冷水曇り空の夜だった。星も月も見えない暗い夜は、常宿になどいるものではない。特に、ファデュイの執行官なんて恨みを買う立場にいる者は。
その夜も、タルタリヤは懇意にしている先生がいる往生堂へ向かおうとした。だが、辺り一面に漂う独特の香の匂いに落胆せざるを得なかった。
往生堂の前では、渡し守の女性が静かに頭を下げている。灯籠にぽつぽつと明かりが灯され、街の人々が往生堂を避けるように去って行き、沈黙が支配していく。
葬儀だ。
今日は駄目か、とタルタリヤはため息を吐き、踵を返した。葬儀なんてものに最も似合わない自分が他人様の別れの儀など見ていていいものではないだろう。それに、鍾離と酒が飲めないのなら何の興味もない。
仕方がない。嫌な夜だが、鍾離の元へ行けないならば宿に戻るしかない。仕事場で夜を明かすよりまだマシだ。
風に水の匂いが混ざり始めたのを感じながら、タルタリヤはファデュイが借り上げている宿へ戻った。雨になりそうだ。
音を聞いた気がして、タルタリヤは目を覚ました。ほんの微かな、音にも満たない気配だったかもしれない。ベッドから身を起こしたタルタリヤは、暗い室内を見渡して、確かに誰もいないことを確認する。
侵入者は珍しくはない。北国銀行に比べればマシだが、旅館まで入ってくる輩もいないわけではない。
潜めた呼吸が浅くなる。いつでも斬りかかれるように神の目に手を添えるが、一向にそれ以上の気配はなかった。
気のせいか?確かに何かの気配を感じて目を覚ましたのに?
やっぱり、こんな日は鍾離の傍にいたかった。この国で最も安全な場所に。
もう眠ることは諦めるべきだろう。この警戒心は薄れぬまま朝を迎えることになるだろう。
タルタリヤはベッドから降りて窓辺に寄った。そっとカーテンを開けて外を見ると、やはりしとしとと雨が降っている。深夜、もう商店も閉まっている時間だ。
窓の外から狙われている気配もない。だが、外に見えているものが妙だ。
雨の中、こんな夜中に霄灯を持った人々が通りを歩いている。海灯祭の季節でもないのに。それも、ひとりふたりではない。ぞろぞろと行列のように長く連なって海沿いを流れるように移動していく。
何だあれ?どこから来たんだ?何してるんだ?俺を起こした気配は、あれか?
気にはなったが、何となく不気味に感じて、タルタリヤは見るのをやめた。カーテンを閉める直前、霄灯を持った女性のひとりがこちらを見上げた、気がした。
「ということがあってさ」
タルタリヤはぐっと酒を煽った。こんな不気味な話を飲食店でするのも営業妨害かと思い、今日は鍾離をタルタリヤの宿へと招いた。
部下に用意させた酒は中々の上物だ。気を遣ったのだろうが、こんなにいい酒でなくたっていいのに。飲むけど。
「ふむ」
腕を組み、顎に手を当てる鍾離の空になった盃に新しい酒を注ぐ。相変わらず綺麗な顔だ。ずるいぐらい。
「先日の葬儀の夜、か」
「そう」
「雨の日の葬儀だな」
「そうだよ」
宿が用意してくれた料理はどれもそれなりに美味いが、観光客向けということもあってか璃月名産の海産物を使ったものが多い。鍾離があまりここで食事したがらないわけだ。
確か魚介の姿が見えないものなら食べるんだったな、と思いながら鍾離の取り皿に水晶蝦を乗せると、鍾離は見事な箸遣いでそれをひょいと掴んで口へ運んだ。
「公子殿は、霊感はあるか?」
「は、霊感?」
「これまでの人生で生きてはいないものを見た経験は?」
「不卜蘆のキョンシーとか?」
「確かに、彼女もある意味ではそうだな。では、肉体を持たないものは?」
「・・・ない、けど」
恨みつらみなら嫌というほどに買っているはずだ。こんな人生を歩んでいても霊だのお化けだの遭遇したことがないのだから、そういうものはこの世にないものと思っている。
「そうか」
かたん、と箸が置かれる。
「よくないものを見たな」
「え?あれ何だったの?」
「話せば長くなるのだが、」
「簡潔に。結論から」
「何かと言われれば、霊だ」
「嘘でしょ」
「本当だ。それも悪い類のものだ」
「悪霊ってやつ?」
「もっと悪いな。これから鬼になろうとする者、とでも言えばいいか」
「は?鬼?それって、稲妻の?」
「いや、稲妻に住まう、所謂鬼族とは異なるものだ。悪鬼とでも言ったほうが区別しやすいか?」
そんなもの、タルタリヤの人生ではフィクションでしかない。死んだらそれまでだ。霊だの悪霊だの、生き残った人間が作り出した物語だ。
だってそんなものが存在するなら、今までタルタリヤが殺した者たち、目の前で見殺しにするしかなかった部下、拷問にかけた暗殺者、みんな化けて出そうなものではないか。
「お前とこうして食事をするのも久しぶりだというのに」
「悪かったよ、変な話して」
「いや、そうではない。邪魔者がいるのが気に入らないだけだ」
「邪魔者・・・?」
ぞわ、と背中に駆け上がるような悪寒。そして気のせいでは片付けられないような人の気配。
ばっとタルタリヤが背後を振り返るのと、鍾離が黄金の石片のようなものを投げるのとはほぼ同時だった。まるで天権の技のように、金に輝く石がタルタリヤの横を通過し、空中で光を纏って静止、数瞬ののちにころりと床に転がり落ちる。
ほんの刹那のことだ。石が落ちると同時に、明らかだった気配は消え失せ、嫌な悪寒もふっとなくなっている。
「応急処置だ。今夜は俺の部屋に来るといい」
「え、いいの?」
「この部屋から霊を見たのだろう?ここはもう見つかってしまっている。食事を済ませたら移動しよう」
「俺、女を殺した記憶は・・・ここしばらくないんだけどな」
「あれはそういうものではない。お前が殺したかどうかというのは、関係ない」
「えぇ」
「亡者は理から外れたものだ。お前に恨みがあろうとなかろうと、大した問題ではない」
タルタリヤは食事をする気も失せてしまって、箸にも盃にも手が伸びなくなってしまった。
「飲んでおいたほうがいい。酔うまで飲め」
「まさか、潰れたら怖くなくなるとかいうつもり?」
「お前がそんな臆病だとは思っていないさ。ただ、これはいい酒だ。酒精には浄化作用がある。いい酒なら尚更な。用意してくれた者の目利きに感謝して飲むといい」
そう言われてしまえば飲まないわけにもいかず、タルタリヤは酒器を傾ける鍾離に盃を差し出した。酒を飲むからにはつまみが欲しくなり、結局箸も手に取った。
往生堂の前には渡し守の女性が立ち、タルタリヤを引き連れて戻ってきた鍾離に頭を下げた。
「え、葬儀があるの?」
彼女が夜が更けてもここに立っているというのはそういうことだ。中で泊まり込みの番をする遺族がいるということだろう。
あの雨の夜は、何日前だった?確かあの翌日も鍾離は葬儀があるからとタルタリヤの誘いを断り、そして昨日も。こんなに立て続けに葬儀が舞い込むなど、いくら往生堂が璃月の葬儀を一手に引き受けているといってもそうあることではない。
「ここしばらくは毎日だ」
「毎日・・・」
「だからお前を連れてきた」
「どういう意味?」
「入れ」
鍾離は扉を開けて、タルタリヤを招き入れた。いつも以上に濃い香の匂いと、すすり泣くような声が控室から聞こえる。ちらりとタルタリヤが控室の扉に目をやると、鍾離は咎めるようにタルタリヤの肩を押した。
「若かった」
「?」
「あの歳では、遺族も別れの決心をつけるのが難しいだろう」
「・・・そうなんだ」
見ず知らずの死んだ誰かになど興味はない。だが、毎日璃月で人死にが出ているというのは、いい話ではない。鍾離が忙しくなればタルタリヤも構って貰えなくなるし、銀行という商売をしている身では人口は減らないほうがいい。
数日中に、タルタリヤも忙しくなるだろう。人が死ねば、あらゆる手続きが発生する。往生堂が忙しくなれば、次は役所と銀行だ。
鍾離はタルタリヤを伴ったまま、堂主のいる広間に顔を出した。夜も遅いのに仕事着のまま、腕を組んで難しい顔をしていた少女が顔を上げる。
「おかえり、鍾離さん」
「あぁ、堂主。これを」
鍾離はそう言って、タルタリヤとの食事の場で投げたあの金色の石を胡桃に渡した。彼女はそれを掌でころころと転がして、梅の花のような瞳を鍾離に向ける。
「また無茶したねぇ」
「そうでもない」
「こんな真似されたら、こっちに来るじゃない」
「むしろ来ないよりマシだろう」
「あらら、そういうこと」
胡桃はくい、と身体を捻って鍾離越しにタルタリヤを見た。知ってはいるが、そう交流したことはない。ただ、厄介な娘だ、ということだけは鍾離から散々聞いている。
「あなたは水だね」
鍾離と話していた時は年相応だった少女の声が、途端に大人びたようにがらりと変わった。
「水はよくないね」
「よくない?」
「そう。寄ってきてしまうから」
「何が?」
タルタリヤが尋ね返すと、少女はにこりと笑った。彼女からも神の目の気配がするが、どこに着けているのか、そのものは見えない。
「では堂主」
「はーい、お疲れ様」
鍾離は踵を返し、タルタリヤを連れて広間を出た。まるで、それ以上胡桃と会話させたくなかったかのように。
タルタリヤを自室に連れ込んだ鍾離は、すぐに茶を入れにかかった。いつもより強い茶葉の香りが部屋を満たす。
今日も時間がかかるのかな、と思いながらタルタリヤが調度品を眺めていると、思いのほか早く茶器は卓に並べられた。いつも出される茶とは、違う。
「何か特別なお茶なの?」
「あぁ、いや」
「違うの?」
「葬儀があると、供え物や礼を置いて行く遺族もあってな。ここ数日葬儀が続いているから、こういうものが溜まっているんだ」
そう言いながら、鍾離は米まんじゅうを差し出した。つまり、これも供え物の一部なのだろう。
茶はいつも出されるものより上等なのか、濃厚な味がした。だが甘いものを食べる気にならなかったタルタリヤはまんじゅうには手を出さなかった。
「さっきの話だけどさ、」
「ん?」
「水がよくないって」
「あぁ。ある意味では、よくない」
タルタリヤは僅かに眉を顰めた。自分に力をくれた、愛する我が属性がよくないと言われるのは少々癪だ。
「怒るな」
「怒ってるわけじゃない」
鍾離は口元に茶碗を当てたまま、ふっと笑った。長い睫毛が目元の朱に影を落とす様すら品がある。
タルタリヤは卓に肘をついて、じろりと鍾離を睨んだ。彼は動じる様子もなく、碗を置いてタルタリヤの瞳をじっと見つめる。
「悪いものに目をつけられる者は、運がないだけだ。お前も運がなかった」
「俺やっぱり目をつけられてるんだ」
「浄化の作用を持つ力はいくつかある。その最たるものが炎だ。全てを燃やし尽くして灰にすることは、最も効率的で確実な浄化だ」
「あの子の神の目って、」
「そうだ。堂主の神の目は炎だ。彼女にとってこの仕事は天職だろうな。元素力で言うならば、岩、水、風も浄化の作用を持つ」
「水も?」
「だが、それは目的が違う。水は生者を清め、風は空気を清める。この辺りは入浴や換気と考えればわかりやすいだろう。日常に根差した浄化だ」
「あぁ、なるほど」
「炎、岩、水、風の中で死者、即ち肉体を持たない霊魂を浄化できるのは炎と岩だけだ。岩は悪しきものを結晶化の中に取り込み、浄化することができる。だが、水は生者と死者において真逆の作用を持つ」
「寄ってきてしまうって、あの子が言ってたね」
「そう。水は霊魂を呼び寄せる。留まり澱んだ水はその不浄さで、流れる水はその美しさで、死者を惹きつけるものだ。生者を清める水は、死者にとってその生気を想起させるものでもある」
「・・・えっと?」
「つまり、雨の夜、水元素を持つお前が死者の行列を見てしまえば、目をつけられぬわけがない」
「うわ、俺って絶好の獲物だってこと?」
「優良物件だな」
「そんな最悪の優良物件あるかよ」
鍾離は最後に冗談で濁して、くつくつと笑った。
「そうでなくとも、お前は人でないものに好かれやすいようだからな」
「それは自分のことも含んでるのかな、鍾離先生?」
鍾離はそうかもな、と返しながら少し温くなった茶を飲み干す。倣うように、タルタリヤも茶碗を空にした。
「今夜はここで眠るといい」
「ここのほうが安全かな?」
「死者は生者の理には従わないが、彼らには彼らの理がある」
鍾離や胡桃の専門分野は、タルタリヤの専門外だ。よくわからない。自分の国とは葬儀の手法も違うし、タルタリヤは生きている者が死ぬまでの相手をするのが役割だ。
「俺には寄ってこないだろう」
「神だからってこと?」
「まぁそうだな。引き込めないものに憑くような愚は犯さないだろう」
「それってさ、」
「うん?」
「これから鬼になろうとしてる者たちだ、とか言ってたよね?鬼になっても先生には近づいて来ない?」
「よほどの愚か者か、よほどの執念でもない限りは来ないだろう」
そう、とタルタリヤは安堵の息を吐いた。連中にはよほどの執念が備わっている者が多いのだということを、鍾離は黙っておいた。
「公子殿、手を」
「手?」
ぱ、とタルタリヤは顔の横で両手を広げる。薄手の手袋に包まれたしなやかな指先をぱらぱらと動かしながら、何?と彼は首を傾げた。お道化たような仕草だが、同時に顔の小ささを改めて認識してしまう。
鍾離は黙って手を伸ばし、タルタリヤの左手を握った。手袋を外して机の上で手を繋ぐように握りなおすと、タルタリヤはますます首の角度を深くする。
「え、え?何?」
「魔除けだ」
「魔除け」
ぱき、と小さな音が立ち、タルタリヤの薬指の上に岩元素の印が浮かび上がる。それは一瞬うちに消え、白い肌の上には茶に金の文様が入った、石の指輪だけが残った。
「・・・なんで、この指なの」
タルタリヤはいかにも不満そうだ。
「何か問題でも?」
「知らないの?俺の国じゃ、左手の薬指に嵌める指輪は婚姻の証なんだけど」
「なるほど。それはいいな」
「何がいいんだよ」
「俺は公子殿を慕っているが」
「は?そういう問題じゃないだろ」
「多少は冗談だ」
「多少かよ」
「いやしかし、実に理に適った風習だ。覚えておこう。その指はな、命に最も近いとされる指だ。お前の命を守るために最も有効な魔除けが、その指に俺の元素で作った指輪を嵌めることだ」
「うへぇ」
「そう嫌そうにするな」
タルタリヤは指を翳して、そこにかっちりと嵌った指輪を眺めた。室内の明かりに反射してきらりと輝く黄金の文様が実に美しい。目利きならどこの品ですかと食いつくかもしれない。まさか岩王帝君です、とは言えないが。
「霊だの鬼だの、得体の知れぬものに命をくれてやるほど安い人生ではないだろう?」
タルタリヤはちろりと鍾離を見上げて、当たり前じゃん、と小さく呟いた。
昨夜はよく眠れなかったのだろう。タルタリヤは鍾離の寝台であっさりと眠りについた。大きな目をぴったりと閉じ、長い睫毛が肌に影を落とす様を見れば、気を許してくれているのだなと安堵できる。
鍾離は棚から本を一冊選んだ。稲妻で人気のある小説だとかで、旅人が送って寄越したものだ。これは二巻だが、一巻は鍾離には前衛的過ぎてイマイチ理解できなかった。だが、手を出した以上は最後まで読み切りたい。
ページを開いたところで、静かに部屋の扉が叩かれた。ちらりと寝台を見ると、彼が目を覚ましている気配がある。仕方ない。
「またか?」
鍾離は小さく扉を開けて、そこに立っていた渡し守が頷くのを確認した。
「すぐに行く」
「すみません」
「お前が謝ることはないだろう」
一旦扉を閉じて、寝台に横になるタルタリヤの髪を撫でる。
「すまん。仕事が入った」
「こんな時間に?」
「あぁ。ここにいれば安全だろう。安心して眠るといい。指輪を外すなよ」
「ん、わかった」
ごそ、と秋葉色の髪が布団に埋まっていく。それを見届けて、鍾離は渡し守と共に部屋を後にした。