────じく。じゅく。
「う、」
それから二日ほどしか経っていない夜、ついにその時が訪れた。得も言われぬ熱が、首筋から発せられている。
「……行かなきゃ」
コトン。
小さいくまのぬいぐるみの意匠が施されたシャープペンシルを机の上に置き、ふう、と沈鬱な表情で息を吐いた少年……中在家長次は、静かに心を決めて冷たい木の椅子から立ち上がった。ようやく自習の調子が上がってきたところだけれど、「呼ばれた」からには行かなきゃいけない。「彼」を待たせるわけにはいかない。
「お、中在家どうした?」
「先生。すみません、飲み物を持ってくるのを忘れていたことに今気がついて。近くのコンビニに行って買ってきてもいいですか?」
「構わないが、あそこは時間がかかるぞ? 一人だと危ないんじゃ」
今は二十時を過ぎたころ。街灯少ないあの道を四年生である長次が一人で通るには、本当なら確かに危ない、のだが。
「大丈夫です。ちゃんと気をつけるので」
にこりと微笑んでみせるが時すでに遅し、後の祭り。たかだか自分と同じ人間である不審者など及ぶべくもない、その全てを食い物にする化け物に、つい先日出遭ってしまったばかりだ。心配そうな視線に見送られて雑居ビルの中の塾を後にし、長次は家に帰るときと同じ道を駆け出す。水道水入りの水筒が仕舞われたリュックを、教室の机の脇にかけたまま。
これから流す血のように真っ赤な嘘を残して。
「……」
あの塾には二年ほど通い続けているのでこの道自体は夜でも見慣れたものである。しかし、勝手知ったる道のはずなのに、自ら虎穴へ向かっているというだけでこんなにも心細くてたまらない。
『此方へ』
『此処は私の縄張り』
『私の元へ』
『来い』
声が聞こえる。幼い体をじくじくと甘く蝕む熱が導く先の暗澹から。手ぐすね引いて長次を待つ、あの男の呼び声。それが自分を暗闇の中へ拐うための誘(いざな)いであることなど、その声の主が恐怖の根源であることなど百も承知。けれど声が聞こえるというそれだけで、こんなにも不安の寂寞は薄れるものなのだ。……と。声が止んだ。熱もやおら引いていく。立ち止まって横を向けば、自分があの日「あちら側」に引きずり込まれた場所に立ち戻っていたことに気づく。
じっと見つめた丁字路の曲がり角の先。光一筋も通さぬ深淵、不自然に空間を穿っているくらやみ。
「ふう……」
深呼吸。意を決して、ぽっかりと開かれた顎の中に足を踏み入れた。
「あ、あれ……?」
「おう! 逃げずによく来たな、人間にしては見上げた根性だ!」
しかし、その内に長次が覚悟していたような景色はなかった。己のかたちすらあやふやに解かれて沈む暗黒があるものとすっかり身構えていたのに、至って普通の裏路地が奥まで続くばかりである。強いて言えば、ただ物陰だからと納得するには不自然なほどに暗すぎる、というくらいだろうか。それでも────今自分を包んでいる「これ」が外見の冷たさや無機質さとは遠いものであることは、長次でも容易にわかる。
幼い、もっと幼い頃のことを思い出す。今は亡き、優しかった祖父母の家に泊めてもらったあの夜のことを。畳部屋に敷いてくれた布団の中から眺めた窓辺の、閉められた障子の奥から差す月影と光。古ぼけた室外機や瓦礫ばかりがある殺風景なこの路地にはそぐわない、穏やかな暗さで満ちていた。
そんな中、壁に凭れ腕を組んで佇むあの男。
「……あんなことを言われて、私が逃げ出せると思う?」
「にゃはは、まあ細かいことは気にするな! さて待ちくたびれたことだし、さっさと終わらせるぞ! 疾く首を出せ」
「あっ、は、はい」
ずちゅ。
「ッ」
「……」
印刷も薄ぼけたTシャツのよれた襟を引っ張って首の素肌を差し出すなり、べろりと傷跡の辺りを舐めて食いついてくる。全身を苛んでいたあの変な感覚は、血と一緒に吸い出されていったかのように消えていた。
命の危険を冒してまで怪物と意思疎通を試そうだなんて思わない。話しかけた瞬間に怪物の機嫌を損ねて殺されるかもしれないのだ。問われていないなら話さない、許されていないことは何もしない……いつも通りだ。そうすれば「この男は」きっと何もしてこない。
それはそれとして、それは横に置いておくとして、この態度はちょっと拍子抜けである。あちらから話しかけておきながら、大して言葉を交わすでもなく事を急く。急くというより、この時間の中で自分と話すことに重きを置いていない、の方がこの違和感に沿っている気がするのだ。
くちゃ
「……」
「終わりだ。仕舞っていいぞ」
「え?」
もう終わったのか。すり、と首を撫でる。初めてのときの痛みに比べて、此度の吸血は一体何だったのだろうか。噛まれた感覚すら薄く、血を吸われる痛みも感じなかった。とっくのとうに口を離していた吸血鬼を見やり、怪訝に顔を見続けてみる。しかし長次の視線に気づいてか気づかずか視線が返ってくることはなく、実にあっけらかんとしているものであった。
「今宵はこれまで。ではな」
「ま、待って、これまでってどういう」
どさっ。
「こと」
気がついたらコンクリートの上で転けていて、気がついたらあの路地の目の前でわだかまっていた。さっきまでいたはずの場所も、当然吸血鬼も視界に映らない。それどころか、あの不気味なくらやみさえどこにも見当たらない。
「……追い出された?」
呆けた顔をして地べたに座り尽くしているのを笑い物にするかのように、電灯が長次をまざまざと照らし続ける。吸血されたばかりで上手く動かない頭に喝を入れ、なんとかかんとか理屈を考えてみるが、それしか思い浮かばない。
もはや信じるしかない吸血鬼という非存在の存在。それなら、人間の常識は吸血鬼の非常識というのなら、「あの場所」からいきなり追い出された上に入ることができなくなったことも頷ける。
『此処は私の縄張り』
つまり、この言葉が全てなんだろう。あの吸血鬼は自分をあの路地裏に迎え入れたが、それは飽くまで食事のため。その中に留めておく理由が無くなった途端、追い出して立ち入りを禁じた。あそこはあの吸血鬼の縄張りだから。
その淡泊さは、その無関心さは変なことだと、あの吸血鬼に後ろ指を差す方がおかしいのだろう。それは己の上位存在に気づかないまま食物連鎖の仮初の頂点に立っていただけの人間の、とどまるところを知らぬ傲慢であろう。吸血鬼の愛玩動物に成り下がったつもりはない。けれども、一人間としての矜持がどうこうという話でもない。そんなものは元から大して持ち合わせていない。
己らが振りかざす矛盾を、齢十の長次はなんとなく理解していた。「家畜」という評は、あの吸血鬼にとっての人間の価値そのものに相違ない。そしてそれは人間とて同じだ。自分が同じ仕打ちを受けて初めて自分事として感じられるのであって、自分たちは他の生き物に対して総じて無関心である。それらの命を食らいて己が血肉とすべき食料が家畜である。
命喰らう強者が、食い物として屠殺される命に愛情を注ぐこともないだろうに。
『寝ない子、悪い子、どこの子だ?』
『こんな時間に童が出歩くもんじゃあないぞ』
────ありえない。こんなことはちゃんちゃらおかしい。阿呆なんじゃないか。馬鹿みたいな話だ、来年のことでなくたってあまりの愚かさに鬼が笑う話だ。親でもご近所でも友達でも先生でもない、他人ですらない。その存在自体が嘘のようなものなのに、その言葉の何が信じるに値するというだろう。初めにかけられた言葉が「私を案じてくれたもの」だったからというだけで、何もかもが物騒なあの男の何を信じろと。
何を隠そう、あの男は吸血鬼なので。例外なくというか御多分に漏れずというか、吸血「鬼」と言うからには鬼であるので。
だからあの男もきっと、私のことをあの笑顔で嗤うに違いないのだ。
「……」
それでもと思う私はいつ、どこで狂ってしまっていたのだろうか。