夕暮れピアノとおいかけっこ♪
ふと耳に入ったメロディに聞き覚えがあり僕は思わず窓から外を眺めた。
今日はショーの練習も休みで、放課後までゆっくりできると思い朝からずっと小道具の設計図を書いていた。いつの間にか放課後になっていたらしい。
周りには僕以外誰もいなかった。だからこそ耳に入ったのだろう。
「この曲は」
そう。未だ聞こえてくる曲は僕にとってとても大切な曲で何度も聞いたものだった。
けど何故だろう。
僕は設計書を書く手を止め、音楽室へ向かった。
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ドアから中を覗くと、想定通りの先客がこちらに背を向けてピアノを弾いていた。
ドアとは逆側のグラウンドが見える窓から夕日が差し込まれている。窓側に位置するピアノは夕日に照らされ、奏者共々真っ赤に染まっていた。
ピアノの旋律に合わせて金糸がふわふわと揺れている様をドア越しに眺める。
僕らの座長、天馬司が弾いているのはかつて名が存在しなかったセカイの曲だ。
「まだ残っていたんだね」
曲が途切れるタイミングを見図り、僕は音楽室へと足を踏み入れ声をかけた。
「おおっ!?誰だ…ってなんだ、類か」
司くんは勢い良く振り返り、大袈裟なほど驚いている。大胆な動きは彼の持ち味だ。
「お前こそこんな時間まで何していたんだ?」
「次のショーで使おうかと考えてる舞台道具の設計書を書いていたところだよ。気付いたら周りに誰もいなくてね」
「…一応聞くがもしかして授業中もか?」
「フフフ、お察しの通りさ」
「仮にもテスト期間中だろ!?授業を聞け授業を!」
「おや?仮にもテスト期間中なのに、司くんこそこんな所でピアノを弾いていて大丈夫かい?」
「うぐっ…!」
図星だったのか、彼の顔が少しばかり青ざめている。彼は本当分かりやすい。
「何故だろうな。急にピアノを弾きたくなったんだ」
「へぇ。そんなものなのかい?」
「そういうものだ。お前だって急にそう言う設計書とか思いついて書き始めるだろう」
「フフ、確かにそうだね。ちなみにさっき弾いていた曲は『セカイはまだ始まってすらいない』だろう?」
「おお!よく分かったな!」
「流石に分かるよ。楽譜もないのによく弾けるね」
「何度も聴いていれば音程が分かってくるものでな。音程さえ分かれば楽譜が無くてもそれなりに弾けるものだぞ」
「へぇ凄いね。僕には理解できない世界だよ」
「フッ!そうだろう!…とは言っても、オレはお前のその設計書とかは皆目見当が付かないからな。お互い様じゃないか?」
「そうだね」
いつも通りの司くんだ。金色の髪が夕日に照らされキラキラと輝いて見えている中、毎度のポーズをドヤ顔で決めていた。
しかし。
僕は彼に違和感を持っている。
「それにしても、今日はひとりなんだね」
「ああ。オレとしては観客がいて欲しいものだがテスト期間中だしな。流石に誰にも頼めなかったんだ」
「フフ、君らしい理由だ」
「オレの我儘に付き合わせるのも悪いからなぁ」
そう言いながら司くんは窓の外を眺める。
成程。
引っかかっていたものがするりと抜け落ちた。
先程聞こえたピアノの音色が酷く寂しいものだったのは、窓の外を眺めている彼の背中が小さく見えるのはつまり。
「つまり君は今観客が欲しいわけだ」
「ん?まぁ、聴いてくれる人がいるのは有り難いが…」
「それでは僕がその観客に立候補しても構わないってことだね」
「類が?」
「うん。駄目かい?」
「いや、構わないしむしろ有難いんだが…お前が音楽とか聞くようなタイプに見えなくてな」
「フフ、僕だって作業の合間に耳が寂しくなったら聞くものさ。それにまだ書きたい設計図が山のようにあるからね。ぜひ作業用のお供として君の演奏を聴かせてくれないかな」
「お前テスト勉強…は今更か。わかった、感謝するぞ」
「こちらこそ。じゃあ荷物取ってくるね」
「ああ」
そう言って一旦音楽室を後にした。
ふと足を止め振り返ると司くんは窓の外を眺めている。
けれど先程まで感じていた物寂しさは消えていた。
彼の奏でる音色は以前から聴いてみたかったんだ。
「フフ、楽しみだね」
僕は荷物を取りに早足で2-Bの教室へ向かった。
−−−−−
「ここまでピアノが弾けるとは。驚いたよ」
「ハーッハッハッ!未来のスターになる為なら如何なる事も完璧にこなさなければな!これぐらい朝飯前だ!最近はろくに弾いてないが幼い頃は…」
「うんうん、そうだねぇ」
「話を聞けぇ!」
音楽室へ戻ってきてから、彼は何曲か演奏してくれた。
僕に合わせてくれたのか選曲がショーで使った思い入れのある曲ばかりで。
設計図を書くつもりが途中から手が止まっていたことは秘密にしておこう。
「選曲がショーで使った曲ばかりだったね」
「知ってる曲の方が耳に馴染みやすいと思ってな。今は別に演奏の技術を披露する場ではないし、何より観客を楽しませる事が最優先だろう」
「フフ、司くんらしい理由だ」
「…お前は」
珍しく不自然に言葉が途切れたので司くんを見ると、彼は視線を窓の外に向け頬を掻いている。
「少しでも楽しめただろうか?」
何か妙な事を問われるかと身構えていたのだが、なんだそんな事。
「勿論さ。僕もリラックス出来たよ」
「そうか、それなら何よりだ」
ホッとしたのか、彼の表情も纏っている雰囲気も柔らかくなった。
彼は未だに夕日に照らされてきらきら輝いている。
ああ、敵わないな。
彼と自然が織りなす無意識下での演出はいつも僕を魅了するんだ。
それは僕が創る人工的な演出では、おそらくこの先もずっと手が届かないだろう。
「類の作業はどうだ?進んだのか?」
「お陰様で今日のノルマは達成したよ」
「おお!それなら尚更、オレも演奏した甲斐があったものだな!」
「けれど、もっと君の演奏を聴いてみたいかな」
素直に感じた欲を口に出す。彼は優しくて真面目だからおそらく。
「うん?まぁお前が聞きたいならもっと弾いても構わないぞ。時間もそこまで経ってないしな」
ほら、予想通り。
「フフフ、ありがとう司くん」
「よし、次はあの曲を弾いてみよう」
司くんはそう言うとピアノに向かい指を動かし始めた。
選曲は、フェニックスワンダーランドの騒動でえむくんが悩みを抱えていたときの、幸せな夢を見ているような曲。
演奏している彼を眺める。表情は穏やかでうっすら笑みを浮かべていた。
先程は設計書の方ばかり見ていたので気が付かなかったな。気付けてよかったと思いながらまた一つ、彼への想いが募る。
あの騒動を思い返しているのだろうか。大変なことばかりだったが、かけがえのない経験もできて楽しかったと僕は思っている。司くんもおそらくそう思っているのだろう。ピアノの音色も柔らかく心做しか楽しそうだ。
あぁ、本当に夢みたいな時間だ。
目を閉じて演奏に集中していたからだろう。
「あーーーーっ!司くんと類くんだ!!」
演奏が終わった直後、突然の来客者達に驚いてしまった。
司くんもドアに背を向けていたからか驚愕したままドアの方を振替り固まっている。
「どわっ!?なんだ!?」
「わんわんわんだほーい!寧々ちゃん!司くんがピアノ弾いてるよ!」
「ちょっと、えむ」
えむくんは司くんを見つけた途端すぐに飛び付いていた。背中から飛びつかれたこともあって司くんの腰が反り返り少しばかりきつそうだなぁと眺める。
「やぁ、こんにちは二人共」
僕は二人に声をかける。
他校のえむくんがなぜこの学校にいるのかという疑問は今更なことだ。
「ごめん、邪魔しちゃった」
えむくんの後ろにいた幼馴染は、ばつの悪そうな表情で僕の方へ近付いてきた。
「構わないよ。僕もただ聞いていただけだしね」
「でも…」
彼女は言いよどむとそのまま黙ってしまった。
彼女は僕の想いを知っている。だから気を遣ってくれたのだろう。
「それに賑やかな方が彼も喜ぶさ」
そう言いながらピアノの方を眺めると、司くんとえむくんが楽しそうに会話している。かすかに聞こえてくる内容からおそらく曲を弾いてほしいとえむくんがお願いしているのだろう。
「わかった!弾いてやるから落ち着け!えむ!」
「わーい!!ありがとう司くん!」
どうやらまた演奏を聴けるみたいだね。
「廊下で聞いていたけど、司、本当にピアノ弾けたんだ」
「だから特技だと言ってるだろう!」
「そうだけど、そんなイメージ無いから…ほら、楽器よりアンタの声のほうが大きいし」
「それはもっと関係ないだろう!?」
「ねぇねぇ!司くん!さっきの曲また弾いてほしいな!」
「さっきの曲…って『ワンスアポンアドリーム』か?」
「うん!」
えむくんが所望したのはアンコールだ。
「フッ、そこまで言うならご要望にお応えしようじゃないか!類は同じ曲が続くが問題ないか?」
「僕は構わないよ」
「わーい!わーい!類くんもありがとう!」
「えむ、演奏中は静かにね」
「はーい!寧々ちゃん!」
各々空いている席に座る。
全員が座り終わったところを確認し、司くんはもう一度曲を弾き始めた。
♫
「司くんすごーい!」
音が鳴り終わると同時に拍手が沸き起こる。
えむくんだけでなく、珍しく寧々も拍手をしていた。
「本当にすごい、楽譜もないのによくあそこまで弾けるね」
「フッ!そうだろう!オレの凄さにようやく寧々も気付いたか!」
「またすぐ調子に乗って…でも本当にすごいから複雑」
寧々と司くんが楽しそうに話している横で、僕はまた違和感を感じていた。
先程と音が違っていたように感じたからだ。
だが、僕は音楽の知識がほぼ無いようなものなので。後で彼にこっそり聞いてみよう。
そんなことを考えながら司くんとえむくんの方を見る。
すると、えむくんが何やら怪訝な表情を浮かべていた。
「何だ?えむ。お前もオレの凄さに気付いたか?」
「むー、すごくわんだほいだったんだけどさっきと違うなー?」
「うん?何を言ってるんだ?」
「さっきはもっとわんだほいで、ほわわーんとしていたんだけどなー?」
「…お願いだから会話をしてくれ」
「司くんは感じなかった?」
「ううむ、曲の雰囲気のことか?オレにはさっぱり分からん…」
司くんは顎に手を当てて悩んでいた。本人は気付いてないらしい。
「類はわかった?」
そんな会話を聞いていたら、隣にいた寧々が小さな声で尋ねてくる。
「正直先程とは少し音の雰囲気が違うように感じたけれど。僕には音感も知識もないし、何より音楽に限らず芸術は全く同じものを生み出せないものだろう?だから気の所為だとは思ってるよ」
「私も雰囲気が違うかなとは思ったけど…音程は合っていたし音を外していた訳じゃないし…」
辿々しい発言から、寧々も分からないのだろう。でも彼以外の3人は違和感を感じている。それだけで僕の疑問も確証が得られた。
「ねぇねぇ!司くん!ちょっと前に弾いてたセカイの曲も弾いてほしいな!」
「お前いつからこの学校にいたんだ!?」
「フフ、僕からもお願いしていいかな?」
僕もえむくんの提案に賛同する。
「私からも、お願い」
「…分かった。折角のリクエストだしな」
満場一致のリクエストを聞いて、司くんはすこし怪訝な顔をしながら再度ピアノと向き合い、『セカイはまだ始まってすらいない』を弾き始めた。
♬
「流石に疲れた…!」
ハイテンポの曲が続いた事もあって、演奏が終わるなり司くんはぐったりとしていた。
「うーん、やっぱり違うなー?なんだろな?」
えむくんは納得がいかないようだ。
けれどそれは僕も同じだった。やはり最初に聞いた時と雰囲気が違うように感じたからだ。
「何故だろうね」
「まさかこの短時間でスランプ…とか?」
「スランプは断じて無いぞ…何よりスランプはオレ自身が感じることだろう」
疲労困憊な表情を隠さず、ピアノの前に座ったまま司くんがそう答えた。
「それもそう…じゃあ何故…」
皆が考え込んで幾分か時が過ぎる。限界を迎えたのはえむくんだった。
「うーん、分かんないしいいや!司くんの演奏はずっとわんだほいだし!」
「お前か言い出したことだろうがぁ!」
「ねぇねぇ司くん!ピアノの黒い鍵盤と白い鍵盤ってどう違うのー?」
「これか?これはだな…」
えむくんが司くんの元へ向かう。司くんは疲れているのにも関わらず、えむくんに合わせてピアノを教えている。本当にお人好しだね、君は。
------------
「黒い鍵盤は黒鍵と言ってな、半音が…ってこう言っても難しいだろうな」
「うん!分かんないや!」
「だろうな。なら実際弾いてみよう」
そう言うと、オレは有名な曲を即席で弾く。
「あたしその曲知ってる!猫踏んじゃった!」
「知名度があってお前にもわかる曲って言ったらこれぐらいだろうなぁ。これは半音主体の曲だから黒鍵…黒い鍵盤が活躍するんだ」
「ねぇねぇ!もう一回さっき弾いたショーの曲弾いてほしいな!」
「話を聞け!…ってさっきの曲?どっちだ?」
「どっちでも大丈夫!ちょっとでいいからもう一回お願い!」
「だぁ!分かった!分かったから体当たりをするな!」
頭から飛んできたえむを何とか受け止めた後、『ワンスアポンアドリーム』をワンフレーズ弾く。
「お望み通り弾いたが。何だ、この曲をお前も弾きたくなったのか?」
「…分かったぁ!わかったよ司くん!!」
えむはそう言った途端、オレの肩を掴み揺らしてきた。止めてくれ!酔う!
「いきなり何だ!?や、止めろえむ…!」
「さっきの音の違い!分かった!」
さっきの音の違い。おそらく、えむ含め3人が雰囲気がどうとか言っていた奴か。
「何だ、何かわかったなら教えてくれ!」
正直オレも気になる。オレ自身はよく分からなかったが、無自覚にクオリティの低い演奏をしてしまうとなったらオレも嫌だ。
だから分かったと騒いでいるえむの答えに期待したのだが。
「あのね、司くん、類くんのこと大好きなんだね!」
…期待したオレが間違いだったのかもしれない。
「はぁ?」
「類くんのこと大好きだから音もほわわんとしてふわふわしてたんだなって!」
「一旦落ち着け!まず何故そう思った?」
「だって、あたし達が居たときは音がね、ふわふわーほわわーんとしてなかったんだよ!けど廊下で聞いたときはしてたんだよ!」
「ふわふわ、ほわわん?」
「うん!それはね!司くん緊張してたのかなって」
緊張。オレが緊張していただって?
話の流れとして、えむと寧々がここへ訪れてから音が変わったと言っていた。つまりオレがえむと寧々に対して緊張していることになる。
「緊張だと?えむと寧々相手にか?」
「うん!」
「流石にそれは無いな。お前達相手に緊張も何もないだろう」
「えへへ、それは嬉しいけどそうじゃなくてね。
司くん、あたし達がいるときは上手に弾こうって思ってたでしょ?」
「まぁ、そうだな。下手な演奏をオレも聞かせたくないしな」
「でしょでしょ?でもね、類くんとの時はとーってもリラックスしてたんだなーって!」
「…成程」
つまりオレは、無意識に力んで弾いていたと。そんなこと一度も考えたこともなかったが、演奏そのものも最近は手付かずだったから有り得なくはない話だった。
「仮にそうだとして、なぜ類相手だとリラックス出来たのだろうか…」
「だから、司くん類くんのこと大好きだからだよ!」
えむが頬を膨らませて顔を近づけてくる。
「だから何故そうなる」
「だって音がふわふわほわわーんって…」
「それはさっきも聞いた!他にないのか?」
「司くんは?司くんは類くんのこと好き?」
「また会話が…」
呆れながらもオレは考える。
類のことが好きかどうか?類の演出は好きだ。フェニックスワンダーランドで初めて類の演出を、ワンマンショーを見たときからずっと。
それなら彼自身はどうだろう。
仲間としての彼は。
ポーカーフェイスなようでその実は分かりやすかったり、ショーに関すると真面目で熱心なところは、仲間として。
「仲間としては好きだぞ」
「それはあたしたちと一緒でしょ?ちがうー!そうじゃないのー!」
あからさまに不満そうな顔をするえむ。
「あ、じゃあさっき2人で教室いたとき、司くんはどうだった?ほわーって思った?」
「ううむ」
先程2人で居た時のことを言っているのだろう。
確かにあの空間は居心地が良かった。
類は設計図を作成している中オレは演奏をする。全く別のことをして、会話も全く無かったはずなのに。
最近、類と2人で過ごす時間が多くなった事もあるのだろう。類が隣にいる事に慣れてしまった。
そして、それに安心しているオレがいる。
つまり。
「分からん」
「えーっ!?なんで!?」
「なんでもだ!分からないものはわからない!」
「司くんのニブチンさん!」
「ニブチンだと!?だからなんの事…」
「じゃあじゃあ!司くんの好きは、どの『好き』?」
「どの?」
「お友達として好き?」
友達。
友達と呼んでもいいのだろうか。
類とは趣味も合うし、会話も楽しい。不本意ながら変人ワンツーフィニッシュとセットで呼ばれる程度には一緒にいる事が多い。呼び名には異議を申し立てたいが、ペアで呼ばれることに対してオレ自身そこまで悪い気分にはならない。
それにあいつの実験は正直恐ろしいが、安全性は信頼している。
居心地の良さと信頼関係。これはもう友人と呼べる間柄ではないか。
「…友人としても、好きだ」
そう言うと満足したのかニコニコと笑顔になるえむ。
「うんうん!やっぱり司くんは類くんと『わんだほい』なんだね!!」
「お前のその『わんだほい』がいまいち理解できないが…まぁ、あいつとは会話も弾むし趣味も合うし考え方も似ているし。それに」
それに
「類といると最近は居心地がよくてな。ふたりきりの時間もその…悪くないとは思っている」
そうぼやいた途端、えむの表情が先程より一層目をきらきら輝かせた。
「ええーっ!?もしかして司くん、ドキドキぎゅーっのほうなの!?」
「ドキドキ?ぎゅー?」
「ドキドキして胸がぎゅーってなるの!」
ドキドキの方とはなんだ?
胸がぎゅー?
オレが知っている『好き』の感情は3通りある。
一つは家族愛、一つは友愛、もう一つは…恋愛。
ドキドキする感情は家族愛、友愛では一般的に使われないだろう。それにぎゅーと表す感情も。
つまりえむが言っているのは。つまり。
「はっ…?」
「おおーっ!司くんの顔、まっかっか!」
オレが、類のこと恋愛感情として好きだと?
よく分からない。
よく分からないけれど、一度意識してしまうと顔の熱が止まらない。
そんなオレでもどこか冷静で、えむの落ち着かない様子に嫌な予感がした。
「おい、ちょっと待て」
えむ。
言うより先か。彼女の俊敏性を侮っていた。
「類くーーん!寧々ちゃーん!!!」
彼女はオレの言葉を聞くこと無く二人の元へ走っていた。
------------
「さっきの事だけど」
少し離れてえむくんと司くんを眺めていると、寧々が声をかけてきた。
「さっきの事?」
「折角ふたりきりだったのに邪魔しちゃって」
「さっきも言っただろう?僕も彼も、二人のことを邪魔だなんて思わないよ」
思わないし思えない。僕にとっても、おそらく司くんにとっても二人は大切な仲間だから。
「それならいいけど…。なんか意外」
「意外?」
「類って独占欲?強いほうかなって思ってたから」
独占欲か。
僕は恋愛に関しては初心なので、そのような感情はよく分からないんだ。
「彼を独占したいかどうかはよく分からないかな」
「例えば、えむとかに司が取られちゃう、なんて思わないの?今もそうだけど、ずっとあの二人距離が近いし」
「そうだねぇ。確かに距離が近いけど、えむくんからは僕と同じような想いを感じ取れないからね」
「まぁ…えむだし」
ふふっと笑う寧々。
「僕はね、彼を縛りたいだとかそういう考えは無いんだよ。それよりも今はもっと彼のことをよく知りたいって思っているかな。セカイの事もまだまだ分からないことが多いからね」
「そう…」
寧々は少し不満そうな顔をしている。
僕の回答は間違っていただろうか?
「でも司もえむも高校生なんだし、恋愛感情だって出てくるかもしれないでしょ?」
寧々がここまで食い下がるのは珍しいなと見当違いのことを思う。特に他人の恋愛に関する事なら尚更だ。
「珍しいね。君がここまで口を出すとは」
「別に、私はただハッピーエンドが好きなだけ」
ハッピーエンド、僕等が付き合うことはハッピーエンドなのだろうか。
「僕達が結ばれることはハッピーエンドになり得るのだろうか?」
「少なくとも私は、ハッピーエンドだと思うよ」
そう言うと寧々はピアノの方を向いた。向こう側では司くんがなにか弾いているようだ。
「猫踏んじゃった、懐かしいな」
「そうだねぇ、僕でも知ってる曲だ」
「知らない人なんていないんじゃない?」
そう言うと寧々は再びこちらを向く。
「類」
「なんだい?」
「もしかして、怖いの?」
怖い?何の事だろうか。
「何の話だい?」
「恋をする事そのものを怖がってない?」
恋心が怖い、か。
彼への気持ちが恋心だと実のところ断言できない。何故なら僕は恋という想いを、文献でしか学んでこなかったからだ。
そんな僕でも彼への想いは、寧々やえむくんに向けるものとは違うことだけは自覚していたから、今までずっと恋と仮定してきた。
そして恋心と仮定した際に感じた事があった。
それは未知への恐怖だった。
僕は好奇心が強いほうで、知らないことが一つでもあると追求してしまいたくなる。
でもこの想いだけは、何故か僕の中でずっと警鐘を鳴らし続けていた。
何も言わない僕に、幼馴染は柔らかい所を次々と突いてくる。
「もちろん類自身の性格もあったと思うけど…類も恋をすることが初めてだから。だから司の事をたくさん知って、恋心を別のものに置き換えようなんて考えてたんじゃない?例えば、司の嫌なところを知って失望したかったとか。違う?」
「…へぇ、良い推理力だ」
「推理なんてしてないよ、私はただ思ったことを言っただけ。でも」
一息置いて、寧々は言葉を続ける。
「そのやり方は間違いだったって事もとっくに気付いてるんでしょ?」
思わず息を呑んだ。
「私だって思う。司の事、知れば知るほど良い人だし魅力的だから。本人には絶対言わないけど」
寧々は、彼の方を見ながらそうぼやく。
僕も彼女も、二度と彼のことを嫌いになれないだろう。僕達が自ら仕舞い込んだ希望を彼に掴まれてしまったのだから。
「今日はえらく饒舌だね」
「ふふ、話を逸らそうとしても駄目。今日は私、折れないから」
「つれないねぇ。君と僕の仲だろう?」
「そう、私達の仲だから」
寧々はこちらを見据える。
「だからね、これは私のわがままだけど。類にはその想いを諦めないでほしいの」
「…」
「類の今までのことを思うと諦めてしまう気持ちもわかるよ。最初から諦めたほうが楽だもん。
でもね、司ならどんな類でも受け止めてくれると思うよ」
「…それは何の根拠があるんだい?」
「今までの演出とか、やり取り見てたらわかるでしょ。類の演出で一回危険な目にあってるのに、アイツ、その後も普通に受け入れるもん」
その通り、ハロウィンショーの練習中に僕の不手際で一度司くんは危険な目にあった。
幸い怪我はなかったけれど、その後も事故の事をおくびにも出さず演出をこなしていて正直僕の方が驚いた。
「演出と恋愛は違うよ。彼が僕の想いそのものを受け入れてくれるかどうか確証は持てないな」
「…そうだね。演出と恋愛は違う。でも、それでも」
司は類を受け入れてくれるよ。
彼女は微笑む。その表情は幼馴染ではなく頼もしい歌姫の顔だった。
「もちろん根拠は無いよ。でも私は司も信じてるから。本人には言わないけどね。だからその気持ち、捨てないで司にぶつけて欲しいの」
「…強いね、君は」
「私のことは別にいいでしょ」
むっと怪訝な顔をする幼馴染を眺める。
彼女は本当に強くなった。
ネネロボが無いとステージの上に立てなかった少女が、今はひとりのショーキャストとして自ら役をこなしている。
ワンダーランズ×ショウタイム結成時、初めてのショーで失敗したとき僕は寧々を庇った。それは彼女が弱い生き物だと無意識に何処かで思っていたのかもしれない。
「それでは、そんな強くなった君にアドバイスでもお願いしようかな」
「はぁ?いきなり何?」
「司くんに振り向いてもらうにはどうしたら良いだろうか」
「えぇ…私、恋愛経験無いんだけど」
「フフフ、第三者の目線でどう見えているか聞きたくてね」
「もう…司ってはっきり言わないと意識すらしてもらえないような気がするから、類の方から何か起こさないとずっとこのままだと思うよ」
「これはまた手厳しい意見だね…」
「ゲームでもそうでしょ?フラグが立たないと恋愛イベントなんて起きないし。だからまずはフラグ立てないと」
「フラグねぇ」
「…恋バナとか?」
思わず笑うと寧々はますます不満な顔をこちらに向けた。
「ちょっと、こっちは真面目に考えてるんだけど」
「フフフ、悪いね。僕と司くんが恋愛話をしている所を想像すると思わず」
「それは確かに…想像できないかも。ふたりともいつもショーの話しかしないし」
寧々もくすくす笑っている。
恋愛話か。ショーの話から流れを作って一度振っても良いかもしれないな。
「まぁでも…フラグは立てても折らないようにね」
寧々は一歩踏み出し、くるりと振り返った。
「私は類と司の味方だから。ふたりとも応援してる」
ふたりとも?
「それはどういう…」
事だろうか?
問う予定だった言葉は明るい声にかき消されてしまった。
「類くーーん!寧々ちゃーん!!!」
ピアノの方からえむ君が走ってきた。どうしたのだろうか。
「どうしたの、えむ」
「あのねあのね!司くん、類くんふおぁ!」
「こらーーーー!止まらんか、えむ!!!」
えむくんの言葉は、司くんが口を塞いだことによって止められてしまった。
僕?
「ふぁっへふははふんはほはっははんはほん!」
「口塞がれたまま話すな!あと余計なことは言わんでいいからな!?」
「余計なことじゃないよ!あたしは嬉しいもん!」
「お前の事では無いだろう!?こういう事は仮にも本人同士で話さないと駄目だ!」
「ええー!でも今の司くん面白いよ!」
「今面白いと言ったな!?オレはお前のせいで…」
司くんとえむくんは僕達をそっちのけで話が盛り上がっていた。
「ちょ…ちょっと、話が見えないんだけど」
「寧々ちゃん!あのね!司くんが」
「寧々!えむの言うこと真面目に聞かなくて良いからな!?」
「僕の名前が何度か聞こえてきたけれども、僕に用かい?」
そう僕が発言すると3人とも一斉にこちらを見て、それから。
「うぁ…」
司くんの顔が真っ赤に染まっていた。可哀想なことに耳まで真っ赤だ。
「司、その顔…」
「あ!また司くんの顔がタコさんみたいにまっかっかだ!」
「えむ!お、お前のせいで…!」
「もしかして体調が良くなかったのかい?」
もし彼が元から体調不良だったのなら、引き止めてしまった僕には責任が伴う。
「ちちち違う!別にそうではない!!無いからこっちを見ないでくれ…」
司くんはそう言いながら、片手で顔を隠す。
彼にしては声量が珍しく尻窄みになっている事も気になるが、いつも自己顕示欲が高い彼から見ないでほしいと言われたことに違和感を覚えた。
それにもう一つ。
「司、ずっと顔が真っ赤だけど大丈夫?」
「だ、大丈夫だ…」
「司くんタコさんになりたいの?」
「違うと言ってるだろう!だからお前のせいでっ…!」
「えむくんが司くんに何かしたのかい?」
一瞬の沈黙。それは正しく肯定の意だった。
僕を見ると更に顔が赤くなる司くん。
彼の顔が赤くなった原因はえむくん。
へぇ、成程。
「ちがっ…!」
「じゃあ類が原因なの?」
「うっ…」
また一瞬の沈黙。
「か、」
「か?」
「帰る!!!!!」
言うや否か、司くんは音楽室を飛び出してしまった。荷物は音楽室に置いたままなのだけれど大丈夫だろうかとぼんやり思う。
「あれれ?司くん行っちゃった」
「えむ、さっきのどういう事?」
幼馴染もこの状況についていけていないようだ。
「あのね!司くん、類くんのこと大好きなんだって!」
その言葉に僕の思考が一気に停止した。
司くんが僕を?
いや、えむくんの発言だ。まだこれは都合のいい解釈だろう。
「えっ…司が?」
「うん!司くん、類くんのこと話してるときね、顔がすっごくほわほわしてたんだよ!あたしね、司くんのそんな顔初めて見たから、類くんのことがドキドキぎゅーって好きなんだなって分かっちゃったんだ!だからそれを司くんに言ったらタコさんみたいに顔がまっかっかになっちゃったから、類くんと寧々ちゃんに見てほしくて二人を呼んだんだー!」
「それは…ご愁傷様」
「ほぇ?」
寧々の言葉はおそらくここに居ない彼に言ったのだろう。
対して僕は内心それどころではない。
彼が僕のことを好いている?
恋愛感情として?
正直、恋と仮定している今でも僕は彼と共にショーが出来るのなら関係性に名前をつける必要なんて無いと考えていたし、彼が僕のことを意識しないのであればこの想いを片思いとしてずっと持ち続けようとも思っていた。
それはこの先もずっと。
ただ、彼も僕に好意を向けているなら話は別だ。えむくんからの情報なのでいまいち確信は持てないけれど、彼のあの顔を見てしまうと期待を持ってしまいそうになる。
いや、違う。あの赤くなった彼の顔を見てからずっとどす黒く溜まっていく感情もある。
あんな彼の顔を僕は知らない。また一つ彼の魅力を知ることはできたけれど、それはえむくんの手によって生み出されたもので僕が施した演出ではないのだ。
それは。
「…面白くないね」
「類?」
「類くんどうしたの?」
二人がこちらに顔を向ける。寧々は僕を見るや否や、まるで苦虫を噛み潰したような表情を浮かべているが、今はそれすらもどうでも良い。
彼の鞄はここにあるから、ここで待っている方が確実だ。だけど、今だけは非効率な方法でも彼を追いかけて捕まえたい。捕まえて、それから彼と色々話をしたいんだ。
「悪いけど、彼を追いかけるよ。二人共先に帰ってくれ」
言うが先か、僕は廊下に向けて一歩踏み出した。
------------
「類くん、司くんと鬼ごっこ!?あたしも…!」
「まって、えむ」
「ほぇ?」
走り出しそうなえむの腕を慌てて掴む。
今はあの二人に関わらないほうがいい。絶対良い。
「寧々ちゃんは鬼ごっこ嫌?」
「走るの疲れるし嫌かな。それに類は司と二人で話したいみたいだったし」
「そっか!それならあたしもやめる!」
案外、えむは空気を読むし周りに合わせるタイプだと思う。
そう知ったのはつい最近だけれども。
それにしても何あの顔。さっき類は独占欲なんて無いとか言ってたけど、どう見ても独占欲と嫉妬心丸出しじゃない。思わずドン引きしちゃった。
「えへへ!でも司くん、猫さんみたいだね!」
「猫?なんで?」
「うん!猫踏んじゃったの歌詞に出てくる猫さんだよ!」
猫踏んじゃったの歌詞のこと?幼い頃に何度か聞いたきり、全く聞いてなかったから忘れちゃったな。
「ごめん、歌詞忘れちゃったかも」
「あのね、おじいちゃんが教えてくれたんだけど、男の子が猫さんのしっぽ踏んじゃって猫さんにぴょーんって逃げられちゃうんだよ!それが今の司くんにぴったりだなーって!」
「へぇ…確かに、ふふ」
成程。確かに今の司、想定外のところからやわい部分を踏まれて逃げ回ってる猫みたい。ただ今の場合、尻尾を踏んだ男の子はえむになるんだけどね。
「ねぇ、えむ。下にある自販機寄らない?ジュース奢ってあげる」
「えっ!?えええ!?なんで!?」
「ふふっ、今日のMVPにご褒美あげようかなって」
「えむぶいぴー?」
今日の功労者は間違いなくえむだよね。あの二人にフラグを立ててくれたから。
自販機のあとはいつものたい焼き屋さんにでも一緒に行こうかな。
「寧々ちゃん何だかご機嫌だね!」
「…うん、嬉しいんだ。えむのおかげでやっと進んでくれるかなって思うと」
「うん?えへへ、褒められちゃった」
「このあと、前行ったたい焼き屋行かない?」
「行きたーい!!」
えむがきらきらした顔でこっちを見てくる。
笑顔が眩しいなぁ。
二人の荷物ここにあるけど、先に帰っていいって言われたし、いいよね。
「あ、わかった!えむだけに、えむぶいぴー?」
「もう、変なこと言ってるとたい焼き屋行くのやめちゃおうかな」
「わー!ごめんなさいー!!」
そう言いながら私達も音楽室を後にした。
明日、ふたりが少しでも進展していれば良いなと
密かに願いながら。