2番までは知らない 面倒くさいことになったなと思った。嘘や隠し事がうまい方ではないから、きっとこう思っていることが顔に出てしまっているかもしれない。とは言え本音も建前もクソもなく、最高に厄介だと思っているから、そう思っていることが相手に伝わろうが構わないとも思った。
元凶こと夏油傑は、そんな虎杖の様子を実に楽しげな様子で伺っている。虎杖の反応もこの状況も何もかもが想定内とでも言わんばかりだ。ぷかりと煙草を吹かして脚を組み替え、なんとも優雅な所作でもって夏油は「君の担当になったんだ」そう言った。嘘であってくれと願わずにはいられない。
虎杖は呪術師だ。両面宿儺という特級呪物を抱えた特大の爆弾でもある。もちろんこうなるまでには紆余曲折があり、数多の大変なことと上層部の腐ったミカン共との闘いもそれなりにあった。障壁全てをどうにかこうにか乗り越えられたのは偏に五条や呪術高専のみんなのお陰である。宿儺の指を半数以上取り込んで尚、地下の怪しげな部屋に幽閉されることなく術師としてやっていけるのも、そういう色々を乗り越えた故だった。
成人して数年が経っている。規定上は独り立ちを終えているのだけど、暗黙の了解としてひとり任務には出向いていない。口煩い上層部がそれだけはと譲らなかったからである。受肉体をひとりでのさばらせるなんて、そんな恐ろしいことは許諾できないと。
弱っちいくせに口だけは達者で困るよねと五条は苦言を呈したけれど、虎杖は別に気にしていなかった。誰かと一緒ならという条件付きで任務が許されている。幽閉されて宿儺の指を食わされるだけの、そんな毎日よりはずっとマシだと思ったからだ。制約は多い上に不便なことも理不尽も未だに尽きないが、虎杖の中では大した問題ではなかったのだ。
見知った高専時代の同期や先輩たちと任務に出ることが多い。虎杖をただの受肉体として恐れるような、そんな術師と組むことは滅多としてなかった。何せ五条が幅を利かせ、融通を通し、出来るだけのことをやってくれている。五条にも同期にも先輩にも頭が上がらない。
そんなこんなで虎杖はどうにか呪術界でやってきたのだ。それで、そんな折、夏油が到来した。何ともわざとらしいかな、ここ数週間はちっとも見かけなかった顔のくせに、偶然を装って高専の教室にいるのだから見間違いかと思ったほどだ。ちょうど今日の任務が終わって、報告に行った伏黒を待っていた時である。呼んでもいない先客がそこにいて、さも当然のように切り出したのが、件の問題発言である。
夏油は特級呪術師として跋除をこなし、教師としても高専を出入りしている。裏では袈裟なんか羽織って胡散臭い教祖を名乗り、説法を聞きに訪れた非術師を呪霊から解放してあげているのだとか。
未だにそんなことを続けているのかは知らない。何せ夏油と顔を会わせるのは本当に久しぶりだったのだ。夏油とはセフレで、一時お付き合いなんかもして、結局別れたから、それ以降は必要最低限の連絡しか取っていなかった。世に言う元彼ってやつだ。高専の術師同士、そんな色恋沙汰まで広まっているかは知らないが、少なくとも夏油周辺と虎杖の同期たちには知られていただろう。
別れたのはお互い忙しくなって時間が取れなくなったからで、どっちかがどっちかを貶めただとか、よくある浮気だとか喧嘩だとか、そういう理由らしい理由があったわけではない。自然消滅に近かった。とは言え最後はきちんと二人で話したし、じゃあ元気でね、死ぬなよ、そっちもね、くらいの軽いやり取りはあったのだ。
任務で夏油と会うことは滅多にない。何せあっちは数少ない特級呪術師で多忙を極める。虎杖とて暇ではなかったけれど、任せられる呪霊の等級が被るようなことは、別れる前も別れてからもなかった。
そういうすれ違いが増えたからこそお互いを解放しようとなったのに、一体どうしてこうなったんだろう。
やあ、久しぶりだね、の後に続く言葉が未だに消化できずにいる。顔を合わせば挨拶を交わすくらいはするし、一時とは言え交際していた相手だ。相変わらず忙しいんだ、でも元気そうじゃん、なんて返そうとしていた矢先に爆弾をぶち込まれたものだから、思わず面食らってしまって二の句が継げずにいる。
「夏油さん、ここで何してんの」
「任務の報告だよ。先に伏黒くんが入って行ったから、終わるのを待ってるんだ」
「それで、なんだっけ、俺の担当ってなに」
「君と一緒に任務に行くことになったんだ」
「どういう意味?」
「そのままだよ、伏黒くんと私が交代になるってこと」
「いや、なんで?」
「やっぱり仲のいい者と組ませるのは不安があるってね、上層部が煩かったんだ。悟は君の肩を持つし、いざって時に乙骨じゃ殺せないだろう」
「それこそ今更じゃん。大体それなら別に夏油さんじゃなくてよくね? 冥さんでも」
「それで私に白羽の矢が立ったってわけ」
「聞いてる?」
「共謀されたら困るだろう。そうでなくても伏黒くんは君の事、随分特別に思っているみたいだし、強い思想は時に友情以上の何かを芽生えさせてしまう懸念がある。未来ある若者が道を踏み外す前に対処した方がいいと思って、そう進言しただけだよ」
白々しくも至極当然のことのように夏油は言った。世間一般的に見ればそれらしい理屈をこねているし、言わんとすることはわかるのだけど、如何せん、その言葉を紡ぐのが夏油傑という時点でまずもって胡散臭い。
上層部が虎杖と夏油の過去を知っていたかはさておき、近しい者と組ませたくないのであれば夏油とてその〝近しい者〟の枠組みに該当するだろう。特別仲がいい印象がないにせよ、五条や冥冥と繋がりがある時点でお察しである。そういう意味に限って言えば、夏油との関係の方がよっぽど懸念すべきであろう。
手前の椅子を引いて座った。馬鹿正直に正面からやりあったとて夏油に口で勝てる自信はない。とは言えこのまま好き放題言わせておくのも嫌だった。伏黒が戻ってくるまでくらいならと時計を見上げ、それから渋々夏油に向き直る。
「確認だけど、俺らって別れたよね」
「方向性の違いでね」
「いや、お互い忙しくなったからっしょ。夏油さんも別にそれに関しては何も言わなかったし、それなら仕方ないねって納得してなかった?」
「別によりを戻したいってわけじゃないよ。今だって私と君はただの同業者だ、元セフレで元恋人だっただけで」
「じゃあなんでわざわざ夏油さんが俺の担当になんの?」
「適任者だったってだけだろう。それとも何かな、私と二人だと何か問題があるの」
「普通に気まずい」
「君の素直なところは美徳だけど、もうちょっと言葉を選びなよ」
何を言われたところで気まずさは消せないのだ。何せ夏油とは肉体関係まであったのだから、別れて半年以上経つとは言え、そうなる以前の関係には戻れない。どう頑張ったって意識せざるを得ないのだ。
しかも虎杖はもう随分前から伏黒とルームシェアしている。監視の名目は元より、お互いその方が生活面でも助け合えることが多かったからだ。任務の同行者が夏油に代わるだけなら問題はなかろうが、この男が伏黒との同居を容認してくれるはずがない。
持っていたミネラルウォーターを呷った。春先の涼やかな風が校庭の桜を巻き上げて教室に吹き込んでくる。
「俺、あそこを出る気はねえよ」
「別に構わないよ。任務の時は私が迎えに行くし」
「じゃあマジで任務だけ?」
「最初からそう言ってるだろう。同行者が私固定になるってだけだよ、疑り深いな」
ギシリと古びた椅子を軋ませて夏油が立ち上がった。頭からつま先まで真っ黒いせいか、或いは身長やら呪力やらそういう色々のせいか、途端に目の前の男が恐ろしい存在のように見える。
伸びてくる手のひらが頬を過ぎて首筋に触れた。後頭部を辿って刈り上げを指先でザラリと撫でる。上半身を追って屈んだ長躯の影が落ちてきて重なった。覗き込んでくる漆黒の瞳が瞬きもせずにこちらを見据えている。体が強張った。緊張で喉が渇く。無意識のうちに息を詰めてしまって、バクバクと心臓が煩い。
「もう伏黒くんに触らせたの?」
「……は、?」
「別に構わないよ、私は気にしないから」
言い返そうとして着信音が遮った。聞きなれた音、サウダージ。初期設定の無機質なそれだった着信音を、セフレになった最初の頃に酔っ払った勢いで虎杖が変えたものだった。私は私とはぐれる訳にはいかないから。いつかまた逢いましょう、なんて皮肉に聞こえる。
桜の花弁と一緒に夏油の長い黒髪が風に舞った。手を引いた夏油がハーフアップの毛先を靡かせて虎杖から離れた。スマホを耳に押し当てて通話相手に一言、二言返す。
夏油さん。教室を出て行く背中を呼び止めた。スマホを耳から遠ざけながら「なに」夏油が足を止めて振り返る。
「何でそれ、変えてねえの」
「気に入ってるから」
「嘘つけよ、煩いからあんまり好きじゃねえって、言ってたじゃん」
「それに、君が私にしてくれたことだからね」
「理由になってねえよ」
「歌詞にもあるだろう、嘘をつくぐらいなら何も話してくれなくていいって」
「それがなに」
「いいや、別に。言葉のままだよ、気に入ってるんだ。だから変えてない」
また連絡するよと夏油は言って、ひらりと片手を振りながら出て行く。虎杖が未だに夏油の番号を消していないと知っているようだった。未練があるからでも連絡を待っていたわけでもない。同業者だから着信拒否なんかしたら他の関係者に迷惑がかかると思ったからだ。
夏油の気配が遠ざかっていく。体の力を抜いて椅子に座った。天上を仰いで目を閉じる。戻って来た伏黒が「厄介なことになった」そう声を掛けてくるまではまだ、現実逃避していようと思った。