最果てで君を思う喫茶リコリコinハワイ、本日は店じまい。
カーラジオから流れていたうろ覚えの歌詞を口ずさみながら、千束は夕日が沈みゆくビーチをひとり歩いていた。
「……ん?」
さくさくと軽い砂の感触を楽しんでいた足元から、ふと顔を上げる。
猫背がちな痩躯。気候にそぐわない黒ずくめのコート。中から覗く派手な柄のシャツ。帽子を目深に被っているせいか、顔つきまでは判別できない。
しかし、千束はその姿に見覚えがありすぎた。
「よお。アランのリコリス」
おそらく、千束が視線を向ける前から相手は気づいていた。それでいて、意識がかち合った今になって声をかけてきた。間違いない。
「……しぶとい奴だな、真島ぁ」
真島にとってはただ事実を並べただけの呼称でも、その証はとっくに遠い海の底に沈んでいる。千束のバカンス気分に水を差すには充分だった。
顔を覗き込めるくらいの距離まで近づいてみても真島は微動だにしない。その顔面は両目さえも包帯で覆われていて、まともに確認できるのはにやついた口元くらいだった。
「久しぶりだな。元気そうじゃねえか」
砂を踏む音。それとも微かな歌声だろうか。ご自慢の聴覚は無事らしい。さも旧い友人同士の再会とでも言わんばかりの気安い挨拶に千束はそっけなく「まーね」と相槌を打つ。
「どこで私たちのこと嗅ぎつけたの」
「偶然だ偶然。俺も驚いたさ」
ハワイで喫茶リコリコを出店する前とは違って、完全に身を隠しているわけでもない。にしても、真島についていたハッカーはDAに捕らえられているはずだ。千束の居所を捕捉する手立てを用意できるというのも怪しいところではあるが。
「信じられるわけないでしょ」
「別になんだっていいだろ? どうあれ、お前も俺もここにいるんだ」
そもそもこうしてお互いの心臓が止まっていないことをまず驚くべきなのだろうけれど。
ただの偶然。もしくは運命。なんであれ、遠路はるばるやってきたこの地ですら満足な解放感を得られないという状況に直面し、千束は嘆息する。
「療養中なんだよ、おかげさまでな。今なら簡単に俺を仕留められるぜ」
表情や目線を頼りに次の行動を予測するには判断材料が少なすぎる。とはいえ、真島とは呆れるほど取っ組み合いをしたのだ。姿を隠す闇の中でもなければ、予備動作を見抜くのは容易い。
真島は相変わらず両腕をだらりと垂らしたままだ。DAに追われる身の上では、おちおち傷も癒せない。警戒心を削ぐためのハッタリでもなんでもなく事実だろう。飛びかかってしまえば簡単に制圧できる。一秒先の未来を想像し、千束はぎゅうと目を瞑る。
目蓋の裏に浮かぶのは、あの憎たらしいくらい綺麗に咲いていた花火。
「……しない。私だって、今は休暇中だから」
「へえ、そりゃ残念」
千束の心臓の不調に勘づき休戦を提案してくる真島の性分からして、本気で再戦を申し込んでくるならば万事環境を整えてからだろう。煽り文句に対して千束が首を縦に振るとも端から思っていなかったのか、真島の声は軽く、さして気落ちしているようには感じられなかった。
「それにしてはよく働いてたみてえだけどな、看板娘。お前の方はすっかり調子が良さそうじゃねえか」
「……いつからいたの気持ち悪いんですけど?」
もしかして両目の負傷はブラフなのか。千束が疑いの目を向けても、真島は肩を竦めるだけで答えることはなかった。
仮にブラフであったとしても、延空木から落下したのは──千束がこの手で撃ち落としたのは──確かなはずだ。間一髪たきなに救出された千束と違い、アクション映画よろしく屋根がクッションになったり街路樹に引っ掛かったりすれば軽く済むというような怪我ではないはずだが、こうして千束の目の前に佇んでいるのもまた確かだ。常人ならざる耳の良さ以外に、驚異的な回復力でも備わっているとでもいうのか。どちらかと言えば線の細い、決して筋骨隆々とは言い難い真島を千束はじろりと睨み付ける。
「あんま見んなよ。穴が開くだろ」
「ふうん、その土手っ腹に穴を開けてほしかったんじゃないの?」
そのとき、ひりついた空気を裂くように千束のスマホが振動した。画面上に表示された名前を確認し、千束は三回目のコールを待たずに通話ボタンを押す。
「あ、たきなー? 買い出し終わった? サンキュー……って、え、私? いやちょっと散歩中に道案内頼まれちゃって。はいはーい、すぐ戻りまーす。んー、またあとで」
通話中も、千束は真島から目を逸らさなかった。ハワイでのバカンス。DAの監視も届かない束の間の休息。千束が人生で諦めていたことのひとつ。これを、徹底的に守るための選択。
千束を心配するような電話の向こうの声を拾ってせせら笑う真島をよそに、千束はさっさとスマホをしまった。
「いいのかよ」
「言ったでしょ。休暇中だって」
「お前はそうでも、黒いのには関係なさそうだけどな」
ざあ、と波が引いていく。
夕日が沈み、水平線は次第に夜を連れてくる。
不思議と、腹立たしいほどに、心は凪いでいる。
「なあ、アランのリコリス」
「なに。てかその呼び方やめろ」
「二度も俺を殺し損ねたんだ。お前の人殺しの才能にもケチがついただろ?」
「は、負け越してるくせしてよく言うわ」
「お前のくだらない信条を守ってやったんだぜ? 感謝してほしいくらいだけどな」
「結果論じゃんふざけんな。つーか悪運が強いだけでしょ。しつこい男は嫌われんぞー」
「お前、俺が嫌いかよ」
「逆に聞くけど好かれる要素どこにあった?」
今この瞬間に、命のやりとりはない。互いの人生に課せられた役目も関係ない。
波間に紛れ、海風にさらわれていってしまうだけの、わずかな空白があった。
「俺は、お前が生きていてよかったよ」
明日の朝にはすっかり忘れて、千束が守る日常を満喫する。それがいい。そのほうがいい。そんなスタンスで会話を続けていた千束は、何気なく脇腹を小突いた真島の口からこぼれ出した一言にうっかり声を詰まらせてしまう。
「また会えてよかった」
真島の目が潰れていて助かった。
物騒な安堵が、千束の脳内を一瞬で駆け巡る。
「──、ま」
千束が口を開くのを阻むように、ぴくりと肩を揺らした真島はコートを翻した。舌打ち混じりに、そのまま千束に背を向けて歩き出す。打ち寄せる波に足を取られるようなこともなく、つかつかと足早に離れていく。
「え、ちょっ」
「黒いのがお前を探してる。勘が鋭いっつうか、鼻が利くっつうか……ともかく、お喋りはここまでだな」
きょろきょろと辺りを見回しても千束の視界に真島以外の人影はないが、真島の耳にはたきなが千束を呼ぶ声がいち早く届いたらしい。
「あいつはお前みたいに甘くない。俺を見逃したりしないだろ?」
そうだ。そしてきっと、たきなの選択が正しい。
どんどん距離が離れていく真島を追いかけることも声を張り上げることもなく、ただ必ず届くと分かっていて、千束は呟いた。
「……次はないから。今度こそ、アンタの息の根止めてやる」
「お、いいねえ。待ってるぜ、千束」
その言葉を最後に、千束は真島と正反対の方向へ歩き始める。夜闇に溶け込んでいく背中合わせの真島からは鉛玉の一発も飛んでくることはなかった。
キザったらしい台詞だけ残してそそくさ逃げ出すとかダサすぎる。不意打ちを狙うくらいしろよ。
背後から消えた気配に、頭の片隅でそれを望んでいたことを自覚した千束はぐしゃぐしゃと頭を掻いて地団駄を踏んだ。
十年物の燻った因縁に、バカンス気分を割り込ませたのはどちらだ。
「名前、知ってるなら最初から呼べっつうの……」
胸にわだかまる感情を解消するには、子どもじみた方法しか思い浮かばなかった。
♢♢♢
まとわりついた砂を払うためサンダルを脱いだところで、「ここでしたか、千束!」とビーチに続くステップを降りてたきなが駆け寄ってくるのが目に入った。それに答えるように、千束は大きく手を振る。
「砂遊びですか? もう日が暮れましたし、夜の海は危険ですよ」
「いやいや、さっきまで道案内してたんだって~」
バカンス中にリコリスの制服を纏うことは千束に固く禁じられているためどこか心許ない私服に袖を通しているたきなではあるが、周辺を見渡す鋭い目つきはまるで索敵でもしているかのようだ。
「ああ、そうでしたね。無事遂行できましたか」
まるで任務を終えたときのようなたきなの物言いに対し、千束はぐっと親指を立てる。
「もうばっちり」
「じゃあ、早く帰りましょう。皆待ってます」
千束が帰る場所は、リコリコの皆がいるところ。目を離した隙にいなくなるようなことがあっても、必ず連れ戻す。たきなにとってもそれが当たり前のことになった。自然と手を取り合って、ビーチに二人並んで足跡をつけていく。
明日はここで思いっきり遊ぶのもいいな、と千束は胸を弾ませた。今しがた思い浮かんだ計画で頭の中を埋め尽くして、握った手をぶんぶんと振り回す。すっかり足取りの軽くなった千束の横顔を見つめるたきなは、小さく微笑んだ。