小さな城壁の内側で 秋も深まってきたガルグ=マク大修道院の、とある昼下がり。執務室で大量の書類を相手にするのも疲れてきた。どうにかキリのいいところまで片づけて、ベレトは大きく伸びをした。
そして、険しい顔で身構えている補佐のセテスに声をかける。
「なあ、セテス。息抜きに、ちょっとだけリンハルトの様子を見に行っていいか?」
「それは構わんが……余計に疲れないか?」
「なんで?」
ベレトは首を傾げる。
リンハルトと話すのはとても楽しいし、可愛い寝顔を眺めるのも好きだ。何もしなくても傍にいるだけで癒される。疲れが吹っ飛ぶ。
ベレトにとってリンハルトは最愛の伴侶であり、最高の疲労回復手段だった。だから、いつも仕事の合間に伴侶の惚気話をするのだが、セテスにはかなり不評だった。先ほど身構えていたのも、また『いつもの』が来ると思ってのことだろう。
なんで、と問い返したベレトに対して、セテスは「いや、何でもない」とかぶりを振った。
「じきに午後の謁見だ。三十分で戻るように」
「わかってる。ありがとう」
ベレトは満面の笑みで席を立ち、執務室を後にした。リンハルトに会うためにこれから向かう場所は書庫だ。
いつまで経っても働こうとせず、執務室にふらりと顔を出して大司教の集中を乱す伴侶に対して、ついに数日前セテスが爆発したのだ。
「……毎日毎日、自由気ままにふらふらと! 何か興味のある仕事はないのか!? 君は紋章学者を志していたはずだろう!」
あれは結局どうなったんだ、と詰め寄られたリンハルトはいつもどおりのんびりした様子で答えた。
「まあ、あれは紋章学が好きだから紋章学者になろうかな、という短絡的な発想でしたね。個人的に研究は続けてますよ。趣味を仕事にしちゃうと、それが苦痛になるのが嫌なんで」
「かと言って君の場合、まったく興味がない仕事もやる気が出ないんだろう?」
「セテスさん、僕のことをよくご存知ですねえ。先生ほどじゃないですけど」
あ、そうだ。先生をずっと眺めるだけの仕事ならいくらでもできそうです、なんて可愛らしい提案は、そんな仕事はないと即座にセテスに却下されてしまった。
仕事らしい仕事で、リンハルトもちゃんと興味を示すもの。ベレトは考えを巡らせて、いつかのお茶会でのリンハルトの発言をふと思い出す。
「……前に『学者の夢が潰えたら、書庫番もいいですね』って言ってなかったか?」
「ああ、そういえばそんなことも言ってましたね。案外いいかもしれません」
「それだ!!」
リンハルト本人よりもセテスのほうが食いつきがはるかによく、「そうと決まれば善は急げだ!」とてきぱきと手続きを進めていた。
昨日簡単に研修を済ませ、そして今日はリンハルトが書庫番を務める初日。仕事内容は書架の整理整頓や利用者の案内など。書物の分類や場所を覚えるのは大変らしいのだが、昔から書庫に入り浸っていたリンハルトはわりとすんなり覚えてしまった。
「これはもしや天職なのでは……!?」
そう言ったのもセテスだった。本人は「そうだといいですねえ」といった感じだった。
長い廊下をまっすぐ行って、突き当たりを右へ曲がる。そのまま道なりに進むと書庫に着く。仕事の邪魔をしては悪いので、扉をそっと開ける。
「……あれ?」
静謐な空気をたたえた書庫には、誰もいなかった。中に入って、ぐるりと見渡す。
――ああ、いた。ベレトの口元には思わず笑みがこぼれる。
この書庫は利用者のためにいくつか長机が置かれている。奥のほうにあるひとつに、小さな城壁ができていた。それは石造りの頑丈なものではなく、分厚い書物が堆く積み上げられた、手で押せばすぐに崩れてしまうようなもの。きっと――いや間違いなくリンハルトはそこにいる。
書物を読み耽っているだろうか、もしくは昼寝をしているだろうか。ベレトは愛しい伴侶の姿を想像しながら歩を進める。
城壁の内側に回ると、やはりそこにリンハルトがいた。長く白い指で書物の頁をめくっている。文字の羅列に向ける深い青の眼差しは、真剣そのものだ。かなり集中しているらしく、ベレトの接近にも気づいていない。
いつも向けてくれる優しい目も好きだが、何かに夢中で取り組んでいるときのこの目もたまらなく好きだった。この姿をずっと眺めていたいのはやまやまだが、あまり時間もないので声をかける。
「リンハルト」
「……え、あれ? 先生? 先生もサボリですか?」
「俺は休憩がてら、お前の様子を見に来ただけだ。……先生『も』ということは、お前はサボリなのか?」
「いえ、僕も休憩ですよ。そういうことにしておいてください」
わかった、と頷く。椅子を引き寄せ、リンハルトの隣にぴったりとくっつけて腰掛けた。
座って改めて見ると、かなり高い城壁だ。これを見るに、果たして何時間『休憩』をしているのかはわからない。様子を見に来たのがセテスじゃなくて俺でよかったな、と伴侶の不正を簡単に揉み消した。
「休憩ってどれくらいです? 確かもうすぐ午後の謁見の時間ですよね。三十分くらいですか?」
「ご明察」
大司教であるベレトの過密な予定を、リンハルトは向こう一節まで事細かに把握している。仕事に支障が出ない時間帯を選んで執務室に遊びに来たり、ベレトを昼寝に連れ出したりするためらしい。そのことを聞かされたときには驚愕したものだが(ベレト自身はほとんど把握していないので)、「貴方のことですから当然ですよ」と言われると嬉しくなってしまった。その無駄な優秀さを他にも活かしてくれたら、とセテスは大いに嘆いていたが。
「三十分だったら昼寝もできませんね。寝過ごしたら大変ですし」
じゃあ、と腕を引かれ、リンハルトの顔が近づく。何をされるか瞬時に理解したベレトは目を閉じた。
予想どおり、唇同士が触れ合った。ちゅ、ちゅ、と可愛らしい音を立てて、何度も啄まれる。ベレトもそれを真似て口づけを返す。
そうしてしばらく互いの唇の感触を楽しんだ後、リンハルトがベレトの唇を舐めた。口を開けろと求められている。その意図もベレトは理解していたが、昼間にこんな場所でそこまでするのか、と要求に応えることを躊躇う。
「大丈夫ですよ。誰もいませんから」
何を言ったわけでもないのに、リンハルトもベレトの考えを読み取っていたらしい。大丈夫と言われて、少しだけだぞ、と前置きしてから、リンハルトの望みどおりにしてやる。すぐに口が塞がれて、舌が入ってくる。
「ん、んんっ、ぁ、ふっ……」
舌が絡まって、吸って、軽く歯を立てて。歯列をなぞって、口蓋をくすぐって、まるでベレトの口内を隅々まで調べるようにリンハルトの舌は動き回る。
一旦唇が離れて、リンハルトが微笑む。情欲に火が付いてぎらついた男の目をしている。この目も大好きだ。
「せんせい……もっとしていいですか?」
――ああ、これはなかなか終わりそうにないな。少しだけと言ったのに。
だがベレトにも拒む気はなかった。誰もいない静かな書庫で、書物で作られた小さな城壁の内側で二人きり。自分もこの状況に興奮してしまっているのも事実だ。引き続きリンハルトから与えられる口づけを甘んじて受け入れた。
その後、休憩は早めに切り上げた。これ以上長居すると、盛り上がりすぎてしまいそうだったからだ。
執務室に二人で赴き、
「やっぱり僕に書庫番は向いてないです。利用者そっちのけで書物を読み耽りますし、居眠りもしますし、度々先生を連れ込みますから」
正直すぎる書庫番辞退理由を述べたリンハルトと、顔を真っ赤にしていたベレトは、仲良くセテスに叱られたのだった。