素敵な墓場で暮らしましょ墓はただの石だ。死体は肉塊だ。魂はお伽噺だ。
けれど、心は。まだここにある。あるはずだ。
――引用:回樹 斜線堂有紀
「――嗚呼。
「ようやく、目が覚めたのか。
「自分の名前はわかるか?私のことは?
「――そう、か。……いや、いい。いいんだ。
「手足は動くか?目は?……なら、それで十分だ。
「君はリーだ。君の名前はリー。……そう、わかるね。
「私かい?
「……そうだね。私のことは――
「――博士。いい加減起きてくださいよ」
窓を開けると、朝の大気が花の香りと冬の名残を一緒くたにして部屋の中へと運び込む。羽獣たちは空高くで待っていると言うのに、この部屋の主人ときたら一枚きりの毛布をより深く被り直し、夜の気配を掴んで離さないとでも言うかのように身を丸めていた。リーは深くため息をつき、もうすっかり朝の行事に組み込まれてしまった行動、すなわち博士から毛布を引き剥がすという行為に移った。ぎゃっという悲鳴をあげて、博士は闇の中でのみ生存を許される生き物のように今度は両手でその目を覆った。諦めずに、リーはその体を揺さぶる。
「博士。もう朝ですよ、朝。今日は客人が来るって言ってたじゃないですか。もう起きて身支度してくださいよ」
ぐう、と押し潰された猫のような声を上げた博士は、ようやく起きる決心をしたらしい。のっそりと寝台から起き上がり、呆れ顔のリーに手を引かれるまま寝室を出る。
「顔洗ってきてください。食事の支度をしてきますから」
「……んー」
未だ夢現の境を彷徨っているような足取りを苦笑と共に見送り、リーは居間へと戻った。茶は多少ぬるいくらいが博士の口には合うだろうが、粥は温め直したほうがいいかもしれない。遠くから聞こえてくる水音が止み、近づいてくる足音が居間にやってくるまでには、朝餉の用意は整っていた。食卓の上には一人分の茶器と食器がある。
「今日のご予定は?」
「君の方が詳しいだろう」
「ケルシー先生が来るのは十五時ですよ」
「またか……」
博士はうんざりした表情で、茶に口をつけた。それを飲んでいる間だけは頬に浮かぶ憂鬱が形を潜めるので、リーは少しだけ誇らしい気持ちになる。博士が食事をしている間、リーは後ろに回って博士の髪を整えていた。精油を手につけて髪に馴染ませ、櫛削る。出会った頃――自分が目を覚ましたばかりの頃は枝毛ばかりでパサついていたこの髪は、今では水面の上を流れる月光のように艶と輝きを宿している。そしてそれは少なからず自分の功績だった。博士もきっと満足していることだろう。
「しないんですかい、宮仕」
「君までそんなことを言うのか」
「ちょ……!動かないでくださいよ!」
反射的に博士が振り返ろうとするので、思わず大きな声が出る。ごめん、といささかしゅんとした声が返ってくる。こう言う時に、顔を直接見られないことは酷くもどかしい。とはいえリーの両眼は博士によってあつらわれた布で絶えず覆われており、久しく何も見てはいないのだが。それでもリーがその両眼が機能しているかのように、常人と何ら変わらない行動が取れるのは、ひとえに彼をと僵尸して再生した博士の導術が常軌を逸しているからだ。だからこそ、こんな山奥で暮らしていても、士官の誘いはことあるごとにやってくる。
「絶対に、嫌だ」
「そうですかい」
リーも本気で宮仕を勧めているわけではなかった。博士を起こすための朝の行動と同じ、ただの習慣だ。博士の気が変わっていないことを確認するための。彼とて、博士とのこの生活を気に入っているのだから。
「ご馳走様」
博士が朝食を終えるのと、リーが博士の髪を結い終えるのはほぼ同時だった。食器を下げながら、リーは思案する。博士を下界に誘う客人に速やかにお帰りいただくためには、どんな茶と茶菓子を用意すればいいだろうか。
***
博士が自分のことを目覚めさせたのは、身の回りの世話をさせるのにちょうど良かったからだそうだ。加えて戦闘能力もあり、護衛も出来る。隠居生活の共には丁度いい。
その時のリーは何も覚えておらず、ただはあ、とだけ相槌を打っていた。自分の名前すら覚えていないのだ。けれども博士は根気強く、動かない死体から動く死体へと変貌したリーに現在の身体と状況について説明し、関節や身体感覚に異常がないことを丁寧に確かめ、そして最後に、もう何の光も宿していない瞳を見つめていた。
そしてリーは言われるがままに博士についていき、山奥の小さな家での生活を始めることとなった。博士は道術以外にも医術など、多くの物事に精通しているらしく、時折訪れる客たちの相談に乗っては対価として食料や金子を得て、慎ましやかな生活を送っていた。大概の客は博士の傍に控える、大柄で両目を覆い隠したリーに懸念とも不安ともつかない視線を向けるが、しかし特に何も言わなかった。触れることを恐れていたのかもしれない。
リーが客人のために用意する茶も茶菓子も、たいていは放置される。全ての相談事が終わり、対価を置いてそそくさと客人が去った後で、ようやく博士は目の前の冷め切った茶に手をつけた。
「君がもうこれを飲めないのが惜しいよ」
リーは死体だ。眠りも、食事も、呼吸も、鼓動も、もう必要とはしない。
「君の料理の腕は、この炎国一何だけどね」
たった一人で食事をしている時のこの人は、化物の飼い主を見る目で見られている時よりも余程、寂しそうに見えた。
***
そんなリーの手料理に口をつける人間が、博士以外にも一人だけいる。それがケルシーだ。ケルシーは王朝に仕える人間で、かつては博士の同僚だったのだという。定期的にやってきては博士を宮仕に誘うが、それはどちらか問えば単なる口実に過ぎず、本当は旧友の安否確認のために訪れているのだろう。
「じゃあ、夕方にはまた戻ってきてくれ」
ケルシーが訪れる時は、入れ替わりにリーは家を出る。君にも休憩が必要だろう――と博士は嘯くが、本当は引き合わせたくない理由があるのだろう。博士が身辺警護を含めた身の回りの世話のために自分を作ったと言うのならば、片時も離さずに置いておかなければ嘘だ。そう言って食い下がったこともあるが、ケルシーがいるなら私に害をなすものは近づけないからと答えになっていない返答があっただけだった。
とはいえ博士の命令に逆らうこともできないので、リーは家を出て街に降りる。こんな格好をしていて驚かれないのかとも思ったが、そういうとドクターは翡翠の首飾りを手渡した。なんでも目眩しの効果があり、人の記憶に残りにくくなるのだという。まさかそんな、とは思ったが、この龍を模した首飾りをつけていると本当に人の目が自分に向かないのだ。だからこそこうして、食料などの生活物資を買い揃えている間も、奇異の視線を向けられることがない。
今日は何を作ろうか、とリーは市場に並ぶ食材を見渡す。ケルシーと話した後の博士はいつも消耗しているから、精のつくものがいいだろう。ただ肉や脂などあまり胃に重いものは食べられないから気をつけなくては。君の作ったものを誰も――ケルシー以外は――食べようとしないから残念だよ、とドクターは言うけれど。リーはそれで構わない、と思っていた。
目を覚ました時から、彼の全ては博士のためにあるのだから。
***
「――本当に、戻ってくる気はないのか」
ない、と。何百回繰り返したかわからない言葉を、ケルシーは春風のように受け流しただけだった。リーが用意してくれた茶も月餅もとっくに尽きている。じりじりと干からびるような沈黙があるばかりだ。
「もう十分働いたろう。いい加減楽にしてくれ。私はここで悠々自適の生活を楽しんでいるんだよ」
「あの博士をこんな辺鄙な場所にいつまでも住まわせていては、恩義に報いることができないと王はお考えだ」
「放っておいてくれ。ここが気に入っているんだよ」
「彼も連れて戻ればいい。役職も住居も確保できる」
「今更どこに戻るって言うんだよ。あの街には――」
想い出が多すぎる。
彼が、ああなる前の想い出が。
「……」
喉に張り付く憂いを飲み下そうにも、もう茶は飲み干した後だった。
リーは、自分とケルシーがかつての僚友だったと思っているようだが、正確には少し違う。僚友だったのは、生前の彼を含めた三人だ。
そして、宮廷で起こった動乱に巻き込まれて、彼だけが死んだ。
自分を庇って。
「……今日はもう、帰ってくれないか」
「……、彼に、美味しかったと伝えてくれ」
ケルシーが立ち上がり、扉を開けて出ていく。博士はそれを見送ろうともしなかった。去る前に一度だけ、ケルシーは振り向いた。
「戻る気がないのなら、せめて今までの宮仕に対する報酬だけでも受け取ってくれ」
「……いいよ。もう受け取った」
あの日。彼の遺体を埋葬することを、博士は拒んだ。そして彼を僵尸として蘇らせた。そうして今も、自分の手元に置いている。
それを咎めずにいてくれるだけで、もう十分だ。
だからこれ以上、関わらないでほしい。
「――いつまで、こうしているつもりだ?」
それきり、ケルシーは振り返ることもせずに出て行った。博士はただ目を閉じる。じきに聞き慣れた足音がして、リーが戻ってくるだろう。どこで容姿を見ているのかわからないが、ケルシーが去るのとほぼ入れ替わりでリーは自分の元へと戻ってくる。僵尸は、自らを蘇らせた道士には従順だから。
聞き慣れた足音がする。扉が開き、甘い落ち葉の香りを引き連れて、リーが戻って来る。
「おかえり」
「ただいま戻りましたよ、っと。さて博士、今日は何を食べましょうか」
「そうだねえ……」
胸の辺りまで垂れるリーの三つ編みを撫でながら、博士はしばし沈黙した。僵尸を作った道士には、いくつかの縛りがある。その一つが名前だ。道士は、その死体の名を呼んではならない。僵尸が、自分が既に死んでいることを、真の意味で思い出してしまうから。
「少し、屈んで」
椅子に座ったままの博士に合わせて、リーが片膝をつく。そのまま頭を掻き抱くと、四方を守るように符の垂れ下がった帽子が落ちた。ちょっと、と声が上がるが努めて無視して、博士は腕の中にある存在に意識を集中させる。
呼吸もない、鼓動もない、体温もない。
けれど、彼は、まだここにいる。
「いつまでこうしているんですか」
一向に彼を手放そうとしない博士に、リーは狼狽えた声を上げる。彼がここまで動揺するのは珍しいな、と思いながら、博士は頬を寄せて雲母に似た彼の肌の滑らかさと冷ややかさを楽しんでいた。
彼は恨むだろうか――自分のことを?死を、眠りを、名前すらも奪って。みっともなく縋り付いて、彼を現世に縛り付けている自分のことを。
いつまでそうしているのか、と声がする。それはケルシーの声でもあり、最後にひとかけらだけ残された自分の理性の声でもある。
許されるならば、それは。死が二人を分つまで。
あるいは。
「もう少しだけ、このままで」
死が二人を分つとも、どうか。