白の幻影低体温症とは、深部体温が三十五度未満となる疾患である。寒冷な環境に長時間暴露された時や冷水に浸かっている時など、身体の熱放散が熱産生を上回る場合に生じる。症状としてシバリング及び嗜眠からの錯乱があり、昏睡状態となることも有り得、場合によっては死に至る。しかし、稀に低体温が安定して持続する症例が散見され、これらは「体質性低体温症」として区別される。
体質性低体温症は数例の症例報告があるのみで、その病態については未だ解明されていない。視床下部に存在する体温調整中枢の異常や冬眠物質の産生など、様々な仮説が提唱されている。また、先天性色素欠乏症を合併する例も見られ、病態機序として両者の関連が疑われる。
今回、私は炎国の錫嶺にて体質性低体温症の1例を経験した。ここは「雪女」に関する伝承が多く残っており、また以前にも体質性低体温症の症例報告があった地域である。
本稿では体質性低体温症について、炎国に伝わる伝承の文献的考察、及び先行研究を踏まえて報告する。
***
触れた肌は冬の朝のように冷たく、血の通った人間の温度とは思えなかった。
「あ、ごめん」
熱された薬缶に触れでもしたかのように、ドクターは手を引っ込めた。驚愕と疑問の浮かぶ自分の表情を見て、困ったように微笑む。
「冷たいだろう」
ドクターは普段、ロドスのロゴが入った黒の上着に白衣、フェイスシールドと、肌を外気に晒すことを極端に嫌う格好をしている。体質の問題なんだよ、と以前説明していた。どうにもテラの空気が合わなくてね、と。だとすればそれは難儀なことだと苦笑したことを覚えている。
だから素肌を直に見たのはその時が初めてだった。執務室でコーヒーをひっくり返し、嘆息しながらその人は黒い液体が染み込んだ手袋を外した。火傷していませんか――と伸ばした指先がその肌の触れたのは、本当にただの偶然だったのだ。
「……風邪でも引いてるんですか?」
「違うよ、体質の問題。ほら、前に服装について聞かれたときに答えただろう」
触ってみるかい、とその人は自分の前に手を伸ばした。握手でも求めるような格好だ。両手で、差し出された手を包み込む。普段からろくに日光を浴びていないせいだろう。肌は雪花石膏よりもなお白く、透き通っており――、鉱石と同じ冷たさを宿している。石像の腕を掴んでいるような心地さえした。それが生きた人間のものだとは、やはり、どうしても思えない。
「私の平熱は三十度くらいしかなくてね」
「それ、おれに言っちゃって良いんですか」
この人の体が丈夫ではないことは、ロドスで働いている人間の共通認識だ。ペッローの少女でも持てるような重さの盾を動かすことすら出来ず、いつも防御服のような格好をしていなければ外に出ることもままならない。戦場を駆けようものならすぐに息を切らせ、オペレーターに抱えられることもしばしばだ。
ドクターも体を鍛えないと、と冗談混じりに声をかけられている姿をよく見かける。その度に、この人はデスクワークが終わらないんだよ、と答えていたが。違和感がなかったといえば嘘になる。
虚弱体質か、あるいは種族的な問題か。いずれにせよロドスの戦術指揮官の体質など、場合によっては致命傷になり得る情報だ。不用意に踏むこむべき問題ではない――と。そう思っていたのだが。
構わないさ、と肩をすくめる。それだけこの人は自分のことを信頼しているということで、責任や重圧を感じるよりも、面映ゆさが先に立つ。それだけ自分は、この人に絆されている。
「……君の肌は」
包み込まれた手のひらの中から飛び出した親指が、おれの肌をなぞる。鱗の肌だ。毛皮を持つ子どもたちとは違うそれに、その人が触れる。空から降る雪が、頬を撫でるような優しさで。
「あたたかいね」
***
この地にはいくつかの雪女伝承が残っている。以下、代表的なものの概略を示す。
冬の夜、吹雪で道を見失った子どもが、一人の女と出会う。女は村までの道案内をし、子どもは感謝して家に招こうとするが女はそれに応じず、代わりに自分と出会ったことは誰にも言ってはならないと言い残して去っていく。
数年が立ち、大人となった彼は吹雪で行き倒れている、雪のように白い髪と冷たい肌の女を見つける。女は記憶を失っており、また酷く身体が冷たかった。
二人は恋に落ち、やがて子どもが生まれた。しかし不思議なことに、何年立っても女は老いる様子がなく、初めて出会った時と変わらず、若く美しいままであった。
ある夜、男はかつての出来事を語る。「こうしてお前を見ていると、子どもの頃に出会った人を思い出す。あれは夢だったのか、それとも現実だったのか」
男がそう言うと、女は叫んだ。「思い出した。思い出してしまった。あれは私だ。誰にも言ってはならぬと約束したのに」
そう言い終えると突風が吹き、家の扉が開いた。女の体は雪へと変わり、吹き込む風と雪に混ざって消えていく。
それきり、女の姿を見たものはいなかった。
***
「夏は嫌いなんだ」
冷房を最大限効かせたホテルの一室から、ドクターは窓ガラスの外から常夏の陽気を投げかける日光にうんざりした視線を送っていた。
ドッソレスでの任務は、つまるところそれにかこつけたバカンスだった。大半のオペレーターは沸き立っていたが、引率のドクターの顔色は現地に着く前から芳しくなく、来て早々に宛がわれた部屋へと引きこもってしまった。せっかくだったら一緒に街を見て回りたい、海に行きたいというオペレーターもいたが、疲れているんだろうから休ませてやろうと彼らを宥め、ドクターが退屈していないか様子を見に行ってこいと言う有り難い任務をサルカズの嬢ちゃんから有難く拝命し、現在に至る。
「でしょうね」
暑さに弱いのは自分も同じだが、この人はそれの比ではないだろう。いつぞやに触れた、あの肌の冷たさを思い出す。あの防護服は、体温調節のためでもあるのだ。身体が過剰に温まり過ぎないように、という。だからこそ、ドクターは外で他のオペレーター達と同じように身軽な格好で、この常夏の楽園を謳歌することは出来ない。
「君は行かなくていいの?」
「おれが海ではしゃぐような柄に見えますか?」
違いない、とドクターは声を上げて笑い、顔色が戻ったことに安堵する。
「おれは海水浴を楽しむより、こうして外の景色を眺めながら一杯やる方が好きですよ。ドクターもどうです?」
「昼間から飲酒とは貴族だなあ」
「それがバカンスってもんでしょう」
ドクターがこうなることを、ケルシーも理解し、配慮していたのだろう。宛がわれた部屋は平のオペレーターよりも上等で、ミニバーの用意もある。大人は大人らしく、バカンスを楽しむことにしよう。
「でも残念だな。水着も用意したんだよ」
「正気ですか?」
「ロベルタに言ってくれないかな。せっかく皆でドッソレスに行くなら必要だろうって用意してくれたんだから」
「おれは聞いてませんけど」
「こういうのはサプライズが大切だからね。……それに、」
着ていけないのはわかっていたし、という言葉は、窓の向こうから聞こえる波の音よりも弱い。
「……」
ドクターが寝そべっているベッドを離れ、バスルームを確認する。流石高級ホテルの一室、ロドスのシャワールームよりも広い。二人で入るには十分だった。
ドクター、と出した声が浴室に反響する。
「一緒に水浴びでもしませんか?」
「本気で言ってる?」
「勿体ないでしょう、せっかく水着を持ってきたのに」
「……シャワーは低い温度じゃないと浴びられないよ」
それは知っている。浴室を出てドクターの元に戻ると、上体を起こしたその人がこちらを見つめる。色素の薄い瞳の中で揺れているのは期待と怯えた。この二つはいつでもコインの裏表であり、だとすれば、自分はいつでもこの人に良い面だけを見せていたい。
「一緒に夏を楽しみましょうよ、ドクター」
***
この物語にはいくつかの類型が存在する。男がまだ幼い頃に道案内をするのではなく、男の親を殺すパターン、女の体の冷たさを心配して風呂に入れると溶けて消えてしまうパターンなどだ。
しかしいくつかの共通項が存在する。
すなわち、再会した時に女は記憶を喪失していること、女が老いないこと、女が白い肌に白い髪という雪を連想させる外見と体温を有していることである。
常人よりも低い体温は本疾患の特徴であり、また色素欠乏も本疾患との関連が疑われる。この物語に登場する「雪女」とは、まだこの疾患概念が確立されていない時代の患者であった可能性がある。
今回私が経験した症例も、記憶喪失及び色素欠乏症を併っていた。
よって、私は以下の仮説を提唱する。
体質性低体温症の患者にとって、記憶喪失も体質の一部ではないだろうか。
***
――いやだ、と。自分を掴む腕に、まだこんな強さが残っていたのかと驚く。
「ドクター」
「いや、だ……。いや、やめてくれ、リー」
夏の暑さは今でも好きになれないが、水遊びは楽しい。けれども海は嫌いだ。
深海から湧き出したシーボーン達がこの大地を覆い尽くすまでに、それほどの時間はかからなかった。リターニアの黄金律術衛兵、カジミエーシュの大騎士団でさえ一日と持たず、皇帝の利刃達が命と引き換えに作り出した国土を以てようやく、あの海からの侵略者を足止めすることが出来た。しかし制限時間は有限でしかなく、人類に許されているのは、敗走に次ぐ敗走だけだった。
「ねむりたく、ない……、やめ、て」
あのイベリアから奇跡的にドクターが帰還したことだけが、せめてもの救いだった。ドクターの指揮の下、人々は懸命な戦いを続けた。国土を取り戻し、人類の防衛戦を、少しでも前進させるために。
だから。
飛び出してきたピアッサーが、この人を傷つけたのは――結局のところ、人類を、そしてこの人の予想を遙かに超えて、奴らの進化のスピードが速かったからに他ならない。
医療オペレーターから最低限の治療を受けた後、傷ついたドクターを伴ってなんとかロドスへと帰艦した時に、ケルシーはもう準備を整えていた。着いてきてくれというケルシーの指示に従い、ドクターを抱えたまま、リーはその背を追った。
何重もの扉と暗証番号を超えた先にあったその装置は、かつて記録の中で見た石棺と良く似ていた。
――ドクターの体質については君も知っての通りだ、と主治医であるケルシーは言う。
「ドクターは代謝が極端に悪い。傷を治すためには、それに適した環境を用意しなければならない」
その必要性については以前ドクターにも説明してあり、非常時にはそれを行うことへの同意は得ている、と。
しかし。
「……代謝が悪いって言うなら。負った傷が治るまで、どれくらい時間がかかるんですかい?」
「……」
ケルシーは目を伏せた。それが答えだった。
全く、と嘆息する。
「ドクターが目を覚ますまでは、ケルシー先生が指揮を執ってくれるってことですかね」
「善処しよう」
「おれもちーと、頑張らなきゃなりませんねえ。……この人が目を覚ますまで、居場所を守ってやらないと」
全く責任重大だ、と。リーはドクターを抱えたまま、石棺に似たその箱へと歩み寄る。棺からは無数のコードが伸びている。この人が好んでみていたSF映画、あれに出てくるコールドスリープの装置に似ていた。この人が眠っている間に、治療を行うためだろう。見たらはしゃいでいたかもしれない、とリーはひっそり笑みを零した。箱の中に入ってしまえば、きっと見ることはできない。
装置の中に、壊れやすい薔薇をそうするように、そっとドクターの身体を横たえ――ようとした時に、腕を掴む力があった。
いやだ、と。唇から零れる言葉は、譫言と変わらない。
「わすれたく、ないんだ」
人の心は何で出来ているのだろう。追い詰められたときにこそ人の本心が出るという言説もあるが、それは半分しか正しくない。人の心とは無数の糸で編まれた織物のようなものだ。清廉な青も、汚れた黒も、燃えたぎる赤もあり、そのどれか一つだけを取り出しても全体の紋様を理解することは出来ない。
「ドクター」
自身の傷を癒やすためにはこうするしかなく、それを受け入れていることも本心であり。
それを拒む気持ちもまた本心だ。
「良い子ですから」
髪を梳く。まるで引き裂かれでもするかのように、ドクターは表情を歪めた。
石棺での眠りがこの人から何を奪ったのか、それはこの人自身が一番よく知っている。だからまたその二の舞になることを、この人は酷く恐れている。
「安心してちょーだい」
冗談めかして微笑みかける。――戦場で君の声を聞くと安心するよ、と。インカム越しにその人が言ったことを思い出す。気が抜ける、やる気がなくなると言いながらも、軽口を叩く余裕ができたことに一番安心していたのは、ともするとこの人だったのかもしれない。
「おれが、覚えていますから」
あなたが忘れたくないと思ったことを、全部。
例え、あなた全てを忘れてしまっても。
装置の中に横たえられ、ドクターが目を閉じる。頬を滑り落ちる雫は、地上に積もることもなく溶けていく、十一月の雪に似ていた。
***
体質性低体温症の患者は身体の代謝が全体として低い。老いにくい一方で、怪我や病気が治りにくいといった問題がある。
本疾患患者にとっての適温は我々とは異なり、寒冷地こそ彼らにとって適切な環境である。彼らが病気や怪我からの回復を図る際には、そのような環境で過ごすことが望ましい。彼らはそこで、身体を回復させるために、エネルギーの消費を抑える冬眠状態となるのではないだろうか。睡眠が前日の記憶を薄らげるのと同様に、冬眠という長い睡眠により記憶障害が起こっている可能性が高い。
伝承に見られる「雪女」も、吹雪で行き倒れていたのではなく、外傷または疾病からの回復のために冬眠状態になっており、それを男に発見されたのではないだろうか。冬眠の中でかつての記憶を失ったのではないだろうか。
ならば、途中で女を起こした男は――
扉を叩く音がした。どうぞ、と声をかけると、入ってきたのは人の良い笑顔を浮かべる龍族の男性、自分がフィールドワークのためにこの地を訪れてからずっと面倒をみてくれている人だった。
彼の名はリーという。
「今日も遅くまで熱心ですねえ」
時計を見る。もう日付の変わる時間だった。もうこんなに時間が経っていたのか。手元の仕事に熱中すると他のことが目に入らなくなるの、私の悪い癖であり、研究者の性だった。
どうぞ、と彼がテーブルの上にお盆を置く。上にあるのは急須と湯呑で、彼はこうして時折私の様子を見に来ては茶を淹れてくれる。
「いつも申し訳ない」
「いいえ、袖振り合うも多生の縁っていうでしょう」
彼は炎国人らしく、情の厚い人だった。茶を淹れながら、彼が私の手元に目を留める。
「今、先生が書いているのは……論文ですか?」
「ああ、ここに来てからのことをまとめていてね。……もう、どこに出すものでもないんだが」
大いなる静寂の後。海は平等に、全てを飲み込んだ。今こうして我々が生存を許されているのは、ひとえに彼らにとって人類が道端の蟻と同義だからだ。その取るに足りなさ故に、私達はまだ呼吸を許されている。
だからこうして、私が各地を旅して、かつての痕跡を探しているのも――世界が変わってしまう前の仕事を続けているのも、ただの自己満足でしかない。
「あなたと、あなたの連れ合いのおかげで研究も捗ったよ。ありがとう」
「そりゃどーも。おれも、その……、なんでしたっけ」
「体質性低体温症」
「そう、それだ。その病気について詳しく教えて貰って助かりましたよ」
「私の専門分野だからね。役に立ったなら何よりさ」
私達の間を漂う茶の香りが暖かに室内を満たす。この旅を始めてから、ろくな食事にありつけなかったが、彼の淹れてくれる茶は格別だった。
「ところで。先生が書いているその論文、おれにも見せてくれませんか?」
「ああ、構わないよ。いずれにせよ、あなた達には一度確認を取らなければと思っていたからね」
学会で発表する予定も雑誌に投稿する予定もなく、どちらかといえば個人的な日記に近いものを人に見せることには若干の気恥ずかしさを伴ったが、しかし書かれているのは彼の連れ合いの症例報告である。拒むわけにもいかない。
ありがとうございます、と彼は私が差し出した紙の束を受け取る。並ぶ文字列を追いかける目は真剣そのものだった。自分の書いたものを目の前で読まれるというのは、なかなかどうして気恥ずかしい。
私は照れを隠すため、彼が淹れてくれたお茶に口をつけ、
***
「あの学者先生は?」
「まだ寝てますよ。昨日も遅くまで仕事をしていたみたいですからねえ」
もう少し寝かせてあげましょう、と言えば、すっかり顔なじみとなった人と最後のお別れが出来なかったことに少しばかりの寂しさを覗かせていたその人は、行儀良く頷いた。
やはり波長が合うのか、出会った時から、二人はいささか妬けてしまうくらい意気投合した。彼から低体温症という病気について研究している、という話を聞いたとき、こちらは内心冷や汗が止まらなかったのだが。しかし。それを聞いたこの人が自分の体質について語り出した時には、もう笑うより他なかった。目を覚ましたこの人は、無垢な子どもと変わらず、人を疑うことを知らない。
自分で言うのも何だが、ドクターが目を覚ますまで、自分たちは良くやった。戦争。陥落。覚醒。神。真相。失敗。死。離別。――そして、平和。あのケルシーが何頭もの巨獣に懇願し、契約を交わした末に、ようやく人類最後の都市は完成した。その後、シーボーン達にとって人類が取るに足らないものとなった後で、その都市を出て、旅に出る人間が時折現れるようになった。
ドクターが目を覚ましたのはそのタイミングだった。
「……ここ、は」
長く陽の光を忘れた肌は雪よりも白く、触れる肌は氷のように冷たい。
「きみは、だれ?」
眠る前のこの人が恐れていたように、ドクターは記憶を失っているようだった。――だから、思った。
今なら、この人を攫ってしまえるのではないか、と。
人類が生存を許されているのは、敗北したからだ。停滞した文明だからこそ、彼らは生存を許した。群れに付随する生命体として、奴隷として。
しかし、ドクターが目を覚ましたとなれば、状況は変わる。かつてのドクターを知っている人であれば期待するだろう。熱狂するだろう。この頭脳と手腕を以てして、人類を救ってくれと。例えそれをもうケルシーや、この人自身がそれを望まなくとも。
記憶がなくとも、この人が”ドクター”として十全に機能することはもう証明されている。また戦争に明け暮れ、今度は人類の生息圏を広げるための戦いに身を投じることになるだろう。また、いつ死に至るともわからないような。
けれど。
今なら。この人が負うべき責任から、責務から、解放してやれる。
だってこの人は、もう何も覚えていないのだから。
「行きましょうか」
あの学者先生には大変申し訳ないが、彼の論文は暖炉で燃えて、彼自身を暖めることに一役買っている。この人を連れて都市を脱出した後も追っ手は来ず、今の今までその気配を感じたこともないが、しかし無用な痕跡を残す訳にもいかない。
あの学者先生に別れの挨拶をしてやれなかったのが残念だな、と最後に思う。茶に混ぜた薬品には睡眠と記憶を混濁させる作用があり、ここ数日共に過ごした記憶は朧気になっているはずだ。眠る度に、それはますます曖昧になるだろう。
もしかすると、とリーは思う。この地にまた、雪女の伝承が増えるかもしれない。雪のように白い肌と白い髪の女と、それを守る龍の。
だとすれば。それは決して、悪い気分ではなかった。
扉を開ける。外は雪が降っていた。吹雪、と言うほどではないが、吹き付ける風は冷たい。
「次はどこへ?」
「そうですねえ――尚蜀なんてどうです?どこまでかつての面影が残っているかわかりませんが」
「リーと一緒なら、私はどこでもいいよ」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないですか」
軽く額を小突くと、鈴のような笑い声が上がる。かつてのロドスで、この人がこんな風に笑うことを許される場面が、一体どれほどあったのだろう。それだけでもきっと、この旅には意味がある。
「……あのさ、リー」
「なんですかい?」
「思い出して欲しいとは、思わないの?」
君は、かつての私を知っているんでしょう、と。
「私、何にも思い出せないよ。…リーとこうして、炎国を旅しても、何も。私自身のことも――君のことも」
「……おれは、何もあなたに思い出して欲しくて、旅をしているんじゃありませんよ。思い出さなくても良いんです。――こうして、あなたと、新しい思い出が作れたら」
だって。
記憶を取り戻した雪女は、溶けて消えてしまうから。
そっか、と。安堵したようにその人は息を吐く。白い吐息が立ち上り、大気へと溶けていく。手を繋ぎ、二人は白銀の世界の中を行く。
足跡を覆い隠し、すべての音を吸い込む雪の中では、世界に二人きりのようだった。
後に残るのは、ただ、白い雪ばかり。