吸血鬼kicg 薔薇の匂いがする夜だった。全力で走っていても全身にまとわりつくような芳香を煩わしく思いながら、千切は獲物を逃さないよう神経を集中させた。ここ数年狙い続けていた獲物とようやく邂逅したのだ。このチャンスを逃せば次はいつになるのか分からない。何より、一度この目に捉えた獲物を逃すなんてプライドが許さない。
薔薇の生垣が迷路のように入り組む庭園を駆け抜けながら銀のナイフを握りしめ直した。
吸血鬼の始祖のひとりが棲みついたらしい。そんな僅かな情報を頼りにこの街にやって来たのが昨日のことだ。そこからさらに情報収集し当たりをつけてこの庭園で待ち構えていれば、果たして夜半に獲物は現れた。先手必勝とばかりに撃ち込んだ銀の弾丸は六発、うち二発は確実に獲物を撃ち抜いた。さすが始祖というべきか、小さな弾丸ふたつでは致命傷にならなかったようで相手は一瞬よろめいたがすぐにその身体を翻して走り出した。
(疾い……!)
俊足で名高い千切をもってしてもなかなか追いつけないほど吸血鬼は速かった。元来吸血鬼は人間より身体能力が高い。その中でも能力が強い始祖は普通の吸血鬼を軽く凌駕する。怪我を負わせてこれなら、今までその姿をまともに捉えられたハンターすらいないのも納得だった。だからといって諦められるはずもない。
前を走る吸血鬼の背を追いながら素早く周囲を見渡し、千切は一気に方向転換した。この庭園は広く、おまけに道が複雑に上下する構造をしている。段差のある生垣を階段の手摺りを利用して一足飛びで乗り越え、同じことをもう一度繰り返して地面に着地すると千切はそのままナイフを構えた。暗闇の向こうから吸血鬼が現れる。吸血鬼らしい白い肌に夜空に輝く月のようなプラチナブロンド、その毛先は青白く色を変えて輝いている。後ろの一房だけ長く伸びているのか、さらさらと風に靡いていた。整った目鼻立ちで吸血鬼らしい目を奪われるような美しさだが、その両目だけが吸血鬼らしからぬ色をしている。千切が知っている吸血鬼は血のような赤い目をしていたが、彼の両目は蒼かった。それが特異体質なのか始祖故のものなのか、千切は知らない。ただ、漠然と彼の力の強さを感じ取ってしまい千切はぐっと奥歯を噛み締めた。
足を止めた吸血鬼はしげしげと千切を観察し、にっと笑った。赤い唇の隙間から白く鋭い牙が覗く。
「疾いな」
「……そりゃどーも」
「おまけに美しい」
「……」
何が面白いのか吸血鬼はくつくつと喉を鳴らす。隙だらけのように見えるのに攻め入るポイントがない。むしろこちらが緊張を強いられている。目を逸らさないようにしながら全身を観察すると、表情には何も表れていないが上質そうな洋服にはところどころ傷や汚れがある。やはり弾丸は彼を撃ち抜いていたのだ。その事実に少し勇気を得て、千切はナイフの切先を吸血鬼に向けた。
「褒めてくれたところ悪いけど、俺はそう言われるのあんまり好きじゃねえんだ」
事実、千切は美しい。それは理解している。でもそれは千切にとってあまり喜ばしいことではなかった。親譲りのこの容貌は嫌いではないけれど不便なことも多かったし、何より吸血鬼ハンターとして生きるには足枷になった。利用価値がないではないが、どちらかといえば無駄な労力を要する場面の方が多い。ましてや吸血鬼に褒められても何も嬉しくなかった。
「別に褒めたわけじゃない。ただの事実さ」
「……そーですか」
会話しながらも観察は怠らない。なのにやはり隙は見つからない。笑い、わざとらしく肩をすくめ、千切をその視界に捉えていない瞬間すらあるのに、だ。かといってむやみに飛び出したところで彼にナイフを突き立てることはできないだろう。むしろ彼の手にかかってしまう可能性の方が高い。
千切は吸血鬼を追うハンターだ。だが同時に吸血鬼の獲物でもあった。食うか食われるか、その立場は一瞬で入れ替わる。この瞬間、自分はどちらかといえば獲物側に傾いていることを千切は敏感に感じ取っていた。
「美しい人間、名は?」
「……知らないヤツに名乗る名はない」
「失礼、俺はミヒャエル・カイザーだ」
お見知りおきを、と優雅な礼を見せる吸血鬼に千切は息を呑む。名前だけは知っている──名前しか知られていない始祖中の始祖と言われている吸血鬼だ。これまで幾人ものハンターが挑んではその姿を見ることすらできず死んでいった。はっきり言って、千切には荷が重い相手だ。伝説の一人歩きなどではなく今まで耳にしてきた噂話は全て事実なのだと、こうして相対してはっきりと理解した。それなりに腕に覚えはあるがこれはそういう範疇の相手ではない。
なんでこんなところにいるんだよ、と内心悪態を吐くが引き当ててしまった獲物はもうなかったことにはできない。やるかやられるか、それだけだ。
「さあ、お前の名は?」
「……千切豹馬」
「チギリヒョウマ。東方の響きだな」
図星だったがそこまで開示する必要はない。それにしても名前だけで千切の出身を言い当てるとは、長命に恥じない博識さも持ち合わせているらしい。
「腕は悪くないようだが、銃は苦手か? 半分も当たらないんじゃ武器にならないだろう」
「うるせえよ」
「本命はナイフの方か。確かにお前の身体によく馴染んでいる。最近は安全なところから銃で狙う輩ばかりだったからな、身一つで飛び込んでくるお前は好ましい」
「おしゃべりな野郎は嫌われるぞ」
「普段相手をしてくれるやつがいないんだ。可哀そうだと憐れんではくれないか?」
「してもいいけど話し相手は別のヤツにしてくれ」
「俺はヒョウマと話したい」
コツ、と吸血鬼が靴音を鳴らして千切に一歩近付く。そのままゆっくりと、一歩ずつ歩く吸血鬼を千切は黙ったまま見据えていた。吸血鬼は機嫌よさそうにこの庭園に咲く薔薇について語り始めた。無秩序な構造は気に入らないが、咲いている薔薇はどれも素晴らしい。原種に近いものから交配を繰り返した目新しいものまでまんべんなく揃っており、それらがひとつの哲学に基づいて配置されている。手入れは十全、薔薇の美しさを余すことなく味わうことができる。人間なんて弱くつまらない生き物だが、ここの庭師は生きる価値がある。
「ああ、お前もだぞ、ヒョウマ」
真っ直ぐ千切に向かっていた足を止め、吸血鬼は薔薇の方を向いた。深紅の薔薇に手を伸ばし、今にも花開こうとしている蕾を指先で撫でた。
「人間は弱くて、つまらなくて、醜い。しかしお前のその美しさはそれだけで価値がある」
「それって吸血鬼的には褒め言葉なの?」
「最高の賛辞だ」
「そりゃどう……もッ」
吸血鬼との距離は三歩分。それを一気に詰めて千切は吸血鬼に肉薄した。
銃は苦手かと言われたがそうではない。千切とって銃はあくまで足止めに過ぎない。千切の武器はこの足、このスピードだ。そしてそれを最も活かせる武器はナイフ。長い髪が触れるほどの近距離が千切の領域だ。
一気に加速した千切に吸血鬼は目を丸くして反射的にか腕で自身を庇おうとした。しかし千切の方が一歩分早かった。素早く逆手に構えなおしたナイフを首に突き立てる。スピードを最大限活かすために小ぶりなものを選んでいるので、一手では首を落とすことはできない。肉を捉えた次の瞬間にはもうナイフを振りぬき、噴き出した血が我が身に降り注ぐのも構わずすぐさま二撃めを与えるべく手を返した。
「──酷いな、ヒョウマ」
「ッ!?」
今度こそ首を切り落とすはずだったナイフは空を切った。いや、その手を捕らえられていた。腕に何かがぐるりと巡らされている──薔薇の蔓だ。するすると生き物のように動き、千切の腕を絡めとっていく。痛みは感じない程度の拘束なのにぴくりとも動かせず、千切は茫然とした。
「無闇に動かさない方がいい。人間の肌は傷つきやすいからな、大切にしろ」
「……お気遣いどーもッ……」
吸血鬼の手が蔓に絡めとられた腕の表面を撫で、そのまま指先に向かう。相棒ともいえるナイフはあっさりと奪われた。
「いいナイフだ。余分なものが何もなくてただ鋭さだけがある。ヒョウマに相応しいな」
ハンターを志したときから使っているナイフは第二の肉体に近い。夜にあっても白く輝く刃を撫でる吸血鬼の指先に、千切は息を呑んだ。純銀製のナイフだ。柄の部分はまだしも、刃は吸血鬼にとって毒に等しいはず。そもそもついさっき確かに首を斬りつけたのにこの吸血鬼は斃れるどころか少しもダメージを受けた気配がない。まるで愛玩動物のようにナイフの切っ先を撫でる吸血鬼の姿に千切は慄然とした。
「不思議か? 何故銀に触れても平気なのか」
「……」
「こんなものでダメージを受けるのは末端の眷属だけだ。真祖に近いヤツには効かない」
こんなふうに、と歌うように言った吸血鬼はそのままナイフを自身の首に突き立てた。
「なッ……」
さっき千切が切り裂いたのとまったく同じ個所から再度血が噴き出す。吸血鬼は笑みを浮かべたまま表情を変えず、ただ赤く染まっていく。雨のように降り注ぐ血は冷たかった。熱を持たない代わりにその血は甘く匂った。空気がとろりと澱むほどの濃い芳香に包まれ、意識がくらりと揺れた。
「俺たちは再生能力も高いからこれくらいは虫に刺されたようなものだ。いい香りだろう? 俺たちは血に一番強く力を宿している」
人間には刺激が強すぎるかもなと言う言葉の通り、千切は酩酊感に襲われ少しずつ思考能力が鈍っていった。必死で意識を保とうとするが、それよりも侵食される方が早い。腕を蔓に捕らわれたまま、千切は体勢を崩した。
「大丈夫か?」
抱えるように支えられ、余計なお世話だと言うこともままならない。唇は音をなさず、ただ震えるだけだった。
「ああ、大変だ」
背中と膝裏に腕を回され抱き上げられる。腕に絡みついていた蔓はするりと解けた。
重く、気を抜けばすぐにでも閉じそうになる目蓋を必死に開くと、目の前に青い薔薇が咲いていた。青い花弁は血に染まっているが、美しさと芳しい香りは損なわれていない。もっと近くでその香りを感じたくて顔を寄せ、そこでその青い薔薇が吸血鬼の首に浮かんだ紋様であることに気付いた。
「気に入ったか? なら好きなだけ楽しめばいい」
柔らかな振動が一定のリズムで繰り返される。自分を抱えた吸血鬼がどこかに向かって歩き出したのだと、それは理解しているのに千切の意識はそれを危険だと認識することができなかった。青い薔薇に目も意識も奪われ、他のことを考える余地がない。この美しい青から一時も目を離したくない。
邪魔だな、と思った。青い花弁に降りかかった血は乾き始めていた。何かを考えるより先に、千切は薔薇に唇を寄せてその血に舌を這わせていた。少しずつ邪魔な赤を舐め取っていく。ぴりぴりと舌先が痺れたが、露わになっていく青の方が重要だった。
「まるで猫だな。上等な、毛並みのいい猫だ」
吸血鬼が嗤っている。舐める皮膚の振動でそれを感じる。青い薔薇を邪魔する血はほとんど消えた。
「お前にも揃いの薔薇をやろう。俺と同じ首か、脚もいいな。お前はきっと誰よりも疾くなる」
遮るもののなくなった薔薇に頬を寄せる。そうか、これと同じ薔薇を貰えるのか。なら脚の方がいい。この薔薇を纏って駆けるのはさぞ気持ちがいいだろう。
「まあ細かいことはゆっくり考えよう。時間はたっぷりあるからな、今は眠るといい」
カイザーの言葉に導かれるように、千切は目を閉じた。そうすると香りがいっそう強くなった気がして、千切はうっとりと笑んだ。
翌朝、いつもと同じ時刻に庭園にやって来た庭師は一本のナイフを見つけた。無骨だが手入れはよくされていて刃毀れも曇りもないナイフはひと目で大切にされているのが分かった。どういう事情でここに落ちていたのかは分からないが、これは持ち主に返すべきだろう。
庭師はナイフを手拭いで包み道具入れの片隅に仕舞うと、いつも通りの仕事を始めた。