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    はるち

    好きなものを好きなように

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    はるち

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    ドクターの死後、遺言に従ってテラ全土を鯉先生が旅するお話。
    引用している寓話の元ネタが分かる人は常世島で私と握手しましょう。

    #鯉博
    leiBo

    透明な血が流れたとして 血は水よりも濃いのだという。
     ならばこの大地に累計を持たぬ彼の人は、唯一人清流に咲く蓮であろうか。
     
     リー探偵事務所の所長が、ロドスの指揮官の訃報を受け取ったのは、その死から数日経った後だった。
     ロドスで葬儀が開かれるのだという。その案内をトランスポーターから受け取ったリーは、執務室に置いてある茶葉や茶菓子はどうなったのだろうかと考えた。自分が置きっぱなしにしたものだけではない。リンが手入れをしていた鉢植え、ブローカが用意した毛布、イースチナが少しずつ読み勧めていた推理小説。それも全て、棺に詰めて燃やすのだろうか。
     喪服に袖を通し、本艦へと向かう。場違いなほどの晴天の元で、参列者の表情だけが六月の空模様と同じだった。すすり泣きがそこかしこから聞こえる。心を引っ掻くその声に耐えかねて、故人が起きてくるのではと不安になるくらいに。
     けれども棺は空だった。遺骸の回収は、ケルシーとアーミヤを持ってしても叶わなかったらしい。代わりに詰められているのは辛うじて戦場から持って帰った白衣の切れ端と、棺から溢れ出す花々、そしてオペレーターたちからの餞別だった。あるものは酒、あるものは木彫りの置物、あるものは譜面。
     リーさんも何か入れますか、と目を真っ赤に腫らしたアーミヤに尋ねられた時、リーはただ首を横に振った。その場所はおれ以外の誰かのために取っておきましょう、と。
     葬儀の時間は水飴を引き伸ばしたように長く、その癖終わってしまえば雨垂れが落ちるように一瞬だった。嗚呼、これでやっと帰れる――と暮れかかった空を見上げたときに、後ろから呼ぶ声がした。
    「話がある」
    「……」
     努めて表情を顔に出さないように、リーは振り返った。そこにはアーミヤと二人で、二人きりでロドスを導かねばならなくなったケルシーが立っていた。彫像のように完全で、さざなみ一つ立てない悲しみに人の形を与えたら、今の彼女になるのだろう。
    「どうしましたかいケルシー先生。なにかご相談でも? 安心してください、うちは業務提携を切るつもりは――」
    「ドクターからの贈り物だ」
     呼吸を乱さないことは、さほど難しいことではなかった。動揺を表情に出さないことも。けれど、期待を自らに禁じることは、そうも行かない。
     ケルシーが無言のままに――彼女にしては珍しいことに――差し出したのは、封筒だった。半ば押し付けるようにしてリーにそれを手渡すと、彼女はすぐに立ち去った。時間もないのだろう。今やロドスだけでなく、テラの大地と未来の全てが、彼女とアーミヤの肩にかかっているのだから。
     それともそれは、リーが一人で中を確かめられるようにと言う配慮なのか。
     自分とドクターの関係を精算するものがあるとすれば、それはこれに封じられているのだろう。
     どんな間柄なのかと尋ねられたことは一度や二度ではない。単なる提携相手、オペレーターと司令官以上に見えていたのだろうか。善人同士は通じ合うもんですから――と嘯いたこともある。その言葉は嘘ではない。けれど、それだけだった。
     好きだと言ったこともない。
     愛しているなど、尚更。
     石棺を出て目を覚ましたときからずっと、ドクターという役割を演じ続けていたあの人を、その役職を脱いだ一人の人間として、憎からず思っていたことは事実だ。あの人もきっと、それに気づいていた。この胸の内で焦がれる炎と、その熱に。
     それでも。
     その熱を伝えることは、重荷となるだろう。
     あの人は、「ドクター」なのだから。
     だから気づかないふりをして、ぬるま湯のような関係に浸っていた。
     自分も、あの人も。
     結局自分たちは、ただの仕事相手でしかなかったのだ――と。
     そう結論づけたはずなのに。
     深呼吸は一度で事足りた。リーは封筒を破る。
     指先は震えない。揺れているのは心の臓だけだ。瞬き一つすることなく、中を確かめたリーは、
    「……おいおいおい」
     天を仰ぐ。日は既に沈んでいた。
     そこに入っていたのは一枚の絵葉書だった。
     書かれているのはたった一言。
     Where am I 
     
     1.Summer is ready.
    「ようこそ、ドッソレスへ! ……なんてリーさんに言っても、今更かな?」
     金髪は常夏の楽園の中ではことさらに眩しく見えた。どうもお久しぶりです、とリーは片手を上げてテキーラに応えた。人好きのする笑顔は、その金髪よりも碧眼よりも鮮やかだ。
     テキーラに会うのはこれが初めてというわけではない。ドッソレスを訪れることも。とはいえ滞在の理由はもっぱら危機契約などの仕事である。
     では、今回の来訪は。仕事と私用のどちらなのだろうか。
    「部屋はもう取ってあるから」
    「気を遣わせてすいませんねえ」
     ペッローの青年は、リーの傍らから鞄を手に取ると歩き出した。荷物持ちまでさせるつもりはない。しかしテキーラはいいって、とドッソレスを満たす空気のように爽やかな笑顔を浮かべるだけだった。
     青年の後を追ってエレベーターへと入る。
    「ここへの滞在はどれくらい?」
    「さて、数日か一週間か……。ずうっといたいくらいですけどね」
    「いいよ、ゆっくりしていって」
     青年が唇に乗せる気遣いに。影を感じるのは、ここに太陽の日差しが届かないからなのか。
     誰かを失った傷は隠せば膿むばかりだろう。何かを喪った虚は隠せば傷むばかりだろう。
     だからこうして風通しの良い場所で、風と日光に晒してやるべきなのかもしれない。
    「部屋は、いつもと同じところだから」
     エレベーターの扉が開く。廊下を進み、テキーラが角部屋の鍵を開ける。
     カーテンはかかっていなかった。眼の前に広がるのは、ドッソレスの砂浜だ。
    「荷物はここでいい?」
    「ええ、お構いなく」
     部屋の片隅に鞄を置き、どうぞごゆっくり、と慇懃に一礼をして、青年は去っていった。
    「……」
     窓辺に近寄る。波音は以前にここを訪れたときと変わらなかった。耳の裏に、誰かの声が蘇る。
     オーシャンビューっていうんだよ。オーシャンビュー? 海を見渡せる部屋ってこと。はあ、それがこの部屋の付加価値なんですね。海がお好きなんで? 好きなのかな、よくわからない。でも波の音は嫌いじゃないよ。なんだか落ち着くよね。おれは川のせせらぎの方が好きですかね。なんだか枯れてるなあ。いやいや、悪くないもんですよ。ドクターもどうです? 今度、尚蜀を訪れたときには、一緒に船旅でも――
     カーテンを閉める。陽光と波音を、この部屋から締め出す。
     リーは目を閉じ、真っ白なシーツの海へと飛び込んだ。強い酒が必要だった。この地の案内人のコードネームと同じくらい。
     酒のかわりに、リーは外套のポケットから絵葉書を取り出した。映っているのはドッソレスの浜辺だ。この部屋から――ドクターが気に入っていた、この部屋の窓から見える。
     葉書に書かれているのは間違いなくドクターの筆跡だった。それ以外には何もない。流石に火で炙ったり水につけたりする気にはなれなかった――ブラックライトがせいぜいだ。
     だから残された言葉はたった一つで間違いない。巫山戯た言葉だ。Where am I わたしはどこでしょうなどと。
     そんな言葉が残されていたら、期待してしまう。
     もしかしたら――ドクターは、まだ生きているのではないか、と。
    「……」
     起き上がる。寝ている場合でも酔っている場合でもない。
     探してくれと依頼されたのであれば――自分はそれに応えなくては。
     探偵として。
     リーはベッドを降りた。荷ほどきをしなくては。鞄を開ける。旅は身軽な方がいいと、持ってきた荷物は少しだけだった。
     その中に、見覚えのない――しかし、どうにも見覚えのある封筒があった。
     そういえば、と今更のように思い出す。以前ロドスでポーカーをした時、テキーラのイカサマを見抜くのにはなかなか骨が折れたことを。
     荷物を持ってくれたのは、純粋な優しさというわけではなかったらしい。
     封筒を開ける。そこに答えがあるなどと、期待していたわけではない。
     やはり、入っていたのは絵葉書だった。
     ただ一言、How are you おげんきですかと綴られた。
     
     2.Winter is gone.
     ドクターはどの季節が好きなんですか? 好きな季節? 特にないよ。あらら、さみしいことを言いますね。そうかな? 好きな季節がある方が寂しいと思うけど。というと? だって終わってしまうことが寂しいし、残りの季節はそれを待ちながら過ごすことになるわけだろう。それって楽しいの? そうですねえ、悪いもんじゃありませんよ。勿論、良いことばっかりってわけじゃありませんけど、好きなものがあるっていうのは幸せなことですよ。本当に? いつか終わってしまうとしても? 楽しい時間が、好きな季節が、いつか終わってしまった後でも。本当に楽しかったって、その時のことを思い出せるの?
    「――」
     灰色の夢から醒める。
     あのとき、自分は――果たして何と答えたのか。
     頭を振り、眠気と感傷を追い払う。
     次の絵葉書に映っていたのはラテラーノだった。全く、How are youとは良く言ってくれる。ドッソレスからラテラーノまでの移動に、どれほどかかったと思っているのか。
     門を潜った先にある白亜の都市は、一切の汚れとも悲しみとも無縁の楽園だった。風に乗って運ばれてくる甘い香りは、園丁である天使たちが好む菓子の匂いだ。――本当に、どうして彼らが糖尿病にならないのか、不思議でならない。
    「お待ちしておりました」
     リーを出迎えたのは、ドッソレスとは打って変わって、大理石を切り込んだかのように無表情な案内人だった。
    「どうも、イグゼキュターさん。ちょいと野暮用がありまして――」
    「ドクターからの言伝でしたら、こちらでお預かりしています」
    「……」
     成程。
     今回の案内人は、休憩や観光を挟もうという気はないらしい。
     ドッソレスとは正反対だ。
     しかし、ドクターは今度こそ、正しい人間をメッセンジャーに選んだのかもしれない。
    「どうぞ、お受け取りください」
     彼は、葬送人なのだから。
    「……どうも」
     封筒を受け取る。三度目ともなれば、この既視感にも慣れてくる。
     リーがそれを開けるまでの間、イグゼキュターはその場を動かなかった。最後まで見届けることも、彼に課された業務の一環なのかもしれない。
    「ところでイグゼキュターさん」
    「何でしょう」
    「このあたりでパフェのうまい店、あります?」
    「五件ほど候補があります」
     眉一つ動かさない葬送人に、中身を封筒に仕舞い終えたリーはへらりと微笑んだ。
    「案内してもらってもいいですかね」
     
     次は春にラテラーノへ行こう。どうしたんですか急に、花でも見頃なんですかい? この前エンフォーサーに案内してもらったお店、春限定のパフェがすごくおいしいらしいんだよね。今は栗と無花果のパフェが出ているんだけど、それがほんとうにおいしかったんだよ。感動した。スイーツというものを糖分と脂肪分の塊だと思っていた私が愚かだった。あれは幸福そのもの、幸せが結晶化したものだよ。でもエンフォーサーは春に出る苺と薔薇のパフェがこの店で一番ですよって言うから……。何笑ってるんだよ。いえね、あなたは花より団子なんだなと思いまして。こらこら、怒らないでくださいよ。良いことじゃないですか。
     好きなものがあるっていうのは。
     
     ***
     
     あの人はおれにテラ全土一周でもさせる気なのか――とリーは吹雪の中で歯噛みした。視界が白く染まる。イグゼキュターから手渡された封筒に入っていたのは、絵葉書ではなかった。
     それは作戦時の暗号として使われる識別コードだった。チェルノボーグを意味する。
     ドクターが彼の地について心を零したのは、唯の一度だけだった。
     あれは。
     私が一度死んで。――そして生まれた場所なんだよ、と。
     バベルの指揮官が死んで、全ての記憶をなくし、そして【ドクター】が生まれた。
    「……」
     息は吐いた端から凍っていく。肌の下を流れる血液すらも、歩みを止めたら凍りついてしまいそうだった。冬の寒さは嫌いではない。生の穢を清めるようで。けれどもこの地の冬は違う。生きとしいける全てから、生の温度を奪う寒さだ。
     耳元で聞こえるのは風の唸り声か、それとも遠い日の幻聴か。
     前に好きな季節は何かって尋ねたの、覚えてる? そりゃ勿論。冬は好きになれそうにないよ。寒いからですかい? そう、寒いから。リーだってあんまり好きじゃないだろう。おれだって暖かい方が好きですけどねえ。でもこの季節も悪いもんじゃありませんよ。温かい茶は格別に美味いですし、そうだ、宿に戻ったら鍋なんてどうです? はは、君がいてくれるならこの季節も好きになれるかな。なれますよ。さ、早く帰りましょうか。……。どうしたんです。手を引かれるほど子どもじゃないよ。でも雪に足を取られて転ぶのは嫌でしょう? 来る途中に転んだのを見てたなら言ってくれよ。……。どうしたんです? 子どもじゃないんでしょう? いやあ、何ていうか。
     君の手、温かいね。
    「……」
     思い出すな、と唇を噛む。
     期待をするな、と言い聞かせる。けれど駄目だった。そんなものに意味がないことは、とっくの昔に気づいていた。
     もうとっくに、知っていたのだ。
     自分たちの間にあった熱、足を浸しているその感情の名前が何であるかなど。
     知っていて――知らないふりをしていた。
     だから、その罰を受けている。
    「――」
     声が、聞こえた。
     自分の名を呼ぶ声が。
     弾かれたように振り返る。吹雪の中、白く閉ざされた視界の中で、動くものを探す。自分以外の生命を探す。雪原の中に浮かび上がる影があった。兎が跳ねるように、こちらへと駆けてくるのは――
    「……リーさん?」
    「――アーミヤさん、でしたか」
    「どうしてこちらに?」
     雪に閉ざされた大地で、口から言葉と白い吐息が立ち上るのは、生命の証でもあった。どうして、と尋ねられて言い淀む。リーにしては珍しいその停滞に、アーミヤは微笑んだ。枯れた花を慰撫するような笑みだった。
    「……実は、リーさんに渡すよう、預かっているものがあるんです」
     予想はしていた。あの人がケルシーに何かを託して、アーミヤに何も預けない訳がない。
     確信めいた予感があった。
     この旅がケルシーによって始まったならば。
     それを終えるのはアーミヤであろうと。
     これを、と差し出された封筒は白い。雪よりも、吐息よりも、冬よりも。
     目指す場所はまだ先だからと、去っていくアーミヤの背を見送る。封筒には硬い手応えがあり、中身は今までのように絵葉書一枚便箋一枚ではないようだった。
     封筒を開ける。
     そこに入っていたのは鍵だった。探偵事務所の合鍵だ。いつかに、自分がドクターへと渡したものだ。――いつでもやってこれるようにと。全く、アフターフォローがしっかりしている。あの人の喪失と共に、鍵も所在不明となったと思っていたのだが、事務所の鍵を付け替える必要はなさそうだった。
     それを良しとするべきなのか、今の自分には判別ができない。
     中身はそれだけではない。今までと同じように、一枚の便箋に綴られた、最早懐かしさすら感じる筆跡。
     I'm nowhere.
     それは、旅路の終わりを告げる、別れの言葉だった。
     
     3.Autumn falls.
     こんな寓話がある。
     昔々あるところに写真に写らない男がいた。その体質故に男は誰とも写真を取らなかったが、親しくなった連れ合いは彼の忠言を聞かずにたくさんの写真を取った。男が本当は写真に写りたがっていると知っていたからだ。しかし、男と離れ離れになった後、連れ合いは忠言の真意に気づく。それは連れ合いのためのものだったのだ。写真の空白を見る度に、連れ合いはそこに男を幻視する。写真を離れても。空席、誰もいない部屋、人気のない夜の街に。連れ合いにとって男は不在no/whereではなく、偏在now/hereする存在になったのだ。
     チェルノボーグを離れたリーは、そのまますぐに龍門には戻らなかった。リターニアへ行った。クルビアを訪れた。サルゴンを巡った。イェラグを回った。カジミエーシュを尋ねた。クルビアへ赴いた。そのどれもにドクターとの思い出があり、だからその度に自分の隣りにある空白を感じた。
     ドクターはもうどこにもいないのだと。
     しかし、確かに、今ここにいる。
     自分の心の中に。
    「……」
     馴染みのある石畳の上を歩くと、旅の疲れがどっと押し寄せた。事務所の布団と茶が恋しい。古くて汚いと言われようが、家はやはり家だ。夜であっても、否、だからこそ龍門のネオンは眩しい。数ヶ月前ぶりだからだろうか。街の喧騒は記憶にあるものよりも幾分にぎやかだ。まるで祭りのように。そう思ったリーは、自分の横を通り過ぎて駆けていく子どもの仮装を見て、今日が何の日なのかと思い出した。
     死者の仮装をし、死者に紛れ、死者を弔う祭り。
     安魂夜。
     それが――今日、だったのか。
     見れば街中が仮装パーティーのような有様だった。シーツを被った幽霊、頭からボルトの飛び出た改造人間、黒衣を纏った吸血鬼。そういえば自分も、魔術師の仮装をしたことがあったか、と人混みを見渡したリーは、
    「――おかえり」
     そこに、見た。
    「思っていたより遅かったね。旅は楽しかった?」
     白衣の上から上着を羽織った人影を。
     仮装などではない。見間違えるはずがない。あの人を、他の誰かと、間違えるはずがない。
    「ああ、安心してくれ。実は生きていた――なんてオチじゃない」
     ちゃんと死んでいるよとドクターは笑う。フードもフェイスシールドも被っていなかった。もう必要がないのだろう。その証拠に、人混みの中で立ち尽くしているドクターに注意を払う人間はいない。そんな人間は、どこにも存在していないように。
    「……あなた、どうして」
    「どうして? そんなの決まっているだろう。化けて出てきたんだよ――幽霊らしく」
     リーが石畳を蹴ったのと、ドクターが白衣を翻して走り出したのはほぼ同時だった。何年も住んだ場所だ。地の利はこちらにある。なのに逃げ水を追うようで、その背との距離は縮まらない。人混みをかき分けて走るリーに、鈴を転がすような笑い声が届く。
    「楽しいですか、おれを、散々に振り回して!」
    「いやあ、楽しい楽しい。生きている内にもっとやっておけば良かったよ」
     人影はトンネルの中へと走り去る。今度こそ置いていかれてたまるかと、リーは後を追いかけた。必死の形相で走っている龍族の男にただならぬものを感じたのか、人々は彼のために道を開けた。預言者が海を割る神話のように。
    「でもちょっと意外だった。君がそこまで私に執着してくれるとは思わなかったから」
    「は? 何を言って――」
    「だって君、好きだとも言ってくれなかったろう」
     トンネルを抜ける。そこは龍門の街ではなく、常夏の日差しに祝福された浜辺だった。汗を乾かす潮風を感じながら、リーはドクターの背を追う。二人分の足跡を、波が攫って泡沫へと帰す。
    「君は狡い男だよ。懐に入れてはくれるのに、心を許してはくれないんだね」
    「あなたの方がよっぽど酷い」
     直線ではリーに分があった。少しずつ距離が縮まり、次第に零になる。風をはらんでひらめく白衣に手が届く。しかし触れたところでドクターの姿は羽獣へと変わり、翼となった白衣で風を切って空高く飛び上がる。
    「情を注いではくれるけど、これは血にはならないんだろう?」
    「おれの心から流れる血がわかりませんか」
     あの空を駆けなければと思ったときには、リーの姿は龍へと転じていた。降り注ぐ日光を、黒と金の鱗が照り返す。その姿は堂々たる龍そのものだったが、しかしこれでは小回りが効かない。いくら手を伸ばして空を掻いたところで、風にもてあそばれる木の葉のように、白鴉はその手の隙間から逃れていた。
    「葬式のときに泣いてもくれなかった癖に」
    「あなたに言われてあちこち旅をしているときに流した汗で勘弁してくれませんか」
     爪が翼を掠める。背筋を走ったのはようやく捕まえられるという喜びではなく、この人を傷つけたのではないかという恐怖だった。白鴉は羽ばたくのをやめ、滑落していく。くるくると螺旋を描く白い影が、水面へと落ちる。リーもそこに飛び込むと、風とは異なる冷たさが二人を歓迎した。
    「ねえ、あなた、どうして――」
     羽獣と龍は再び人の姿へと戻り、光すらも届かない水底へと沈んでいく。ドクターは静かに微笑んでいた。
    「言ったろ。もう私は死んでいるんだ。だから幽霊らしく化けて出て、化物らしく呪ってやろうと思ったんだ。私がいなくなっても、百年経っても君が私のことを忘れないように」
    「……」
     この人は。
     結局、死んで、「ドクター」であることをやめなければ――たった一つの願い事を、口にすることすら、出来なかったのか。
    「ならおれは、千年経ってもあなたのことを思いますよ」
     それは慮外の答えだったのか。ドクターが目を見張る。水の中はリーの領分だった。ようやく、沈んでいく影に追いつく。羽獣から人の姿に戻ったドクターの腕を掴む。
    「千年経っても、三世を経ても、あなたのことを探します」
     血は水よりも濃いのだという。
     けれど、自分たちの間にあった水は、情は。青い心は、胸の奥底から溢れ出すもので、もうとっくに元の色もわからない。
     わからないけれど。
    「君も、私のことを呪うのか?」
     きっとそれは、運命のように赤い。
     流れ出る言葉は、この水を汚すだろう。しかしそれで構わない。蓮華が美しいのは、足元に泥を敷くからだ。
    「違いますよ、おれは――」
     幽霊のように化けるのではなく。
     化物のように呪うのではなく。
     ただ、ひとりの人間として。
     三世を経ても解けぬ、千年を経ても褪せぬ、この世で最も煩雑な因縁で、あなたを縛ろう。
    「あなたを愛しているんです」
     
     4.Spring has come.
     血は水よりも濃いのだと言う。
     ならばこの大地で累計を捨てた彼は、唯一人清流に棲む龍種だろうか。
     
     夢から醒めた直後は、いつも此岸と彼岸の境が曖昧だ。カーテンの隙間から一条の光が差し込んでいる。夜はもう明けたようだった。
     喉が渇いていた。傍らにいる彼はまだ寝ているらしい。起こさないようにそうっと腕から抜け出す。足音を立てないように床へ足を降ろしたところで、何かが腕に巻き付いた。
    「どこへ行くんですか」
     背後から聞こえる声は、寝起きであることを差し引いても低く、不機嫌さが滲んでいる。それは単に眠りを邪魔されたことだけではないだろう。あっという間に柔らかな寝台、腕の中へと逆戻りだ。彼はお気に入りのぬいぐるみでもそうするように、ぎゅうぎゅうと私を胸板へと押し付ける。
    「朝だから起きようと思って」
    「まだ夜です」
    「外は明るいけど」
    「まだ夜です」
    「……」
     どうにも今日の彼は機嫌が悪いらしい。夢見でも悪かったのだろうか。
     こうして息も苦しいほど抱き締められていると、確かに夜と変わらない。大人しく惰眠を貪ることにする。いずれにせよ抱きしめる腕と巻き付く尾に縛り付けられ、どこにも行けそうになかった。
    「……なんです、にこにこして。夢見でも良かったんですか?」
     夢を見ていた。そのことは覚えている。しかしどんな夢だったのかは、思い出そうとするほどに、この手の中から零れ落ちていく。
     愉快な出会いがあった気がする。痛快な旅があった気がする。悲壮な別れがあった気がする。
     けれど、いずれにせよ――
    「君の夢だよ」
     返事はもうなかった。彼は一足先に、夢の中へと旅立っていたらしい。
     私も彼に倣って目を閉じ、そして夢を見る。彼の夢を見る。いつまでも夢を見る。
     零れる涙が、溢れる情が、流す血が。
     ただの水を、血よりも濃くする夢を見る。
     彼も自分も――、この大地でひとりきりではないのだと。
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    はるち

    DOODLEロドスでダンスパーティーが開かれるのは公式というのが良いですね
    shall we dance「あなたには、ダンスはどのような行為に見えるかしら?手を相手の首元に添えて、視線を交わせば、無意識下の反応で、人の本心が現れるわ」

    踊ろうか、と差し出された手と、差し出した当人の顔を、リーは交互に見た。
    「ダンスパーティーの練習ですか?」
    「そんなところだよ」
    ロドスでは時折ダンスパーティーが開催されている。リーも参加したことがあり、あのアビサルハンター達も参加していることに少なからず驚かされた。聞けば彼女たちの隊長、グレイディーアは必ずあの催しに参加するのだという。ダンスが好きなんだよ、と耳打ちしてくれたのは通りがかりのオペレーターだ。ダンスパーティーでなくとも、例えばバーで独り、グラスを傾けているときであっても、彼女はダンスの誘いであれば断らずに受けるのだという。あれだけの高嶺の花、孤高の人を誘うのは、さぞかし勇気のいることだろう――と思っていたリーは、けれどもホールの中央で、緊張した様子のオペレーターの手を取ってリードするグレイディーアを見て考えを改めた。もし落花の情を解する流水があるのならば、奔流と潮汐に漂う花弁はあのように舞い踊るのだろう。グレイディーアからすれば、大抵の人間のダンスは彼女に及ばないはずだ。しかしそれを全く感じさせることのない、正しく完璧なエスコートだった。成程、そうであれば、高嶺の花を掴もうと断崖に身を乗り出す人間がいてもおかしくない。
    1754

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