「その絵、あなたのお目当ての彼が描いたものですよ」
「―――、え?」
にこりときれいに浮かべられた笑みに、光忠は目を丸く見開いた。響いた声は多少裏返っていたかもしれない。ばん、と勢いよく閉めてしまった冷蔵庫のドアを反射で撫でながら、待って、とシンクに向かって呟いた。
「なんです?」
「待って、あの、その話、宗三くんだれから」
「そりゃあ、あなた、聞かなくてもわかるでしょう? 貞ちゃんですよ」
ころころと笑ってカウンターにやってきて、肘を置く仕草も様になる。長い桃色の髪が肩に流れて頬に添えられた指を隠した。それをキッチンに手をついた状態でたっぷり見つめて、ようやく返せたのはしぼりだした震え声。
「~~~っ、ぅ、」
「…ふふ、大丈夫ですよ。僕はこう見えてひとの恋路を眺めるのがとても好きです」
「こっ、」
こいじなんて、そんなの! 叫んだ瞬間に、しい、と指を立てる宗三がそれは楽しそうに笑うから、へなへなと力が抜けてしまった。ちがうんだよ、と続けた声からも力が抜けてしまって、なんの説得力もない。でも、ほんとうに違うのだ。
ちらりと花の絵を見て、また小さく呻いてしまう。あの絵を、彼が、描いた。そういえば短い話が掲載されている雑誌に並ぶ絵は、彼が描いていると聞いたことがある。そうと知ると余計に魅力を感じてしまうのは現金というものだろうか。きっと光忠の気持ちを知る貞宗なら、「しかたねぇなあみっちゃんは!」、と笑ってくれる。
「……、」
宗三は微笑みながら光忠の肩を撫で、奥の部屋に戻っていった。わかってますよ、と残された声はやさしく、でも多分にからかうようなやわらかさを含んでいる。その態度にゆるく眉を下げ、光忠も困ったように笑った。
本当に、宗三が言うようなものではないのだ。ただ、彼の書く話が好きで、選ぶ言葉が好きで、ずいぶん夢中になってしまうことがある。惹かれてしまう。そんな話をいつも貞宗にしていた。貞宗が貸してくれた本がきっかけだったからだ。
宗三の店に行くことが決まり、とっておきの情報だと教えてくれたのも、貞宗だった。
『なぁなぁみっちゃん! 宗三兄の店さ、あの伽羅が来るらしいぜ!』
「―――、」
伽羅、とは、彼の名前が長いからと貞宗が勝手につけた呼び名だった。作家名は、彼の本名で、大倶利伽羅。会えるかもな、とも言われて心が震えた。会えるだろうかと胸がおどった。すぐに我に返って、でも、そわそわと落ち着かない気持ちは元に戻らなかった。
壁に飾られたあの小さな絵は、きっと宗三にとって気心の知れた相手が描いたもの。もしかして、友人、だろうか。この店に立つようになる光忠も、いつか、会えるだろうか。ついさっき考えていたことを繰り返し思って、光忠はぽつりとこぼす。
「会えたらいいなぁ…」
声にしてみて、ますます笑ってしまった。子どものように、と言えてしまいそうなほどに楽しみにしている。わくわくしている。いつか、を思えば気合も十二分に入ってしまうというもの。
でも、まさかその翌日に会えるだなんて、このときは思ってもいなかった。