時は、まるで流砂のようです。
さらさらととめどなく流れ、予想だにしない場所まで運んで行ってしまうかのよう。ああ、そう言うと、水とも近いのかもしれません。
流れる水が、ごつごつとした硬い岩を削っていく。
それは凡人たちにとって眩暈のするほど長い時間。
私たちにとっては、瞬きにも満たない間。
今日も、仕事です。まばゆい太陽が照らす、璃月港を歩いていると。
「……か・ん・う・さーーーん」
「ひゃっ」
後ろから忍び足でやってきて、私をおどかしたのは薬師の少女。まだ年若い見た目でありながら、いいえ、だからこそ山間にひっそりと生える薬草を摘むことが出来るのでしょう。
「ふっふふー」
彼女はいつもいつも、私を見かけると、こうしておどかしてくるのです。
でも、今日はなんだか……少し様子が違うような?
「こんにちは。どうしたんですか?」
「こんにちは!ふっふふー、甘雨さん、わたし、見ちゃいました!」
「……はい?何を、ですか?」
「昨日甘雨さん、デートしてたでしょ」
「ぶっ」
「わー!?ちょっと、かかっちゃったじゃん!」
「わわわ、すみません……!じゃなくて!デートって……!」
「違った?昨日超かっこいい人とご飯食べてなかった?」
「……昨日」
ああ。て……じゃない、■■さんのことか。
「デートではないですよ」
「えー。すっごく仲良さそうだったけど!」
「仲は……いいとは思いますけど……」
なん千年の付き合いになるのだろうか。もう、私には正確な年月を思い出すことが出来ない。
「デートと言うのは、その……恋仲のふたりがすることでしょう?確かに、私にとって大事なひとですが……」
「……!いま大事なひとって言った!やっぱりー!」
「あの、ですから……!!」
「ふっふふー!あ!もうこんな時間!そろそろ出ないと夜摘みのアレが摘めなくなっちゃう!じゃあね甘雨さん!今度また、その”大事なひと”の話、聞かせてよ!」
「……ああ――……」
誤解を解く間もなく、彼女は風のようにさっそうと去って行ってしまいました。その後ろ姿を目で追います。
そしてまばたきを、一つ。
きっと、それだけで、彼女はおばあさんになる。それくらい、私にとって時間というのは儚いものなのです。
時は、何年経ったことでしょう。
旅人の旅を見届け、私は帝君との契約通り、また七星の秘書として働いています。
……もう、何年たったことやら。
時間はまるで、流砂のよう、あるいは、流水のようです。
とどめようと手を尽くしても、留まることはありません。
一日一日、或いは一年、十年、百年。とめどなく流れる、時の流砂。
私にとっては、瞬きにも満たない間。きっと、彼にとっても。
岩王帝君が凡人となり、俗世に降りた後。
彼は凡人としての生を確立しましたが、彼の身体は岩王帝君のもの。見た目は歳をとりませんし、死ぬことも……多分、しばらく先でしょう。その様子では、市井で暮らしていれば怪しまれてしまいます。そのため、彼はころころと姿や名前を変え、暮らすようになりました。
しかし、どんなに姿かたちが変わろうとも、名前が100を越えようとも、私にとっては彼は彼。帝君では無いにしても、私にとっては貴く、尊敬するべきお方です。……宙にちかちか瞬く星のように。ですが、彼は今や市井の人、浮世を歩き、人々と交わるひと。だから、“彼”と帝君を混ぜてしまうことは避けに避け、ただ暗黙の了解として、取っておくようになったのです。
そして彼も、私が彼の正体を知っていることに気付いているようで、こうして、たまに食事などを一緒に摂るようになりました。姿と名前を変えた後には、必ず会いにも来てくれます。これは、“帝君”と接していた頃とは考えられないような変化です。きっと、見た目が変わったから、少しだけ、親しみやすさも出たのかもしれません。或いは、秘密を共有しているという高揚感からでしょうか。
しかし。
こうした、昔では考えられないような楽しい時間も、終わりを迎えようとしていました。
「そうか、ついにおまえも、か」
「はい」
静かな双眸が、私の方へと向けられます。
「……」
彼、魈に一瞬だけ、透明な幕が引かれたような印象を受けました。しかし、すぐにいつも通りの彼へと戻ります。
「ふふっ」
「……なんだ」
ああ。私、あなたの今の気持ちが、分かる気がしますよ。ひとを遠ざけ、人と交わらないあなた。近寄りがたかったあなた。
「いいえ、なんでも。さようなら、」
不器用なかた。
そう結んだ。
縁のあった者との今生の別れに、さみしいと、素直に言えないあなた。
彼は、一度だけ鼻を鳴らしました。
さまざまな者たちに、別れを告げて。
そうして最後は彼。■■さんの元へ。
「……そうか」
■■さんは、眉間に皺を寄せて、腕を組みました。
「……はい。もう、私もそろそろ……」
空を見上げます。透き通るようにあおい空を。私の身体を失えば、私の魂は何処へ行くのでしょう?
「分かるもの、なのか」
「ええ、はい……」
端的に言えば、寿命。ひとよりはるかに長く生きる存在でも、いつかは死にゆくものです。
◆
「……さらば、」
彼の唇が、ちいさく動きます。
それは、彼女を示す名前。
彼のひとみの中で、光が舞います。
「……ああ、俺は、おまえを……」
彼の脳裏には、彼女の幼いころの姿、或いは、美しく成長した姿が浮かび上がります。
彼は、甘雨へ抱いていた想いを、ついぞ、言語化することはありませんでした。
言語化することが出来なかったのかもしれません。■と呼ぶには近すぎて、愛と呼ぶにはいとけなく、あるいは、いたたまれなくて。
ただ、誰もいない山の上、彼女の好きな花が揺れるさまを見つめ、
「……きっと、いつくしんでいたのだろう」
ようやくのことで口に出した感情は、静かに、風にさらわれて行きました。