ランドリールームの幽霊さん 噂がある。
このホテルのバックヤードでまことしやかに流れる噂。
曰く、このホテルには百年前から幽霊がおり、不興を買うと頭から食われてしまうらしい。
曰く、その幽霊はとんでもない美人らしい。
曰く、その幽霊と会うと幸せになれるらしい。
噂、と言うより幼い子供の創作に近い。信憑性の欠片もない作り話。先日行われた創立50周年記念パーティー――そう、50周年だ!100年ではなく!――で、笑い話として語られる程度の、くだらない噂。お偉方の長話の間に挟まれた小粋なジョーク――と、本人は思っているのだろう。外野からすれば欠伸が出るほどつまらなかったが――に、けれど数人のスタッフが笑いもせずに顔を青ざめさせていたのは、それが『噂話』と呼ぶにはあまりに信憑性を帯びすぎていたからだ。ただの噂で人は消えない。
三階奥の封鎖された部屋。数年前まで、そこは二人組の悪党が拠点を置いていたらしい。もちろん、『悪党です』とわざわざ名乗る悪党はいないので、これはスタッフ間で囁かれていたただのあだ名だ。なんでも、二人のうち一人は、誰もが目を引く華やかに美しい男で、もう一人は影のようにひどく印象の薄い男だったらしい。絶対に部屋に入らないでくださいね、と、スタッフ全員が念を押されたせいで、当時は好き勝手な噂が飛び交っていた。
曰く、あれは絶対裏で何かやってる顔だ。
曰く、あれはマフィアの御曹司とその護衛に違いない。
曰く、あれこそがきっと、かの有名な仮面の詐欺師だ。
冷静に考えてそんな有名どころの悪党がこんな安っぽいホテルに泊まるはずがないのだけれど、想像する分には自由だろう。いつの間にかその『仮面の詐欺師御一行(仮)』は、つまらない日常のちょっとした清涼剤みたいな扱いになっていた――ので、事件が起きた日はそれはそれは大騒ぎだったらしい。
そう、事件だ。
チェックアウトの手続きもなしに、彼らは忽然と部屋から消えた――消えたのだ。ちょうど二人分の血液みたいな大量の赤いペンキを部屋中にぶちまけて。まるで、噂のとおりに、頭から幽霊に食われてしまったとでも言うように。
真っ赤に染まったその部屋は、どんな腕の良い業者に清掃させても、何度壁紙を張り替えても、翌朝には同じように赤く染まってしまったそうだ。鍵をかけても、見張りを立てても、何度でも――だからこそ、彼らを、事件を知るスタッフはみな青い顔でこう言うのだ。
これは、幽霊の呪いだ、と。
彼らは幽霊に食われたのだ、と。
――と、ここまでが、配属初日に新人諸君が聞かされる噂の全貌。締めのお言葉は毎年同じ。『だから三階の清掃、全部新人の役目ってことになってるんだよね』なので、要するにこれは新人に仕事を押し付けるための長い長い前口上。ついでに、新人に対するちょっとした洗礼。新しいスタッフが入るたびに少しずつ改変が加わる噂は、もはや原型すら分からないありさまだ。噂の元がどうであれ、この三階に人食い幽霊なんて存在しない。もしそんなものがいたら、とうに私は食われてる。
三階奥の噂の部屋――から、ふた部屋隣。エレベーターホールの斜め横に配置されたランドリールームのベンチに腰掛け、ごうんごうん回る洗濯機をぼんやり眺める。脇には大量のリネンが、その隣にはタオルの山が雪崩を起こしかけていた。おそらく先日配属された新人がおっかなびっくり置いていったものだろう。そんな怯える必要はないのに、と思わなくもないのだけれど、あの噂を思えば仕方がないことかもしれない。まあできれば次は、せめて洗濯機に入れるところまでやって欲しいところだけれど。年々質の悪くなるスタッフに、誰にともなくため息一つついて立ち上がる。崩れかけのリネンを積み直していたところで、澄んだ声が背中にかかった。
「清掃スタッフの、かたですか?」
振り返って、息を呑んだ。
うつくしい男だった。艶のあるプラチナブロンドに、白皙の美貌。片目の周りを縁取る毒々しいボディペイントが、けれどしっくりと似合っている。無駄な肉のないすらりとした身体は、さながらモデルか何かのようで、抱えられたホテルの安物の洗濯籠の方がなんだか恐縮しているみたいに見えた。
それほどに、綺麗な男だった。まるで――
「なにか?」
「――いえ、何でも」
まるで、この世のものではないみたいだ、とは流石に言えずに口ごもる。綺麗ですね、と、言うことすらもはばかられるような美人だった。あるいは当時の『仮面の詐欺師(仮)』に対したスタッフも、こんな風だったのかもしれない。
「これは、勝手に使っても?」
「……洗濯物でしたら、そこに置いて頂ければ」
やりますよ、とつづける前に、男は籠の中身を洗濯槽に流し込む。目分量に洗剤を入れ、洗濯機のスイッチを押す、それだけの仕草すら妙に洗練されていた。
「あの――」
「あァ、失礼しました。他人に任せるのが好きではないので」
どうやら潔癖な性格らしい。ベンチにハンカチを敷いて腰掛けると、彼は物憂げにごうんごうん回る洗濯機を眺める。長い脚を組んで顎に手をあてるさまはやはりひどく絵になっていた。あるいは、本当にモデルとか、そういった仕事をしているのかもしれない。不躾なことを聞くわけにもいかないので、代わりに男をそっと横目に観察する。毒々しい左目のペイントがどうしたって目を引いた。うすい膚に色濃く刻まれた鮮やかな紫。あれは――直接、彫っているのだろうか。ざわりと騒ぐ胸のうちを抑えて、洗濯機の回る音に耳を傾ける。ごうんごうんと響く音はどこかさざ波の音に似ていて、気を抜くとついうとうとしてしまう。常なら業務中に寝ることなどあり得ないのに、うっかりうたた寝してしまったのは、きっと慣れない緊張に疲れてしまったからだろう。洗濯終了のアラート音に目を覚ましたとき、彼はもういなかった。
あれほどの美人であればさぞ噂になっているだろう。そう思ってスタッフ間に探りをいれたものの、結果全て空振りに終わった。フロントのスタッフですら彼の姿を見ていないみたいに、話題にすら上らない。プラチナブロンドのモデル級の美人なんて、口の軽いこのホテルの連中にとっては格好の噂の餌食だろうに――あるいは、お忍びでチェックインでもしているのだろうか?それこそ芸能人や、あるいはマフィアの御曹司みたいに――ばかばかしい。芸能人もマフィアも、こんな何もない街にわざわざ来る理由がない。だいいち、マフィアにいくら金を積まれたって噂好きのスタッフの口止めになるとは到底思えなかった。となると――実は、彼は本物の幽霊だった、とか。
マフィアよりずっと現実味のない妄想を、けれどばかばかしいとは思えなかった。現実をねじ伏せられるほど、圧倒的に彼は美しかった――ので、名前すら知らない彼のことを暫定的に『幽霊さん』と呼ぶことにした。大概失礼かもしれないけれど、『マフィアさん』よりは多分マシだろう。
幽霊さんは、どうやら三階の部屋を使っているらしく、二日に一回程度のペースでランドリールームを訪れた。時間は決まって午前二時。ホテル据付の籠いっぱいの洗濯物をもくもくと洗濯機に詰め込んでは、ベンチでぼんやり何事かに思いを巡らせている。
どうやら『幽霊さん』には、何事か深刻な悩みがあるらしい。洗濯機を見つめるその瞳は常に憂いを帯びており、その眉間にはきゅっと皺が寄っていた。ときおり、唇の端を噛んではやめるのを繰り返し、深く深く、ため息をつく。ときには落ち着かない様子で爪先で床をこつこつと叩いては、はしたないと気づいたみたいにやめる。そしてまた、ため息一つ、その、繰り返し。
はじめは踏み込むべきではないと思っていたものの、それが一週間続いたあたりで、流石に気になって声をかけた。
「……なにか、悩み事でも?」
思い切ってかけた声に、けれど返事はなかった。ごうんごうんと、洗濯機の回る音だけがまるで波の音みたいにひびく。聞こえていなかったのか、それとも、無視されたのか――いずれにせよ、気まずいことに変わりはない。もしかすると彼は、一人で悩みたくてわざわざここに来ていたのかもしれない。それこそ、こちらのことなどただの置物とか備品とか、そういう扱いで。だとしたら、今のは完全に失言だっただろう。どうしていつも自分はこうなのだ。余計なお節介は二度としまいと胸に誓っていたはずだったのに――ああ、この、頭を抱えたくなるような決まりの悪さといったら!彼の沈黙はそれこそ針のようにちくちくと心臓を苛んだ。洗濯機の回る音だけが救いみたいにごうんごうん響く。これがなかったら多分私は耐え切れなかったことだろう。
やがて、脱水の終わりを告げるアラート音が鳴り響く。ああ、これでやっと解放される、と、正直なところほっとした。彼はきっといつもの通り洗濯をかごに詰めてここを出ていくことだろう――そう、思っていた。
が、
「――くつした」
ぽつりと、彼は呟いた。耳に残る、独特のひびきを持つ声。その声色に似合わない、あまりに庶民的な単語に、一瞬、その意味が分からなかった。というか――今、彼は、私に話しかけたのだろうか?
「あァ、すいません。少し、考えを纏めていたもので」
「……はぁ」
纏めた結果が『くつした』の四文字だったのだろうか。コンパクトに纏まりすぎてさっぱり意味が分からない。
よほど怪訝な顔をしてしまったのか、幽霊さんはぱちりと目をしばたかせて、ああ、と納得したみたいに頷いた。
「申し訳ございません。普段察しの良すぎるパートナーといるもので、つい」
なるほど、今の顔は『どうしてこれで通じないのか分からない』という顔だったらしい。こちらからすると今ので通じる幽霊さんのパートナーの方がよっぽどおかしい。
「まあ、おかしいと言えばおかしいのかもしれませんね。何も見てないように見えて、ひどくつぶさにこちらの様子を見ていらっしゃるので」
「……あの、私、声に出してました?」
だとしたら失言どころの騒ぎではない。おそるおそるの問いかけに、幽霊さんは首を横に振った。
「あなたの顔に書いてありましたので。今は『どうしてこんな話をされてるのか分からない』。ですね。まあ、体のいい暇つぶしです。猫がボールにじゃれるのと同程度に考えて頂ければよいかと」
「はぁ」
つまり、今私は玩具がわりにされている、ということだろうか――であれば怒っていいはずなのに、どうしてかそういう気にはなれなかった。浮かせかけた腰をもう一度ベンチに落ちつけて、幽霊さんの方を見る。綺麗なアメジストの瞳が一瞬、人の悪い悪党めいた笑みを浮かべた気がした。きっと気のせいだろう。あまりに綺麗だからそう見えてしまったのだ。なにせ幽霊さんのついたため息は、海より深いそれだったのだから。
「悩み、というのはそう、パートナーの話です」
「はぁ――察しの良すぎる?」
「ええ、察しの良すぎる、私の相棒です」
相棒、というからには、仕事仲間か何かだろうか。まさか例の噂みたいに御曹司と護衛、ということはないだろう――と思っていたのがばれたのか、幽霊さんはおかしそうに喉を鳴らして笑った。
「なるほど、あなたもなかなか察しが良い」
「は?」
「御曹司、ではありませんが、まあ、似たようなものですね。私を殺すのは生涯かけてもあの人だけで、あの人を殺すのも私ひとりですから」
「……それ、似てます?」
むしろ逆な気がするのだけれど――というか、一体どんな仕事をしていたらそんな殺伐とした関係の相手が相棒になるのだろうか。
「相棒ですよ。貴方が思うのとは違うかもしれませんが――大切な、私のパートナーです」
きゅ、と手を握り込んで呟く幽霊さんは、なんだか恋する乙女みたいで、なんだか急にほほえましい気持ちになった。なるほど、悩みというのは案外恋の悩みとかなのかもしれない。相棒関係の相手に恋心を抱いてしまった――みたいな、そういう、
「あァ、ちなみに、寝てはいますので、ご心配なく」
「寝……はい?」
「寝てはいます」
強めの口調で繰り返された言葉の意味を理解するまでしばらくかかった。そういえば、このホテルにはダブルベッドの部屋もあったっけ――なるほど、そういう、寝る。はい、なるほど。
「ご理解いただけましたか?」
「………あ、ハイ、すいません」
釘を刺すような冷ややかな視線に頭を下げる。どうやらこちらの想像がつくような、下世話な悩みではないらしい。
「ええと――それで、そのパートナーさんがどうかされたんですか?」
「ええ、ですから、くつしたです」
「……はぁ」
何一つ理解が進まないまま、また話が振り出しに戻る。一体くつしたが彼に何をしたというのか、幽霊さんは仇敵でも見るような視線で洗濯機を睨みつけて、言った。
「いつも、逆なんです、裏表が」
「……はい?」
ちょっと何を言ってるのか分からなかった。
「ええと、裏表が?」
「ええ、裏表です。あなたまさか裏と表の意味も分からない愚図ではないですよね?」
「ぐ――、ぐず?」
なかなか昨今言われ慣れない罵倒に固まっていると、失礼、と、幽霊さんは咳払いする。
「気が立っていたので、つい本音が零れました」
「あ、本音なんですね、今の」
「ええ、最近少しは素直になろうと心がけているものでつい。リハビリの成果というやつです」
「……はぁ」
その成果のとばっちりが思い切り飛んできてるような気がしなくもないのだけれど。それでも幽霊さんに言われると、なら仕方ないか、と、妙に納得してしまうから不思議だった。美人は得、とはこういうことを言うのだろうか。ともかく、見かけによらず、幽霊さんはなかなかお茶目な性格をしているらしい。ふたたび深刻な顔で、幽霊さんは言った。
「くつしたが逆なんです、いつも、彼の」
「ええと……それは、相棒で唯一殺し合う予定のもう寝てるパートナーさんの?」
「えェ、相棒で生死を共にする予定の性交渉済みのパートナーの、くつしたです」
淡々と真顔で幽霊さんはつづける。
「共に暮らし始めてすぐ、せめてホテルの中だけでも、くつしたとスリッパは履いてくださいとお願いしたんです。ホテルの床は不衛生ですから――あァ、失礼。あなたへのあてつけではなくて、一般的な意味でですよ?それに、あのひとは、あまりそういった習慣がありませんから、放置するとすぐ裸足で出歩くので」
「……はぁ」
「……一旦は、了承されたんです。お前さんがしてほしいならそうするよ、と。たまに履き忘れていますけど、概ねそうしてくださっているんです――けどねェ、」
と、そこで声のトーンがひとつ下がる。
「逆なんです、裏表が、いつも」
「……はぁ」
「最初は、ただ間違えているのかと思ったんです。ほら、分かりにくい模様だったとか、リバーシブル仕様と間違えたのかと、けれど、毎回裏返しに履いているんです、彼」
「……はぁ」
と、そこで、幽霊さんは深刻なトーンで問いかけた。
「これは――どういった意図があると思います?」
「……意図?」
くつしたを、裏返しに履く、意図?
「最初は、何かの暗号かと思ったんです。危険が迫ってるのを伝えたいとか、床下に族がいるのを伝えたいとか」
「族」
「ええ、族。追っ手と言ったほうがいいでしょうか?ともかく何らかのメッセージであると――けれど、どうやら違うようで」
「……はぁ」
「となると、他に意図があるのかと――本人に直接聞くのも癪なので一人考えていたのですが」
「……はぁ」
「どう思われますか?」
唐突に水を向けられて、脱力していた背筋がぴっと伸びる。心の底からどうでもいいと思いかけていたのがばれたのかもしれない。やや不満げなアメジストがじとりとこちらを見つめていた。
「ええと――その、くつしたを逆に履く意図、ですか?」
「ええ」
あまりにくだらなさすぎて、どう返すべきか本気で悩んだ。単刀直入に言ってしまえば、単にめんどうくさかっただけじゃないですか、が、正直な感想で、けれど幽霊さんの視線の圧力はそんな安直な答えを許してくれるようには思えなかった。どうやら幽霊さんは、相当そのパートナーに惚れ込んでいるらしい。とはいえ、見つめられたからといって簡単に答えが分かるはずもない。そらしかけた視線が、ふいに、左目の模様にひっかかった。
「……模様」
苦し紛れに呟いたこたえに、幽霊さんが微かに目を見開く。
「くつしたの、模様が気に入ってたんじゃないですか?表の。逆に履けば汚れませんから」
我ながら、なかなか苦しい回答だったと思う。というか、そんなことする律義者そうそういるとは思えなかった、むしろ九割九分九厘、『めんどうくさかったから』が正だろう。これまでくつしたなど履かなかったズボラなら、なおのこと。
けれど、幽霊さんは何かに納得したみたいに、満足げにうなずいた。
「なるほど――そういう考え方も、ありますね」
「ええと――今の、OKですか?」
「ええ、三十点、といったところでしょうか」
「……はぁ」
どうやら及第点には至らなかったらしい。それでも助けにはなったのか、さっきとは真逆の、鼻歌でも歌いそうな上機嫌で、幽霊さんは立ち上がる。ざかざかと洗濯機から洗濯物を取り込むと、てきぱきと籠に詰めはじめる。そのまま踵を返す背中に、とっさに声をかけていた。
「あの、」
「まだ、何か?」
振り返る視線に、わずかに口ごもる。余計なお世話かもしれないと思いながら、それでも言った。
「ちゃんと話、した方がいいと思います。その、パートナーさんと」
数秒の沈黙の後、幽霊さんはふ、と笑う。
「ええ――そうします」
翌日、ランドリールームのベンチの上に、小さな包みが置かれていた。どうやらパートナーさんとは上手くいったらしい。幽霊さんはどうやらなかなかの律義者のようだった。結局その、高級店のものらしいチョコレートはスタッフルームの机に置いた隙に誰かに食べられてしまったけれど――まあ、いい思い出になったので、よしとしよう。
と、思っていたのもつかの間。
その一週間後、ふたたび幽霊さんは深刻な顔でランドリールームのベンチに座っていた。
「ええと……今度は、何ですか?」
「スリッパです」
「……はぁ」
非常にコンパクトに纏められた回答に、くらりと既視感を覚える。
「ええと、今度はスリッパを裏表に履いてたとか?」
「……あなた、そのような奇特な趣味をされているのですか?」
「いえ、私の話ではなくて。あなたのパートナーの話なんですけど」
「あァ、私の相棒で生死を共にする予定の性交渉済みのパートナーの?」
「……そのくだり必要ですか?」
「必要ですよ?前提を間違えれば、正しい答えにはたどり着けませんから」
アメジストの瞳が、また一瞬、微かに悪党の笑みを浮かべた気がした。本当に見間違い、だろうか?
一瞬の疑惑をけれど今度もまた、幽霊さんは深い深いため息でかき消す。
「スリッパを、なくすんです」
「……はぁ」
沈痛な面持ちで零すには、あまりにどうでもいい悩みに一瞬タイムリープでもしたのかと思った。というか、先週も似たようなくだりを聞いた気がする。
「この一週間で三回ですよ?信じられますか?何をどうすれば無くすのか全く理解できないのですが」
「……サイズが合わないだけじゃないですか?」
「この一週間で急激に足が小さくなったとでも?」
「あ……ハイ、スイマセン」
美人の不機嫌、というのはなかなか迫力があるらしい。圧力の籠った視線で、今度も幽霊さんはこちらを見つめる。
「それで、どういった意図があると思いますか?」
またそれか。
ごうんごうんと回る洗濯機の音になんだか眩暈がする気がした。
「……意図?」
「ええ、意図」
「スリッパを、よく無くす、意図?」
「ええ」
履くのがめんどくさくなっただけじゃないですか――と、喉元まで出かけた答えをぎりぎりで呑み込む。幽霊さんが求めているのは、多分そういうのじゃないのだろう。そうは言っても、そうそう気の利いた答えなんて浮かぶようなものでもない。というかそういうのはできれば他をあたって欲しい――と、そんな不満すら圧し潰せてしまうのだから、美しさは罪だ。
視線をそらした先で、ごうんごうんと、洗濯機が唸っている。ここ数日続いた雨のせいか、ランドリールームに持ち込まれるリネンは圧倒的に増えていた――ああ、そうだ、雨だ。
「……雨、だと、――ほら、足が、濡れるじゃないですか。だから、濡れちゃったんじゃないですか、スリッパ。で、乾かしてるうちに猫とかに持ってかれちゃった、とか」
我ながらなかなか苦しい言い訳は、けれど幽霊さんの琴線にぎりぎり引っかかってくれたらしい。満足げに彼は頷く。
「なるほど――そういう考えもありますね」
「ええと――今の、OKですか?」
「ええ、五十点、といったところでしょうか」
「……はぁ」
この前よりは微妙に点数が上がっていた。タイミングを計ったみたいに、洗濯終了のアラートが鳴る。この前と同じに、上機嫌に立ち上がる幽霊さんに、この前と同じに声をかけた。今度は躊躇わなかった。
「ちゃんと、話、した方がいいと思いますよ?」
「ええ」
頷いて、ふいに、幽霊さんは振り返る。
「――ところで、それは、あなたの経験則ですか?」
不意打ちの問いに、心臓が止まるような気がした。
ど、ど、と激しく脈打つ鼓動をごまかして、曖昧にうなずく。
「――多分、そんなところです」
「そうですか――では、それは真摯に受け取りましょう」
優雅にうなずいて、幽霊さんはランドリールームを去っていく。
翌朝、またベンチに小さな包みが置かれていた。今度もチョコレートだったらしい。他のスタッフに食べられてしまったから、どんなものかは分からなかったけれど、きっとまた高級店のものだろう。幽霊さんの存在はスタッフの間でもまだ知られていないようだった。あれほど目立つ外見なら確実に噂になっているはずなのに――一体彼は、何者なのだろう。
もしも、と、ぐるぐる回る洗濯機を眺めながら、思う。
もしも、彼が本当に幽霊だというのなら――
今度こそ、私を殺しに来たのかもしれない。
ほの暗い予想を裏切るように、幽霊さんは元気な姿でその三日後に現れた。抱えた洗濯籠の中身は、今日も汚れた衣服の山だ。恐らくパートナーさんのものなのだろう、黒い異国の服に、山吹色のくたびれた上着――そのどれもが、赤黒く濡れて汚れている。その日は特にひどかったらしい。顔をしかめながら、幽霊さんは洗濯機を覗いていた。
「これはまた――ひどいですね」
隣から覗き込むと、どうしてか幽霊さんは不思議そうにこちらを見る。
「……前々から思っていたのですが、驚かないんですね、あなた」
「いや、割と前々から引いてはいましたけど。これだけ汚してくるひと、なかなかいないので」
だから最初に、こちらで洗うと言ったのだけれど――もしかすると、意図が伝わっていなかったのかもしれない。
「それ、ペンキですよね?なかなか落ちないんですよね、その色。下洗いすれば多少違いますけど」
「……え――え、よく、分かりましたね」
戸惑うような視線に、苦笑する。なるほど、彼の意図がやっとわかった。
「悲鳴を上げると思いました?生憎、そういう悪戯には慣れてるので」
騙されませんよ、と付け足すと、珍しく幽霊さんは口元を緩めた。
「なるほど――慣れていらっしゃる、とは?」
「……友人が、」
喉の奥で引っかかった言葉を、一呼吸おいて吐き出した。
「そういう仕事を、していたので」
「そういう?」
「その……アーティスト、って言うんですか?絵とか、彫刻とか――ボディペイントとか。そういうのを、する人で。よく汚してきたんですよ、服とか、部屋とか。片付けがいつも大変で――だから、慣れました」
「あァ――それで」
と、納得したように、幽霊さんは左目に触れる。毒々しい、けれど綺麗な模様を手袋に包まれた指先がなぞった。
「それで、『これ』を気にされてたんですね――似ているから」
「ええ、少し――色は、違いますが」
多分、細工も少し違うだろう。けれど、ひどくよく似た柄だった。案外、当時流行りの模様だったのかもしれない。
「なるほど――それは、ずいぶんと奇遇なことだ」
ひとりごとめいて呟くと、幽霊さんは洗濯機のふたを閉める。スイッチを入れるとごうんごうんと汚れた衣装が回り始める。
「それで、そのご友人は、今何を?」
「死別しました、とうの昔に」
ふと、口をついて出た言葉は、あるいは彼を試すつもりのそれだったのかもしれない。正体不明の、『幽霊さん』が、何なのか、暴こうという下心があったのか――それとも、ただの罪の告白のつもりだったのか。今思えばうかつにもほどがあるのに、どうしてか、私はこう言っていた。
「殺されたんです――『仮面の詐欺師』に」
幽霊さんは、何も言わなかった。驚きもしなければ慌てもしない。ただ、静かな瞳がじっとこちらを見つめていた。見透かすような――というか、むしろこれは、憐れまれている、ような。
「……ええと、私、滑りました?今」
「ええ、とても。つづけるのであればお付き合いしますが――あァ、多少は驚いた方がいいですか?」
「……ごめんなさい冗談でした」
かわいそうな子を見るような視線に耐えかねて即座に頭を下げる。
「冗談、というと、どこから?」
「死別のくだりから、ですね。まあ、実際私の中では百万回ぐらい死んでますけど」
「なるほど、なかなかひどい喧嘩別れをしたようだ」
くく、と、おかしそうに喉を鳴らす幽霊さんに、若干ばつが悪くなる。
「……積み重ねだったんですよ、ほんとに小さないさかいの」
「くつしたやスリッパみたいな?」
「ええ、そういう、生活の中のちょっとしたすれ違いみたいなのが重なって、さいごには全部巻き込んで崩れてしまった。別れ際に顔の形が変わるぐらいにぶん殴ったので、多分、今頃恨んでるでしょうね」
「それはなかなか――激しい喧嘩だ」
「よくある話ですよ、多分」
経緯や詳細はどうであれ、きっとこれは、よくある話だ。よくある、友情とその終わりの話。あるいは、少しの愛情の話。
「なるほど――だから、『経験則』」
「まあ、一度失敗した身なので、偉そうなこと言えないんですけどね」
今更、きまりが悪くなって視線を逸らす。幽霊さんは、やっぱり、赤の他人の幽霊さんだ。
沈黙の間、ただぐるぐると回る洗濯機だけをぼんやり眺める。ごうんごうんと唸りに近い低い音にまたうとうとしかけたころ、ふいに幽霊さんが口を開いた。
「これは、私の『経験則』ですが――失敗した身だから、分かることもあると思います。少なくともあなたは、私より詳しい」
「それは……喧嘩したときの仲直りの方法とか?」
「そんなところです」
洗濯はもう終わったのか、手際よく籠に衣類を取り込むと幽霊さんは頭を下げる。
「そういう訳で、今後とも、どうぞよろしくお願いします」
その言葉のとおり、幽霊さんはそれまで以上に頻繁にランドリールームを訪れるようになった。話題はいつも幽霊さんのパートナーのことで、おかげで幽霊さん自身のことよりパートナーさんのことに詳しくなってしまった。
どうやら幽霊さんのパートナーさんは、ショーマンをしているらしい。なんでも街を渡り歩いてはゲリラ的なショーをしているらしく、ちびっこには人気者――と言うわりに、噂にすら聞かないので、まあ、あまり売れてないんだろう――らしい。洗濯物に大量についていたペンキは血糊だそうだ。ちびっこ向けのショーでそこまでどばどば血が出るものなのかは分からないけれど、幽霊さん曰く『リアル志向なので』とのことなので、最近のショーはそういうものなのかもしれない。
パートナーさんはどうやらなかなか罪作りな男らしい。くつしたを逆に履いても気にならない、なんなら外でもたまに裸足、シャワーも烏の行水で、たまに風呂すら忘れてしまう――というくらいに大雑把な癖に、幽霊さんの喜ぶツボみたいなのはひどく細やかに抑えてくる。欲しいところで欲しいことばを、欲しいものを、欲しいだけの甘やかしを、与えらるくらいにしっかり幽霊さんのことを見ている――だから、敵わない。要約すると、そんなところらしい。
「下衆なんですよ、要するに」
と、少し悔しそうに幽霊さんは言う。けれど、その声がひどく甘く可愛らしいことに、幽霊さん自身は多分気づいていないんだろう。罪作りなのは案外幽霊さんの方なのかもしれない。
「……どうかされました?」
「いーえ、なんでも」
それから、最近分かったこと。
どうやら幽霊さんは、自分自身への好意的な感情については、あまり敏感ではないらしい。そういうところが、きっとパートナーさんからしたら放っておけないんだろう。過保護だ、と、幽霊さんは言っていたけれど、そんなことはないと思う。
「……今、何かすごく失礼なことをお考えでは?」
「あ、それ洗う前にこっちの洗剤たした方が落ちますよ?」
じとりとした視線をかわして、手元の液体洗剤を隣の洗濯機に追加する。
「あと、洗う時、ちょっとだけお湯入れたほうがよく落ちます。この衣装、まだ使うんですよね?すぐ乾かしたいなら汚れた箇所だけ揉み洗いするだけでもだいぶ違いますけど、」
「……お詳しいんですね。血糊の落とし方」
「……引きました?」
ちらりと顔色を窺うと、幽霊さんは何でもない顔で首を横に振った。
「特に引きませんが――ホテルの清掃員にしては、なかなか珍しいスキルかと。それも、ご友人譲りですか?」
問われて、頷くべきか少しだけ迷う。けれど、正直に首を横に振った。
「昔、少しだけ――特殊な清掃業をしていたので」
「特殊な?」
「ええ、落ちにくいペンキや絵の具の清掃、朽ちた壁画や絵画の修復、たまに、刺青の入った皮膚の縫合とかも」
「それはまた――随分特殊なスキルをお持ちで」
「転職を繰り返した結果ってやつですね。そんな因果で会っちゃったんですけど」
「例の、顔の形が変わるまでぶん殴って喧嘩別れしたご友人に?」
「ええ、スリッパやくつしたにズボラな、喧嘩別れした友人に」
問いに素直に頷いたのは、きっと、当たり前に惚気られる幽霊さんが、少し羨ましかったからだ。
「絵をね、消して欲しいって、依頼されたんです。失敗してしまったから直したいって――それが、あまりに綺麗だったから、なんだか勿体なくなってしまって。だから、約束したんです。彼の専属として、彼のどんな失敗も責任を持って全て消すって。その代わりに、彼の作品は必ず一番に、見せて欲しい、って」
「……それは――随分、素敵な約束だ」
「若気の至りってやつですね、多分」
勢いだけで駆け抜けられた頃の話だ。今ならきっと、違う選択をしただろう。
「好きだったんですか?その、ご友人のこと」
単刀直入な問いに、頷く。
「……惚れてましたね、多分。だから、どんなことでもしてあげたかった――あなたのパートナーさんだって、同じじゃないですか?」
問いかけに、幽霊さんは少しだけ考えてから、曖昧に濁す。
「かも、しれませんね」
歯切れの悪い言い方が、そのとき、少しだけ引っかかった。
次の日、ランドリールームに現れた幽霊さんは、どこか上の空だった。
挨拶もなく、惚気もなく、愚痴の一つもこぼさずに、もくもくと洗濯機に汚れ物を詰め込み、ぼんやりと待つ。ボディアートに彩られた左目が、微かに赤く腫れていた。どこか怪我でもしているのか、少しだけ動きがぎこちない。
「……何か、あったんですか?」
「――いえ、特には」
恐る恐る問いかけると、俯いたまま静かに幽霊さんは否定した。いつもならパートナーさんへの不平不満惚気が出てくるところなのに、これは明らかな異常事態で――だから、私は、間違えた。
きっとこのとき、長いブロンドに隠れた目は悪党の笑みを浮かべていたのだろう。もちろん、その時はそんなことには気づきもせず、私はただ、幽霊さんを心配する一心で、彼の後をつけたのだ。
午前二時の、明かりの落ちた暗い廊下は、よそよそしいぐらいの静けさに包まれていた。こつこつと、幽霊さんの足音だけを頼りに壁伝いに廊下を歩く。暗闇が距離感を狂わせるのか、このホテルはこんなにも広かっただろうかと思うほど、部屋までがひどく遠かった。このままどこか遠い異世界に連れ去られてしまうのではないかと錯覚しそうになる頃に、幽霊さんは立ち止まる。がちゃりと、部屋の扉が開き、プラチナブロンドの後ろ姿が、部屋の中へと滑り込む。どうやら一応、幽霊さんは宿泊客だったらしい。それに少しほっとした――のも束の間。
部屋から、何か言い争うような声が聞こえた。
幽霊さんと、もう一人の声。それから、何かが割れるような音と、鈍い悲鳴めいた声。
咄嗟に部屋に踏み込もうとして、それより先に扉が開く。飛び出してきたのは、幽霊さんだった。こちらの存在なんて気にも留めずに、大股に歩いて行ってしまう。すれ違いざまに見えたその表情はひどく険しくて、どこか泣きそうな顔にも見えた。部屋で、何か、あったのだ。
扉はまだ開いていた。
去っていく幽霊さんのブロンドと、半開きの扉。二秒だけ迷って、私は扉のノブを掴む。踏み込んだ部屋は廊下よりずっと暗かった。咄嗟に手さぐりに、電気のスイッチを探る。部屋の構造は昔と変わっていない。ドアの右側に電気のスイッチ、そして奥に小さな窓、右手にベッドで、左手に流しとバスルーム。何の変哲もないホテルの一室――の、はずだった。
かち、と、指先にスイッチが引っかかる。じりじりと不安定に揺れる白熱灯に、部屋を隠す暗闇すべてが剥ぎ取られる。
想像していた通りの部屋が、そこにあった。右手にベッドで、左手に流しとバスルーム。奥の窓辺に二つのチェア――ただ、想像と違って、その全てが、赤かった。まるで、二人分の血液をぶちまけたみたいに部屋の全てが、真っ赤に染めあげられていた。
「――ひ、」
ひきつった悲鳴が喉に張り付く。強烈な既視感に、吐きそうになった。鼻を衝く独特な匂いに、口元を抑える。ふらついた足の下、絨毯に沁み込んだ赤色が湿った嫌な音をたてる。あり得ない、と、つぶやく、その前に。
「――見た?」
声が、聞こえた。すぐ、真後ろから。
「――ッッ」
振り返って、今度こそ悲鳴を上げそうになった。何かいたからではない。そこには何もいなかった。
「ずいぶん、あいつが世話になってたみたいだねぇ――なんか申し訳ないね」
また、後ろ。けれど振り返っても誰もいない。誰もいないのに、ぺたぺたと足音だけが近づいてくる。絨毯を踏みしめる靴跡だけが、そこに見える。滲む赤がそこに見える。まるで、今、目の前に誰かがいるみたいに。
ふらついた身体を支えようと壁に手をつく。べたりと嫌な感触がした。掌を汚す赤は、果たして本当にペンキだろうか?洗濯物にぶちまけられたあれは――本当に、偽物の血だったのだろうか?幽霊さんのパートナーは、本当に、ただの人間なのか――そんなわけがない。
「悪いね、脅かすつもりはないんだけど――ちょっとばかし、見せられる身体じゃないんだよね、今」
「――ッッ!!!」
姿のないまま、耳元で声だけが聞こえる。この恐怖といったら!
気づいたら私は部屋を飛び出していた。幽霊さんのために、なんて正義感は圧倒的な恐怖の前にはあまりに無力だ。飛び出してから、やっと気づく。ここは、あの部屋だ。三階の、一番奥の、例の部屋――封鎖されているはずの、幽霊の住処。あり得ない!と混乱した頭が叫ぶ。怪談が本当だった?幽霊は本当にいた?あり得ない!そんなことはあり得ないと、私だけは知っていた!当然だ!だって私が、私の方が、
「おや、やはりここにいらっしゃるのですねェ」
逃げた先、まるで先回りするみたいに幽霊さんが嗤っていた。今度こそ見間違いなどではない。悪党めいた笑みを浮かべるアメジストが私を射抜いてとどめを刺す。
「『幽霊さん』――と、お呼びしても?」
ああ、と、膝から崩れ落ちた。ごうんごうんと、洗濯機の回る低い音に、こつこつと硬い足音が重なる。
「ずっと、不思議だったんですよ。こんな深夜に、あなたは一体何を洗濯しているのだろう、と――ねぇ、知っていました?このホテル、今、我々のほかに客なんて誰もいないんです。汚れ物など出るはずがない」
長い指が、洗濯機のボタンを押す。低い唸りの音が、短い電子音一つで途切れる。
「では、あなたは一体、何を洗濯していたんでしょうね――或いは、」
と、そこで言葉を切ると、彼は容赦なく洗濯機の蓋を開けた。
「――ここに、あなたが居ることこそが、何より重要だったのでしょうか?」
ぽかりと開いた、何もない虚無がそこにある。当然だ、私は最初から、何もしていない。
だって私は、清掃スタッフどころか、ホテルのスタッフですらない――このホテルの『幽霊』だったのだから。
「ご相談をね、受けたんです。このホテルに住み着いている幽霊を追い出して欲しい。近々改築予定なのに悪いうわさが立って仕方がない、と――このホテルのオーナーから」
「……嘘でしょう?」
そんなはずがなかった。だって、
「『だって、幽霊の噂を流したのは、他でもないオーナーなのに』でしょうか?ええ、確かにひどいはなしだ。あなたがこれまでどれほどの思いで死んで来たかも知らずに。私も少々、腹に据えかねましたが――あなたの自業自得と言えば、そのとおりなのでしょうね」
ゆるりと顔を上げる。すぐ目の前、心の底から憐れむような目で、彼は私を見下ろしていた。
「詐欺師の末路なんて、碌なものじゃないと相場が決まっていますから」
「――っ、」
息を、呑んだ。どうして、
「『どうしてそれを知っているのか?』でしょうか。あなた、先ほどご覧になったでしょう?私が滞在している部屋――ええ、かつて『あなた方』が、拠点にしていた部屋です。『仮面の詐欺師御一行』殿」
くく、とおかしそうに彼は喉を鳴らして笑った。
「綺麗に隠したつもりだったのでしょうねェ。けれど詰めが甘かった。あなたがたの『作品』、まだあの部屋に仕舞われていましたよ?おや、ご存じない?では、オーナーが処分を渋ったのでしょうか。古いホテルの癖に、随分と羽振りの良さそうな身なりでしたから――きっと、あなたの知らないところで商売に手を出していたのでしょう。精巧な贋作は本物と大差がありませんから、名画と偽れば高く売れる――失礼。釈迦に説法でしたね。あなたにとっては『専門分野』だ」
全て見透かしたような言い方だった。いや、とうに全て知られているのだろう。
「数年前、このホテルには二人組の悪党が滞在していたそうですねェ――えぇ、悪党、というのはただの噂ですが。噂、というのはなかなか馬鹿にはできません。たまにひどく本質をついてくる。確かに、この二人は悪党だった――アーティストとは名ばかりの贋作売買専門の詐欺師だったのだから」
歌うように、彼は語る。
「あなた、前に言いましたよね。絵を消して欲しいと依頼された――と。少しね、違和感を感じたんです。破って欲しいでもなく捨てて欲しいでもなく、『消して欲しい』――それは、消さなければ贋作であるとばれてしまうような、何らかのミスがあったからではないでしょうか。そしてあなたは、そのミスを修復するだけの技術があった――あれは、綺麗な一目惚れの話ではなく、熱い友情の話でもなく、ただ『二人の詐欺師の利害が一致した』という現実的なビジネスのお話だったのでは?」
「……どうでしょうね、もう、憶えていません」
嘘だった。
そのときは、運命だと思った。
「これは私の推測ですが――あなたがた二人は、とても都合の良い組み合わせだったのではないでしょうか。贋作を作る詐欺師と、それを消す詐欺師――だって、ばれそうになったらあなたが作品ごと全て消してしまえばいい。こびりついた血糊すら綺麗に消せたあなただ。きっとどんな名画も綺麗に全て消せたでしょう?まるで、そこに最初から何も描かれてなかったみたいに。騙された方はきっと、訴えることすらできなかったでしょうね。だって、贋作どころか手元にあるのは真っ白なキャンバスだけだったのだから」
「……見てきたみたいなこと、言うんですね」
「ええ、あなたはとても分かりやすかった。詐欺師としては致命的に」
す、と、鼻先にひとさしゆびが突きつけられる。顔を見ればわかる、とでも言いたげに――全て見透かすようなアメジストに、すとんと納得する気がした。確かに、このひとなら全て分かるのかもしれないと、不思議とそう思ってしまった。
「ホテルのスタッフに妙な噂を立てられてしまうなど、詐欺師としては失格もいいところでしょう?他の詐欺師ならまだしも『仮面の詐欺師』は頂けない。あまりに敵が多すぎた――『精巧な偽物は本物と区別がつかない』のですから。まぁ、精巧な、と呼ぶには、あまりに酷い偶然だったのでしょうが」
眼球寸前まで近づいた白い手袋の指先が、目元に触れた。そこにある刺青の痕をたどるように。初めて見た時、よく、似ていると思った、私自身の目元を彩るボディアート――かつての相棒と、同じ痕。
「数年前、恐らく、あなた方はここで襲撃を受けたのでしょう。命からがら生き延びたあなたはこう考えた、『次に狙われたら命はない。ならいっそ――ここで死んだことにしてしまえ』と。誰も部屋に近づかないよう、凄惨な現場を演出した。恐らくオーナーもグルだったのでしょう。贋作を担保にしたのか、それとも弱みを握ったのかは知りませんが――そうやって、あなたはご友人だけを逃がし、ひとりここで『幽霊』になった。誰も、あの部屋に近づかないように。あるいは、」
と、そこで、ふ、と小さく彼は息をつく。
「――間違ってでも、相棒に危害が及ばないよう、たった一人囮になるため」
その瞳が、微かに笑ったような気がした。悪党めいた笑みではなく、憐れむような皮肉げな笑い方でもなく、誰かを重ねるような目だと、思った。
「いずれにせよ、そろそろ潮時でしょう。幽霊はいずれ成仏するもの。それに、あなたが心配する敵襲は、きっともう来ませんよ。どれだけ精巧な偽物でも本物には勝てませんから」
さらりと付け足された言葉を理解するまで数秒かかった。
それはつまり――つまり、
「あァ、そういえば、まだ名乗っていませんでしたね。これは失礼」
正真正銘、本物の悪党の笑みを浮かべて、彼は優雅に一礼する。
「仮面の詐欺師、チェズレイ・ニコルズと申します」
機械的なアラート音にふっと意識が浮上する。目の前にいたはずの彼はもうどこにもいなかった。誰もいないランドリールームを抜けて、速足に奥の部屋に向かう。三階の、一番奥の、例の部屋。勢いよくドアを開けると、柔らかな朝日が差し込んでいた。いつの間にか夜は明けていたらしい。カーテンのはためく窓から、薄紫に染まる夜明けの空が覗いている。
蛍光灯をつけるまでもなかった。絨毯に染み込む程の赤色は、痕跡一つ残っていない。それどころか、ここに誰かが宿泊していた形跡さえ、何一つとして残っていなかった。
ただ、ひとつ、窓辺に残された小さな包みを除いて。
そっと、窓辺に近寄ると、朝焼けの空にサイレンが響く。遠ざかっていくそれは、あるいは、二人組の悪党を追いかけている音かもしれなかった。今度こそ、正真正銘に本物の『仮面の詐欺師御一行』を――だとすれば、確かにもう、成仏しどきだ。幽霊の役目は、もうおしまい。
今日いちばんに新しい朝日を眺めながら、残されていた包みを開ける。高級店のそれらしいチョコレート――その、やけに繊細な包装の絵に見覚えがあった。見間違えるはずもない。何度も何度も、責任を持って消してきた何より本物の、偽物の筆跡。けれどそれはもう、贋作じゃなかった。
足を洗ったのか、やりたいことを見つけたのか――いずれにせよ、生きている。
裏返したパッケージに住所は書かれていなかった。そのくらいは自分で探せ、ということだろう。
「……ひどい、悪党だ」
きっと最初から、何もかも知っていたのだ。知っていて、気づくまでずっと黙っていたのだ。こんな置き土産みたいのだけ残して。宿題みたいに、次にやらなきゃいけないことだけ置いて。お仕舞になんかさせないと、それこそ釘を刺すみたいに。
だとしたら、
「本当に、本物の、悪党だ」
半端な偽物では、到底かなうはずがない程に!
笑っているのか泣いているのか、自分でも分からなかった。うめき声に近い嗚咽を、チョコレートと一緒に噛み殺す。朝焼けの綺麗な赤色が、滲んだ視界にひどく染みた。
END