郭嘉は天井を仰ぎ、一息つく。
しばらく天井を見つめた後、姿勢を正し座りなおしたかと思えば、周囲を見回し顔見知りの軍師らがいないことを悟ると、机に広げられたいくつもの竹簡をくるくると一纏めにしていく。
そうして纏めた竹簡の束を両手で抱え、郭嘉は立ち上がり政務を行う部屋を後にする。
心無しか、足音を忍ばせ歩く郭嘉は廊下の曲がり角に差し掛かる。ここを曲がれば。郭嘉は息を無意識に潜める。
瞬間、郭嘉の目の前に現れた影。
郭嘉は驚き息を止める。
「どうされました、郭嘉殿」
そこにいたのは、郭嘉が想いを寄せる猛将であった。
「あ、あぁ、張遼殿」
にこり。郭嘉は動揺を悟られないよういつもの笑顔を顔に張り付ける。
驚きと困惑、忍ばせた恋情。全てが混ざっていた。見つからないように、郭嘉は面のような笑顔に務めた。
「……郭嘉殿。もしやその竹簡は」
猛将・張遼が落とした視線の先は、先程郭嘉がまとめた竹簡の束。
郭嘉の表情が固まる。
「政務が早く終わったので片付けに」
言外で郭嘉を責める張遼の視線から逃れるように、郭嘉は笑みを深める。子供のような無邪気な笑顔であったが、張遼の視線も表情もピクリとも動かない。
バレている。なにもかも。
「…どうしてわかったのかな」
これ以上誤魔化すことは出来ない。郭嘉は肩を落とし、問う。軍師としてあるまじき敗北だとも感じたが、惚れた相手に見破られたのだと思えば何故か郭嘉の心は軽かった。
「なんとなく、ですな」
珍しく曖昧な張遼の答えに郭嘉は目を上げる。張遼の視線が微かに泳ぐ。恐らく、張遼自身も説明が付かないのだろう。
「郭嘉殿、今宵先約はありますか」
「?いえ、特には…」
何故、と郭嘉が問えば、張遼と目が合う。
戦場での鋭い眼光とはまた異なる、穏やかな瞳。郭嘉の胸がドキリと跳ねた。
「私が郭嘉殿と共に酒を酌み交わしたいと思っていた故、お伺いいたしました」
郭嘉はその張遼の言葉に口をぽかんと開ける。
「もしや、これが終わったら、貴方と酒が飲めるのかな」
これ、と郭嘉が竹簡を微かに持ち上げる。
「郭嘉殿がよろしければ」
張遼は郭嘉の言動に頷く。その言葉に、郭嘉の頬に熱が灯る。
「あぁ、嬉しいな。やる気がわいてきましたよ」
「それはなにより。郭嘉殿が嬉しいとおっしゃるならば、私も嬉しく思います」
張遼の言葉に、いつも嘘偽りは無い。
「張遼殿も私と同じ気持ちかな」
郭嘉は試すように問う。
「えぇ、同じ気持ちをいだいております」
張遼は頷く。
その言葉に、郭嘉はますます笑みを深めた。
「今日はとことん付き合ってもらおうかな。もちろん、私の部屋で、ね」
「ならば、戻って政務を終えられますよう」
お待ちしております、と張遼は柔らかく笑んだ。
その笑顔は郭嘉がめったに見たことがないものだった。
あぁ、こんなにも優しい。
郭嘉は自然と緩む頬を竹簡で隠し、名残惜しげに張遼へ背を向け元来た道を戻っていった。