【1】Prelude - 前奏曲 -二十二時を少し回った、水曜日の夜。
人もまばらなホテルのフロントで名前を告げると、チェックインの手続きを経てカードキーを渡される。
エレベーターへ向かう。
ボタンを押すと間もなく、エレベーターの扉が上品な電子音とともになめらかに開いた。
誰も乗っていないガラス張りのエレベーターに乗り込むと、階数を押す。ぐんぐん昇っていくエレベーターから外を眺める。きらきらとした街の明かりが宝石のように散りばめられた美しい夜景に、思わず目を細めた。
地上に広がる、星空のような輝き。
それぞれが光を放っていて、そこにそれぞれの生活があるのだけれど。遠くから見れば個々の事情などは伺い知れず、ただ、まばゆい輝きだけがこちらの目に映るのだ。
今自分が乗っているエレベーターの明かりも、遠くから見てみればまるで光が空に昇っているように見えるのだろうか、なんて想像して、小さく笑う。
宿泊階に到着すると、電子音とともに扉が開いた。
とりとめもないことを考えるのは止めて、歩き出す。分厚い絨毯が敷かれた廊下は、足音を吸い取ってしまって。そこは僅かな衣擦れの音だけしかしない、とても静かな空間だった。扉にカードキーを当てると、静けさの中にガチャリと開錠の音が響いた。
扉を開けてカードキーを差し込むと、部屋にパッと照明が灯る。広々とした空間が広がっていて、郵送したトランクが入口すぐ側に置かれているのが目に入った。
それにしても、とても高そうだなと感じた。部屋を手配したのは自分ではないので、具体的な金額は分からないけれど。
豪華な調度品と、二名が宿泊するのには広すぎる空間。
テーブルの上には、フルーツが数種類盛られた皿と、シャンパンクーラーで冷やされたシャンパンと、磨かれたスマートなグラスが二つ用意されていた。
こんなシチュエーション、前に映画で見たことがあるなと考える。何という題だったか、思い出そうとして。
まあ取りあえず、と。ビジネスバッグを部屋のソファの上に置き、その横に腰を降ろした。深く沈み込みながらも、芯にある程よい硬さでもって体を心地よく支える。
その瞬間、ふう、と出たため息には、疲れが滲んでいた。
早朝から新幹線に乗って東京に来て。一件目の打ち合わせを終えて簡単なランチをとり、午後から別な打ち合わせを二件こなした後。夕食の後にお世話になっている会社に挨拶がてら立ち寄り、そのまま取引先の人間と一緒に軽く飲みながら商談を進めて、今なのだ。流石に疲れた。
しかし。折角上京するのだから色々予定をこなしておきたい気持ちと、明日は予定を空けておきたい気持ちがせめぎ合った結果がこのスケジュールなのだから、仕方がない。
鞄からスマホを取り出すと、メッセージの通知が目に入る。通知欄の『もうすぐ着く』という言葉に、心が波立つ。確認すると、五分前の着信。チェックイン作業中で気付かなかったようだった。
ソファから立ち上がって、入口すぐ傍の姿見の前に立つ。
どことなくくたびれた顔をした自分がそこには映っていた。
軽く耳を揉む、疲れを解すように。
髪を手櫛で直し、ジャケットの皺をしゃんと伸ばし、シャツの襟を撫でつけ、目を大きく見開いて。不備がないかチェックする。
よし、大丈夫、と思った瞬間。ピンポーン、と、入口のチャイムが鳴った。
びくり、と肩が弾む。
すぐに開けたい気持ちでノブに伸びかけた手を、ぐっと止める。あまり早く開けたら、待ちきれず急いていると思われると考えて。まず、心の中で五秒ほどゆっくり数えてから、
「はい」
と、敢えてゆったりと扉を開ける。艶然と、余裕の素振りで微笑みながら。
すると、スーツ姿の世にも美しい男が、笑顔で、
「…会いたかった」
という第一声とともに、足早に部屋に入ってくる。その性急な動きに切実さのようなものを感じて、それを嬉しく思いながらも。
「…二十日ぶりですなあ」
笑いながら、出来るだけ淡々と言った。
すると。
「それだけ?」
男が眉根を寄せながら言ってくる。その不満げな顔すら、とても美しく、そしてどこか色っぽい。
「それだけ、とは?」
含みを持たせた流し目を送りながら、聞き返す。
「…いや、おまえも同じ気持ちだったら嬉しいなあと、思ったんだが」
ぬけぬけとそんなことを言いながら、いたずら坊主のようににやりと笑う男の、魅力的なことと言ったらもう。
心が蕩けるような心地がして。ふにゃりとにやけそうになるのをぐっと堪えて、
「ええ、ええ…拙僧も同じ気持ちです」
と、アルカイックスマイルで言ってやる。
「そう?」
男も不敵に笑う。それに対して、
「はい」
と、目を細めて答える。
熱い抱擁の代わりに、そんなやり取りを交わす。
付き合いたての、しかも遠距離恋愛の大人の流儀は、面倒くさいのだ。色々。
二人並んで、ソファに向かって歩く。ただそれだけのことで胸が高鳴る。
「いつ着いた?」
問われて。
「拙僧も今、着いたところです」
答える。
「予定はこなせた?」
言いながら晴明がソファに腰掛け、じっとこちらを見る。
「はい、恙無く」
答えつつ、隣か向かいか、どちらに座るか一瞬迷う。
晴明はこちらを見ながら、
「…道満」
と名前を呼びながら自分の隣の座面をぽんぽんと叩いて、微笑んだ。
隣においで、と誘われて心が踊る。口の端が嬉しそうに上がりそうになるのを。
「ンンッ」
小さな咳払いで誤魔化す。
では、と隣に腰掛けると、ふわりと晴明の香りがして。また胸が高鳴る。
晴明がテーブルの方に身を乗り出して慣れた素振りでシャンパンを開けて、グラスに注ぐ。
「どうぞ」
手渡されて。
「…どうも」
受け取る。
悠然と微笑む予定だったのに、少々ぎこちなくなってしまった。どうにも調子が出ない。
シャンパングラスに口を付けると、まずいい香りが鼻先を掠める。グラスを傾けると、ほのかな甘みと、すっきりとした口当たりが文句なしに美味しくて、ふ、と笑うと。
晴明も笑って、シャンパンを一口飲んだ後、
「…あ、乾杯を忘れた」
なんて言うので。
カチン、とグラスを合わせた後。顔を見合わせて、二人でふふっと笑った。
テーブルの上には艶光るシャインマスカットに、真っ赤な苺と大振りなライチ。美味しそうな甘い香りで、こちらを誘う。
皿に手を伸ばすと、晴明はいたずらっぽく微笑んで。シャインマスカットを手に取ると、それをこちらの口元に持ってきて。
「どうぞ」
と一言。
口を小さく開けると、唇に果実を押し当てられる。
唇に手が触れるか触れないかの絶妙なタイミングで、晴明は手を離す。
瑞々しい果肉に歯をたてると、口の中に果汁が広がった。
甘い。
咀嚼して飲み込むと。
晴明が次の一粒を口元に持ってくる。
無言で口を開けると、また、唇に果実を当てる。
言葉はなく、ただ見つめ合って。何度かそれを繰り返す。
「美味しい?」
と言われて。
「…はい」
と微笑むと。
「好き?」
と言われ。
「…好きです」
と返せば。
「もっと?」
意味深に尋ねられて。
「…もっと」
ふふっと笑いながら、晴明の方に身を乗り出して。耳元で。
「ちょうだい」
甘くささやく。
と、ぐいっと腰を抱き寄せられて。
「私とシャインマスカット、どちら?」
耳元ささやき返されて。
しばらく、んーと考えてから。
「…シャインマスカット」
と答えると。
晴明は、
「こいつめ」
と笑って。果実を浅く咥えると、少しおどけたような顔をして、眉を上げて「ん」と差し出す。
うっ、と胸にくる。なんと言うか、超絶顔がいいので。
首の後ろに手を回して、顔をこちらに引き寄せると。
晴明は狐のように目を細めて、嬉しそうに笑った。
晴明の口元から、シャインマスカットを唇で奪う。その瞬間、互いの唇が、ほんの少し掠めて。
体の芯にぼうっと火が付くような心地がした。
晴明がまたシャインマスカットに手を伸ばそうとして。
「…それは、もういいです」
至近距離で甘くささやく、ねだるように。
「シャインマスカットは…もういい?」
聞かれて。
「…はい…」
と言いながら、唇を近付けると。
「じゃあ…次は」
晴明は楽しそうに微笑む。
その態度がじれったくて、こちらから口付けようとしたら。
晴明は、
「苺かな」
と言って、シャインマスカットの隣の苺を手に取ると。
「どうぞ」
とそれをこちらの唇に押し当てた。
「ンンンンッ」
こちらは口付ける気満々だったので拍子抜けして、咄嗟に反応し損なう。
大きく目を見開いて、でも、苺は口の前にあって。仕方なくそれにガブリと噛み付くと。
晴明はくくっと笑った。
「…わざとですかな?」
果実を咀嚼し飲み込み終えて、晴明をじろりと見ながら言ってやれば。
「なにが?」
晴明は笑いながら、親指でこちらの口の端に触れると。
「付いている」
と、苺の果汁が付いた親指の腹をこちらに見せた後。その指をぺろりと舐めた。
晴明の赤い舌が、親指の表面をゆっくり撫でる。
その扇情的な様子に、胎の奥がかっと熱くなる。
我慢できなくなって。顔を近付け、晴明の舌をぺろりと舐めた。
すると晴明にぐいっと背中ごと抱き寄せられて。
ようやく唇が合わさる。深く。
舌を絡めて、互いの口内を夢中で貪り合って。二人の熱い吐息と水音が、部屋の温度をどんどん高くする。
さっき食べた苺の甘みとシャンパンの香りがほのかにする口付け。味わいが混じり合って、どんどん体は熱くなる。互いの熱の境目が分からなくなって、唇から溶けて混ざりあっていくような心地がした。
長い口付けの後。
「ベッド?
…それともバスルーム?」
という選択肢が提示されて。
「…バスルーム」
ベッド、と言いたいところだったけれど。今日は多忙で汗を沢山かいたことを思い出し、そう答える。待ちわびた逢瀬で、汗臭いなどと思われたくなかった。
「一緒に入ろうか」
と言われて、頬がぶわりと熱くなる。
無言で頷いた。
***
「湯を張ってくる」
蕩けきった魅惑的な恋人をソファに残して、足取り軽くバスルームに向かう。
そこには男二人でも軽々入れそうな、大きな丸い浴槽があった。
湯の蛇口を捻ると、最初は水が出てきて。それが温まってきてから水栓を閉める。
近くにあった小袋を開けて、貯まっていく湯の中に中身をぶちまける。すると、浴槽の湯がみるみる泡だっていく。浴室に入浴剤の甘い香りが漂う。
自宅ではしたことのないお遊びに、思わずふふっと笑うと。
「…泡」
後ろから恋人の声がして。
振り返ると、服を着たままの道満が後ろに来ていた。
「待ちきれなかった?」
と言うと。
「…莫迦…」
という一言が返ってきた。でも言い方が、少し怒りつつもそこはかとなく悩ましく。そしてどこか、可愛くいじらしくも感じられて、一ミリも腹が立たなかった。
「こんなものを持ってきたので?」
と聞かれて。
「いいや、ここの浴室に備え付けてあって。
…たまにはこんなのも面白いだろう?」
と笑いながら答えると。
道満は無言で、じーっとこちらを見ている。
「…何か?」
その視線がやけに湿度高めだったので、不思議に思って尋ねると。
「いやあ…前に、どなたかと…泊まられたことが…?」
なんて言われて。
視線の湿度の意味がここでようやく分かって、取り急ぎ、
「いや、仕事で…手配したことがあっただけで」
と否定する。
「ふうん?」
まだ疑っているような風情の相槌に。
「いや、本当だから」
と言葉を重ねる。
実際にこの部屋は、売れっ子女優をCMに起用する際に手配して。その時に、
「安倍さん、あの部屋…浴槽が大きくて、しかも泡の入浴剤も付いてて、すごく良かったぁ♡」
と大喜びされて。それが記憶に残っていたから、この度予約したのだ。
尤もその後、
「お風呂、本当に広くってぇ…一人で入るのは勿体ないくらい。
ベッドもすっごく大きくて寂しいくらいだし。
ところで安倍さん、今夜は…予定、空いてますぅ?」
なんて誘惑されて。
「どうしても外せない仕事がありまして」
「ええ〜どうにかならないんですかぁ」
「…本当に残念です」
と、できるだけ穏便に、でもきっぱりと断る。
芸能事務所からすれば商品に当たる女優に手を付けたとなると、こちらの信用はダダ下がりである。
それと、大変見目の美しい女性だったが、あまり好みのタイプでは無かったのだ。どこもかしこもふわふわとした甘ったるい砂糖菓子のような、そんな人だった。
もし彼女が本当に好みのタイプで全てをなげうっても欲しいと思うような相手ならどうしただろう。全てを敵に回しても、手に入れたいと望むような人だったら。
しかし、即座にないなと思った。色恋で全てを捨てることなど出来ない、そういうタイプではないのだ。
色んな道理や損得を天秤にかけて、結果として、得る方が多いと思う選択肢を選ぶだろう。
そんなことを考えていたら。
「…怪しいですなあ」
ぼそりと道満がつぶやいて。
「いやいや、痛くもない腹を探られても」
苦笑すると。
「…なんでしょう、女の思い出の香り、がしまする」
なんて道満に言われ。
女の思い出と言えば、まあそうなのだが。でもあくまで仕事の絡みだし、軽く迫られたけど何も無かったしと色んな思いが頭の中に去来する。
何と言ったものか考えあぐねていると。
道満がアルカイックスマイルを浮かべた。
その表情に、疑いが晴れていない気がして、頭に黄色信号が灯る。注意、のサイン。ここで焦ると、余計に疑わしくなるだろうと思って。
「信じてないな」
と敢えて笑いながら言うと。
「…お互いいい大人なのです、多少の過去はあって然るべきでしょう」
と言って、道満は自分の腕で自分の体を抱え込むように両肩に手を置くと、悩ましげに首を傾げ。目を細めて微笑んだ。
くらくらするような色っぽい仕草。
モテるのはそちらだけだとお思いか?と、言われたような気がした。
今まで付き合ってきた相手に、そんなことを言われたことが無かった。
また、例えそう言われても、過去のことは過去のことだと特段気にしなかっただろう。
が、今目の前の人にそれを言われて、心の中にめらっと燃え上がるものがあった。
それを面白いと感じた。自分の中にこんな情熱があったことを、自覚する。
そもそも多少の過去とはどの程度のことだ?と思う。多いのか少ないのか、重いのか軽いのか、さっぱり分からないではないか。
その辺りを全て内包して、いい大人か成る程、と思いつつも、もやもやしたものが残る。
まだ知り合って間もなく、付き合っても間もない、そんな二人だからこそ。
そうこうしているうちに湯がたまってきたので、きゅっと蛇口を閉め。
「そろそろ入ろうか?」
誘うと。
「…ええ」
道満はにっこりと応じた。
「一緒に服を脱ぐ?」
くすくす笑いながら尋ねると、道満は困ったように眉根を寄せて。
「…髪が」
とつぶやく。
長い陰陽の髪は道満にとても似合っていて美しいけれど、確かに入浴は大変そうだった。
「最初に儂が入りますので…十五…いや、二十分後に来ていただけますか?」
と言われて。
「分かった」
と答えた。
お預けされているみたいでそわそわする気持ちと、待てが出来る余裕を見せて格好をつけたいという意地が混じり合った思いを、笑顔の奥に押し込め、物分りのいい男のふりをしてみせる。
久しぶりの逢瀬は、まだ始まったばかりで。
まあ、こんなに色んなことが起こるとは。この時の晴明は思ってもいなかった。
つづく