君と犬と青空の日スティーブンは食材が入った袋を抱え直して、松葉杖をしっかりと握った。
今日が誕生日だからと、市場の顔馴染みたちがどんどんサービスしてくれたせいで、荷物は随分重たくなってしまった。市場から自宅へ帰るには、坂道と階段を登る必要がある。それが少しばかり厄介だ。
今朝から天気がいいので、クラウスは畑に出ている。いつもはそちらについて行くボーダーコリーのお嬢さんが、尻尾をぶんぶんと振りながらスティーブンの買い物に付き添ってくれている。
「レディ、ゆっくり歩いてくれるかい?」
お嬢さんは心得たと言わんばかりに上向けた鼻をふんふんと鳴らした。クラウスの手でしっかりと躾けられた賢い犬は、人の言葉を理解し、リードを引かずともスティーブンの意を汲んで歩いてくれる。
「君が好きなフルーツもたくさんあるからね。今日はちょっと贅沢なおやつにしよう」
すると、おやつという言葉に反応して、お嬢さんはへらりと笑顔を浮かべる。
スティーブンは松葉杖を突いてゆっくりと階段を登った。足を痛めて引退して、暖かな故郷でクラウスと犬と暮らすようになって、身体が鈍って動けなくなることへの恐怖が薄れてしまった。
階段の半ばで立ち止まり振り返ると、色とりどりの市場の向こうに、無限に続く青空と見事な海が広がっている。風も温かく、どこまでも穏やかな地域だ。人生の多くを捧げたHLとは比べ物にならない。
家が見え始めると、更に上に位置する畑からクラウスが降りてくるのが見えた。お嬢さんはぶんぶんと勢いよく尻尾を振りながら、クラウスへと駆け寄る。大きな手で撫でられご機嫌になった彼女は、クラウスを連れてスティーブンの元へ戻ってきた。
「スティーブン、ご苦労だったね」
「大丈夫。ちょっとぐらい歩かないとな」
「大荷物だな」
「誕生日サービスが豊富で」
「なるほど」
クラウスはにこにこと笑いながら、スティーブンの肩に腕を回した。
「荷物持ってくれた方がいいんだけど?」
スティーブンがそう言って階段の一段上に立つクラウスを見上げると、勿論だとも、とクラウスは返事をして、ひょいとスティーブンを荷物ごと抱き上げた。
「うわ、」
相変わらず見事な筋力だ。隠居して動かなくなってすっかり衰えてしまったスティーブンとはわけが違う。
スティーブンを横抱きにしたクラウスは重たい買い物袋を腕に通し、松葉杖をスティーブンが抱える形になる。そのままのしのしと階段を登ってふたりの家へと帰っていく。何度やられても、この移動形式は慣れない。
家の中はエアコンも動いていないが、窓を開けているだけでひんやりと涼しい。クラウスはリビングのソファにスティーブンを下ろして、食材の片づけを引き受けてくれた。
その間にお嬢さんはスティーブンの膝に顎を乗せて寛いでいる。毛皮を着ている彼女にとって外は人間以上に暑かっただろう。
「スティーブン」
そっと目の前にクラウスが膝をつく。手を洗って、食材の片づけを済ませてきた大きな手は、ひんやりと冷えていて心地いい。
「ふふ、君とお嬢さんがそうやって並んでるの、面白いな」
そう笑ってしまうと、クラウスとお嬢さんは顔を見合わせてちょこんと首を傾げた。大きな犬と中ぐらいの犬が並んでいる。なんともかわいらしいものだ。
「ふ、あはは、かわいい」
「かわいいとは、」
「かわいいね、クラウス」
わしゃわしゃと赤毛を撫でてやると、こっちも構え、とお嬢さんが長い鼻先を突き出した。よしよしと同じように撫でてやると、満足気な息が零れる。
クラウスは恭しくスティーブンの靴を脱がせると、市場までの往復をしたスティーブンの脚をマッサージしてくれた。冷たい氷を従えていたこの脚が、暖かい手に労わられている。それはスティーブンにとって何よりの平穏の象徴だ。
「ありがと」
「うむ」
ぐ、ぐ、と程よい力で揉みこまれて、痛めてからすっかり悪くなってしまった血行がよくなっていくのを感じる。
「夕飯、どうしようか。何食べたい?」
「君の誕生日だ。君のリクエストに私が応えよう」
「え、君が作ってくれるの?」
「うむ」
「何か悪いなぁ」
「気にすることはない。何でも言いたまえ」
「魚が山ほどあるんだよな。纏めて焼くか」
「ではアクアパッツァはどうだね?クスクスはないが、パンと麺はある」
「いいね。そうしよう」
各国を旅した経験から大抵何でも美味しいし、何でも作るふたりの食卓はその日によって国籍が違う。魚料理の日は、お嬢さんのために味付けのない白身魚のスープを一緒に用意するのが常だった。
「夜には彼らも来るだろう」
「じゃあ大量に作らないと。やっぱり手伝うよ」
「じきにギルベルトが到着するので問題ない」
「それは、確かに僕の出る幕ないな」
「何かアドバイスやリクエストがあるかね?」
「とりあえずジャガイモを揚げておくと奴らは大人しくなる」
「承知した。今日の主役はゆっくり休んでいてくれたまえ。彼らが来たらゲームの相手をさせられるだろう」
「週末だし、また日曜までいるつもりだろうな」
「楽しみだ」
「そうだね」
HLで同僚であった仲間たちは、今もその縁が切れないように連絡をくれている。実際に会えるのは年に一度か二度だが、スティーブンとクラウスの誕生日が丁度半年ごとなのでそれに合わせてこの家に集まるのが習慣だった。
お嬢さんお気に入りのレオナルドとソニックも、彼女へのお土産を携えて来るだろう。まるでそれを理解しているかのように、賢い犬はふさふさと尻尾を揺らしている。
脚をマッサージしてくれていた手が柔らかくスティーブンの顎を捕らえ、太い指が頬の傷を辿る。かわいい坊やがおねだりしているな、と思う間もなく、唇が触れ合う。
「罰が当たりそうだよ」
赤毛に埋もれるエメラルドを至近距離で眺めながら、スティーブンはくすくすと笑った。
「罰、とは?」
「幸せ過ぎて」
「それは重畳」
眼鏡の奥の瞳がゆるりと笑む。笑顔が怖いと言われて久しい旦那様だけど、目だけを見ると、うん、結構かわいいんだよな。
「誕生日おめでとう、スティーブン」
「ありがとう。今日何度目かな?」
「まだ五度目だ」
「まだって数じゃないなぁ」
これから眠って日付が変わるまでの間に、いったい何度受け取らなければならないのだろうと、スティーブンは笑いながらクラウスの顎髭を撫でた。
自分も撫でろ、と前足で要求するお嬢さんの頭も同じように撫でていると、超大型犬と中型犬をいっぺんに相手している気分になる。
HLがなくなって、脚も自由に動かなくなって、牙狩りでもなくなって、それでも尚手元に残ったものがこんなにあるというのは幸福なことだ。蓄えたクラウスの顎髭と、増えてしまった自分の白髪すら愛しく思えるとは。
「クラウス」
名前を呼んだところで、家の外に車が停車する音が聞こえた。ギルベルトの到着だ。お嬢さんは嬉しそうに爪でフローリングをカチカチと慣らしながら、玄関へ出迎えに出る。
「あぁ、残念。時間切れだ」
「む・・・」
「ほらほら、叱られるぞ」
クラウスは不満そうにしながら、スティーブンの髪をひと撫でして玄関へ向かった。扉が開くと差し込んでくる日差しが眩しくて、スティーブンは目を細める。
「スティーブンさん、お誕生日おめでとうございます!!」
玄関の向こうから響き渡る、何重にも重なった声。明らかにギルベルトだけではないその大音量に、スティーブンは声を立てて笑った。
「僕を驚かせようなんて、やるようになったな、君たち」