めても彼がどこにも見当たらなかったらと考えて、心臓がひやりとする。いつかは来る、そんな光景を想像して。
記憶の底に沈めていた生々しい思いが危うく蘇りそうになる。
彼を喪ったと、知ったあの日の。
悔いはないだって?
悔いがあるのは、
あるのは。
その日は朝から街中が活気づいていた。
宿が面する大通りには露店が連なり、人の出も普段の三倍以上はありそうだった。
何かあるのかと店主に訊けば、今日は天灯祭の日なのだという。
「子供たちが熱心につくってるよ。夜には一斉に上がるんだって」
朝食を渡してそう教えたら、牧師は少しの間無言になった。
食べないの?と訊くと小さく笑う。目元に皺が寄る。
「見に行こか、それ」
いつもより、齧り付いたパンが少しだけ味気ないような気がした。
*
仄かな灯りを宿した小さな熱気球が紺碧の空を舞う。いくつも、いくつも。
ひとの願いの数だけ、言葉にできない想いを運んでいく。
「……呼び出し、来たんだろ?」
砂の上に二人寝っ転がったまま、ウルフウッドがいつまでも喋らないからヴァッシュは口を開いた。
伊達に長く生きてない。
感傷に浸かってたら今頃病んでいる。嫌になるほど、自分はどこまでも人間とは違っていた。
だから、二度目の別れくらいどうってことない。
「想像つかないや。あっちに行くってどんな感じなんだろう」
良いところだといい。
善良な彼が、短い人生の中で得られなかったもの。そういうものが全部そばにあるといい。
ここ数日、ウルフウッドはヴァッシュをあっちにこっちにと引っ張り回した。ストリートマジシャンの手捌きに感心して、美味いものを見つけては頬張って、昔のように酒を楽しんだ。牧師が笑うから、それがすごく嬉しかった。
寂しくなるよ。言わないけど。
次々と上げられる天灯のおかげで、地上はとても明るい。
「おまえの魂はどこにいくのかな」
あんなふうに、空高く昇るのだろうか。
自分もいつかは行けるのだろうか。
そもそも人間ではないから、同じようには無理なのかもしれない、と思うことはある。神様に一度訊いてみたい。
「……トンガリ」
つぶやく声に呼ばれて横目に見ると、紫煙が風に揺らいで立ち上っていた。
「堪忍な、嘘ついとった」
「ん?」
「本当は──本当はな、約束取り付けに来た」
ウルフウッドが体を起こす。
彼が寝そべっていた場所の砂は形を変えることなく、その存在を否定する。
ヴァッシュの眼にしか、映らない彼の形。
「魂がどこにいっても、絶対おどれを見つけたるから。……寄り道せんで来いや」
黒い双眸が細められる。不意にじわりと目の縁が濡れてきて、慌てて顔を背けた。
「大口叩くなよ。そんな、おまえの前に三十何万人もいるような大混雑なのに?」
上辺だけで笑った。なんて途方もない約束だろう。
いいよ、もう。会いに来てくれただけで。
「わいな、牧師やからちょっと融通利かしてくれるんやて」
「はぁ?」
何だよその特別待遇、と軽口を叩こうとしたら、顔のそばに牧師が手をついた。
砂が耳元で動く音がする。
覗き込むように覆い被さってくる男で視界が埋まる。
──影が、落ちてきて。
「わからんくならんように目印つけてこいて言われてん。──これはホンマやで」
口づけられる。
薄い唇。煙草の匂い。割り込んでくる舌の感触に震える。
息ができなかった。心の奥から突き上げてくる感情に蓋をするのが精一杯だった。
さびしい。
さびしい。
おまえを失くして、おれは、ずっと。
ずっと。
寂しかったよ。
「ちゃんと見つけるから。……それまで笑ろててや、」
あたたかい腕に抱きしめられる。
のしかかってくる重さと熱が、ただ、嬉しくて。
ぐしゃぐしゃの目元を擦りつけて隠した。
*
鳥の囀りで目が覚める。
腫れぼったい目がなかなか開かなくて困る。
なんとか半分だけ瞼をこじ開けると、部屋の中にはもう眩しいくらいの陽射しが差し込んでいた。気怠い身体を無理矢理起こして、とりあえずバスルームに向かう。
冷たい水で顔を洗ってようやく覚醒する。手探りでタオルを掴んで、拭きながら顔を上げた。
鏡に映る、少し眠たそうな顔。
──の、下。
首筋に異変を見つけてヴァッシュはまじまじと鏡面に映るそれを見つめる。
首筋にいくつか、そしてシャツを押し下げた鎖骨の下にも散らばる鮮やかな赤い痕。
うわっ。
「目印ってコレ?」
ひくり、鏡の中の顔が引き攣る。
「……バ──ッカ!」
思いっきり顔を顰めてみせた。
こんな不埒な目印つけてたら神様に怒られそうだ。碌でもないな。
これを見るたびに何を思い出すかわかっててやったのだろうか。
そうだろうな。アイツはそういう奴だ。
とりあえず、再会の際は開口一番に苦情を入れよう。
覚えとけよ、覚えておくから。
赤い痕の上を指で辿った。
消えないでほしかった。
【end】