北極星より遠いひと「ライン生命所属、エレナ・ウビカ研究員です。ドクター、お会いできて光栄です。こちらではコードネームを使用するのですよね。ええ、問題ありません。ではアステジーニとお呼びください、簡単で覚えやすいですから」
「星占いでもしているんですか?」
ロドス本艦のデッキ、そこに置かれたコンテナの上で夜空を仰いでいたドクターは、足元から聞こえてきた声に、視線を下ろした。予想通りの声の主は、普段とは逆に自分のことを見上げている。それがなんだか可笑しくて、ドクターは自分を見つめる鬱金の瞳に小さく笑い声を溢した。あれは頭上に広がる星々よりも、余程色鮮やかだ。
「まあね、たまには悪くないよ」
コンテナの上で寛ぐのは気分が良いと、そう教えてくれたのは彼の末の子どもだった。サボっていてもなかなか気づかれないとも。であれば、執務室を抜け出した彼が自分を見つけたのは、家長としての勘だろうか。それとも探偵としての推理だろうか。
見下ろした探偵は肩をすくめる。
「あなたは占星術師ではなくて科学者だと思っていましたが」
「最近教えを請う機会に恵まれてね、アステジーニには黙っていてくれ。明日の秘書は彼女なんだ」
「そういうものに縋りたい気分なんです?」
「既存の方法だけではわからなくてね」
「あなたにわからないことなんてないでしょうに。星にお伺いを立てないとならないようなことなんですか、それは」
「……」
ドクターは無言で視線をリーから外し、再び夜空を仰いだ。現在のロドスは荒野の中を進んでいる。人工の明かりが星の明かりを遠ざける龍門とは比べ物にならない程の、満天の星空がそこにある。星々は深遠なる夜の言葉で、過去について、或いは未来について、或いは真理について語り合っているけれど、残念なことに今のドクターはそれを聞き取ることは出来なかった。
アステシアから教わったのは、アステジーニが子ども騙しと言う技術だ。同じ家で育った姉妹だろうに。アステジーニと出会ったときに思い出したのは、けれども彼女の姉だけではなくて。
彼女と同じように家を出て、名前を捨てた、とある男の横顔だった。
「わからないから探しているんだよ」
アステジーニは、過去を隠すことはなかった。むしろそれが科学を愛する、今の彼女の基盤となっているのだから。彼女は過去の何もかもを捨てたわけではない。星を仰ぐ人間が地面の上に立つように、科学の探究が先人たちの研究の上にあるように、彼女は今も自身の過去の上にいる。アステジーニという名前だって。オペレーターとしてコードネームとして使用しているそれを姉が呼ぶ度に、彼女は普段よりも少しだけくすぐったそうに笑うことを知っている。
「そうまでして、知りたいことなんですかい?」
ドクターは再び、視線を足元よりも更に下へと向ける。わずかながらの苛立ちを載せて。探偵は全てを煙に巻くような笑みを浮かべていた。それは依頼すれば教えてくれるという意味なのか。それとも、探しても無駄という意味なのか?
わからない。星が自分の前で沈黙を保ち続けるように、彼の過去もまた、自分の前には固く閉ざされている。
だからこそ、知りたい。
彼が何故、家を出たのか。何故、名前を捨てたのか。
「――はあ、あなたは本当に根っからの科学者ですよねえ」
「何が言いたい」
「知らない、わからないってことを我慢出来ないんですよ。全てを解き明かしたいし、全てを知りたい。余白を残しておけないんだ」
「それは――そうだろう?」
わからないのなら知りたい、解き明かしたい。対象の全てを余すことなく理解したい。
皆そうではないのかと尋ねるドクターに、リーは首を横に振った。
「人間関係においては違うんですよ、ドクター。秘密にしておきたいことの一つや二つ、誰だってあるでしょう? 人が秘密を抱えなくなったら、おれの仕事も減りますよ」
それに、ね。と彼は言う。夜の闇に沈みそうなほど声のトーンを落として、ひっそりと、秘密を星々の隙間へと忍ばせる。
「秘密があるからこそ――人は惹かれるんじゃありませんか?」
真理を隠した未知の領域を開拓するために、人が実験を重ねるように。
夜毎にささめき交わす星々の言葉を聞き取るために、人が空を見上げるように。
知らないものがあるからこそ――人がそれを、探し求めずにはいられない。
「……リー」
乏しい光源の中でも、昼行灯の笑顔は憎らしいほどはっきりと見えた。自分が誰の手のひらの上に立っているのかを、ようやくドクターは理解する。
そして、そこから抜け出すために。ドクターはコンテナの上から半歩踏み出した。
当然、そこには虚空だけがある。
「今から君のところに落ちるから、ちゃんと受け止めてくれ」
「――は、」
い? という言葉を待たずして、重力に引かれるままにドクターの体は落下を始める。リーが走り出したのはほとんど反射だった。落下地点、甲板へと華奢な身体が激突する前に、リーはそれを抱きとめた。羽毛のような――とはいかない。重力加速度に従った衝撃が全身に走り、息が詰まった。
「酷いな、そこまで重くないだろう」
「……こっちは驚いてるんですよドクター!」
「なんだよ、君が言っていたのはこういうことじゃないのか?」
は? とリーが眉をひそめる。
「わからないものがあった方が――予想の埒外、想像の範囲外にあるものの方が、人は惹かれるんだろう」
未知があり、秘密があるからこそ、それを追い求めるというのなら。
自分はそれに従っただけだ、というドクターの表情は普段と変わらず、けれども探偵の目にははっきりと見えた。頬の下には、得意げな笑顔が潜んでいることが。
「……はー。あなたってひとは、ほんっと」
リーはドクターを抱き寄せる腕に力を込めた。それは抱きとめられたことへの安堵でもあり、ドクターがもう無茶なことをするなという戒めでもある。その忠告に大人しく従うような人間ではないと、知っているからこそ。
「おちおち星を見ている暇もありませんよ」
それはお互い様だ、とは言葉にしない。
そんなことは言わずとも、互いの目を見ればわかるから。