雲間やぁ、先生。
タルタリヤは声を発したつもりだった。だが、音にはならなかった。
目の前にいる鍾離は、目を細めて微笑む。如何にも神らしい、余裕ぶった笑顔だった。
「無茶をしたものだ」
タルタリヤの声は出ないのに、鍾離の声は聞こえる。それが不満だ。
すると、そんなタルタリヤの心情を読んだかのように、鍾離はまたくつくつと笑った。
「ここがどこだかわかってるか?」
見れば、当たりは薄暗く、どことなく陰鬱な空気が漂っている。遥か遠く、前方にも後方にも光が見えていて、どちらが出口なのかわからない。
ただ、ここが現世でないことは確かだ。そして、タルタリヤはこの気配を知っている。
「お前は今、生死の境を彷徨っている」
だから何?とタルタリヤは鍾離を睨んだ。
そんなことは今までにもあった。戦いに生きるとは即ちそういうことで、幼い頃からタルタリヤは何度も生死の境とやらに来た。そこへ、神様が現れたのは流石に初めてのことだが。
「俺と戻ろう」
すっと差し出される手は素手だ。人の肌ではなく、岩の神の素手。
冷たそうだ、と思った。声に出そうとしたが、やはり出なかった。だが、鍾離はそんなタルタリヤの心を読んだように笑う。
「お前の手ほどじゃない」
それもそうか、とタルタリヤはその手を取った。感覚はなかった。手を握る感覚も、体温も、そこには何も伝わってこなかった。
「振り返るな」
知ってる。
「俺だけを見ていろ」
わぁ、熱烈。
「お前を救いたい」
知ってる。
知っているとも。それなりに心を通わせてきたつもりだ。あなたとは。
この身が邪眼に、魔王武装に蝕まれてきていることも、それをあなたが憂いていることも、よく知っている。
だって仕方がないじゃないか。あいつは、あいつだけは、野放しにしちゃいけないと知っていた。例え俺を投獄しやがったフォンテーヌでも、国と民が憎いわけじゃない。俺には敵わないと理解していても、それは戦わない理由にはならない。
相棒に神の目を預けたことだけは失敗したかと思ったけど、どちらにしたってあいつに少しでも対抗するには魔王武装を使うしかなかったんだから、結果は大して変わらなかっただろう。
迷子の子供のように鍾離に手を引かれて歩いていると、ふっと感触が戻ってくる瞬間があった。人の手を、確かに握っている。指先に力を入れられる。
「先生、」
声が出る。
そうして次は、目の前に神の目が現れた。タルタリヤの武器、この身の一部とも言うべきものだ。
「二度と、それを手放そうなどと思うな」
視線の位置にふわりと浮かんでいる神の目に、開いた片手を伸ばす。それはすんと浮力を失って、タルタリヤの手の中に戻ってきた。
「お前の手元に戻っているだろう」
「そうなんだ。相棒に感謝しなきゃ」
「あぁ」
「先生は?」
すると、鍾離はぴたりと止まった。手を引かれているタルタリヤの歩みも止まる。
「鍾離先生は、そこにいる?」
「いや」
鍾離は振り返らず、静かに首を振る。
「会いに来るといい」
「璃月まで?」
「そうだ」
「先生はいつもそうだ」
ふっと、鍾離の笑う気配がする。
「目覚めたら、お前は故郷にいる。養生して、家族にも会って、璃月にはそれから来るといい。海灯祭はまだ先だ」
「俺が行くことは前提なのか」
「来るだろう?」
自信たっぷりにそう言うと、鍾離はまた歩き始めた。腕を引っ張られて、タルタリヤも慌てて脚を動かす。
「・・・今度こそ、お前から人の身を剥ぎ取ってやろうかと思った」
穏やかなふりをしている魔神から覗く、狂暴性の破片を見た気がした。
「何が凡人だよ」
あぁ、だけど、俺は確かにこの人に想われているのだという、薄暗い歓喜のようなものも感じてしまう。離月の仙人たちも、こんな気分を味わったことがあるのだろうか。
「またね、先生」
自然と、そんな言葉が口をついて出ていた。体力が回復して、次の離月の祭りの頃には、彼の傍へ赴くだろう。
「次にいつ会えるかわかないから、言っておくよ。誕生日おめでとう」
白い靄のような光のような中に消えていく鍾離の口元が、ゆるりと微笑んでいるのが見えた。
目を覚ますと、見慣れた天井だった。愛しい我が家ではなく、ファデュイが持つ医療機関だ。見慣れた、というのはタルタリヤがここで治療を受けることが日常茶飯事ということである。
外は今日も今日とて暗い吹雪で、風ががたがたと窓を叩いていた。
傍には誰もいない。ぎしぎしと軋むように痛む身体を起こすと、枕元に神の目が置いてある。
手を伸ばすのも痛むし、内臓の奥からせり上がってくるような不快感を堪えながら、神の目を手に取った。旅人に預けた神の目が戻ってきたのは、恐らく召使経由だろう。気に入らないことだが、そうとしか思えない。
次の海灯祭までに出る船を抑えないと。きっと祭りには旅人たちも来るだろうから、その時に会えるだろう。
「あぁ、もっと強くならないと」
あれに比べれば、俺の鯨はまだ小さくて脆い。天に真っ向から大口を開けられるぐらいにならないと。
「よう寝たか」
声に顔を向けると、雄鶏が両手を腰に回して立っている。扉を開ける音もしなかったのに、いつの間にそこにいたのか。
「新年に間におうたな」
「新年?]
「丁度一年の終わりじゃ。家族に会いに行ってやりなさい」
じゃあ、あの夢は。
全く、自分の誕生日にわざわざ会いに来るなんて、相変わらずふてぶてしい先生だ。誕生日におめでとうと言えた喜びと同じぐらい、奇妙な腹立たしさがある。
「年が明けたら、璃月で仕事じゃ」
「そりゃいいね。璃月の暖かさが恋しくなってたところだ」
雄鶏はふすふすと髭を鳴らして笑いながら、病室を出て行った。心配の言葉ひとつもない。あるわけもないけれど。
神の目を握り、ベッドから足を下ろす。足先が床についた瞬間、全身に痺れるような痛みが走って喉の奥で息が詰まった。ぐっと神の目を握りしめて痛みをやり過ごし、ゆっくりと冷たい床に立つ。
立てる。立てるなら、歩ける。一歩一歩と踏み出すと、段々痛みに慣れ、感覚が戻って来た。途切れていた神経が、ひとつずつ繋がっていくかのようだ。
扉を開けると、病室の外では医師や看護師たちが一年の最後の日にも関わらず慌ただしく働いていた。タルタリヤの姿に、その視線が一斉にこちらを向く。
「公子様、まだお休みになっていてください!」
「帰るよ。年越しは家族と過ごすものだろ」
「ですが、」
「俺の上着は?」
彼らは眉を顰め、顔を見合わせ、そして執行官相手に何を言っても仕方ないと諦めて、タルタリヤの荷物を用意してくれた。
「お加減が悪くなったら、すぐにご連絡を」
「わかってるわかってる。ありがとう。世話になったね」
着替えて、神の目を腰につけて、コートを纏い、仮面を頭にのせる。タルタリヤの完成だ。だけどこれから、アヤックスの顔をしに家に帰る。
医療機関から外に出ると、すっかり雪景色だった。吹雪に備えてコートの襟を寄せ合わせる。肌を打つ冷たい雪と、髪を乱す荒れた風。
雲の隙間からは、岩元素を思わせる金の光が覗いているのが見えた。
「先生、誕生日おめでと」
生きてるよ、の代わりにそう呟いて、雪に足を乗せる。ざく、と靴が深く沈みこんで、タルタリヤは思わずにんまりと笑った。家の前にでっかい独眼坊の雪像を作ってやったら、かわいいかわいい弟は喜んでくれるだろうか。