dropその日はありきたりな1日だった。いつも通りに出勤して書類と格闘し、いつも通りに出動要請。
銀行強盗が爆破した金庫から飛び交う札束に市民が群がり、そこに運悪く自由の女神サイズのブルドックが居合わせ道路が陥没。要件は市民の救出とブルドックの捕獲。罪のない大型犬を殺しては動物愛護法に反する。
いつも通りつつがなく作戦を終え、事後処理を警察に任せ、後は陥没した道路が塞がっていく様子をニュースで見るだけ、という状況にしてライブらは解散した。
事務所に集合、のはずだった。クラウスはギルベルトの車に乗り、スティーブンにも乗るようにと勧めたが、彼はロウ警部と少し話があると言って単独行動に出てしまった。
そして、今に至る。
クラウスは事務所のデスクできりきりと胃を痛めながらひたすら待っていた。スティーブンと別れて、即ち現場で解散して、もう3時間になるだろうか。
スティーブンは未だ戻らない。電話をしても出ない。ロウ警部と少し話がある、と言っていただけなのに、3時間は明らかにおかしい。長すぎだ。スティーブンは一刻も早く帰ってきて書類を片付けたいはずなのに。
「旦那ぁ、んーな顔して待ってるぐらいなら、迎えに行ったらいいじゃないっすか。GPS確認するとかあるでしょ」
ザップはいつも通りソファに行儀悪くふんぞり返り、葉巻の煙をぷかぷか浮かべながら提案した。
「しかし・・・、」
実をいうと、クラウスは昨夜スティーブンと喧嘩をしてしまったのだ。今にして思えば、取るに足らない、実にくだらない理由だった。だが、クラウスはどうにも虫の居所が悪く、スティーブンを家から追い出してしまった。
今朝、スティーブンが何食わぬ顔で出勤してきて、やぁクラウス、おはよう、なんて言った時にはますます腹が立った。だがクラウスも部下の手前、プライベートを引きずるべきではないと、当り障りのない挨拶を返した。
確かに心配だ。しかし、それ以上に気まずい。とうとうスティーブンに本格的に嫌われてしまって、顔も見たくないと思われているのではないだろうか。彼がライブラを捨てるとは思えないが、クラウスと別れる可能性はある。
「いや、流石に遅すぎますよ。何か事件とか事故に巻き込まれててもまずいですし、GPSだけでも確認したほうがいいですって」
レオナルドは珍しくザップを援護した。これに限っては、ザップが正論だったから、に尽きるだろう。
「うむ・・・。確かに、君たちの言う通りだ」
クラウスはかちかちとパソコンを操作し始めた。巨体が小さなパソコンを縮こまって操作している姿は、少し滑稽で少し微笑ましい。
レオナルドとザップは、さほど心配していなかった。クラウスの心配性を宥めるようにGPS確認を勧めたものの、帰ってこない理由はいくらでも想像がつく。スポンサーの呼び出しだとか、途中でちょっと暴れているだとか。
要するに、スティーブンであれば心配する必要はないだろう、ということだ。彼は元来多忙な人だし、外回りの用事も多く抱えている。
しかし、すぐにクラウスが椅子を倒す勢いで立ち上がったので、彼らふたりはびくりと肩を震わせて顔を見合わせた。
「だ、旦那・・・?」
「何かあったに違いない」
「はい?」
クラウスはずんずんと事務所を横切り、鬼気迫る、といった表現が最適な表情でエレベーターに乗り込んだ。再び顔を見合わせたザップとレオナルドは、転びそうになりながらクラウスのパソコンに飛びついた。
「・・・マジかよ」
パソコンに表示されていたGPSは、3時間前の現場と同じ位置にあった。
考えられる可能性は3つある。
ひとつめ、スマートフォンを落とした。スティーブンは慎重で賢明な男だが、ありえない話ではない。スマートフォンを落として探しているなら、帰って来ないのも頷ける。しかしそれなら、GPS位置の確認をするはずだ。
ふたつめ、未だにロウ警部と立ち話をしている。あるいは、同現場で何かトラブルが起こった。確率的には後者が高いだろう。3時間立ち話は流石にないはずだ。それに、電話に出ないのもおかしい。
そして、クラウスが最も危惧していること。出動後、何らかの要因で現場から動けなくなっている。気づかなかったが、怪我か、急病も考えられる。
クラウスがギルベルトの運転する車で現場に戻った時、既にロウはいなかった。3時間の空白を考えれば当然だ。陥没した道路の穴の周りに立ち入り禁止のロープが張ってあり、制服警官が立っているだけになっていた。
「ギルベルト、ここで待っていてくれたまえ」
「かしこまりました」
クラウスはギルベルトを立ち入り禁止の真ん前に待機させて駆け出した。立ち番の警官から邪魔そうに睨まれたギルベルトは、持ち前の容姿の怖さを存分に生かして微笑んでおいた。
スティーブンのGPSは確かにこの周辺を示している。しかし、周りはほぼ片付いているし、警官の姿しか見当たらない。陥没した穴の中に落ちた、という事はないだろう。撤収時に彼は無事だったのだから。
クラウスはもう一度スティーブンのスマートフォンに電話をかけた。出ることはなくとも、この近くにいるならコール音が聞こえる可能性がある。
「スティーブン!!」
コールを鳴らしながら、クラウスは叫んだ。まるで獣の咆哮だ。近くにいた制服警官が完全に怯えていたが、クラウスの視界には入らなかった。
近くにいるなら返事をするはずだ。コール音に気づいたなら電話に出るはずだ。それが、可能な状態であれば。
クラウスは近くの路地を片っ端から覗き込んだ。スティーブンは裏道に精通している。正面突破型のクラウスをサポートする為でもあるだろうし、ライブラを指揮する立場として全体像の把握が必要だからでもあるだろう。
撤退時や追跡時に、彼は近道になる路地をよく知っていて、効率よく移動するのが得意だった。だからクラウスは、路地に彼が入り込んでいる可能性は高いと考えた。万一、身動きができない状態であるなら尚の事。
「スティーブン!」
そして、クラウスの考えは正しかったと、ほどなく証明された。スティーブンは狭い路地裏で雑居ビルの壁に背中を押しつけ、その長い脚を窮屈そうに折り曲げてぐったりと座り込んでいたのだ。
「スティーブン、しっかりしたまえ!」
クラウスが鳴らしているスティーブンのスマートフォンの音が、彼のポケットから聞こえている。意識はなく、電話にも出られない状態であるようだ。
息はある。怪我はなさそうだ。顔色は、少し頬が赤く、発熱している。毒の可能性も否定できないが、風邪か疲労による急な発熱のほうが考えられるだろう。
やはりもっと早く迎えに来るべきだった。HLの裏路地で人類が意識不明で倒れていて、3時間も無事だったのは奇跡と言うほかない。すぐ脇の大通りが封鎖状態で警察が多い上、人通りも減っているのが幸いしたのだろう。
「スティーブン、迎えに来たのだ。帰ろう」
クラウスの呼びかけに、スティーブンは何も答えない。白い瞼は降りてぴったりと目を閉ざし、クラウスに力なくもたれかかる頭は汗ばんでいる。
抱き上げた身体に負担がかからないように、クラウスは揺れが少ないように努めて歩いた。路地から出ると警官にぎょっとされたが、気に留めずギルベルトの車に向かう。
「坊ちゃま」
「まずは病院へ」
「承知いたしました」
とにかく検査は必要だ。毒物の可能性はゼロではないし、本人の意識がない以上確認も取れない。
クラウスは後部座席に乗り込み、自らの膝を枕にしてスティーブンを横にならせた。狭い車内で長身のスティーブンには窮屈だろうが、しばらく耐えてもらうしかない。
近頃のスティーブンを思い返す。業務は確かに多忙だったが、度を超すほどではなかった。徹夜もしていないはずだ。昨夜も、いや、昨夜のことはわからない。クラウスの邸宅を辞したスティーブンが、どんな夜を過ごしたのか。
スティーブンの瞼が震えているのに気づき、クラウスはそっと彼の目もとを覆い隠した。少しでも彼の癒しになれるように。
クラウスが抱きかかえて戻ってきた番頭の姿を見て、レオナルド、ザップ、ツェッドの3人は目を剥いた。ただ事ではないかもしれない、とは思っていたが、ボスが副官を横抱きにして帰ってくる事態は想定外だった。
長い手足が重力に従い、クラウスの腕の中からぶらりと床に向かって垂れ下がっている。白い額には流れ落ちるほどの汗が浮いていた。
「ど、どう、したんですか・・・?」
どもりながらもなんとか平静を取り戻そうとしているレオナルドは、やはり存外に肝が据わっている。
「む、心配はいらないそうだ」
「え?はい・・・」
クラウスの答えは答えになっているのか怪しかった。そうだ、という事は既に病院に行って無事は確認しているのだろう。
「流行の異界風邪の一種だそうだ。主な症状は高熱だけだそうだが、今スティーブンは熱で意識が混濁している」
「感染るんですか?」
「感染自体は握手程度でも起こるが、異界人のほうが発症率が高く、人類には感染してもほぼ発症しないそうだ。しかし、複数の感染者と接触していれば発症率が上がっていく」
「あー、つまり、スティーブンさんには超不利な風邪なんすね」
「うむ・・・。彼には苦労を掛けてしまった」
スティーブンはスポンサーとの会合などで異界人とも接触が多い。勿論、握手は毎回つきものだ。そこで感染したのだろう。何人もの感染者と握手を繰り返せば、発症率が低い人類と言えども発症してしまうわけだ。
クラウスは簡単な説明を終えて、仮眠室へスティーブンを運んだ。恐らく、今後の仕事の段取りを手配するために寄っただけだろう。
どうする?と顔を見合わせる若者たちを他所に、クラウスはほんの数分で仮眠室の扉から顔を覗かせた。ギルベルトを呼び寄せ、すぐに取り掛かるべき指示を出す。
「スティーブンの予定を向こう5日・・・、いや、1週間分全てキャンセルしてくれたまえ」
「かしこまりました。坊ちゃまのご予定も調整しておきます」
「うむ。よろしく頼む」
主従は淡々と会話したが、横で聞いていた若者たちは驚いた。ただの風邪、という受け止め方ではいけなかったのか。
「そんなかかるんすか!?」
ボスがいない2週間もきつかったが、番頭がいない1週間も相当きついのは明白である。書類仕事に陣頭指揮、事後処理、本部や警察との連携、メンバーのスケジュール調整からスポンサーのご機嫌取りまで、全て番頭の仕事だ。
「・・・僕ら、スティーブンさんに物凄くご迷惑おかけしてますね」
「つーか、取り急ぎやべーだろ!」
「あなたはこの機に日頃のご恩を少しでもお返ししようとは思わないんですか・・・」
俯いて素直な反省を述べるツェッドに対し、ある意味自分に素直な反論をするのがザップだ。彼は実にブレない。
「やっぱり異界性の風邪だから、長引くんですか?」
レオナルドは、既に仮眠室へ戻ってしまったクラウスの代わりに、ギルベルトに尋ねた。彼もクラウスと一緒にスティーブンを連れて戻ってきたのだから、ある程度の事情は把握しているはずだ。
「いえ・・・、」
ギルベルトは手帳のページを捲りながら、レオナルドに応える。
「本来ならば3日程度で治まる風邪だそうですが、スターフェイズ氏は、その、風邪が長引く体質でいらっしゃるようでして」
彼にしてはもったいぶった言い方であるように思えた。だが、普段から無理ばかりして、体調を崩しているスティーブンを前に仕事が回りませんよ!なんて泣き言が言えるはずもない。
「えっと、僕にもなんか手伝えることとかあったら、遠慮なく言ってくださいね!」
「えぇ、よろしくお願いいたします」
ギルベルトはにっこりと笑って手帳とスマートフォンを手に、彼の仕事部屋へ入っていった。残された3人は互いに顔を見合わせて、それぞれ途方に暮れた。
スティーブンは病院で一度目を覚ましたが、その後は昏々と眠ったままだった。発熱して体力を使い切ってしまっているのだろう。医師が言うには大した風邪ではないらしいが、それでも油断はならない。
何しろ、スティーブンにとって発熱は重症なのだ。一度熱が出ると、長時間苦しむ羽目になる。しかも、元来の努力家というべきか、無理をしがちな性質が悪影響を及ぼしてしまうのだ。
どっしりとした後悔がクラウスを襲う。くだらない喧嘩をした後、すごすごと帰っていったスティーブンはどんな思いで一夜を過ごしたのだろうか。
喧嘩をしなければ、昨日は一緒に眠ったはずだった。スティーブンの不調にもっと早く気付いたはずだった。今朝の段階で、スティーブンを休ませてやれたかもしれない。気まずくて目も合わせられなかったから、そのせいで。
「クラウス・・・」
「あぁ、スティーブン・・・!」
スティーブンは薄っすらと目を開けてクラウスを見上げた。
「気が付いたかね?」
「くらうす、ごめんね・・・」
スティーブンは熱に浮かされたように謝罪を口にして、再びふっと意識を失った。気が付いた、というわけではなく、夢の続きのようだった。
クラウスは重いため息を吐いた。スティーブンが謝る事など何もない。全ては狭量な自分の落ち度だ。そう思うと、きりきりと胃が痛んだ。丁度そこへ、こんこんとノックの音が鳴る。音の鳴らし方は、ギルベルトのそれだ。
静かに扉を開けたギルベルトは、手に氷枕と冷却シート、保温性の水筒を持っていた。執事がてきぱきと氷枕をセットしている間に、クラウスはスティーブンを抱き起こし額に冷却シートを貼る。水筒の中は冷たい水だろう。
「ありがとう、ギルベルト」
「坊ちゃま、申し訳ございませんが・・・、」
「む?」
ギルベルトは言いづらそうに口を開いた。ちらりとスティーブンの顔色を確認して、彼は話を続ける。
「出動要請です。ご支度を」
クラウスはまさに苦虫を噛みつぶしたような顔になった。臥せっている愛しい人の傍を離れるのは本意ではない。本心を言えば、片時も離れたくないほどだ。
しかし、会合や打ち合わせが何とかなっても、緊急要請はどうしようもない。スティーブンがこの状態だからこそ、クラウスが行くしかないのだ。
「状況は?」
「屍喰らいが多数。しかし、血界の眷属は確認されていません」
「ふむ」
クラウスは少し考えるそぶりをして、すぐに結論を出した。
「レオナルドを事務所待機に」
「しかし、」
この状態のスティーブンをひとり置いていくわけにはいかない。電話番程度でも、誰かが必要だ。戦力は最大限に生かしたい。とすれば、戦力外と言えるのはレオナルド、チェイン、ギルベルトの3人だ。
ギルベルトが残るのが理想的ではあるが、現場までのいち早い到着と、いち早い帰還の為に、彼は必要不可欠だ。チェインは万一の時の記録係と連絡係に必要。残るはレオナルドしかいない。
もしも血界の眷属がいた場合、レオナルドは必要になるが、その場合を考えてもチェインが最適と言えるだろう。レオナルドに動画を送る為、レオナルドを一刻も早く迎えに行って貰う為、そう考えると彼女が現場入りすべきだ。
血界の眷属がいなければレオナルドはこのまま待機でいい。血界の眷属がいればチェインに走ってもらう。二度手間なようだが、チェインを欠くのはリスクがある。この状況で最も待機に向いているのはレオナルドだ。
「かしこまりました」
ギルベルトは反論を口にせず、静かに頷いた。そしてさっさと事務所を出ていく。クラウスが下に降りる頃には、もう彼自慢のマシンのエンジンは温まっているだろう。
スティーブンは浅く速い息を吐きながら、固く目を閉じて眠っている。出来るだけ早く帰らなければ。クラウスはこの時ほど、血界の眷属がいないようにと願ったことはなかった。
待機を言いつけられたレオナルドは、音をたてないようにそうっと仮眠室の扉を開けた。この状況で待機しろと命じられるのは、スティーブンを看ていろという事だろう。誰でもそう考えるに違いない。
額に冷却シートを貼り付けたスティーブンの姿など、そうそう見られるものではないだろう。5日ほど徹夜した時には貼っていたか。しかし氷使いのスティーブンは、あまり冷たくない、と文句を垂れていた。
いつもは青白くすら見える頬が、今は熱のせいで真っ赤だ。レオナルドは、以前インフルエンザに罹った時の事を思い出した。まだ家族と暮らしていた時の事だ。妹が心配して寄ってくるのを遠ざけるのに苦心したものだ。
あの時は相当にきつかった。感染るからと妹を遠ざけながらも、内心寂しかったのは事実だ。聡い彼女はとうに気づいてちょっかいをかけてきていたのかもしれない。
スティーブンでも寂しいとか、思うんだろうか。レオナルドにはあまり想像がつかなかったが、でも彼も人の子だし、と思うとやっぱり寂しい思いはさせたくない、という人情がわいてくる。
連絡は、まだない。クラウスからもチェインからもギルベルトからも、何も連絡は入らないまま、スマートフォンは沈黙している。レオナルドはスティーブンを見守りながら、ベッドの横に座ってじっと待った。
出動要請から1時間にはなる。現場は勿論心配だ。だが、クラウスの判断で残された以上、ここがレオナルドの持ち場だ。少なくとも、血界の眷属の存在が確認されるまでは。
「・・・だれ?」
レオナルドはガタンと立ち上がった。スティーブンが驚いて肩を震わせたのを見て、謝ったほど勢いよく。
「あ、すみません。俺です」
「レオ?」
「はい」
思ったよりも、スティーブンの声はしっかりしていた。
「レオ、だけか?」
「はい」
クラウスたちが出動している、とは言わなかった。スティーブンは這ってでも現場に行こうとするだろうし、それを仮に引き留められたとしても、彼の心配は拭い去れないだろうから。