唐突に聞こえた呼び鈴に、鼻歌混じりににんじんの皮を剥いていた三ツ谷は顔を上げた。八戒ならば近所迷惑なくらい大音量で外から呼び掛けてくるから違うだろう。他に来客の予定も思い当たらない。宅配便でも届いたかと蛇口をひねったところで「私が出るから大丈夫!」とルナが玄関へ駆けていく。
「頼むわ」と一声かけ、その後ろをついていくマナの姿を目で追ってから手元に視線を戻したところで、玄関の扉が開く音とともに予想外の名前が耳に飛び込んできた。
「大寿ちゃん!」
「あーっ、タイタイだ!」
妹たちが揃って上げた大声に、三ツ谷は持ち上げていた鍋の蓋を足の甲へと落下させた。
「い、ってえ~……」
ルナとマナにそれぞれ手を取られ、大寿は三ツ谷家の敷居を跨ぐ。台所で背を丸めて悶絶している三ツ谷の姿に目を留めると、口元をゆるめた。
「よお、三ツ谷」
招かれざる客の正体に驚愕した、わけではない。この状況での対面は完全に不意打ちとはいえ、本来、三ツ谷と大寿は顔を合わせているはずだったのだ。三ツ谷がその約束を反故にさえしなければ。
昨晩は夜勤で朝には帰宅するはずだった母から、体調不良の同僚の代わりにそのまま出勤することになったと連絡があった。普段の日勤よりは早く上がれると言うものの疲労の滲む母の声音に、自分は一日出掛けるから、とは言い出せなかったのだ。
めずらしいことではない。三ツ谷が大寿と会う予定を立てていたことを除けば。
「大寿君、なんで」
母との通話を終えたその指で大寿の番号をコールし事の次第を伝えれば、電話口の応答は淡白なものだった。三ツ谷の家の事情に、大寿が口を挟んでくることはない。それをありがたいと思う気持ちに、少しの寂しさも含まれなかったと言えば嘘になる。
「おにいちゃんみて、これ昨日テレビでやってた!」
三ツ谷と大寿の間に流れた神妙な空気を吹き飛ばすかのように、マナが飛び跳ねる。三ツ谷が目をやると、マナの手の中には見慣れない四角い箱があった。昨日のテレビ、を三ツ谷が思い出す前に、そそくさと皿とフォークを用意してきたルナが箱に印字されていたロゴに添えてある横文字をたどたどしく読み上げる。それは、最近渋谷にオープンしたばかりで連日行列ができていると話題のパティスリーの名前だった。
「土産だ」
「大寿ちゃんありがと! だいすき!」
「タイタイすきー!!」
「お前らの『好き』は安上がりだな」
三ツ谷家の家計的にはそうでもないのが事実だけど。
さっそく箱から取り出したケーキを頬張ったルナはにこにこと上機嫌だ。マナの方は「大寿ちゃんにも一口あげる!」「いらん。立ったまま食うな、行儀が悪い」とお叱りを受け、唇を尖らせながらも素直に従っている。大寿にじゃれる妹たちと三ツ谷家のテーブルを彩る華やぎを眺め、写真を撮るのを失念していたことに三ツ谷が気づくころには皿の上にスポンジのひとかけらしか残っていなかったが、箱の中にはきちんと三ツ谷家の人数分が用意されているのが覗けた。
「ここ、すげえ並ぶんでしょ?」
「暇だったからな」
らしくもなく行列の一員になることを許容するほどに大寿が暇を持て余す。それすなわち、三ツ谷のために空けていた時間なのだ。
「ごめん」
「オレがいつ謝れって言った? 朝も同じことを伝えただろ」
「……だね。ありがとう、大寿君」
ケーキをぺろりと平らげたルナとマナは、顔を見合わせている三ツ谷と大寿へ一斉に突撃した。エプロンが肩から落ちかけた三ツ谷の隣で、小柄な少女の体当たり程度風がそよぐのと何ら変わらないであろう大寿は微動だにせず、ただ視線だけを落とす。決して表情筋が柔らかいとは言えない大寿が寄越すつれない反応にも、ルナとマナはめげない。
「大寿ちゃん遊んで!」
「あそんでー!」
「…………」
大寿は無言のまま、床へ腰を下ろした。それを承諾と受け取ったルナとマナは大喜びで大寿の懐へと飛び込んでいく。幼い妹たちを文字通り足蹴にすることはできない大寿の様子に、三ツ谷は目を細める。突然三ツ谷家に訪ねてくるということは、こういう目に遭うということなのである。
「わりーけど、ふたりの相手してもらっててもいい? 夕飯の準備、まだ途中なんだ」
「……ああ」
いかにも不服そうに眉を寄せながらも、大寿は軽く頷いてから顎をしゃくる。一見横柄な態度だが妹たちに纏わりつかれているせいで全く気迫を感じない。口角が上がってしまって仕方ないのを誤魔化すように取れかけたエプロンを結び直し、三ツ谷は再び台所へと立った。
カシャ。
小さな機械音が聞こえ、大寿は目を覚ました。部屋中に広がる香辛料の匂いに鼻を鳴らしてから、大寿の上に身を乗り出すような姿勢の三ツ谷と目が合う。
「あ、起きた?」
「……何撮ってんだ」
「えー、なんのことかなあ」
人差し指を唇に当てて「静かに」のジェスチャーをする三ツ谷。隣で並んで眠っているルナとマナを起こさないようゆっくりと身体を起こし、しらばっくれる三ツ谷の手元から素早く音の正体を奪う。
「ちょっ、やめて消さないで。誰にも見せねえから! 待ち受けにするだけだから!」
大寿よりも三ツ谷の方がよほど騒がしい。慌てたふりで大寿の腕にしがみつき、へらへら笑っている。三ツ谷が写真に収めた三人の寝顔を黙って見つめていた大寿は、「間抜け面だ」とぽつりと漏らした。
「はああ? オレのかわいい妹の寝顔によくもケチつけてくれたな」
「違う。ルナとマナじゃねえ」
大寿の凪いだ目を覗き込み、三ツ谷はふふんと鼻を鳴らした。
「だから良いんじゃんか」
ベストショットってやつ、と得意げな三ツ谷を窘めるように、大寿はその脇腹を肘で小突いた。
「すっかり懐かれちゃってんね。おかげで大助かり。あざっす」
「ただ寝転がってただけだ」
「それで充分なんだって。大寿君のでかい図体は寝転んでるだけでアスレチックになんだからいいよな~」
「オレを遊具扱いとはでけえ口を叩くようになったなァ三ツ谷」
「ぎゃ、みぞおち狙ってくるのはマジでやめて!」
ううん、とルナがむずがるような吐息を漏らす。三ツ谷は咄嗟に大寿の口を塞いだ。「うるせえのはおまえだ」とかなんとかもごもご言っているが手のひら越しに伝わる。
「あ、ごめん。ついうっかり」
ぱっと離れていく三ツ谷を睨みつけたあと、大寿の視線はルナとマナへ移っていった。
「……物で釣ってるだけだ。にしたって、お前の妹の警戒心の無さは褒められたもんじゃねえ」
それは、妹たちに対する憤慨というよりは、兄に対する非難めいている。あるいは同じように兄である大寿本人に、かもしれない。
大寿が妹や弟に与えてきた仕打ちを承知の上で、「クソ強面だけど案外優しいから」と妹たちに嬉々として大寿を紹介し、本人から直々に拳をお見舞いされたのはいつのことだったか。
「オレはテメエらを代償にしたかねえんだよ」
辟易したような声に込められた感情を受け止めたうえで、三ツ谷は何も答えない。躍起になって否定するのも、理解を示してみせるのも違う。いつか大寿自身が落としどころを見つけるはずだと信じているから。
「…………」
「頭撫でんな。うぜえ」
微睡みに浮かされて余計なことを口走った後悔をしながらも、自ら三ツ谷の手を振り払う気は起きなかった。
何事も柴大寿という名の暴力の下に屈服させてきた自分が、戯れのような小競り合いは絶えずともこうして傍らにいる時間が増えた相手のことを、どう思っているか。
「分かってないねえ、大寿君は」
「あ?」
どう思っているか──などと、頭を悩ませる必要はないのだと大寿が口にする寸前に放たれた三ツ谷の一言は、それはまさしく横槍を入れられたようなものだった。
三ツ谷からすれば、ルナやマナの前に現れるときは頼んだわけでもないのにいつも何かしらの手土産を携えていて、そもそも警戒心を解こうと手を打ったのは大寿の方だろう、と微笑ましい記憶を掘り返していただけだったのだが。
「分かってないのはテメエの方だ」
妙に苛ついたような声で吐き捨てた大寿の心中こそ、三ツ谷は推し量るべきだったのかもしれない。
ぐるりと視界が回転し、気づけば大寿と床の間に三ツ谷の身体は横たわっていた。
「どこへ行くとか、何をするとか、それが目的でお前とつるんでるわけじゃない」
「……ゆ、油断も隙もねえ……」
妹たちと川の字になって寝るなんて、これまで数えきれないほどしてきたことなのに。人生で感じたこともないような緊張感に、三ツ谷は身を竦めた。