「──マスター？」
　その背中に呼びかけたのは、モリアーティ自身にも思いがけない行動だった。姿が目に入ったからといって、特段用件があるわけでもない。そもそもモリアーティは──再臨を経てからは、召喚当時のまるで学友かのように親しげな態度はすっかりなりを潜め──マスターである立香と距離を置いていたのだ。
だというのに、自ら関わりを持つきっかけを作ってしまった不可解さにモリアーティは眉をひそめる。肩を小さく揺らしてからくるりと声の主へ向き直った立香は、その険しい顔つきにも「こんばんは、モリアーティ」と軽やかに応じてみせた。
「こんな真夜中にどうしたの？」
「……それはこちらの台詞だ。君の方こそ、食堂で何をこそこそやっているんだ」
　そんな当たり前の問い返しを予期しないはずもないだろうに、立香はあからさまに目を逸らした。カルデアが余程の食糧難に陥っていたならば話は別だが、仮に立香がいくらかの食糧を身勝手に消費したとて立ち行かなくなるような状況でもないだろう。秘匿すべきやましさなどこの薄い腹に抱えているとは到底思えないが、モリアーティが立香を呼び止めてしまった理由を悪意の芽吹きを敏感に嗅ぎ取ったからだとすれば説明もつく。
「ええ、と。そうだ。コーヒーいる？」
立香は手元に並ぶカップのひとつをモリアーティへ差し出した。「これを淹れに来ただけだよ」と、モリアーティの疑問に対し微妙に答えになっていないような答えが返ってくる。
「マスターである君が、私の給仕を？」
「給仕って、そんな大げさな……そりゃあ、エミヤやブーティカが淹れた方が美味しいだろうけど」
　カルデアの食堂を取り仕切るサーヴァントは複数人存在する。立香が名前を挙げたのは彼らのうちの誰かしらなのだろうと推察できるが、その賑わいの輪に加わることを避けているモリアーティにとってはまだ馴染みのある面子とは言えなかった。
「モリアーティも、なにか食べるものか飲むものでも探しにきたんじゃないの？」
サーヴァントの身なれば、食事や睡眠を取らずとも活動を続けることができる。数学書を読み耽ることも、数式の虫食いを埋めることも──悪を企てることも──満足のいくまで思考を張り巡らせることが可能なのだ。であれば、それらの行為にリソースを割く必要はない。
「違う。私は君の姿が見えたから、……」
　と、事実をそのまま口に出しかけて咄嗟に咳払いで誤魔化す。立香はモリアーティのわざとらしい素振りに口元がほころびそうになるのを必死でこらえた。
「人影が視界に入ったから、念のため後をつけただけサ」
「そっか。ありがとう、警戒してくれて」
立香の素直な感謝に、言動の粗を突かれるに違いないと構えていたモリアーティは拍子抜けしてしまう。 ジェームズ・モリアーティが人気の無い深夜の時間帯を狙って単独行動をしていたのなら、少しは疑ってしかるべきじゃないか。
「そういえば、カルデアのライブラリーはあらかた確認し終えた？」
「まさか。どれほど膨大な量なのかは君の方がよく把握しているだろう。愉快……とは言いがたいが、大変興味深い資料だ。隅々まで目を通させてもらうヨ」
「もしかして夜通し？ それならなおのこと、コーヒーブレイクくらいしたっていいだろ？」
あの好々爺ぶっている老齢の私であったならばきっと──と、モリアーティは知らず知らずのうちに歯噛みする。立香はモリアーティが第一霊基時のような好青年然としたふるまいをやめてからも、態度を改めることはなかった。無闇に懐へ飛び込んではこないが、危険因子に警戒を強めるでも、畏敬の念を込めた眼差しを向けてくるでもないまま。こちらに中途半端に差し出されたままのコーヒーカップは、まだほのかな煙をくゆらせている。
「あ、紅茶の方が好き？」
「……いや、構わない。いただくよ」
「よかった。じゃあ、オレはこれで、」
カップを離した立香の掌がするりと抜け出そうとするのを、モリアーティがやすやすと逃すはずもなかった。
「待ちたまえよマスターくん」