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    はるち

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    はるち

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    ハッピーバレンタイン

    #鯉博
    leiBo

    petits fours どうもこの大地は既に二月十四日バレンタインを迎えているらしい。
     そのことにドクターが気づいたのは、カーテンを開けた時だった。差し込む朝日は徹夜明けで充血した目を容赦なく焼き、まだ休んじゃだめですよという誰かの声が日差しに混ざって眠気を部屋の片隅へと追いやる。立て込む業務に押し流されて一睡もしていない今、体感としては十三日の三十三時なのだが、しかし暦というものは往々にして人間の意志とは関係なしに進行するものだ。守るように厳命される一方で、締切が人間を待ってはくれないように。
     十四日ということは、と疲労で朦朧とした頭に一つのイメージが浮かぶ。それはここ一ヶ月に渡ってクロージャが切り盛りする購買部を始めとしてロドス内の商店街、のみならず訪れる移動都市を甘い香りで包み込んでいた祝祭だ。しかしその華やかな気配とは裏腹に、ドクターは胃の腑から急に身体が冷えていくのを自覚した。この祭りを祝う準備を、自分は何一つとしてしていない。その原因は主として危機契約にあり――、嗚呼、先日サルヴィエントの洞窟で恐魚達の相手を任せたりカジミエーシュの大通りで無冑盟の矢面に立たせたりしていたとき、彼は何と言っていた? 帰ったら奢ってもらうと言っていたのではなかったか? あのときはいつものことだと聞き流していたが、しかし今にして思えばそれは別の意味を含んでいたのではなかったか。例えばそう、バレンタインのチョコレートと言った。
     防衛線を突破された時、あるいはそれ以上の勢いで血の気が引くのを感じたドクターは、執務室の壁を見た。そこには秘書の当番表も掲示してある。今日の欄にはアズリウス、と記載してある。ならば、彼女に一旦事務作業を任せている間に購買部へ行って――
    「どーも、おはようございます」
     就業時間丁度にドアが開き、しかし入ってきたのはアズリウスの青と桃色の可憐な姿ではなかった。天井を帽子が擦るのではないかと錯覚する長身は、けれども猫背のせいでそれほど威圧感を持っては見えない。黒と烟ったような金色は、朝日に眩んだ目にも鮮やかだった。
    「なんでリーがいるんだよ?!」
     思わず声が裏返る。おはようでもよろしくでもなく、糾弾にも似た動揺を聞いて、リーは拗ねたように唇を尖らせた。だらしのない中年の風貌、老獪さの滲む立ち振る舞いとは対照的に、この男が時折覗かせる少年めいた表情は狡い、という認識をドクターは新たにした。
    「なんです、おれじゃあ不満なんですかい?」
    「い、いや、そういう訳じゃないけど」
     充血した目、そしてその下に色濃く刻まれた隈を見て、リーはこれ見よがしにため息をついた。
    「そんなことだろうと思ってましたよ。危機契約の作戦報告が終わってないんでしょう? ほら、まずは顔でも洗って。眠気覚ましは珈琲と茶のどっちにしますか」
    「君が淹れてくれるなら濃いお茶の方が……、いや、そういうことじゃなくて……」
     今日はその、とドクターは俯く。バレンタインなのに、とか、何も用意できてなくて、といういくつもの言い訳が喉の奥で絡まって混線する。ややあって、呆れたようなため息が聞こえた。ドクター、と名前を呼ばれ、彼を見上げる。きっと今の自分は酷い顔をしているだろう。戦場では優秀な指揮官だと言われたところで、それ以外の場所ではこんなものだ。けれども、彼の瞳に浮かぶものは、想像よりもずっと暖かかな色をしていた。
     言うべき台詞を見失った唇を、彼のそれが啄む。お気に入りのメレンゲ菓子を楽しむようにもったりと唇を食まれる感覚に、頭の芯から溶けていくようだった。そういえば顔も洗っていないことを辛うじて残った理性がささやき、反射的に身を引こうとしたけれど、いつのまにか後頭部へと回された彼の手がそれを許さない。唇だけでは満足できなくなったのか、口の中へと滑り込んだ舌は温かく湿っており、煙草の苦みが触れ合う舌先から伝わる。砂糖菓子の優しさには程遠く、どちらかと言えば目覚めの珈琲に似た味わいのそれは、けれども洋酒の効いたチョコレートのような酩酊感をもたらした。
     離れていくその体温を惜しむのは、きっと自分だけではない。気がつけば自分の手は、彼の服をつかんで皺を作っていたが、彼はそれを咎めなかった。交わる吐息と視線の織りなす沈黙を。低く掠れた彼の声が壊す。
    「……シャワーでも浴びてきたらどうです」
    「――え、い、今から?!」
     額を彼が指で弾く。痛みはないが衝撃はあった。自分を見下ろす鬱金色には、今度こそ呆れが浮かんでいる。
    「いつまでも寝起きのままでどうするんです。今日も仕事が山ほどあるんでしょう? ほら、顔でも洗ってきてくださいよ」
     それとも、とリーは月光めいて白い髪の一房を掬い上げ、そこに唇を落とした。その様に、先程まで自分たちが何をしていたかを投影し、にわかに頬が熱くなる。
    「期待、しました?」
    「……すぐに戻るからお茶を淹れておいてくれ」
     離れる身体を、リーはもう止めなかった。どうぞごゆっくり、という揶揄いに見送られながら、ドクターは執務室を出ていく。扉に手をかけたとき、一度だけ振り向く。交錯する視線は、けれども確かに、期待と熱情を灯していた。
    「おれたちは大人ですからね。楽しみデザートは夜に取っておきましょう。……ねえ、ドクター?」
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