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    はるち

    好きなものを好きなように

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    POIPOI 165

    はるち

    ☆quiet follow

    リー先生の告白を断る度に時間が巻き戻るタイムリープ系SFラブコメです。

    別ジャンルの友人の話に影響を受けて書きました。SFは良いぞ。

    #鯉博
    leiBo

    Re:the answer is up to_you.「あなたのことが好きなんですよ」
     
     take.1
     
     コーヒーの旨味とは酸味と苦味で決まる。それに加えるミルクは酸味を殺し、砂糖は苦味を殺す。であればそれらを過分に加えたこのマグカップの中に満ちているのは最早コーヒーの概念とでも言うべきものだろう。それでもこの器に満ちたものが十二分に美味しいのは、やはりこれを淹れた人間の腕と言うより他ない。茶を淹れる方が得意なんですけどねえ、と彼は言っていたが、他のものであっても彼はそつなくこなした。こんなものに舌が慣れてしまった今となっては、もうインスタントコーヒーの味には戻れない。以前は書類仕事を頼むだけで嫌そうな顔をしていたものだが、今は執務室に来る度にこうして頼んでいる仕事以外の雑務も自分から行ってくれる。今の時刻は午後四時、書類仕事にも一段落ついて一息入れるには丁度いいタイミングだ。最近の彼はこうして一杯を淹れてくれるだけでなく、それに合わせた茶菓子も――今日はクッキーだった――用意してくれる。その甲斐甲斐しさを、どういう風の吹き回しかと思っていたのだが。

    「……」

     彼は辛抱強く、急かすでもなく、私の返事を待っていた。手渡されたコーヒーは舌に優しいが、しかしその言葉も同様に受け取るわけにはいかなかった。
     マドラーでカップの中身をかき混ぜながら、返答を思案する。ありがとう、君の気持ちは嬉しいよ、これからも良い友人でいよう。……これは没。君の言う好きというのは、一体どのような意味だろうか。……これも没。そんなことを私にいってどうするつもりなんだ。……まるっきり駄目。
     マドラーがカップの中を五週し、コーヒーとミルクと砂糖が完全な調和を形成したのを確認してから、私は彼に向き直った。

    「君の気持ちには応えられない」

     初めに脳裏を過ったのは計算だった。彼の告白を受け入れたときに、ロドスのドクターが受けるメリット、デメリット。断った場合に発生するデメリット。それらを天秤にかけ評価した結果が、これだ。打算的だと言うだろうか? けれどこのカップの中にあるものも、純粋な真心だけではないだろう。

    「私は【ドクター】だ。やるべきことがある。今は自分の職責のことしか考えられないよ」
    「……ええ、そうですよね。あなたなら、そう言うと思ってましたよ」

     彼は、目を逸らさなかった。自分の言葉を聞いている間、ずっと。月には、静かの海と名付けられた場所があるのだという。きっとそれは、彼の瞳のように、凪いでいるのだと、私は彼の声の最後の残響が消えるまでの間ずっと、そんなことを思っていた。
     彼は知っていたのだろう。私がそう答えることを。彼の好意を、受け入れられないことを。
     だから、こんなにも凪いで、乾いて、諦めている。
     だから――と、私は息を吸い込み、一度だけ目を瞑った。
     そして。
     目を開けた時、そこに彼はいなかった。

    「……は?」

     見渡す。執務室内には彼の影も形もなかった。当然彼ほどの長身が隠れられるような場所もない。一体どんな魔術――いやアーツか? 振られたから出ていったのだろうか。いやそれにしては落ち着いている様子だったが。
     思わず椅子から腰を浮かせると、勢いが付きすぎていたせいか天板に足をぶつける。コーヒーを溢してしまったのではないかと慌てて手元を見て、そこで気が付いた。マグカップがない。さっきまで持っていたはずなのに。どこへやったのか、と辺りを見渡したときに、扉が開いた。

    「どーも、ドクター」
    「リ、リー?」
    「なんですかいそんな顔をして。今日の秘書はおれでしょう?」
    「いやあの、それはそうだけど……」

     一体いつの間に出ていったのかとか、どうして戻ってきたのかとか、声にならない言葉が喉に詰まる。先程目をそらすことも言葉に詰まることもなかったのは、ただ単に気を張っていたからだ。誰かから差し出された好意を断ることは、それなりに精神的に負荷のかかる行為だ。そこに含まれているものの中に下心や打算があったとしても――それは中にある真心の全てを否定することにはならない。

    「まだ眠いんですか? コーヒーのほうが良いですかね」
    「え、っと。コーヒーなら、そこに」
    「どこにあるんですか。おれの目にはデスクに積まれている書類しか見えませんよ。ほら、早く目を覚ましてください、ドクター。今日もやることが山積みなんでしょう?」
    「え、ええと、うん」

     呆れ顔のリーが机の上に目をやる。視線を辿って同じ場所を見ると、そこにはうず高く積まれた書類がある。……おかしい、この高さはおかしい。半日かけて減らしたはずだ。
     けれども私が沈黙したのは、その書類の山ではなかった。デスクの上に置かれた時計は業務の開始時間、午前八時三十分を指している。
     時間が巻き戻っていた。

    ***
     
    「あなたのことが好きだから、ですよ」
     
     take.2
     
     あの日は結局、午後からの予定を変更してエンジニア部の視察に行った。そこで運の悪いことに――或いは私にとっては、タイミング良く、というべきかもしれない――、ソーンズによる実験室の爆破騒ぎがあり、騒然とする現場の後片付けとソーンズの処断を決めることに午後の時間を全て費やすことになった。クロージャや兄弟を庇いにきたエリジウムの相手をしているうちに一日は終わった。
     彼と二人きりになる時間はなかった。
     あれはきっと白昼夢だったのだろう。彼が執務室に訪れる前に、うたた寝でもして、泡沫の夢を見たのだろう。それが彼に告白される夢だというのだから、我ながらなんとも青臭く、気恥ずかしく――彼に対して申し訳がない。
     けれども、夢で。
     良かったのだと思う。
     そう、思っていたのだが。
     
     ぽつぽつと雨傘を叩く水滴は、けれども頭上から降り注ぐ言葉を隠してはくれない。一つの傘に二人分の居場所はなく、だから触れ合う程に肩を寄せ、身を寄せ合っていた。それでも彼の肩は半分以上傘から出て濡れそぼり、なのに私の方にばかり傘を傾けていた。私が濡れないようにと。
     この時期の炎国の空は随分と移り気らしい。本艦を出たときから泣き出しそうだった空は、彼の事務所へと向かう途中で涙を堪えることをやめたようだった。降り注ぐ雨粒は、憂鬱ではあるが払い除けるほどのものでもない。元々この上着もエンジニア部が心血を注いで作ったものだ。耐水性にも耐火性にも自信がある。通り雨などはものの数ではない。けれども彼は、傘を持って私のことを迎えに来た。風邪を引きますよ、と傘を差して。ならどうして一本しか持って来なかったんだよ、と揶揄するように応えれば――これだ。
     
    「あなたのことが好きだから、ですよ」
     
     煙草混じりの香水に、少しだけ、呼吸が浅くなる。鼓動が嫌に早いのは眩暈のせいだろうか。それとも既視感のせいだろうか? この前からあなたはおれのことを避けているようですから、と彼は穏やかに笑う。そこに責める色はないが、罪悪感に肺が軋んだ。あれは夢だと、そう思っていた。思いたかった。だってそうだろう。時間が巻き戻るなんて、そんなことは有り得ない。だからあれはただの夢で、そんなものの登場人物として彼を選んだ気恥ずかしさから、彼のことを遠ざけていた。
     だけど、もし。
     それが夢ではないのなら。

    「……どうして」
    「どうして、ですかい? そうですねえ」

     私を見つめる鬱金色が、優しさを宿して緩やかに解ける。

    「最初はただ、見定めようと思ったいたんですよ。ロドスのことを。おれが――ワイフーたちが、関わるのに相応しいところか、ね」
    「……それじゃ、君のお眼鏡には適ったってことかな」
    「そんなもんじゃありませんでしたよ。ロドスは噂に聞いていた通りの……、いや、それ以上の組織だった。そしてそのトップであるあなたは……優秀ではあるんですけど、どうにもね」
    「何だよ、悪口か」
    「違いますよ、褒めているんです。あなたはいつも必死で一生懸命で、優秀な癖に肝心なところが抜けていて、いつでも自分より他人と責任を優先して、あんまりにも真面目で、放っておけないもんだから――」

     いつの間にか惚れちまった。
     それだけですよと彼は笑う。
     ――あの時、私が拒絶した言葉には。こんな続きがあったのか。
     雨を含んだ大気は冷たく、だからこそ寄り添う温もりを人恋しく思う。絆されたくなるほどに。
     それでも。

    「――君の気持ちには、応えられないよ」

     降り注ぐ雨粒の向こうで明滅するのは、戦場とその中で失われた命だった。私に、人としての幸せを享受することなど――今更許されるのだろうか?
     答えは考えるまでもない。

    「私には、やるべきことがある、から――」
    「――ええ、そうですよね。あなたなら、そう言うと思ってましたよ」

     彼は、目を逸らさなかった。私の言葉を聞いている間、ずっと。
     眩暈はいよいよ酷くなる。
     既視感はいよいよ強くなる。
     回る世界に耐えかねて、私は強く目を瞑った。いっそのこと責められた方がマシだった。どうして彼はこんなにも、優しい瞳で私を見るのか。それに耐えられなくなったのは私の方だった。目を逸らしたくなったのは。視界が黒に閉ざされ、金の瞳を見失う。雨音が遠ざかる。呼吸は一度。湿気を過分にはらんだ大気で肺を満たし、目を開けると、そこには。
     隣に彼はいなかった。

    「………おいおいおい」

     通りの真ん中で呆然と立ち尽くしていたからだろう。隣を人が走り抜けていき、危うくぶつかるところだった。空は憂鬱を溶かし込んだように重く暗く、今にも泣き出しそうだった。
     PRTSを取り出す。
     時刻は午後二時、五分前。
     確か――そう、雨が降り出したのは、二時を回ってからだった。
     私は辺りを見渡し、傘を取り扱っている店を探す。彼と、ひとつの居場所を分け合わなくても済むように。

    ***
     
    「その前に、一つだけ聞かせてくれ。――君は私にそれを言って、どうしたいんだ?」
     
     take.3
     
     それがどれ程有り得ないことであろうと、最後まで残った仮説が真実だ。
     そう言ったのは誰だったか。こうなってしまえば全てを白昼夢として片付ける訳にはもういかない。時間が巻き戻っている。彼に告白され、それを断るごとに。それを、現実に起きていることとして、認めない訳にはもういかなかった。巻き戻る時間は数十分から一時間程度、目を瞑ることを契機として起こるようだった。試行回数を増やせばもっと厳密にこの現象を理解できるのだろうけれど――こんなことはもう御免だ。
     私はあの日以降、徹底して彼と二人きりになることを避けた。叶うのであれば彼と接触することも避けたかったのだが、私はドクターで彼は探偵事務所の所長で、つまり業務提携先である以上ゼロにすることは不可能だった。だから会う時は仕事の打ち合わせなどのオフィシャルな場面に限り、会う時は必ず人を伴った。
     もうこれ以上、彼の好意を否定したくなかったから。
     彼は善人だ。それはよく知っている。面倒見の良い人だ。それもよくわかっている。その関係に、いつまでも甘えていたかった。その好意を無碍にして、彼のことを傷つけたくなかった。――そして、何より。
     私はもうこれ以上、傷つきたくなかった。
     
     ドクター、と私を呼ぶ声は優しく、けれども私にとっては肋骨の合間から心臓に刺さるナイフのようだった。呼吸が止まる。咄嗟に辺りを見渡し、いつの間にかあの陽気な渡鳥の声が聞こえなくなっていることにようやく気がついた。

    「エリジウムさんが探してましたよ」

     次の作戦のための資料探しに熱中しすぎていたようだ。資料庫の入り口で、扉にもたれて彼は苦笑する。

    「探していたって……エリジウムが私を置いていったんだろ」

     一緒にリターニアのアーツに関する資料を探していたはずだ。彼の国のアーツは飛び抜けており、敵に回すと厄介だ。エーベンホルツとツェルニーのおかげで以前よりは有効な対策が出来るようにはなっているが、ウォルモンドで味わった辛酸を二度も三度も舐めるのは御免だった。
     ポケットからPRTSを取り出し、時刻を確認する。午後五時十七分、そろそろ切り上げた方がいいだろう。作戦のブリーフィングがある。
     呼びに来てくれてありがとう、と言えば、お安い御用ですよ、と彼は気安く笑った。大丈夫だ。何ともない。何でもない。私は彼の隣を通り抜けようとして――

    「――その前に。一ついいですかい、ドクター」

     肩を掴まれ、背中を壁に押しつけられる。開け放たれた扉からは廊下の明かりが漏れていたが、それを遮るように彼は私の前に立ち、もうどこにも逃げ場はなかった。

    「あなた、どうしておれのことを避けるんです」
    「……避けてなんかいないだろ、今回だって、作戦に召集して――」
    「そういうことが言いたいんじゃありませんよ、ドクター。あなただってわかるでしょう」

     彼が覆い被さるように身を屈めて、顔を近づける。鬱金の瞳は燃えるように熱く、目を逸らすことを許さない。胸の裡から焼け落ちるような錯覚がした。錯覚だ、そんなことはわかっている。この既視感は。私は彼に応えられないという罪悪だけが真実だ。

    「――おれの気持ちを知っているから、遠ざけるんですか?」

     彼がそう言ったのは、私が息を吐き切ったタイミングで、だから声を上げることすらできなかった。その方が良かったのかもしれない。きっと悲鳴じみた声しかあげられなかっただろうから。

    「ねえ、ドクター。おれは――」
    「――その前に、一つだけ聞かせてくれ。君は私にそれを言って、どうしたいんだ?」

     彼の瞳が瞬く。この鬱金が揺らぐ様を、そういえば自分は初めて見た。

    「私がどう答えるかなんて、君は知っているはずだろう――わかっているはずだろう」

     なのに、どうして、と。
     それは糾弾でもあり、悲鳴だった。そうですねえ、と。彼が答えを口にしようとしたときに。

    「二人とも、まだこんなところにいたのかい?!」

     忙しない足音と、廊下を反響する声。彼は背筋を伸ばし、扉の方へと向き直る。一拍遅れで渡り鳥が飛び込む。

    「ほら! 次の作戦のブリーフィングが始まるよ、二人とも急いで! メイヤーも待ちくたびれてるよ」
    「はいはい、行きますよ、っと」

     彼はいつものように、あの気怠げな空気を纏って廊下に出ていく。その瞬間、扉に手をついた彼がこちらに振り返る。鬱金の瞳は、逆光の中でも鮮明で。

    「その答えは、帰ってからでも?」

     私にしか届かない声で、彼は囁く。
     返事を待たずして、彼は廊下へと出ていく。
     そうだろう、答えは聞くまでもないのだから。
     
     ***
     
     こういうときばかりは、戦闘があることに感謝する。仕事に専念している間は余計なことを考えずとも済むからだ。カジミエーシュとリターニアの関係は、かなりきな臭いことになっていた。巫王の復活を望むリターニアの一派、だけであればまだ良かったのだが。戦闘を、戦争を必要とする勢力はどの国家にも存在する。理解し難いことに。
     カジミエーシュの国境を侵す武力組織との状況は、もうじき終了する見込みだった。PRTSでのシミュレーション通り、予定調和の戦闘だ。
     状況は良好、オペレーターたちの様子はどうか――と私が傍らに控えた通信兵に尋ねるより先に、鋭い声が飛ぶ。

    「ドクター、待って、通信が――」

     エリジウムが戦場で切羽詰まった声を出すということは、それだけ状況が切迫しているということだ。何があった、という私の言葉に答えたのは、けれどもエリジウムではなかった。
     爆発音がした。
     作戦基地から音のした方角を見る。炎と、黒煙が上がっていた。
     それは、リーに防衛線を任せていた方角だった。

    「――状況を報告しろ、エリジウム」
    「駄目だ、回線がジャミングされている! ドクター、僕が先行するから、後で――」

     敵兵はもういない。いないはずだ、彼以外の場所には。あそこにいるのが、最後の勢力だったから。
     ならば。

    「ドクター?!」

     走り出す。足がもつれる。生きている通信回路から、オペレーター達の声が聞こえる。第一部隊、全員の無事を確認しました。こちらの状況は終了しています。オーバー。第二部隊、負傷数名、命に別状はありません。オーバー。第三部隊、応答してください。応答せよ、第三部隊。
     ――全く、笑っちまいますよ。おれひとりだけで第三部隊ですか? いやフィリオプシスさんがいるのは知ってますけど、戦闘要員はおれだけってことでしょう? ……はいはい、それだけドクターは、おれのことを信頼してくれてるってことですね。わかってますよ。わかってますから、帰ったら奢ってくださいよ?
     二人で、飯でも食いに行きましょうや。

    「――リー!」

     白い梟が、黒くて赤い何かの傍らに跪いているのが見えた。フィリオプシスのアーツロッドは、真昼の星のように明滅していた。あぁ、ドクター、来てくれたんですか、と。彼の声はどこか嬉しそうで、けれど答える気にはなれない。
     間近で爆発を食らったのだろう。彼の帽子はどこかに飛んでいったようで、外套は焼け焦げていた。肉と血と、蛋白質の焼ける匂いがする。足が止まってしまいそうになるのは、走るだけの体力がもうないからではない。彼に近づくことが恐ろしいからだ。近づいて、現実を認めてしまうことが恐ろしいからだ。けれど、足を止めることは許されない。だって私はドクターなのだから。ドクターであるために、彼の好意を踏みにじってきたのだから。
     だけど。

    「……どうして?」
    「あー……、そこの瓦礫に、逃げ遅れた、……子どもがいたんですよ」

     それを庇ったらこうなっちまいました、と。
     彼は失敗に照れる子どものように笑った。
     こういうときだけ、彼は少年のような笑みを見せて。
     それを狡い、と。いつも思っていた。

    「ドクター……、最後、に。聞いて、くれませんか」
    「何を……、言っているんだよ」

     私は彼に近づく。足が震えていた。ぱしゃりと水の跳ねる音がした。いつかの雨の日が、彼とともに一つの傘に入ったときのことを思い出して、けれども今私の足を濡らしたものは、水溜りではなく血溜まりだった。

    「大丈夫だよ、リー、フィリオプシスが治療してくれる。第一部隊から、アも向かってくれているから――」
    「――馬鹿、言わないでくださいよ。いくら、あいつ、でも、……飛び散っ、た。内蔵を……縫い合わせること、なんて……でき、ませんよ」

     ごぽりと彼の口から赤いものが溢れて、私は彼の隣に跪いた。やめろ、やめてくれ、どうしてそんなことを言うんだ。
     ドクター、と。彼は手を伸ばす。それを掴んだ私の手は震えていた。
     ねえ、ドクター、と。

    「おれは、……あなたのことが、好きでしたよ」

     彼は知らないだろうけれど。
     それは、三度目の告白だった。
     あの資料庫で、彼が最後まで言わなかった言葉。私が遮った言葉。

    「……私、は」

     私は。
     ロドスのドクターは。
     それに、何と答えるべきかを知っている。
     それに、何と答えれば良いかを知っている。

    「……君の、気持ちに、は。応え……られない」

     自分を俯瞰しているような錯覚がした。さながら映画を見ているように。自分の声が遠い。自分の口を借りて誰かが喋っているようで、けれどもそれを選んだのは確かに自分自身だった。

    「――ええ、そうですよね」

     彼が苦笑する。咳き込むと血が口からも傷口からも溢れて、とろとろと流れて大地を濡らすものは彼の命に他ならない。

    「あなたなら、そう言うと……思って、ました、――」
    「――あ、あああ、……ぁ」

     彼の瞳から光が失われる。私はその様を、瞬きもせずに見ている。ただ見ていることしかできない。血が、命が、零れていく様を、失われるその瞬間を。
     私は。
     私は。
     私、は。
     彼が死ぬ、その瞬間を見届けて。
     ――そして、時間は巻き戻る。

    ***
     
    「全員戦闘態勢を維持しろ! 五分後に敵襲がある!」
     
     take.4
     
     もう終わりか、という期待と緊張の混ざった空気は、インカム越しに鼓膜を刺すドクターの声で霧散した。勿論油断していた訳では無い、が――。ドクターの声に余裕はなく、リーも警戒の度合いを引き上げる。

    「三番部隊、瓦礫の下、に――……」

     通信にノイズが入り、声が雑音に塗り潰される。舌打ちをするまもなく断絶した。瓦礫の下にあるものは果たして鬼か蛇か、とリーが視線を倒壊したビルへと滑らせたときに――

    「――おっと」

     戦場に、楽の音が響いた。

    「優雅ですねえ……」

     ――用心しろ、と作戦前のブリーフィングで言っていたのは、二番隊にいるキャプリニーの術師だったか。嗚呼全くその通りだと、リーは唇を舐めた。戦場のひりついた大気は、火薬と良く似た味がする。

    「聴衆はおれひとりでも?」

     前方に立っているのは、襤褸を纏ったキャプリニーだった。ハイビスカスのようにフルートを持っており、それがアーツロッドらしい。けれどもハイビスカスのように、あれは何かを癒やすためにあるのではないだろう――

    「――っと?!」

     後方で石が爆ぜた。リーはしゃがんで四散する石のつぶてを避けるが、しかし全てを躱しきれるわけではない。熱された石が服を、肌をかすめ、焼け焦げる匂いが鼻を指す。こりゃ参った、というつぶやきに応えるように、後方に控えるフィリオプシスのアーツが輝いた。
     現状、ここにいる戦闘要員は自分ひとりだ。それはこの作戦の指揮官の期待の現れでもある。
     だから。
     自分に、或いはフィリオプシスに。何かあれば、最も責任を感じるのは、あの人だ。
     ならば。

    「狭路にて相逢えば「勇」ある者勝つ――」

     とは限らないんだなぁ、これが! という叫びを合図とするかのように。リーの周囲にある瓦礫が立て続けに爆発した。しかしそれよりも早く、龍は戦場を駆ける。石に干渉して爆発させるアーツ。全く、厄介なものだ。材料となるものは、そこらじゅうに転がっているのだから。戦場を満たす笛の音も、それを奏でる指の動きも止むことはない。

    「――疾っ!」

     リーの指から放たれた符は、けれども敵の術師に届くことはなかった。飛来したクロスボウの矢が、それを射抜く。舌打ちは一つ。二人目の敵さんとは、今日は千客万来だ――と、嘯いたリーの周囲を、山吹色の光を散らす紐と符が取り囲む。
     いやしかし、参った。
     自分のアーツでは、遠方から飛来する攻撃を防げない。
     肌が三千度のレーザーで焼かれるような感覚があった。大方クロスボウの照準を合わせた殺気だろう。この距離であれば――まだ、躱せるか? しかし、前方の楽の音は止まない。万雷の喝采のように石が、岩が、瓦礫が爆ぜ――その最中に、見えた。
     今にも倒壊しそうな瓦礫の中にうずくまる、一人の子どもが。
     嗚呼、と遅れた理解する。通信が断絶する間際、ドクターが何を言おうとしていたのかを。鬼でも蛇でもなく――救うべき命だったとは。空気の裂ける音がする。矢がこちらへと飛来する音だろう。全く、いやらしいタイミングだ。この矢を躱せば――それは、あの子どもへと刺さるだろう。
     耳に蘇るのは、あの人の声だった。
     ――期待、を。されている。ロドスのドクターとしての、あの人から。ならば、それに応えたい。フィリオプシスさんの回復はどの程度有効だろうか――と、リーが矢の射線上で覚悟を決めたときに。

    「行け、ミーボ三号!」

     橙の頭を持つ銀の流星が、視界の端から飛来する。それはリーの代わりに矢を受け、吹っ飛ぶと、地面の上を跳ねながら転がっていく。

    「リーさん、お待たせ!」

     背後から聞こえる声は高らかに。

    「行くよミーボ!」

     爆発があった。しかしそれは今までのような、敵のアーツによるものではない。メイヤーが手足のように使役する、ミーボによるものだった。

    「敵にも私たちライン生命の技術力を見せてあげよう!」

     それに応えるように、機械仕掛けの川獺は戦場を疾駆する。戦場を支配している旋律は揺らぎ――活発から性急に、速度が上がる。リーの背筋をぞわりと、悪寒が走った。来る。あの、アーツによる爆発が。その、刹那に。
    「――――――――ッ!」
     機械仕掛けの川獺が、咆哮を上げた。反射的に耳を塞ぐ。あれはなんだ。同じように耳を塞いでいるメイヤーは、けれども不敵に得意げに笑っていた。
     ――私たちライン生命の技術力を。

    「名付けるなら、そうだね――」

     ――見せてあげよう。

    「アーツ・サイレンサー……ってところかな?」

     リターニアのアーツは、音楽をその拠り所とする独特の体系を築いている。かつて彼の国が巫王の支配下にあったときに花開き、今なお発展を続けているそれは――けれども、音楽に根ざしていると言う点では、変わらない。いつぞやに、ガリアの古城で手にした装置を思い出す。アーツ・ジャマーと名付けられたそれは、音を出すことによってアーツをかき乱すのだという。
     ならば。
     ノイズキャンセラーと同じ理屈で、逆位相の音波をぶつけたならば――

    「――感謝しますよ、メイヤーさん!」

     叫び、リーはリターニアの術師の元へと走った。相殺しきれなかったアーツにより再び小規模な爆発が起こったが、そんなものはこの際些事だった。焼けた石のつぶてが頬を掠める。腕を裂く。大腿の肉を抉る。そんなことはどうでもいい。
     ――わかったよ、と。困ったような笑みを思い出す。
     君のことを信頼しているんだよ。一人でも防衛線を守れるって。わかったよ、わかったから。
     帰ったら二人で、ご飯に行くから。

    「――リー!」

     敵の術師がリーのアーツで沈黙したのと、その声が戦場に響いたのは、ほぼ同時だった。
     ドクター、と緩慢に振り返る。白衣にロドスのロゴが入った服を着たその人は、半ば飛びかかるように抱きついてきた。息が詰まるのは、満身創痍の身体に響く痛みのせいだけではない。

    「っと、ドクター。どうしたんです、そんなに――」
    「――良かった」

     君が生きていて、と。その声が震えているのは、自分の胸元に顔を埋めているせいだろうか。

    「……」

     深く、息を吸う。一呼吸ごとに全身が軋みを立てるようで、血と肉と、蛋白の焼ける匂いがした。血は今も傷口から流れて、この人を汚し続けている。
     それでも。
     今しかない、と。そう思った。
     その人の名を呼ぶ。【ドクター】というコードネームではない、その人の名前だ。ただ一人の人間としてその人を指標する、唯一の名前。

    「こんなタイミングで何を、って思うかもしれませんがね」

     ドクターは瞬きを一つせず、続く言葉を待っている。

    「おれは、あなたのことが――」
     
     ***
     
    「――その前に一つ、私からの質問に答えてくれ」
     
     take.4_continue
     
     コーヒーの旨味とは酸味と苦味で決まる。ミルクも砂糖も加えない、ブラックコーヒーはそれ単体で完成して美味しい。もう自分はこれを知る前には戻れないな、と思いながら、私はリーの方を向き直った。

    「いいのかい、もう退院して」
    「主治医からの許可は得てますよ」
    「……ならいいんだけど」

     病み上がりの怪我人にこんなことをさせている人間の台詞ではないが。それで、とリーが隣に腰を降ろす。

    「……あのときのことだけど」

     あの日。リーが入院を要するほどの大怪我をした日のこと。
     彼の告白に、私が答える前に。フィリオプシスを始めとする医療オペレーターに、彼は連行されていった。今回の作戦の隊長がガヴィルだったというのも大きい。

    「おっと、もうその話をするんですかい?」
    「――その前に一つ、私からの質問に答えてくれ」

     君は。

    「私にそれを言って……どうしたいんだ?」
    「……色の良い返事がもらえないことなんてわかっているだろう、って言いたいんですか」
    「……そうだよ。君なら当然、知っているだろう」

     私は。
     ロドスのドクターだ。どこまで行っても。

    「先の作戦で……君を危険な目に合わせた。君が命を落とす可能性だって――当然あった。そしてそれは君だけじゃない。君の子ども達にだって、言えることだ」

     私は。
     君に好意を向けられるような存在じゃない――と。
     私は目を閉じた。暗闇の中に蘇るのは、今も瞼に焼き付くあの光景だ。彼の最期の記憶。
     それでも尚、私は、彼を戦場に立たせることをやめられないだろう。彼の能力が必要だと判断すれば、きっと私は彼を戦場へと送る。
     私には。
     人間らしい幸せを手にする権利など、初めから――

    「――なんだ、そんなこと気にしてたんですか。あなた」
    「……は?」
    「ドクター。あなたなにか勘違いしているみたいですけどねえ。おれたちはおれたちの意志と責任で、戦場に立っているんですよ。わかりますか? おれたちに何かあったときに、それをすべて引き受ける必要なんてないんです。おれたちだって当然、覚悟してますよ。だから必要以上に、あなたが背負う必要なんてないんですよ」

     だってあなた、神様じゃなくて人間でしょう? と。彼はいつものように飄々と笑う。

    「予想できないことも予期できないことも、当然あるでしょうよ」
    「で……でも、私は、そういった全てを想定する必要が――」
    「馬鹿なこと言わないでくださいよ。そりゃ思い上がりってもんです。あなたはこの大地で起こるすべてのことを計算できるんですか? できないでしょう? なんでもかんでも自分の手中に収めるってのは、あのリィンさんでも無理でしょうよ」

     でも、と彼は笑い。

    「そんなあなたが――おれは、好きなんですよ」
    「……」
    「おれはね、ドクター。おれのことを選んで欲しいわけじゃないんですよ。あなたの側にいて、あなたが背負っているものを少しでも軽くできるなら、それでいい」

     あなたがロドスのドクターで。
     職責のことしか考えられなくて。
     気持ちに応えられないと言うのなら――それでいい、と。

    「それでいいから――ドクター。おれを、そばにおいてくれませんか?」
    「……君の、気持ちに」

     私は、彼の服の袖を引いた。煙草と香水に混ざって、消毒薬の匂いがした。これは私の罪であるはずだった。咎であるはずだった。けれどそれは思い上がりだと、彼は言った。
     私の抱えているものを、共に引き受けてくれると。

    「応えられるまで……待っていてくれないか」
    「ここで?」
    「ここで」
    「どれくらいかかりそうですか?」
    「……もしかしたら、一生」
    「――ええ」

     目を開ける。
     そこには穏やかな、彼の瞳があった。月のように凪いで、乾いている。それはあの日の光に似て。けれども自分は決定的に間違えていた。彼は諦めていたのではなく――受け入れていたのだ。

    「待ってますよ、ドクター」
     
     時間はもう、巻き戻らなかった。
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    はるち

    DOODLEロドスでダンスパーティーが開かれるのは公式というのが良いですね
    shall we dance「あなたには、ダンスはどのような行為に見えるかしら?手を相手の首元に添えて、視線を交わせば、無意識下の反応で、人の本心が現れるわ」

    踊ろうか、と差し出された手と、差し出した当人の顔を、リーは交互に見た。
    「ダンスパーティーの練習ですか?」
    「そんなところだよ」
    ロドスでは時折ダンスパーティーが開催されている。リーも参加したことがあり、あのアビサルハンター達も参加していることに少なからず驚かされた。聞けば彼女たちの隊長、グレイディーアは必ずあの催しに参加するのだという。ダンスが好きなんだよ、と耳打ちしてくれたのは通りがかりのオペレーターだ。ダンスパーティーでなくとも、例えばバーで独り、グラスを傾けているときであっても、彼女はダンスの誘いであれば断らずに受けるのだという。あれだけの高嶺の花、孤高の人を誘うのは、さぞかし勇気のいることだろう――と思っていたリーは、けれどもホールの中央で、緊張した様子のオペレーターの手を取ってリードするグレイディーアを見て考えを改めた。もし落花の情を解する流水があるのならば、奔流と潮汐に漂う花弁はあのように舞い踊るのだろう。グレイディーアからすれば、大抵の人間のダンスは彼女に及ばないはずだ。しかしそれを全く感じさせることのない、正しく完璧なエスコートだった。成程、そうであれば、高嶺の花を掴もうと断崖に身を乗り出す人間がいてもおかしくない。
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