新八君誕生日おめでとう 竹刀が空気を切り、朝のまだ涼しい空気と体の境界がなくなって、深いところから息を吐くたび、道場の床を踏み込むたび、集中力が増していくのがわかる。幼い頃に父を亡くしてからずっと続けてきた朝稽古。僕はこの時間が一日で一番好きだった。静黙な道場を自分だけのものにして、自分を高める時間。
ただの自己満足かもしれない。でも、筋肉は裏切らないなんて言うのは恥ずかしいけど、昔と比べたら大分体つきもがっしりとしてきたし、一打の威力はかなりのものになった。もう姉上の後ろに隠れている僕じゃない。万事屋として色んな人と共に戦ってきて、人間としても強くなれたんじゃないかと思う。だからこれからは僕が姉上を護れる。昔、銀さんが僕たちを護ってくれたみたいに、僕も僕の大切なものたちを護れるようになったんだ。
「よォ、随分と熱心なこった」
振り下ろした瞬間に背後から声をかけられ、肩が大きく跳ねる。反射的に体の向きを変えた僕の目の前には、予想外の人物が立っていた。一瞬だけ声で銀さんかとも思った。だが、違う。この人は――――
「高杉さん!? どうしてここに」
「久しぶりに稽古の相手が欲しくてな。銀時から聞いて来た、邪魔するぜ」
「えぇ!? あの、僕じゃ高杉さんの相手なんて……」
「なんだ。俺からあの馬鹿の首預かって、随分元気のいい返事をしたと思ったが……はったりだったか?」
いやそんなこと、とは言えなかった。だってあの時は神楽ちゃんを助けるために必死で、僕だってハイになってて。あぁなんであんなこと言ったんだろう恥ずかしい。
「あぁ、いやあ……ははは……」
「まあいい、とりあえず付き合ってもらうぜ」
笑みを浮かべた高杉さんの顔は、朝の白い陽光に照らされてキラキラと輝いていた。僕はそれになんだか、銀さんとはじめて会った時みたいな高揚感を胸に抱いた。
それから、僕と高杉さんの朝稽古は毎日続いた。
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驚くほど高杉さんの教え方はわかりやすかった。相手の動きを読むためにはどこに着目すべきか、討ち込むのに最適なタイミング、決定打を入れられない間合い。たったの三日で僕の癖を見抜き、どういう対策をとられると弱いか、弱点克服のために何をすべきか、そういうことを教えてくれた。
背中で語る――と言えば聞こえはいいけど、銀さんはあまり言葉にしてくれる人じゃない。聞けばそれなりには答えてくれるし、ほっとけない性質だから僕の出来ないことがあれば手伝ってくれる。けど、一から丁寧に教えてくれることはない。
最初のうちは銀さんの強さの秘密を知りたかったけど、いつからか聞かなくなった。今でも憧れない訳じゃない。でもきっと、銀さんは僕らが強くなることを望んでいない。強くなればなるほど、背負うものが多くなることを知っているから。そして銀さんは、きっと何かを護るために戦ってこそ生きていける人だ。だから心のどこかで、僕らを護る存在でいたいのかもしれない。ただ護られるつもりはない。でもきっと、僕らが銀さんがいなくても生きていけるようになったら、銀さんは寂しがるんだと思う。僕より大人で強いのに、子供みたいな人だから。
「はあッ!!」
「甘い、俺がどちらの足で踏み込んでいるかよく見ろ」
「え、うわ、ァッ」
正面から一本とるつもりだったが、一歩引いた高杉さんには簡単に避けられてしまった。バランスを崩し、なんとか体勢を立て直したが目の前には白い先革が突きつけられた。
「……これが真剣なら死んでたぞ」
「あ、はは……僕はほとんど殺し合いをしたことは」
「誰も殺しを上手くなれとは言ってねェ。その証拠に俺は今、お前に合わせて道場剣術の範囲で戦ってんだろ」
「え……」
言われてはっとした。確かに高杉さんは、きっちり有効打突の範囲内にだけ竹刀の物打ちを当ててきた。そうでなければ、今みたいにバランスを崩した僕を待って、剣先を見せるだけだ。助言の的確さは勿論だが、立ち姿も軸がしっかりしていてとても綺麗だった。高杉さんが撫で肩気味だからかもしれないが、体格差はそこまでないように見える。だが一打が速く、体重が聢と乗っていて重い。
高杉さんに本気で攻められると、まるで応じられる気がしないのだ。銀さんの岩をも砕きそうな重厚で熾烈な打撃とは違う。例えるなら、風だ。銀さんが火なら高杉さんは風。自由に吹く風はひと吹きではとるに足らないように見えるが、時に轟轟と燃え盛る炎を掻き消すことも出来る。収束し進めば鋭い一風となるのだ。なるほど銀さんとは違う。だけど同じぐらい強い。時にそれ以上となるのも頷ける。不思議な人だった。きっと暴風にもそよ風にもなれるのだ。
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「おう、来てやったぞ」
「銀さん!」
「遅かったな。相変わらず朝からだらしねえ」
「うるせーなお前と違ってこっちは暇じゃねんだよ」
「あぁもう二人とも、喧嘩しないでくださいよ!」
会うなり諍いをはじめようとする二人を、慌てて窘める。今日の稽古は二人じゃない、銀さんも一緒だ。ことの発端は数日前のこと、いつものように万事屋に出勤した時。珍しく自分で起きてジャンプを読んでいた銀さんが「おめーら毎朝コソコソ何やってんだァ?」と聞いて来た。高杉さんと僕のことを銀さんが知っていたことにも驚いたが、そんな風に質問をされると思わなかった。
高杉さんが剣を教えてくれているというと、いつもの通り何やら文句をつけていたが内心興味津々だったようで「俺も付き合ってやろうか」と提案してきた。どうやら高杉さんのことばかり褒められて面白くなかったらしい。少し意地悪して「迷惑だからいいですよ」と答えたがなんだかんだ理由をつけて、結局銀さんはやってきた。
稽古の成果を見せるつもりで、僕は全力で立ち向かった。銀さんはやる気がないように見えて真剣に僕にかかってきてくれた。だけどやっぱり強い。高杉さんとするのと同じように、僕はあっさりと負けてしまった。
「いいか、銀時が正面から打ち込まれた時の手は大きく分けて三つだ。まず視線が下に向いている場合はそっちを意識させて腕を振り上げ、欺かれたと思って生まれた隙をもう片方の獲物でついてくる」
「なるほど。じゃあ僕は……」
「ねえ、お前らなんで俺を倒すためだけに話し合ってんの? 俺ラスボスの気分だよ?」
どう銀さんを攻略するか話し合うのは楽しかった。高杉さん仕込みの戦術論が染みついた僕はもう二人で意見交換をし合えるまでになっていた。高杉さんが長年の経験で蓄積した銀さんの戦い方を教えてくれ、僕が考えた対抗策にはアドバイスをくれた。全部高杉さんのやり方にさせようとするんじゃない、僕自身の力で考えさせてくれるから、なんだか戦い方を話し合っているだけで強くなったようにも思えた。
銀さんは寂しそうだったしわざとらしくいじけていたが、高杉さんとこっそり目配せをして敢えて置いてけぼりにもしてみた。そうすると面白くなさそうな顔をするのを見て、二人でこっそりと笑った。
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「僕……銀さんに勝てなくても、せめて、強くなったって言ってもらえるようになりたいんです」
いつものように高杉さんと朝稽古をしていた。今日も零勝五敗。ふいに言葉を零してから肩の力を抜いて呼吸を整えていると、高杉さんが何も話さなくなったことに気が付いた。感情の読み取れない瞳で、だが温厚な雰囲気を纏いながら僕を見つめている。鼓動が一度大きく跳ねて、焦りが奥底に湧きあがってきた。
これは本当に最近思ったことだけど、高杉さんの瞳には不思議な力がある。彼の前で嘘は付けない。生半可な覚悟でもいられない。中途半端な想いや言葉じゃ見透かされて、吸い込んで融かされてしまいそうで。
「一生銀時の背中だけ追い掛けてて満足か?」
唾液を飲み込んだ音を聞かれてしまったことすら、肌をちくちくと指す緊張のもとになった。
「ぼ、僕は……」
言っていいのか分からなかった。銀さんが望んでいるとか、望んでいないとか――そういう話は問題じゃない。きっと僕は怖かったんだ。自分の限界を知ることが。銀さんに追いつけない自分を知ることが。だからそこそこでいいと自分で制限を設けて、満足する理由を探していた。僕は僕なりの生き方をすればいいと、同じ土俵で戦うことを諦めていた。
だけど、どうしてだろう。瞳の力強さも、色も、視線の投げ方ひとつも銀さんと同じところはないのに、どこか銀さんと似ているこの人の前だと話したくなる。いや、話さなくちゃいけないような気分にさせられた。
「……勝ちたい、です」
居住まいをただして口にした僕を見て、ふっ、と、高杉さんは息を漏らして微笑んだ。はじめて見た訳じゃない。だけど今までで一番優しい、温かい笑顔だった。
――――新八よォ、お前、あいつに随分気に入られてんなァ。
頬杖をついた銀さんの言葉を思い出した。その場では否定したが、もしかしたら高杉さんは案外僕に目をかけてくれているのかもしれない。だったらそれに応えたいと思った。だから必死に稽古した。銀さんが稽古に来るのは気紛れだ。もうすぐ僕の誕生日が来る。それまでに、一度はきっと。
*******
ついにその日がやってきた。いつものように高杉さんと朝稽古をしていたら「誕生日にまで熱心だねェ」と気怠そうに銀さんがやってきた。
ドクン、ドクドクドク、ドク、ドク……
心臓が口から飛び出そうだ。今日までの間、何度も何度も高杉さんと訓練を重ねてきた。やってきた銀さんが僕らの間に割り込めなくて帰ってしまうぐらい熱心に、高杉さんと稽古を重ねた。銀さんの戦い方を再現してもらったり、敢えて僕がそれをなぞってみたり。出来ることはなんだってやった。
一つ歳をとるこの日、僕が一歩を踏み出すために。
「いきますよ、銀さん」
「おう。どうやら随分アツくなってたみたいじゃねえか。……ま、負けてやる気はないけどな」
普段通りの飄々とした態度と笑みで銀さんは答えた。今日ばかりは緊張感が僕らの間を満たして、よく考えたら僕らはこんなに真剣に争ったことがなかったんだと思った。ご飯の取り合いとか、お金のこととか、殴り合うこともあったし銀さんを抑え込むこともあったが、それとは違う。
これは僕と銀さん、男と男の真剣勝負だ。
「はぁああッ!!」
踏み込んで一太刀。交わされて、右脇腹に竹刀が飛び込んでくる。横目で見て体を逸らし受け止めた。押し合いだと分が悪い。流して距離をとろうとするが逃がして貰えない。一旦引いてもう一度飛び込んでリードをとる。打ち合ってタイミングを見て、自分が一番最も鋭くなった瞬間、銀さんに隙が生まれた瞬間を見計らって――――
「一本!」
高杉さんの心地よい低音が道場に響く。銀さんの瞳は何が起こったのかわからないとでも言いたげに僕を見つめている。僕だってわからなかった。心臓が騒ぎ始める。高揚感に汗が噴き出してきた。ハッハッと肩に合わせて吐く息が収まらない。
僕が振り下ろした竹刀の先が胴に当たって驚いた様子の銀さんは、バランスを崩して座り込んだ。目の前の光景が信じられなくて、僕は銀さんと高杉さんを交互に見た。
「勝っ……た……? ぼく、銀さんに」
「はっ……ははは……」
銀さんがゆらりと立ち上がった。表情が見えない。目が合わない。なんだか急に怖くなった。普段なら子供みたいに言い訳をしたりいい気になるなよと釘を刺したりする人なのに、小さく笑っただけで何も言わなかった。
「銀さ……」
「はは……歳取ると涙脆くなるってのは本当らしいや。……新八ィ」
「はっはい!」
「強くなったな。新八」
息を呑んだ。漸く目が合った銀さんの瞳は僅かに涙を滲ませていた。その表情は見たこともないぐらいに清々しく、嬉しそうに見えた。温泉が地底から噴き出す様に勢いよく溢れたものが目からこぼれていきそうになるのを、唇を結んで必死に耐えた。
あぁ、僕はこの言葉をずっと待ってたんだ。ずっとみんなで一緒にいられればいいと思いながらも、聞き訳が良いふりをしながらも、心のどこかで、この人に追いつきたかった。勝ちたかった。それが、今日。
「誕生日おめでとう、新八」
「…………はいッ!!」
感極まって声が震える。高杉さんに「満足か」と聞かれて答えに迷った日を思い出した。あの時はまだ、僕は自分の可能性を信じられずにいた。銀さんは追いかける背中で、心のどこかで追い付いちゃいけないものだと思っていた。追い付くことはできない人だとも、思っていた。だから無意識に線を引いていたんだ。この人といれば前を向いて進んでいけると思いながらも、自分の限界を決めてしまっていた。
銀さんが高杉さんを特別に思う理由がわかったような気がした。きっと銀さんもそうだったんだ。自分や周りが無意識に引いた線を、高杉さんは無視して踏み越えてくれる。そこから出てくる勇気をくれる。きっと本人はそんなつもりなくても、人が一歩踏み出す理由をくれるんだ。
彼が行ってきたことの中には許し難いこともある。理由があってもしてはいけないことだってしてきたのかもしれない。だけど今、僕はこの人のことを心の底から尊敬している。
あぁ、また一つ目標が出来てしまった。
「ねえ銀さん」
「あ?」
「次は僕に高杉さんへの勝ち方、教えてください」
銀さんがニッと笑って「当たり前だ」と答えた。互いを称える握手をして、視線を交わして、二人で同じようににんまりと悪い笑顔を作って高杉さんを見た。困ったような顔をしてから溜息を吐いた高杉さんもまた、笑っていた。
八月十二日。今日はこれまでで最高の誕生日になった。