カラフル 広くはない店の中に、いきなり歓声が響いてしまった。
声を出した懐かしいいくつかの顔は、ギョッとしたように肩を竦め、小さくなる。私は大声を上げなかったけれど、同じテーブルに着いている以上、同罪な気がして、こちらを窺う店のマスターやほかのお客さんに、軽く頭を下げた。もうこんな声は出さないと誓うように。
久しぶりに会った同級生との会話は、自然と盛り上がり、度を超えてしまう。みんなもういい大人なのに、高校生に戻ってしまうのだろう。いけないいけない。注意しなくては。
お盆の帰省に合わせて、クラス全員が集まるほどの大掛かりな集まりではない。ほんの数人だけ。あの頃本当に気の合った連中が、私の目の前で笑っていた。勿論、今度は小さな声で。
都会で働いている人、既に人の子の親になっている人、家業を継いだみたいな……まだ正式に決まった訳ではない……私のように、地元で踏ん張っている人、いろいろだ。でも、都会の話はすべてが眩しく、また、披露された子供の写真は、やはりすべてが愛らしい。勿論、放っておいたらどんどん寂れていく長谷津を、何とか賑わう街にしようとしている連中の話も、すべてが興味深く、聞き流せない。
それぞれの道を堂々と進むクラスメイトたちを、私は誇りに思っている。
「そう言えば真利んち、ヴィクトル・ニキフォロフがいるんだって?」
「ヴィクトルを知ってるの?」
うちの家族は、弟がスケートの選手であっても、あまりフィギュアスケートに詳しくない。日本でも決して人気のスポーツではないはずだ。どちらかと言えばマイナースポーツに属するだろう。世界で活躍している選手が多い女子シングルに比べ、男子は特に。
それだけに、友達からヴィクトルの名が出たのに驚いた。
「ヴィクトル・ニキフォロフみたいな超イケメン、知らない人がいる?」
周りにいた全員が頷いたのを見て、そういうものかと思い至る。私はタカオの方がいいと思うし、勇利があんな風でなかったら、私の目にヴィクトルが留まることはない。一生接点がない、はずの人だ。
それに加えて、実態を知ってしまった今では……そう、確かに友人の言う「超イケメン」であることは認めるけれど……でかくて場所塞ぎな、もうひとりの弟みたいなものでしかない。
突然やって来た、大きな犬を連れた、これまた大きな外国人。弟の長年の推しであることはすぐに判ったけれど、何故こんな田舎にいるのか、全く理解が及ばなかった。でも、好みの路線とは違うけれど、確かにイケメンではあるし、異様なくらい人懐こいし、不慣れなはずの日本の温泉を、物怖じせず楽しんでいるようだし、うちの家族は早くから彼を受け入れてしまっていた。弟の犬と同じ名前、弟の部屋にあるたくさんの顔。多分私たちは出会う前から、彼に慣れていたんだろう。
一番馴染めなかったのは、間違いなく勇利だ。まぁ、無理もない……。
「ねぇ、ヴィクトルの写真ある?」
「写真?」
いつの間にか、あの春の日に帰っていたらしい。桜と雪が同時に舞っていた不思議な1日。でも、友達の声に我に返った。あの日はもう遠い。外は容赦ない陽射しが降り注ぎ、店の中のよく冷えた空気に生き返るくらい、夏真っ盛り。暑い中執り行われる先祖の供養を、思い病んでしまうほどだ。
「写真ねぇ……」
勇利ではあるまいし、撮っただろうか。いや、少しは撮ったかもしれない。でも、勝手に見せていいものか……。
迷っているのを察したんだろう。身を乗り出していた友達が、すんと座り直した。
「ごめん、反則だよね」
「反則?」
「プライベートな写真を覗き見るなんて、世界中にいるヴィクトルファンに恨まれるじゃない?」
うちに住み始めたのを機に、彼のSNSをフォローしたけれど、ヴィクトルはうちの弟も含めて、たくさんプライベート写真を上げている。友人の危惧は今更という気がする。それに、「見せて見せて」とねだられるより、こんな風に引かれる方が見せたくなってくるというものだ。どうも天邪鬼な性格は、この歳になっても変わらないらしい。
「ちょっと待って」
当たり障りのない、SNSでも見られるようなものなら……。
スマホの写真フォルダを漁ろうとした手が止まった。
確かにそれほどヴィクトルを撮ってはいない。でも、最初の1枚、つまり一番新しいのは、昨夜撮影したヴィクトルと勇利だった。
私はまた、みんながいるというのに、ひとりヴィクトルを思い返していた。
昨夜私は、決して暇ではなかったのに、何故かヴィクトルの探検に付き合っていた。
探検、あれはまさしく探検だ。
彼は急に思い出したように、広くて古い私たちの家を、ぐるぐる巡って歩く。当然のマナーは弁えているらしく、ひとりで家探しするようなことは一度もない。勇利とマッカチンを連れて回っているのを見かけたこともあった。
昨日は私に白羽の矢が当たった。勇利は不在だったらしい。
彼が進みたいという方向へ、私が案内する。歩きながら、私がここを相続するときは、専門家に相談すべきだと決意を新たにした。それほど無駄に広い。
彼は廊下の奥を指さして、まだ入ったことのない、奥まったあの部屋を覗いていいかと尋ねてきた。
そこは私もしばらく入っていなかった。とうに亡くなった祖母が使っていた部屋だ。母は時々掃除をしていたかもしれない。でも、私は足を向けたことはない。だから、何が残っているか、興味もあったんだろう。「いいよ」と頷いていた。
「WOW!ますますクラシカル!」
襖を開き、中に入ったヴィクトルが歓声……あれは間違いなくよろこんでいた……を上げた。
私も目を見張った。
誰も使っていないのに、そこは美しく整えられていたからだ。忙しいはずなのに、こういうところ、本当に母はすごいと思う。
年代物の桐箪笥。祖母が着ていた着物がぎっしり詰まっているのだろう。それとも親戚に形見分けを済ませて、減っているかもしれない。開けてみようか迷っている間、ヴィクトルは部屋の中で踊るように古い家具を眺めていた。「WOW!」を繰り返しながら。
確かに、これだけきちんと残された和風の家具は、外国人の目には一種のアートに映るかもしれない。私にだって、価値あるものに見えてしまうほどなのだから。
揃いの衣裳箪笥。何が入っているのかさっぱり想像がつかない、階段状の小さな箪笥。丸いテーブル、ではなく、卓袱台に、低めの衝立がいくつか。手作りであること、使い込まれていること、そのすべてが伝わってくる木の質感と色合いに、私は少し圧倒されていたのかもしれない。
「これは何?」
ヴィクトルの問いかけに、私はびくりと背を揺らして振り返った。
それは小さな化粧台だった。三面鏡を開いたその前で、祖母が髪を整えていた記憶がある。
私は万が一にも壊してしまわぬよう、慎重に鏡を開き、そっと小さな引き出しを開けた。
祖母が使っていただろう柘植の櫛がひとつ、入っていた。
何故これだけ忘れられたように残っているのか、勿論全く判らずに拾い上げる。
長く放置されていたのに、ちっともみすぼらしくない。それどころかこれもまたアートのひとつのように思えてきた。
「comb?」
「私たちの祖母が使ってたものだと思う」
「WOW!」
ヴィクトルは両手を頬にあて、目と口を丸くして驚きの表情を作った。
「Beautiful!」
櫛を覗き込むヴィクトルに、私はそれを差し出した。
「触っていいの?」
「何で? 勿論、いいよ」
ヴィクトルの大きな手が差し出されるのを待って、その上に載せた。彼は角度を変えながらそれを眺め回し、そっと両手の上に載せ、また眺め続けた。
丁寧な扱い方や、慎重な観察の仕方は、とても好感が持てる。普段から他国の文化を大切にしている彼の精神を垣間見たようだった。
「長い時間を経た、重みを感じるね」
「使ってみたら?」
「とんでもない」
「どうして?」
「いけないことのように思えるんだ」
「そう? ヴィクトルみたいな銀色の髪を梳いたら、櫛も本望じゃない?」
何だかそんな気がする。ずっと黒髪ばかりを整えてきた櫛だ。銀色の、それもこんなイケメンの髪を整えたと知ったら、天国の祖母は、いつもの優しい笑みを浮かべそうだ。
「使ってみるなら……」
ヴィクトルが言いかけたとき、外から声がした。
「こんなところで何してるの?」
驚いた。不意に現れたのは勇利だった。
多分ヴィクトルは、「使ってみるなら勇利の髪で」と言いかけたんだと思う。そこへ、まるでヴィクトルに呼ばれたように勇利がやって来た。私は不思議なものでも見るような目で、弟を見詰めていたんだろう。勇利が怪訝だった表情を、ますます険しくする。
「運命のふたり」なんて信じるほど、少女ではないけれど、彼らには似合う言葉のような気がする。
「いいところに来たね! 勇利、ここに座って!」
ヴィクトルがはしゃぎ始めた。櫛を見詰める神妙な顔つきは、すっかり消えている。
「ここ?」
ヴィクトルが何をしようとしているのか、見当がつかないらしく、弟はなかなかコーチの命令に従わない。彼らは練習でもこうなんだろうか。コーチは言葉が足りず、生徒は頑固。それも折紙つきの頑固者。順調に練習できていたとしたら、それは正に奇跡なのでは? 本当に「運命のふたり」なのでは?
「髪を整えてあげるよ」
「は? 何を言ってるの? いいよ、別にボサボサしてないし」
「そういうんじゃなくて、試合のときの髪を考えようって言ってるんだよ」
「いつも通りでいいだろ」
「だから、一度その髪にしてみようって……」
せっかく「運命のふたり」などというこそばゆい言葉で、気持ちが和んでいたのに、目の前で始まったやり取りに、私はすっかり面食らっていた。
これが会話なんだろうか。冗談でしょう? こんなものを見せられた私が、妙にムカつくのは当然と言えるのではないだろうか。痴話喧嘩の類だ。
私は面倒臭くなって、勇利に話しかけた。
「別にいいんじゃない? こんな経験、一生のうち、2度とないかもよ」
少し大袈裟に言ってみると、勇利の抵抗はぴたりと止んだ。葛藤しているのだろう。視線が上を向く。考え事をしていると視線が上向くというのは本当らしい。
弟が懊悩しているのは、恐らくこんなことだ。
憧れの人に髪を整えさせるなんて不届きな真似は、絶対に断るべきという、些か拗らせた考えと、一生に1度の経験を自分に許したい願望と。
勇利は、後者を選んだようだ。
弟はすっと化粧台の前に正座した。知ってはいたけれど、ミナコさんに叩き込まれた所作は、我が弟ながらなかなか綺麗だ。
ヴィクトルが後ろに回り、勇利の髪に櫛を入れる。後頭部を整え、いよいよ前髪に取り掛かる。彼は思ったより優しい手つきで髪を掬い上げ、後ろに撫でつけた。途端、勇利の広い額が顕になった。
妙な気分がした。
姉の目から見ても、勇利はイケメンに類する方だと思う。小さな顔に大きな目。背も高いし手足は長い。鍛えまくった体幹のおかげで、素晴らしく姿勢がいい。
でも、勇利のイケメンの基準が高過ぎるせいで……誰のせいとは言うまでもない……本人にその自覚はない。そのため周囲の視線が自分に向いているなどとは微塵も想像せず、常にひとりの世界に入り込んでは、ぼーっと空想を楽しんでいたり、好んで野暮ったい服を着て、せっかくの見かけを台無しにしてしまう。髪型だってそうだ。きちんとキメたらかっこいいのに、ヴィクトルを真似て、無理矢理長く伸ばしてみたり、逆に邪魔だからと短くし過ぎたり。ちょうどいい具合になることがない。
でも弟は、昔から「憑依する」子供だった。
ふたりの姿を見ていたら、それを改めて思い出した。
スケートでもバレエでも、何か役にはまり込むと、勇利は勇利でなくなってしまう。私の弟ではない、別の誰かが現れる。
今もそうだ。
さっきまで不満そうに眉を歪め、唇をとがらせていた、年齢にそぐわない幼さを見せていた弟はもういない。突然スイッチが入って、別のものになってしまった。
暖色の室内灯を浴びながら、現実のものとは思えない美貌の男に髪を撫でつけられている勇利は、自分のすべてを男に任せ、預けきっている。ヴィクトルへの信頼が、勇利の横顔に満ち溢れている。
よく言えば、息の合ったコーチと生徒。少し芝居がかった言い方をするならば、傀儡師と美しい人形。もう少し現実に近づこうとするならば、勇利という表現者を再構築しようとするプロデューサー……やはりうまい言葉が見つからない。
でも、私は判ってしまった。
ヴィクトルは勇利をすっかり作り替えてしまうだろう。それは私の知らない弟に違いない。でも、新しい「勝生勇利」は、きっと世界中に受け入れられる。高い評価を受ける。そんな予感がした。
だから、ヴィクトルに全部任せておけばいいんだ。弟は今まで知らなかった世界を知り、ますます羽ばたいていくだろう。窮屈な田舎町も、狭い日本も飛び出して、活躍する。きっと。
私はふたりに向かって、スマホを構えていた。無意識の行動だった。
「うわっ、何これ」
私はスマホを持ったまま、またひとりで追憶の旅に出ていたらしい。
「え、どうした?」
隣に座っていた友達が、昨夜の写真を見てしまったようだ。見られて困るような……例えば床に大の字になって転がっているヴィクトルとか、意味もなくハグしているふたりとか……ものではなくてよかった。コーチが生徒の髪を梳いているだけだ。
でも、見てしまった友人の反応は「だけだ」という感じではない。
「この写真が何?」
「うーんとね、何かエロくない?」
そう? と答えるつもりだったのに、言っていた。きっと私も心のどこかで、そう感じていたんだろう。
「やっぱり?」
苦笑していた。するしかなかった。
別にエロくはない、と思う。髪を梳かしているだけなのだから。でも、何て言うんだろう。オレンジ色の灯のせいか、ふたりの悦に入った……いや、この言い方もどうかと思うけれど……表情が、何て言うか……弟でこういうこと言うの、本当に変なのだけど……その、「事後」みたいに見えなくもなくて。
「そう言えば、歌舞伎の表現で髪を梳くって、関係があることの隠喩だったよね?」
「うん、そうだよ」
大学で国文学を専攻した友達が、何故かしたり顔で頷く。
関係がある隠喩? いやいや、弟でそういう想像は無理!
「でも、いい写真だよ。よく撮れてる。公開してあげたら? ヴィクトルのファンも、勇利くんのファンもよろこぶよ」
とんでもない情報をもたらした国文卒の友人が、またしてもとんでもないことを言う。
「嫌だよ。そんなことし聞いたら、ますますできない」
「歌舞伎のシーンじゃないんだし、誰も勘ぐったりはしないでしょ」
「そうだよ。こんなに素敵なんだから、みんなに見せてあげなよ」
「やだ。わざわざ垢バレしたくない」
「ゆーとぴあの公式アカウントは?」
「エロいって言ったくせに。商売に差し障りがあったらどうしてくれる?」
勇利が帰ってきただけでなく、ヴィクトルがいるお陰で、うちは今、かなりのヴィクトルフィーバーが起きてるのだから。いつまでいるのか判らない分、稼げるときに稼いでおかなくては。
でも……。
私はふと思いついた。ヴィクトルのアカウントからなら、この写真を公開してもいいかもしれない。「歌舞伎ではね……」なんて、彼に入れ知恵したら、余計に面白がりそうだ。
「勇利くん、メダル獲れるといいね」
「うん、獲るよ」
今まで、勇利のスケートのことは、何もコメントしなかった私が、きっぱり言い切ったものだから、みんなが驚いている。痛快だ。でも、そう思えるのだから仕方ない。勇利は必ずやメダルを持って帰るのだから、こう言うしかない。
ヴィクトルは近い将来、私の弟を更に遠くに連れていく。
それには、ちょっとした恨みを感じないでもないけれど、勇利をしあわせにしてくれるのなら、黙って認めようと思う。
窓から見える空は、青が鮮やか過ぎてとても眩しい。
彼らが住む銀色も、空に負けじと眩い。昨日の淡いオレンジ色の光とは、まるで違う。
その中で、金色のメダルをかけている勇利を思い浮かべ、私は友人たちに見つからぬよう、こっそり笑った。
それは紛れもなく、未来の弟の姿だった。