「わしとて子供の頃くらいは好きな人がおったわい」
何故その話になったのか。途中から耳を傾け始めたルッチには分からなかった。
「手が届かんから、諦めた」
「なんだ諦めたのか」
「高嶺の花というやつでの」
ルッチは振り返り、肩越しにその会話を交わす男達を見る。
パウリーにそう笑って見せたカクは、いつもの笑顔そのものだった。
日中は光が燦々と降り注ぐウォーターセブンにも、夜が来る。
水路を流れる水の音だけが聞こえてくる、草木も眠る頃、カクの家を訪れる影がひとつあった。
その来訪者自体に、玄関の扉を開けたカクはさして驚きもせず慣れた様子で出迎える。
今日も何も成果が無く、ただの船大工として安穏と過ごした。
来訪者――ルッチは、穏やかで平和な日々を過ごすことを否とする時がある。極端に言えば、嫌がっている。そんな時は、同じくガレーラカンパニーに潜入したカクを手酷く抱くことがある。
豹の爪と牙でカクの身体を僅かに裂き、血を舐り、噛む。
ルッチと過ごす夜は、血の臭いがする。カクの身体はもはや、過去の任務で付いた傷よりも、ルッチによって着けられた新しい傷の方が多くなったと言っても過言では無い。
(また、か)
カクはさして動揺もせず、着ていたシャツを脱ごうと裾に手を掛ける。
つい先日噛まれたばかりの傷はまだ青く痣が残っているが、薄く引かれた爪痕は蚯蚓腫れが引き少し赤らんでいる程度だ。この上から引っかかれるのは、少し痛いかもしれない。少しは気を遣って欲しいものじゃ。カクは内心で唇を尖らせる。
「あの話、本気か」
ソファに座ったまましばらく押し黙っていたルッチが唐突に口を開く。
シャツを脱ぎかけ腹を露わにしたまま、カクは動きを止めルッチの方に首を回す。
「どの話じゃ」
「昼間パウリーとしていた話だ」
勝手知ったるカクの家。ルッチは戸棚からウィスキーを取り出し、氷の入ったグラスに音を立てて注いでいく。
カク自身、そこまで好んで酒を飲む性質ではないため、ルッチ用に常備しているウイスキーだった。勝手に飲んでくれて構わなかった。
カクが気になったのはルッチの行動では無く、言葉。
昼間。パウリー。その情報から、カクは一つの会話を思い出す。
「あぁ、あれか。パウリーが、わしがあまりに女気が無いからと絡んできてのう」
脱ぎかけていたシャツの襟首を広げ長い鼻を通すと、カクはようやくシャツを脱ぎ、床に捨てた。
「惚れてたのか、誰かに」
まだこの話を続けるのか、珍しい。カクはルッチを見やる。テーブルの横に備え付けてあるソファに、長い足を組みながら座っていた。上半身だけ裸になったカクを正面から見ている。食い下がるルッチの言葉にも視線にも、カクは少し居心地悪さを覚えた。
「確かに、惚れておった」
カクは顔をベッドに向け、ルッチから視線を逸らす。
「しかし、とうに捨てた。この感情は、この仕事に無意味じゃからの」
暗躍機関の諜報員であるカクには。CP9には、不要な感情。
ただ粛々と任務をこなし、成果を得る。それ以上も、以下も無い。それ以外は不要なもの。
「お前が惚れてた奴は誰だ」
「なんじゃ、気になるのか?」
わざとらしくくつくつとカクが喉を鳴らし笑いを堪えながら問えば、ルッチは鼻を鳴らす。
「お前はおれのものだ」
絶対的な自信をもったその尊大な言葉は、およそルッチしか言うことが許されないであろう。
カクは、笑いと共にルッチのその言葉を許して、大きく頷いた。
「あぁ、そうじゃ。そうじゃのぉ。わしはルッチ、お前のものじゃ」
カラカラとカクは声を上げて笑う。
ルッチとカクがそう言う関係になったのは、ウォーターセブンに訪れてから。
良くも悪くも目立つガレーラカンパニー一番ドッグに属するルッチもカクも、おいそれと簡単に欲を吐き出すことが出来ない。なるべくして成った関係だ。カクはそれに不満を抱いたことが無い。
「例えばの話として」
カクはベッドの端に腰掛ける。ルッチはウイスキーを呷りながら、じとりとカクを見やる。
「わしが惚れておったのがルッチ、お前だとしたら、どうする?」
まっすぐ。カクはルッチを指さし、問う。
その問いを投げかけられたルッチはグラスから唇を離し、にぃと唇の両端をつり上げ、笑った。
「腑抜けた感情抱くな、と怒鳴ってやろうか」
珍しい。カクは目を丸くする。
口だけで無くルッチの目も、笑っている。
そんなにおかしいことを言うたか、とカクはぱちりと瞬きする。
「くだらねぇこと考えんな」
ルッチは飲みかけのウイスキーをテーブルに置き、ゆっくりとカクへ歩み寄る。
くわ、とルッチの口が大きく開く。ぐるると喉が鳴る音が聞こえる。
鋭い豹の牙が近づき、カクの首筋に食い込む。
血は出ない、皮膚を突き破らない程度の、甘噛みにも似た行為だった。
「わはは!くだらんことを聞いてしもうたな」
痛みを覚えた首筋を反らしながら、カクはおかしそうに笑う。
「例えばの嘘じゃよ」
そう。例えばの話。
木から落ちて泣いていた自分を叱るでもなく慰めるでもなく、ただ先を歩き、時折振り向いては足を引きずりながら歩くカクの様子を窺い見ていた少年がいたことも。
誰よりも強く気高い少年が、己の相棒とも言うべきハトを腕に乗せてくれたことも。
そんな少年が大人へ変わり、己を自分の物だと嘯き身体を暴くようになったことも。
すべては、例えばの話。
「わしの都合の良い夢じゃ」