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    gt_810s2

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    gt_810s2

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    駆け足の七時三十分 眠れるものかと思っていたが、暫く視界を遮って目の前の体温に委ねていれば夢の中に沈むことが出来る程度には、案外俺も図太いらしい。
     フライパンの上でかたまりはじめた黄身のにおいがする。久しく嗅いでいなかった匂いが胃の奥まで潜り込んで食欲をそそった。腹が減った。これも暫く得られなかった感覚だ。
     ベッドから降りようとした足が一度宙を蹴る。普段寝ている場所と異なる距離感が、他人の家であることを改めて感じさせた。音がする方向を眺めていると、ちょうど銀色の頭髪が姿を現す。
    「あれ、起きたの。いっつも遅刻ギリギリの癖に案外はえーじゃん」
    「……面倒だから出てないだけだ。起きれない訳じゃねェ」
    「ふうん。だったらよォ、あともうちょい遅刻の回数調整してくんねェかな。月五回? 越えたら担任と面談しなきゃいけねえだろ」
    「面談なんかしたことあったか」
    「まあ、ないけど」
     当たり前のように二人分用意されていた皿がテーブルに並ぶ。グラスには牛乳、対面の男は紙パックに入ったいちご牛乳。
    「茶はねェのか」
    「んぁ? 目玉焼きにゃあ牛乳だろ」
    「朝から牛乳飲んだら腹壊す」
     あんぐり、と効果音がつきそうな男の視線から逃れるためにベッドから床へと座る場所を移す。胡坐を掻くため曲げた両膝がミニテーブルの脚にぶつかった。金具が小さな音をたてる。わざとらしくハッとした顔をしてから男は台所に再び引っ込み、新しく用意されたグラスの中には緑茶が注がれていた。
     茶碗の六割ほど盛られた白米、完熟の目玉焼き、付け合わせに薄く焦げ目がついたベーコンとレタス、なめこと豆腐にほうれん草が入った味噌汁。茶をひと口飲み込んでから手を合わせた。その合間にも胃ははやく中を満たせと急かしてくる。
    「……いただきます」
    「ん。いただきます」
     薄く塩がかかった目玉焼きは舌の上で熱を広げた。つるつるした表面が歯で砕かれる度にぼろぼろと崩れ、すぐに黄身と混じる。次に口の中に放り込んだレタスが起き抜けの体にほどよく水分を与えてくれ、熱いうちにと手を伸ばした味噌汁の風味が、ふわりと広がって体内を満たした。
    「うまい」
    「へえ、褒めてくれんの。お前もさあ、そうやって普段から素直にしてろよ。友達出来ねえぞ?」
    「元々思ったことは全部言う性質たちだ。周りが勝手に判断して離れていくだけで、俺は別に変わったことはしちゃいねェ」
     耳朶を二本の指で引っ張りながら、なにか言いたげな視線を男は俺に向けた。味噌汁を啜る音、朝のニュース、脹脛に触れるマットの感触、目の前にある人の気配。どこか実感がなくて、現実味がある。五感すべてが夢の中に攫われたままのような、妙な気分だ。
    「そういやお前、いつも金欠だって言ってたろ」
    「まあな。公務員は薄給なんだよ」
    「ならどっから出たんだ、あの金は」
    「大人には色々あんの」
     ちらりと移った視線の先には一枚の封筒が置かれていた。クリーム色に曙色のラインがいくつか入っている。右端に『〇×金融カードローン』と書かれており、つまりこの男は俺を買うために――――。
    「はあ?」
     思わず口からついた言葉に、男の肩がびくりと揺れた。冷や汗と一緒に苦笑い。浮ついていた気持ちが一気に冷えて臍の下がぎゅっと締まる。中身の入った皿が置かれていなければこのテーブルもひっくり返してしまいたいところだ。
    「馬鹿じゃねえのか」
    「いやあ、その、給料日前で」
    「ふざけんな。んなことして作った金を使えるか」
     上着に入れたままにしていた札を取り出してテーブルの上に叩きつけると、ガチャンと大袈裟な音がたった。構わず男を睨みつけると、観念したとでも言うように両手があがる。
    「そんな怒んなよ。これがはじめてだし、来月ボーナス入るし……ついでに美味いもんも食えたし」
    「……この五万以上に借りたのか」
    「や、その、ほら。いくら必要なのかわかんなかったからさァ、十万。そっから増やせりゃよかったんだけどなあ」
     呆れてものも言えない。本当に十も歳の差があるのかと疑いたくなるほどの男の物言いは、到底教職者には思えなかった。財布の中身を確かめる。おおよそ八万。キャッシュカードは置きっ放しにしていたが問題はなさそうだ。
    「行くぞ」
    「え、どこに」
    「今時カードローンなんざどこでも返せんだろ」
    「や、俺金ねえって」
    「俺がある」
    「は、え!?」
     この期に及んで未だ箸を進めようとしていた手を掴んで無理矢理身支度をさせて家を出た。時計はもう七時半を示している。急かすと『もう休んでいい?』などと弱音を吐く男を蹴飛ばして家から引き摺りだした。
     アパートを出て直進、二つ角を越えた先にあるコンビニのATMをさっさと操作すると『大したもんだなあ』などと年寄り臭いことを言ってきたので、だったらこんなもので金なんか借りるなと足を踏んでやった。何やら文句を言われたが脹脛に一発いれなかっただけ感謝されるべきだ。
    「なあ、これじゃお前大損だろ。金のためにやってたんじゃねーの」
    「金に困ってる訳じゃねェ。……だが次はない、二度とこんなことすんな」
    「じゃあお前も二度とあんなことすんなよ」
     あんなこと、が指すものを示すように、左手の甲を撫でられた。数秒前まで情けない顔をしていた男が、恐らく俺の心を見透かすような瞳で迫っている。紅い目の中に俺を捉えて食らうように。背中から感じる体温に、昨晩ベッドの中で感じたような温厚さはなかった。
    「お前が続けるなら俺も続けるよ」
     答えないまま画面を操作するが、背後から感じる気配に急かされたような気分だった。たかが担任が俺のために消費者金融で借金を作って人生が終わろうと知ったことではない。思考と矛盾した手が財布を開いて手数料が上乗せされた男の借金を返している。
     出てきた明細を男の胸ポケットに突っ込んだ。足早にコンビニを出ると、やはり見慣れない景色が目に付いた。もとより手荷物なんてないが、男の家には食べかけの朝食が放置されている。
    「鍵寄越せ」
    「は、鍵?」
    「飯の途中だ。お前のせいで」
    「いやいや、学校来いよ」
    「食ったら行く」
    「って言っても……あー、まあいいか。今日一限は学年集会だし」
     何やら男の中で納得するに至ったらしく、ポケットの中にあった鍵が手渡された。駐輪場があるアパートの一階まで共に戻った。特に挨拶もしないまま俺は階段を上がり、男はスクーターに跨った。
     いよいよ違和感ばかりが纏わりつく。ほとんど会話をしたことがなかった担任の家に、当たり前のように一人で帰っている。階段を上がるごと、喉に張り付いた違和感が濃くなっていった。きっと今すぐ踵を返して帰った方がいいのだろう。溜まり場に行けば誰かしらいる。食事なら家に帰ってからでも食べられる。
     食べかけの目玉焼きを食べきらなければならない理由なんてどこにもないのに、俺はドアノブを回してしまった。
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