不意にキーボードを打つ指が止まる。
画面に映し出された英数字と記号の羅列。覚える違和感。シキの目が左右に揺れる。
頭脳が忙しなく動く。これは、良くない。シキは判断し、マウスを左右上下に動かし、斜線が入っているマイクのマークにカーソルを当て、カチリとクリックをした。
「い、イアン」
マイクが起動したことを確認し、シキは辿々しく一人の男の名を呼ぶ。
緊張から声を詰まらせてしまった。上手く聞こえていることをシキは祈った。
『なんだ、AAA』
少し間を空け、男――イアンが返事をした。微かに息が上がっている。シキはごくりと口の中に溜まった唾を飲み込む。渇いていた口の中が少し潤った気がしたが、喉は未だ水分を欲していた。しかし、シキの手元には水分がなかった。喉が渇いたまま、ゆっくり口を開いた。
「あの、その……カジノのシステムに、少し気になるところがあって……」
辿々しいシキの言葉に、イアンはまだ答えない。シキの話が終わっていないと分かっているのだろう。ドキドキと鼓動打つ胸を押さえながら、シキは言葉を続ける。
「ぼ、ボクが直しても、いいかな?」
ハッキングをされそうな、脆弱な箇所があった。このまま放置すれば、すぐに探られてしまい此処に――カジノ王の城へ――辿り着いてしまいそうなほど、危険なものだとシキは推測した。
自分ならばすぐに直せる。もし万が一侵入してきた者が居たら痕跡を辿り逆に攻撃することも出来る。シキはマイクに向かって問いかけた。
『構わん。好きにやれ』
短い答えに、シキはほっと無意識に詰めていた息を吐き出した。
良かった。つまらないことを言うな、と怒られるかと思った。怒ってもいなさそうだ。シキは安堵した。
「ありが、」
『AAA』
終わりかと思っていた会話が続いていたことに、礼を言いかけたシキは酷く動揺し小さく声を上げそうになったが、両手で口を押さえて声を堪えた。
「な、な、に?」
動揺したまま、シキは口を押さえていた拘束を少し解き、イアンに問うた。
『俺にいちいち許可を取らず、己で勝手にやれ。その権限を、お前には渡してある』
「……!」
イアンの言葉に、シキの胸がドキリと跳ねた。
冷たく突き放すような声色であったが、その言葉の本意は、シキを信用してくれている。シキは分かっていた。
彼は寡黙。それは思慮深いという意味。
彼は、優しい。
ならば、彼の優しさにつけ込んで、願いを口にしても。
「……」
『AAA、どうした』
答えないシキの様子を訝しんだのか、イアンが問う。
溢れてしまいそうな言葉を再び飲み込む。大丈夫、胸の奥まで落ちた。
「う、うん……わかった……じゃあ、ね」
カチリ、とマウスの音をさせ、マイクを切る。マイクのマークに斜線が引かれる。こちらの声はもうイアンには聞こえない。
パチパチと慣れた手つきでキーボードを弾く。
シキが一番見つめている正面のディスプレイにひとつの部屋が映し出される。
「イアン」
ディスプレイの中央。
闘技場の真ん中でトレーニングをしているイアンの姿があった。
汗を流しながら、機械の上半身を晒しながら、イアンは自らの身体を鍛え続けている。いずれ訪れる挑戦者のために。王の責務として。彼はいつも、独りだった。
「イアン……」
薄暗い室内は水の中のように静かで、モーター音は水流を生む酸素ポンプのようだった。は、は、とシキは浅く呼吸を繰り返す。
煌々と光を放つディスプレイは人工の光をシキに与える。眠るな、夢を見るなと言うように、光はシキを灼く。
縋るように、シキはそのディスプレイの中央に映る男に手を伸ばした。
僅かに感じる熱は物言わぬ目の前の機械が発する物だと理解をしている。
しかしその熱が、まるで彼の機械で出来た腕から発せられた熱のように錯覚ができた。温かいのに、寂しかった。
シキは目を閉じ、イアン、と繰り返す。
長い睫毛の下からぽたりぽたりと感情を孕んだ雨がこぼれ落ち、キーボードを濡らした。
(ボクはアナタに名前を呼ばれる夢を見る)
(アナタに飼われている、この水槽の中で)
(そんな資格すら、無いのに)