レオはぴば 告白されたとき、千切はまだ子どもだった。告白してきた玲王だってひとよりほんの少し社会を知っているだけの子どもだった。青い監獄のなかで出会い、お互いのことで知っていることといえばサッカーに関することと、関しないことをほんの少し。でもそのときはそれで十分だった。
千切は子どもだったけれど、多少は将来のことを考えることができる子どもだった。玲王はそれ以上だろう。だから千切は自分の未来を玲王に任せることにした。もちろんサッカーに関することは譲らないけれど、二人の関係については玲王に委ねる。結婚なんて想像上のもので、その想像すらひどく朧げなものだったけれど、いつか玲王がどこかの素敵な女性と結婚するのは決定事項だろう。そのときが来るまでは、玲王が千切と別の道を選ぶまでは。それまでは感情のままに行動することを自分に許して、千切は玲王の手を取った。
一度目の転機はワールドカップだった。イングランドのチームに所属し順当に実績を積み重ねていた二人は揃って代表選手に選出された。そして代表チームのメンバーが発表された日の夜、玲王はワールドカップが終わったら成績にかかわらず引退すると千切に宣言した。サッカーは好きだけど実家の仕事も好きで両方ほしい、だからサッカーはここで区切りをつける。玲王のそういう欲張りなくせに冷静なところが好きだ。千切は頷いて、だからってゴールを譲ったりしないからなと笑った。笑いながら玲王との関係のカウントダウンを始めた。引退して本格的に家業を継ぐということは玲王は日本に戻るのだろう。これ以上ない、ちょうどいいタイミングだ。
それからワールドカップまで、二人は今まで以上にサッカーに集中した。二人で会うときも話題の大半はサッカーで、時折キスをしたり身体を重ねるだけが恋人らしい時間だったが特に不満はなかった。元の生活と大差ないといえばそうだし、カウントダウンが始まっているからといって態度を変えるのも違う気がする。きっと玲王もそういうつもりなのだろうと思っていたある日、玲王がこれどうだ、とタブレットの画面を見せてきた。
「なに……物件?」
「そ、ちょっと早いけど目星つけとこうと思って」
表示されていたのは不動産の資料だった。住所はイングランド某所、間取りは広々4LDK、設備も充実。賃料にさえ目を瞑れば間違いなくいい物件だ。いいと思うけど、と率直に言うと玲王はそれだけかよ、と苦笑した。
「要望があるなら早めに言ってくれよ。あとから言っても何とかはするけどさ」
「何とかするんだ。……じゃなくて、俺の要望? なんで?」
「は?」
見つめあってしばし沈黙。ぎゅっと眉間にしわを寄せて凶悪な表情になった玲王だったが、すぐにそういえばそうだったと表情を和らげた。
「ワリ、順番間違えたわ。引退したら本格的に仕事始めるからここじゃ手狭でさ、引越しついでに一緒に住まないか?」
「……え、」
「俺はどうせあっちこっち行くことになるしリモートも多いだろうからわりとどこでもいいんだよ。この辺だったら豹馬も動きやすいだろ?」
他のエリアの方がいいか?と首を傾げる玲王の言葉が耳を素通りしていく。一緒に住む? 俺と玲王が?
おーい、と目の前で手のひらを振られてようやく正気付いて、千切はなんとか大丈夫だと言葉を絞り出した。
「……この辺なら不便てことはないだろうし、間取りとかは玲王に任せるよ。そっちの方がよさそう」
「そうか? まあ何か思いついたらそのとき言ってくれ」
うん、と頷きながら千切はまだ動揺していた。本当に二人で暮らすつもりなんだ。嬉しい。嬉しいけれど、いいのかという疑問が消えない。こっちで仕事をするのは理解できる。玲王の家のことはあまり詳しく聞いていないけれど、あれだけ大きな企業なのだからイングランド支社的なものがひとつふたつあっても不思議ではない。でもてっきり玲王は日本に戻るのだと思っていたから、そのうえ一緒に暮らすだなんて完全に青天の霹靂だった。
実感が湧かないまま日々を過ごし、しばらくして玲王はこれに決めたと再びタブレットを渡してきた。
「いいんじゃね?」
「ぜってーちゃんと見てないやつじゃん」
「玲王が変な物件選ぶはずないし」
「まあな」
事実を嫌味なくさらりと肯定できるのは玲王のいいところだ。その後のことも玲王任せで、千切は必要な書類を手配したりたまにサインをする程度ですべては滞りなく進んでいった。
ワールドカップは優勝こそ逃したけれど歴代最高の成績を納め、その熱狂が落ち着いたころに千切と玲王は新居に移り住んだ。
二度目の転機は千切の移籍だ。長らくお世話になったイングランドのチームを離れて海を渡ることになり、必然的にこの家も出なければならなくなった。今度こそ、と千切は覚悟を決めた。二十代半ばとなり、いわゆる結婚適齢期なのだからこれでも遅いくらいかもしれないが、タイミングとしては悪くないだろう。
「じゃあ引っ越すか」
しかし玲王はあっさりそう言って、翌日には物件情報を持ってきた。来週内見に行くけど一緒に行くか?という一言とともに。判断が早すぎる。
二度目の引越しも玲王がすべてを引き受けてくれた。二度目となれば玲王も慣れたもので、国境を越えるというハンデをものともせず鮮やかに事を終えた。この間、千切は自身の荷物の整理と移籍関連の手続き以外それらしいことを何もしていない。なんなら荷物の整理だって半分くらい玲王が手伝ってくれた。まさに至れり尽くせり。
ことがスムーズに進みすぎて、本当にいいのかの一言が言えないまま千切は新天地に到着した。してしまった。
「どうした? 疲れたか?」
新居のクローゼットに衣類を移している途中、飲み物を持った玲王が様子を見に来てくれた。疲れているのはそっちだろうと思う。あれもこれも気を回して、疲れないはずがない。きっと千切が気付いていないところにも気を配り、仕事だって通常通りこなしているに違いない。
「……ほんとによかったのか? 玲王までこっちに来て」
遅すぎる確認に玲王は笑うだけだった。
「前も言ったろ、俺はどこでもいいんだって。それなら豹馬に合わせるのが合理的じゃん」
「うん、まあ、そうなんだけど」
確かに合理的だ。唯一自分たちの関係だけが合理的じゃない。
さすがにここまでされて玲王の気持ちを疑ったりはしていない。青い監獄で告白されたあの日から玲王はずっと千切のことを想ってくれている。ただそれは期間限定のものだろうと当然に思っていた。玲王は欲張りだけど冷静で、サッカーに情熱を燃やしつつその根底はどうしようもなく御影の人間だ。いつかその日が来たら手放すのだと、きれいな思い出だけを残して元の関係に戻ろうと思っていた。でも千切はもうその元の関係がどんなものだったか思い出せない。この手を放せと言われて素直に頷ける自信もない。
「陸路の選択肢が増えたからむしろ便利なくらいだよ。他のやつらとも会いやすくなるし」
「……凪とは離れちゃったけどな」
「それなーそれはちょっと心配なんだよな。まあアイツもイングランド長いし大丈夫だろうけど」
なんだかんだやればできる子なんだよアイツはと親のようなことを言う玲王の隣で、千切はうまく笑うことができなかった。
──なんてこともあったなあ。赤ワインが入ったグラスを傾ける玲王と向かい合いながら千切は感慨深く思った。
今年のシーズンの終了と同時に千切は引退した。右膝に違和感を覚えることが増え、チームや医師と何度も相談したうえでそう決めた。玲王には事後報告だったが、そうかと優しく微笑んでくれた。日本に戻るのかと聞かれて首を横に振るとじゃあこの部屋更新しちゃうなと言われて、それで千切はようやく確信した。コイツ、別れる気ねえな。
小さなものも含めればいくつものきっかけがあったはずだ。でも玲王は一度だって同棲を解消しようと言わなかった。俺はどこでもいいからと千切にとって都合のいい選択をし続けた。その間千切のサポートをしつつ自身の仕事にも一切手を抜かず、御影コーポレーションの欧州担当者として確固たる地位を築いている。新たなビジネス展開も手掛けていて西へ東へ飛び回りつつ、千切と住む部屋に帰ってくる。いつか来ると思っていた玲王が女性と結ばれる日はその気配すら見えない。
まあ、ここまでされたらさすがに疑いようがないよな。
そう受け入れてしまうとこれまでの自分がバカみたいだった。別れを覚悟しているつもりで全然できていなかった。結婚するなんて言われたらみっともなく泣いて暴れていたかもしれない。
酔いに任せてそう言うと、それは見たかったかもと笑われた。
「そんな豹馬が見れるの、後にも先にもそのときだけだっただろうな」
「性格悪ィ」
「そういうお前は察しも往生際も悪すぎだろ。俺が一回でもそんなこと言ったか?」
「……いってない」
「だろ」
別の女性と結婚どころか現役のときから今までスキャンダルのひとつもなく今に至っている。浮気を疑ったこともない。全部千切が勝手に思い込んでいただけだ。
「あー……なんかすっげーもったいないことした気分。ブルーロックから何年だ?」
ひいふうと指折り数えてその年数に千切はつっぷした。これだけの期間、勝手に杞憂を抱き続けたのだと思うと馬鹿らしい以外の言葉が出ない。あーあ、とため息をつきながら皿に残っていた生ハムを指でつまんで食べる。こうなったらやけ食いするしかない。もう現役選手みたいに食事制限をする必要はないし、おあつらえ向きに今日はテーブルにごちそうが並んでいるのだから。
「まあいいんじゃねえの? 最終的にはそうやってひとり相撲してたのが懐かしくなるだろ」
「それっていつ? さっさとそうなりたい」
「さあ、あと十回くらいこうして祝ってくれたらいいんじゃね」
「てことはあと十年かー」
先は長い。そのころ自分はどこで何をしているやら、まったく想像がつかない。でも玲王はきっと十年後もバリバリ仕事をしていて世界の半分くらいは手中に収めているかもしれない。そして千切と住む部屋に帰ってくるのだろう。そう思うと十年というカウントダウンはあっという間に過ぎる気がした。
「……じゃあ十年後に向けて、改めて」
誕生日おめでとう。つっぷしたままグラスを突き出すと、玲王は適当だなあと笑いながらグラスをぶつけてくれた。