拝啓 ふたりの悪党さま
こんにちは。お元気ですか。ぼくは元気です。
手紙を書くのは三回目ですね。
きのう、パパの面会がありました。前よりすこし元気になったみたいです。えらい人が、あとちょっとででられるかもしれないといっていました。すぐにはむつかしいかもしれないけれど、また、いっしょに暮せたらいいなとおもいます。
ところで、さいきん暑くなりましたが、二人とも、げんきに悪党をしていますか?
ぼくが捕まえる日まで、絶対に捕まらないでください。いつか、ぜったいに会いにいきます。
首をあらって、まっていてください。
あなたのちいさなヒーローより
書き上げた手紙を読み返して、そのひどさに深く深くため息をつく。
これはひどい。ものすごくひどい。
手紙に書きつける言葉と、こうして頭をめぐる言葉はどうしてうまく嚙み合わないんだろう。
本で読んだ流麗な文章、すてきな挨拶、綺麗なことばを頭の中では組み立てれるのに、実際に書けるのはどうしようもなくへたくそな文だ。あの二人が馬鹿にするとは思えないけど――特にニンジャさんの方は『子供らしくていいじゃない』とか言いそうだけど。それで『子ども扱いすると嫌われますよ?』とか、チェズレイに言われてそうだけど――というか、そんな感じでなんやかんやでぼくをダシにいちゃいちゃしていそうでそれはそれでなんだかものすごく納得いかないのだけど。
とはいえ、これ以上悶々と悩んだところで、急に文章が上手になるわけでもない。三時間かけたあたりであきらめて、書き上げたそれに封をして、郵便ポストへと向かう。
飾り煉瓦の坂道の下、十字路の端に据えられた円筒型の背の高いポストは投函口の位置が高くて、つま先立ちしてやっと届く。くしゃくしゃになってしまわないように気を付けながら指先で封筒のおしりをとんとん叩くと、ちいさな口に白い封筒がすとんとおちる。あとは、配達人を待つだけなので、できることはなにもない。
痺れてしまったサンダルばきの爪先をぶらぶらさせながら煉瓦の坂道を今度は商店街の方へと歩く。封筒は今回ので切らしてしまったから、そろそろ新しいのを買ったほうがいいだろう。
宛先のない手紙は、どういう経路を通っているのか返送されたことは一度もなかった。ということはきっと、ちゃんと届いてはいるのだろう。返事が来ることはないけれど。
坂道の向こうに見える空は夕暮れをすぎたグラデーションで、空のふちで混ざり合う黄色と紫があのふたりに重なった。べつに恋しくなったとかじゃないけれど、なんとなくぎゅっと胸が痛む。
べつに、今すぐ会いたいとかじゃないけれど。まだまだ会えやしないけど。
けれど、いつか。
いつか、一人前のヒーローになれたら。
またあの二人に、会えるんだろうか?
正義のヒーローがきらいだった。
悪いやつをやっつけるくせにとどめまでは刺してくれない。悪いラスボスを倒したくせに、改心したら手をさしのべる、その中途半端さがむかついた。どうせならぶっころして息の根をちゃんと止めてほしい。そうすればきっとせいせいするのに――と、言ったら、先生が泡を食って卒倒しかけた。どうして急にそんなひどいことを、なんて職員室まで呼び出されて事情聴取を食らったけど、世界はひどいことであふれてるのだから、別にどうだっていいじゃないか。いやなら滅菌室にでも閉じ込めておけばいい、と言ったら今度はかわいそうにと泣きだされた。
みんな、過保護なんだと思う。ぼくが病気で入院してたのはもうずっと小さなころのことで、今じゃ外で走り回っても平気なくらいにとっくに元気になってるのに、いつまでも小さなころのことばっかりをひきずってる。発作だってもう二年も起きてないし、お医者様だってもう大丈夫だと言ってくれたのに、周りの大人の中のぼくはいつまでたっても『体の弱いお坊ちゃん』だ。むしろ病人でいてくれたほうが都合がいい何かがあるんじゃないかと疑ってしまいたくなるくらいに。
そんな感じで、その頃のぼくは大抵毎日不機嫌で、世界のぜんぶを呪っていた。だから、裏通りに罠を仕掛けていたのだって、本当はままならない日々への八つ当たりみたいな気持ちが大半で、誰かに褒めてもらえるような正義感みたいなのはこれっぽっちもなかったと思う。
ぼくの屋敷から三ブロック離れた先、高級車の行き交う華やかな大通りがある。土産物屋にプライベートジェットのエアポート、映画館の入ったショッピングモールに品の良いレストラン――それら観光客向けの施設が、レトロな煉瓦づくりの通りにセンス良く配置されている。その中央にあるのは、なんといっても巨大カジノだ。この街のお金の大半がここに流れてる、と、前にパパが得意げな顔で言っていた。数年前にできたカジノは、この街の経済の中心で、街の人間の半分は、大なり小なりこのカジノに関りがある。『半分は』――つまり、『もう半分』はそうじゃないってこと。
きらびやかで華やかな街の中心部――その、周囲には、まだ昔のひっそりとした地味で静かな街並みが虫食いみたいにぽつりぽつりと残っている。カジノの光に追いやられたみたいなそこは、暗くて汚くてじめじめしていて、昼間でもあまり近寄りにくい陰鬱な気配に包まれている。特に、カジノの裏手はいっとうひどくて、細い道では素行の悪い従業員やギャンブルに負けたチンピラくずれが傷害事件を起こすことで有名だった。有名すぎて、今じゃ話題にも上らないぐらいに。
ちゃりちゃりとズボンにつけたキーチェーンを鳴らしながらたどり着いた裏通りで、罠の様子をチェックする。罠、といっても大したやつじゃない。ただ通りの水たまりに少しのペンキを混ぜただけ。傷害事件のひとつもあれば、煉瓦づくりの通りに、くっきり赤い痕が残る。それだけ。仮に捕まったところで、どうせ三日もすれば出てくるから、あんまり意味はない――はずだったのだけれど。
その日は、いつもと様子が違った。
痕じゃなかった。現場がしっかり残ってた。
「……え、」
一瞬、昔パパと二人で食べたミルフィーユを思い出した。角のケーキ屋の、ちょっとぱさぱさした安っぽいやつ。折り重なったパイ生地の隙間に、べったり甘いイチゴジャムが塗りたくってあるやつ――に、すごく、似ていた。甘くて可愛いミルフィーユと違って、全体的に黒っぽくて、どことはなしに柄が悪くて、総合的に物騒で――なんていうのか、生々しい。というか――死体っぽい。
道端に折り重なるようにして打ち捨てられたそれは、ペンキなのか血なのかよく分からない液体で赤黒く染まった、いかにも柄の悪い数人の男たちだった。
「――ひ、」
「ありゃ、」
と、上げかけた悲鳴に被せるよう、場にそぐわない妙にのんびりした声が聞こえた。
「一体誰がこんなこと、とか思ってたんだけど――また、随分可愛い犯人だねぇ」
振り返る。黄色っぽい服の狸がいた。
「え――」
「ん?」
ぱちぱちぱちと三度まばたきして、見間違いに気づく。違った。普通に人間だった。白髪頭の男だ。一瞬狸と見間違えたのは、ぼくの知る周りの『おとな』より一回り小柄な体のせいか、それとも、へらりと浮かべた人のよさそうな――でも、なんだかあんまり食えない感じの、笑顔のせいか。どっちにしろ、よく分からない大人に変わりはない。知らない人についてっちゃいけません、って、学校の先生が言うときの『知らない人』は、たぶんこういう人だろう。だって、
「え、あれ、おじさんひょっとして警戒されちゃってる?弱ったな――飴ちゃんでも食べる?」
なんて、それこそテンプレートな人さらいの台詞じゃないか。
「……しらないひとから食べ物もらっちゃだめって、先生が」
じり、と後ずさると、男はがしがしと頭を掻いて苦笑した。
「あー……確かに、そりゃそうだ。お前さん、ちびっこいのに随分しっかりしてるねぇ」
「べつに、そんなことないし」
「そぉ?おじさんがお前さんの歳の頃なんて、こんなん見たらちびってたもんだけど」
ひょこりとその場にしゃがみ込むと、不審者の男はぴ、と目の前の物騒ミルフィーユを指した。
「ひょっとしてこれ、お前さんがやったの?」
「――は?」
まさか、この男たちを倒したのがぼくだって疑ってるのだろうか。そんなわけがない。正義のヒーローでもなんでもないただの十歳児が、カジノのごろつきもどきとまともに喧嘩なんてできるはずない。そのぐらいまともな大人なら、ちょっと考えれば分かるだろうに。それともやっぱり、このひとじつは狸とかなんだろうか。山からおりてきたばっかりだから人間社会になじめてないとか。
「あー……なんかちょっと誤解されてるっぽいけど、おじさん一応人間だからね?ま、葉っぱでドロンみたいなことはできるけど」
「できるんだ……」
というか、なんで考えてることがわかったんだろう。やっぱりちょっと普通じゃない。
「あー、うん、そんな警戒せんと――って言っても、ま、こんな状況じゃちと無理か。うん」
諦めたみたいにうなずくと、男はぬるりと指先で地面をなぞる。掬い取った赤色を眺めて、もういちど尋ねた。
「『これ』、お前さんがやったのかい?」
「――っ、」
否定する前に、態度でばれてしまったのか、男はうんうん、と満足げに頷いた。
「そっか、いや、何かなーと思ったんだよね、昨日。ずいぶん足場が悪かったからさ――ちなみにこれ、ペンキかい?」
「……そこの、画材屋で売ってるやつ」
半分やけくそに告白する。もしかすると男は倒れている彼らの仲間で、悪戯を咎めるつもりなのかもしれない。ガキの癖に余計なことをするなと怒鳴るのかもしれない。あるいは、見てしまった口封じでもするつもりなのかもしれない。いずれ、次に来るだろう叱責と暴力に身構えて、けれど実際飛んで来たのは拳でも罵声でもなく、拍子抜けするぐらいに呑気な賞賛だった。
「そっか、お前さん、ちびっこいのに偉いねぇ」
「……は?」
ぽすんと、頭に乗っかった手が、くしゃくしゃと柔らかに頭を撫でる。
「偉いし、賢い。お前さんみたいなちびっこがやりあうにゃ、確かにいいやり方だ」
「……意味わかんないし」
「だって、これ、罠だろ?悪いやつを捕まえるための」
当たり前にすとんと落とされた正解に、目をしばたかせて男を見上げる。柔らかな笑みの奥、流れ星みたいな鋭い光を見た気がした。
「ホテルの人に聞いたよ。このあたり、こういう手合いがうろうろしてるので有名だって。通り魔にひったくり、それから強姦、なんでもありだって。で、こんなとこにペンキなんて撒きゃ、何かあった時絶対に足跡が残っちまう。靴の裏にべったりついたら、どんな犯人も言い訳できんよ。夜には気づかない暗めの色ってとこも、よく考えてる」
違うかい?と、問いながら、その目は全部分かってる目だった。先生ともパパとも違う。いままであったどんな『おとな』とも違う目に、正直、心臓がどきどきしていた――のに、
「偉いよ、お前さんは。まるでヒーローだ」
そのひとことが、全部だいなしにした。
「……ヒーローじゃないし」
頭を撫でていた手を払いのける。睨みつけた先で、けれど男は困ったそぶりひとつなく、そっか、とただ、うなずいた。
「じゃ、ヒーローじゃない一般市民のちびっこに、いっこお願いしていいかい?」
よいしょ、と、立ち上がって伸びをすると、男はとんとんと爪先で地面を叩く。
「救急車、呼んであげてくれないかな。おじさん、ちょっと呼べないからさ――ま、呼んでもいいけど、そりゃあんまりにかわいそうでしょ」
「……へ?」
意味深な言葉に聞き返した先、たん、と、軽やかに男が跳んだ――飛んだ。遥か頭上へ、まるでそうするのが当たり前の常識みたいな気軽さで、数メートル上の壁を軽やかに駆けて去っていく。
「じゃ、頼んだよ、ちびっこ」
「――ぁ、」
たんたんたんとリズミカルに壁を蹴る、その、靴の裏が一瞬だけ見えて、息を呑む。
ちょっと変わった靴の、その裏、とっくに乾いた赤いペンキがべったりとまだ、ついていた。
その夜はどきどきして眠れなかった。
あの男は一体何者だったんだろう。化け狸みたいなつかみどころのない笑顔と、曲芸師みたいな身のこなし、あったかくて大きな手と、ときどき鋭くひかる目――瞼を閉じると、あの身のこなしで倒れてた男と闘うすがたが、すごく鮮やかに思い描けた。いや、実際きっと、そうだったんだろう。
きい、と、ベッドサイドの窓を開けて、三ブロック先に目を凝らす。ちかちかとまたたくカジノのネオンが星なんかよりずっと明るく夜の闇を照らしている。きらびやかな明かりに押しやられたあの暗がりで、今日もあのひとは悪いやつを倒しているんだろうか。
――偉いよ、お前さんは。まるでヒーローだ。
思い出した声に、じわっと心臓が熱くなる。ヒーローはむしろ、あのひとのほうだろうに――まるで正義のニンジャみたいに。振り返ると、枕元のポスターが目に入る。びりびりにやぶれた真ん中をテープでつぎはぎにしたせいでちょっといびつになっているけれど、その姿が、なんだかあのひとによく似ている気がした。たぶん、三か月前までのぼくだったら飛び跳ねて喜んでいたと思う。だって、あの人はやっぱり、本物のニンジャみたいだったから――けれど、
「……きらいだ」
ぎゅ、と、軋んだ心臓を抑えて、言い聞かせるようにつぶやいた。
ヒーローなんて、きらいだ。
きっともう会わないだろうと思っていたのに、男は――めんどくさいので、以降、ニンジャさん、と呼ぶことにする――は、意外と近くをうろうろしていた。うろうろ、というのはちょっと語弊があるかもしれない。
ぼくの推測は半分正解で、ニンジャさんはある意味でヒーローをしていた。ある意味、というのは、子供だましの偽物、って意味だ。
ニンジャさんは、いわゆるショーマンだった。
「ありゃ」
ふたたび会いに来た僕を見て、ニンジャさんは一瞬だけびっくりしたみたいに目をぱちぱちさせて、それから少し戸惑ったみたいに頬を掻いた。
「ええと――握手、で、いいかい?それともサインの方?」
なんて尋ねられたのは、別に、ニンジャさんが自意識過剰なわけじゃなくて、そこがヒーローショー後の握手会の場だったからだ。暑いのか、それとも入ってきたのがぼくだったからか、握手会のブースの中で、ニンジャさんはマスクを外してふーっと一息ついていた。
「……いいの、しごと」
「んー、ま、お前さんが最後だし。それに、前に『ヒーローは嫌いだ』って言ってたからねぇ、こっちの方がいいかなと思って」
ま、ちと暑かった、ってのもあるけどね、といたずらっぽく付け足すと、ニンジャさんは手近なペットボトルから水を飲む。自堕落でだらしないその感じは、やっぱり、ぼくの知る『おとな』の姿じゃなかった。
「この前はごめんね、おじさん、ショーの時間まちがえちまってさ。遅刻しそうで慌ててて、お前さんに押し付けちまった」
「……ぜんぜん、慌ててるみたいに見えなかった」
「そりゃ、ちびっこの前だったからね、カッコ悪くちゃヒーローなんて演れないでしょ。ショーのお客さんならなおのこと、ってね」
「……べつに、お客じゃないし」
くしゃ、と、頭を撫でる手を払いのける。ごわついたグローブごしにでも、大きな大人の手だと分かった。ショーの立ち回りより、きっともっとすごいことをしてそうな手だと思った。たとえば――ほんものの、せいぎのヒーローとか。
「あのさ、あんたって」
こく、とつばを飲み込んで、たずねる。
「ヒーローなんだろ」
返事までに、すこし間があった。どうこたえるべきか迷うような間だと思った。こどもだましを通すべきか、本当のことを言うべきか、迷ってるみたいな。
誤魔化されてしまわないようにじっと見つめていると、ニンジャさんはふ、と、どこか懐かしそうに目を細めて笑った。笑って、静かに言った。
「ちがうよ」
それは、なんだかどきりとするほど真剣な響きで耳の奥をふるわせた。まるで、すごく重大な秘密みたいな――大切な誰かとの約束みたいな。なにか分からないけれど、今の言葉は、きっとこのひとにとってすごくすごく重大なものなんだろうと思った。
ので、ぼくはそれ以上何も言えずに黙ってしまった。本当はもっと、正体を探ってやろうと思ってたのに。もっと、たくさん喋ろうと思ってたのに。
ばかみたいに突っ立っているぼくに、ニンジャさんは片手を差し出す。ひらいたてのひらに、飴玉がひとつ乗っかっていた。
「この前のお礼に。おじさん特製のレモン黒蜜しそ味の飴ちゃん。悪いね、今こんなんしかなくて」
「あ――や、じゃなくて、」
「そろそろ日が暮れちまうから、それ食べたら、暗くなる前に帰るんだよ」
ちとトイレ、と、断りを入れて、ニンジャさんは席を立つ。なかなか堂々とした職務放棄だった。一応、今はおしごと中のはずなのだけど。
もらった飴玉は甘くてすっぱくて薬っぽくて、なんだか大人の味がした。要するにまあまあ微妙だった。日が暮れるまでぼんやりニンジャさんを待っていると、スタッフさんらしいひとたちがテントの片づけに取り掛かり始める。テントがすっかり撤収されても、ニンジャさんは戻ってこなかった。
つまり、ぼくはしっかり撒かれたのだ。うそつき。
というわけで、大人のずるさをたっぷり思い知ったぼくは、ちゃんと頭を使うことにした。
ニンジャさんはこのあたりの人間ではないのだから、絶対にどこか宿をとっているはずだ――というか、最初に会った時もそんなことを言っていた。ので、この街のホテルを片っ端からあたった。頭、というか足をつかった。
端からあたって半日程度でニンジャさんの根城はみつかった。ニンジャさんはなかなか交流範囲が広いらしく、いろんなお店の人がその姿を目撃していたのだ。『狸っぽい黄色い服のニンジャさん』と言ったらすんなりと通じてしまった。ガードが堅いのか緩いのかちょっとよくわからない。
教えられたホテルの前で張っていると、確かにニンジャさんは戻ってきた。昼間から酔っぱらってるのか、ふらふらとたよりないステップで、上機嫌に鼻歌なんて歌いながら――なにかいいことでもあったのかもしれない。曇りガラスの大扉の内側に吸い込まれていくその背中を少しだけ時間を置いてから追った。
重たい戸を開けると、想像してたよりずっと明るいフロントがある。ニンジャさんはもう部屋に戻ってしまったのか、フロントにも、となりのラウンジにも姿がない。近くのエレベーターを見ると、三階の表示でランプがちかちか点灯していた。あれに乗っていたのかもしれない。一人きょろきょろしている子供が不審だったのか、警備員が近づいてくる。丁度よかった。作り笑顔で『パパに会いたいので、部屋をおしえてください』と言うと、あっさりニンジャさんの部屋が割れた。三階の、いちばん奥の角の部屋らしい。教えてくれたくせに、どうしてか警備員の人自身がなぜか首を傾げていたのはちょっとよく分からないけれど。ともかくお礼を言ってから、ぼくはエレベーターに乗り込んだ。
降り立った三階は、なんだか全体的に埃っぽくて薄暗かった。そういえばこのホテルは幽霊が出るって噂になっていたっけ、と、思い出す。思い出して、急にこわくなった。ごうんごうんとランドリールームからきこえる洗濯機の音が、おおきな獣のうなりごえみたいに聞こえてくる。廊下の蛍光灯は半分壊れているみたいで、奥の方は真っ暗だった。とても客の泊まる場所には見えない。そういえば、警備員さんもおかしなことをを言っていたっけ。『三階に客室なんてあったっけ?』とか――一瞬、じつはニンジャさんこそがお化けなのでは?なんてばかみたいな考えが頭によぎる。そんな馬鹿な。元気に壁を走る幽霊なんて聞いたことないしいても困る。あんまり怖くない。怖くないったら、怖くないのだ。
奥の部屋までのほんの短い廊下が、けれどものすごく長く感じられた。今にも暗がりから何かがにゅっと生えてきて食べられてしまうんじゃないかといやな想像が何度も頭をよぎっては、あの日のニンジャさんを思い出して否定する。そんなのを繰り返しているうちにやっとのことで奥の扉にたどりついた。そろそろとドアノブをつかんでまわす。鍵はかかっていなかった。少し迷ってから、そろりと中に忍び込む。
暗い廊下と違って、部屋の中はちゃんと明かりが灯っていた。ぴったりとカーテンは閉められてはいたけれど、天井の白熱灯のおかげでそれ程不気味な感じはしない。ごくふつうの部屋だった。ベッドがふたつに、ソファがひとつ、壁のハンガーラックには赤いドレスとニンジャさんの黄色い服がかけられている。どういうわけか、ニンジャさんはいなかった。着替えてまた出かけたのかもしれない。脱ぎ散らすみたいに床に放られたスリッパから、丸まったくつしたが覗いていた。ペンキがついてしまったのか、かかとのところに赤い点々がついている。もしかすると、昨晩も、ニンジャさんはあそこで悪いやつをやっつけていたのかもしれない――いや、きっと、そうだ。
なんだか今更ひどくうしろめたいことをしているきがして、赤い点々がちょっとでも隠れるようにくつしたをそっとひっくりかえす。こういうの、『証拠隠滅』って言うんだっけ。不審に思われないように、裏返しにしたくつしたをスリッパの中にもどそうとして、けれど、そこで、物音がした。
「――っ、」
咄嗟にソファの後ろへと隠れる。きしんだ音をたてて、バスルームの扉がひらいた。どうやらニンジャさんはシャワーをあびていたらしい。ご機嫌な様子で鼻歌をくちずさみながら、バスタオルでがしがしと髪を拭いている。こちらに気づいた様子はない。ほっと、ひとつ息をついた――途端、
「……ありゃ?」
と、不穏な声が聞こえた。
そろりとソファの裏から覗くと、ニンジャさんは首を傾げて床を見ている。視線の先、脱ぎ散らかしたスリッパが、片方だけ転がっていた。もう一方はどこに――と思って、はっとする。もうひとつは、ぼくの手の中にあった。隠れるのに必死で気づかなかったけれど、あの時うっかりそのまま握りしめていたらしい。うち捨てられたスリッパの片割れと、ぼくの隠れたソファの、丁度真ん中に、裏返しのくつしたが落ちている。犯人はここです!と大声で主張するみたいに。当然、ニンジャさんの視線も、スリッパとくつしたを追って、ぼくの隠れるソファにうつる。発作でも起きたみたいに、胸の内側で心臓がめちゃくちゃに暴れていた。口をおさえて息をつめていると、ニンジャさんは「あー……」と、ちょっと困ったみたいな声を上げる。
「さて――どうしようかね、うん」
絶対ばれた、と、思った。いや、ばれないわけがない。こんな分かりやすい隠れ方されたら、子供のぼくだってきっと気づく。このまま隠れ続けるか、さっさと出て謝るか――傷が浅いのは絶対後者だ。こういうときはさっさと謝ってしまったほうがいい。深く息をついて、そろりとソファの影から出ようとした、ところで、ニンジャさんと、目が合った。し、と、ひとさしゆびを口元にあてるジェスチャー。隠れてろ、ということだろうか?けれど、どうして?なんて、疑問はすぐに晴れた。
「――モクマさん?」
バスルームから、声がきこえた。もうひとりいたのだ――もうひとり?あの狭そうなバスルームに?どうして?
浮かんだ疑問は、けれどすぐに吹っ飛んだ。
「どうかされました?」
曇りガラスのガラス扉からひょこりと顔をのぞかせたのは、お姫さまみたいなひとだった。
「――っ、」
隠れてたのなんて忘れて、思わず息を止めて見つめてしまった。そのくらいに、きれいな顔のひとだった。きらきらのプラチナブロンドが、ぬれた白い首筋にぺたりとはりついている。さっきとは別の意味で、ものすごくどきどきした。あまりじっと見ちゃいけないような気がして――というか、実際隠れなきゃいけないのだけど――ソファの裏側にさっと身体を引っ込める。背中ごし、ニンジャさんがちょっとだけ笑う気配がした。
「いーや、ちょっと猫が入り込んでたから、逃がしてやってただけ」
「猫、ですか?」
「そ――猫。もう逃げちまったけど、見たかったかい?」
ぺたぺたと足音が遠ざかる。息を詰めていると、ぎしっとまた、ドアの軋む音が聞こえた。それから、ん、と、息を詰めるようなちいさな声。なにかあったのかと、そっとまたソファの背もたれから顔を出す。出して、今日いちばんに心臓がはねた。
キスしてた。
ニンジャさんと、お姫さまが。
ぼくがしってるやつじゃなくて、くちびるとくちびるを合わせるだけのやつじゃなくて、もっと長くて、もっといやらしくて、たとえば夜にうっかりつけたテレビで、一回だけ見たことがあるような、裏通りのみちばたでたまにカップルがしてるみたいな、とにかくそんな、大人のキス。
「ん……ふ、ッ……」
くちゅ、と、何かが絡むような湿っぽい音がきこえる。苦しそうな、けれど、どこかうっとりしてるみたいな声にこたえるみたいに、ニンジャさんがお姫さまの腰を抱く。すがりつくみたいに、お姫様の手がニンジャさんの背中にまわる。ニンジャさんの背中には傷跡がいっぱいついていた。凹凸になったひきつれの上を引っかき傷みたいな赤い線がのたくっている。その上から、もうひとつ、綺麗な手が爪痕をつける。爪でひかれた赤いラインが、ものすごくやらしい。というか、あの痕って、そういう――?うわ。うわ。うわァ……。
それ以上見ちゃいけない気がしてぎゅっと目を瞑っていると、ぎし、とバスルームの戸がまた軋む。
「それとも、つづき、中でする?」
きこえた声はたしかにニンジャさんのそれなのに、なんだか別の人みたいだった。低くて色っぽくて、きいてるこっちが耳の端まで熱くなってしまうような、甘ったるい声。
お姫さまの返事はきこえなかった。ただ、つづきの声がガラスのドア越しにくぐもってきこえる。さっきよりも大きくて甘くて甲高い声。
そろそろとソファから顔を出すと、くもりガラスの向こう側にふたりぶんの影がうすらぼんやりうつっている。シャワーの音の合間にきこえる声をそれ以上聞いてられなくて、ぼくは慌てて部屋をとびだした。
にぎりしめたままのスリッパに気づいたのは、家についてからだった。
その夜も、ぜんぜんちっとも眠れなかった。
ニンジャさんとお姫様はつきあっているのだろうか。いや、つきあってなかったらあんなことしない。ケッコンとかも、もしかするとしてるのかもしれない。ひょっとして、ニンジャさんはカケオチしてあのお姫さまを攫ってきたのかもしれない。だから、ヒーローじゃないって言ったのかも――いやでも、でも、でもでもあんな、昼間から、あんなこと……!!
ぐるんぐるんと頭の中で昼間の光景がまわっていて、頭の中が沸騰してしまいそうだった。
「……おとなって、ふけつだ」
もらってきてしまったスリッパをぎゅっと抱いてぼそりとつぶやく。
やっぱりニンジャさんは、ヒーローじゃないのかもしれなかった。
つぎのひ、もう一度、ニンジャさんのホテルをたずねた。たずねた、というか、忍び込んだ、がただしいけれど。あいかわらず鍵は開いていて、けれどニンジャさんはいなかった。またシャワーでもあびているのだろうか。お姫さまと、ふたりで。
「――っ、」
きのうのことを思い出して、また耳が熱くなる。きのうとおなじに床に脱ぎ散らかされたスリッパは、ちゃんと二つそろっていた。どうやら買い直したらしい。テーブルの上には、この前もらったのとおなじレモン黒蜜しそ味の飴玉がいっこ、ころがっていた。それを重しにするみたいに、メモが一枚はさまっている。『わるかったね』とだけ、走り書きでかかれていた。
要するに、ばれてた。知ってたけど。
複雑な気持ちでメモをよんでいると、ぎし、とまた、バスルームの扉が軋む。咄嗟にまた隠れてしまったのは、どっちが出てくるか分からなかったからだ。ソファの裏側からそろりとのぞくと、ニンジャさんがひょこりとバスルームから現れる。きょうはニンジャさんひとりらしい。ふー、と息をついて、がしがしと頭を拭いている。白いバスタオルが少し赤く汚れていた。どこか怪我をしたのかもしれない。よく見ると、ハンガーラックにかけられた上着も派手に赤く汚れていた。あれは――ペンキだろうか?
くるりと腰にタオルを巻くと、ニンジャさんはまた、
「ありゃ、」
と、ちょっと困ったみたいな声をあげる。その視線はテーブルの上に注がれていた。のっかっていた飴玉は、今はぼくの手の中だ。こんどは盗んだわけじゃない、と、思いたい。
「安心しな。今日はチェズレイはいないから」
「――っ、」
びく、と、思わず肩が跳ねる。心臓がばくばくいっていた。
痛くなりそうな胸を押さえてじっと黙っていると、ありゃ、と、また、ニンジャさんは首をかしげた。
「そんな警戒せんでも――って、思ったんだけど。おじさん、そんな嫌われちゃったかね」
ま、そりゃそうか、と納得されてしまったせいで、否定するタイミングも出ていくタイミングも完全に失ってしまった。アロハシャツとあまり見たことのない変わったズボンにはきかえると、ニンジャさんは床におちていたスリッパを片方拾い上げる。一体どうするつもりなのかとこっそり見ていると、ニンジャさんはさっとひといきにカーテンを開け放った。暗がりになじんでいた目が、急な真昼の光にくらむ。その光の向こうに、ニンジャさんは思いっきりスリッパを投げた。
「……へ」
綺麗な放物線を描いて、カエル柄のかわいいスリッパが窓の外にすっとんでいく。
「いやーよく飛ぶねぇ、うん」
満足げにうなずくと、ニンジャさんはふたたびカーテンを閉める。何がしたいのかさっぱり分からなかった。ソファの裏でぽかんとしているぼくのことは相変わらず気づかないふりをして、ニンジャさんは、んー、と伸びをする。
「じゃ、おじさん、つぎのお仕事まで昼寝しちゃおうかな」
独り言にしては大きな声でそう言って、ニンジャさんはごろんとベッドに自堕落に寝転ぶ。本当に寝てるのか、それとも寝たふりなのか、いまいちよく分からなかった。いまのうちに帰れ、ってことなんだろうか。
最初に会ったときに感じたとおり、ニンジャさんは、やっぱり狸みたいなひとだった。つよいんだかよわいんだか、しっかりしてるのかずぼらなのか、ヒーローなのかずるい大人なのか、ぜんぜんよくわからない。というか、なんだかずっと化かされてるみたいなきがする。
わざとらしいいびきをききながら、ぼくはころんと飴玉をくちのなかにころがす。
ごろごろした大きな飴玉は、甘くて酸っぱくて薬っぽくて、やっぱり大人のあじがした。
それからしばらく、ぼくはずっとニンジャさんのホテルに通い続けた。
どうやらニンジャさんは、いつも昼過ぎにシャワーを浴びて、昼寝をして、それから仕事に向かっているらしい。なんだか昼夜が半分逆転してるみたいな生活だ。やっぱり、夜に悪いやつをやっつけているのかもしれない。だいたいいつも鍵は開いていて、そういうときは大抵ニンジャさん一人だった。あのお姫さまは、どうやら昼間にはいないらしい。ハンガーラックには明らかにニンジャさんのものじゃない服がかけられていたので、一緒に泊まっているのは確かみたいだったけれど、少なくともぼくは、あの日以降一度も遭遇していない。もしかすると、ぼくがいる時は来ないように、合図を送っているのかもしれなかった。だってそうじゃなきゃ説明がつかない。
どういうわけか、ニンジャさんはぼくがくるたびにスリッパを窓から捨てていた。それも、いつも片方だけ。お姫さまへの合図だっていうなら、なにもかもに納得がいく。だってぼくは、相変わらずニンジャさんとはまともに喋っていなくて、いつもソファに隠れてばっかりで、はっきり言って不審者以外のなんでもなかっただろうから。というか、よく警察に突き出されなかったと思う。
そんな感じで一週間がすぎたあたりか。
いつもどおりにホテルに向かうと、その前にニンジャさんが待ち伏せしていた。
ホテルの扉の前で、親し気にひらひら片手を振って、まっすぐにぼくの方を見ている。他に誰かいないかときょろきょろ周りを見回したけれど、ちょうど通りにはぼくひとりしかいなかった。
「そろそろ、ちゃんと顔出してくれてもいいんじゃないかい?」
Uターンして逃げるのをふさぐみたいに、先回りに声をかけられる。今日は隠れられそうな場所がなかった。というか、今更隠れても意味がない。
「……なに?」
「や、それ、どっちかっちゅうとおじさんの台詞だと思うんだけどね」
渋々返事をすると、ニンジャさんは困ったみたいに笑う。
「お前さん、おじさんに何か用事かい?随分熱心に追いかけてくれてたみたいだけど」
しゃがみこんで目線を合わせる。かちあった視線は怒ってるみたいじゃなくて、やっぱり、ちょっと戸惑ってるみたいだった。
「それとも、おじさんに何か頼み事かい?あんまり役には立てんけど、話聞くぐらいなら――」
と、そこで、ニンジャさんは言葉を切る。ひく、とその笑顔が若干ひきつったような気がした。
「あー……お前さん、その、これは、ちと事情があって、」
かつ、と、地面を叩くような硬い音が後ろから聞こえる。ニンジャさんの視線をたどって振り返ると、きらきらのブロンドのお姫さまがそこにいた。
「モクマさァん――何か、私に隠し事でも?」
訂正。
ぜんぜんお姫さまじゃなかった。呪詛のこもった低い声も、舌を出した形容しがたい笑顔も、全身からあふれる不穏な空気も、お姫さまっていうよりもラスボスの魔王のそれだ。美人なだけにめちゃくちゃこわい。反射的にニンジャさんを盾にして隠れると、お姫さま(偽)は、不機嫌そうに眉をひそめる。
「……モクマさん、その子は?」
「え、いや、おじさんも詳しくは知らなくて――」
「要するに赤の他人ですか。なら、どうなっても構いませんね」
「え、いや、ちょっとお前さん落ち着いて、」
「――っパパです!!!!」
咄嗟だった。
「パパ、だから、その、赤の他人じゃ、ない……です、」
反射でついた嘘に、ぴしっとその場の空気が凍る。失敗だったとすぐに気づいた。そして気づいた時にはもう遅い。
「……………今、なんて?」
ぎぎぎぎぎ、と、音でも出そうなくらいにのぎこちなさでお姫さまがぼくを見る。嘘をついたら殺すとその目が言っていた。けれど、本当のことを言ったって絶対にぼくはただじゃすまない。こういうの、なんて言うんだっけ?そう、あれだ。『毒を食らわば皿まで』だ。
というわけで、ぼくはもう一度、きっぱりと、胸を張って堂々まっかな嘘をついた。
「このひと、僕の、パパです」
その場の気温が一気に十度は下がったと思う。
「え、あの、ちょいと待って、え、なにそれ、どういう、」
「モクマさァん」
混乱しているニンジャさんが、お姫さまの一言でぴしっと背中を伸ばす。
「ええと、あの、チェズレイ、さん……?」
「実はねェ、この前、ホテルのオーナーに言われたんです。あなたの子供を名乗る子が最近ホテルにいりびたってるって」
「え、いや、おじさんそういうのはちょっと心当たりが、」
「私もねェ、最近のあなた、ずいぶんと不審な行動が多いなとは思っていたんですよ。それがまさか隠し子とは」
「いやだからね、あの、ちょっと落ち着いておじさんの話聞こっか???ね???」
「怒ってませんよ、えェ、あなたが下衆なことぐらい百も承知ですから。今更怒るわけがない」
言い聞かすみたいにそう言うと、お姫さまはニタリと笑う。口の大きく裂けた笑顔は、なんだか狐の妖怪みたいだった。そして絵本でも昔話でも、こういう妖怪は狸より狐の方がずっとこわい。愛嬌がなくて美人なぶん、余計に。
「それはそれとして、モクマさん、」
目の奥が一切笑っていない笑顔のままで、狐のお姫さまはこう言った。
「右の頬と左の頬、どちらを殴られたいですか?」
右の頬を殴られたら、左の頬を殴りなさい、と、昔ママが言っていた。世の中は平等なのだから、悪いやつにはされたのと同じだけの制裁をしたって構わない――と、いうことらしい。死因が病死だったとは思えない、なかなか過激な遺言だった。
と、ついさっきまで思ってた――けど。
『両方』と言わないだけ、ママは優しかったのかもしれない。
「なにも両方引っぱたくことないと思うんだけどなァー……」
かっくりとうなだれながらニンジャさんはもくもくと目の前のオムライスをくちに運んでいる。その両側の頬っぺたにはくっきりと赤い紅葉がさいていた。その正面、綺麗な手さばきでハンバーグを切り分けながらお姫さま――じゃなかったので、とりあえず狐さんと呼ぶことにする――は、涼しい顔でしれっと告げる。
「おや、お返事を頂けなかったので、てっきり両方殴られたかったのかと」
「あー……そうね、ちょっと混乱してたからね。今もしてるけど」
困ったみたいな顔で、ニンジャさんはとなりに座るぼくを見る。ものすごい爆弾を落とされたはずなのに、やっぱり少しも、怒ってる感じじゃなかった。ニンジャさんは怒らないひとなのかもしれない。
申し訳ない気持ちになりながら、かといって今更嘘ですなんて言えないので、誤魔化すみたいにランチプレートの小さなエビフライをもそもそとかじる。
ここじゃなんだから、と、移動したカフェは、ニンジャさんの行きつけらしい。ただならないぼくら三人の様子――というか、ただならないニンジャさんのほっぺたに、何かを察したお店のひとが気を使って一番奥の席を用意してくれた。お昼時なのかお店はそれなりに賑わっていて、おかげで僕らの重たい空気は結構すごく浮いている。
その主な原因であるところの狐さんは、さっきからじとりとニンジャさんを見つめていた。というか、睨んでいた。
「……本当に、ちがうんですか?」
「だから、ちがうって言ってるでしょ。おじさんそんな信用ない?」
「『今の』あなたは信用していますよ?けれどあなた、昔の自分にそういった前科がないと胸を張って言い切れます?」
「あー……いや、それはその、」
「『その』何ですか」
ガッ、と、テーブルの下でまあまあな音が聞こえた。ついでに、ニンジャさんの呻き声も。
「ちょ……お前さんそれ地味に痛いからやめない?」
「失礼、うっかり当たってしまいました」
「あーソウネ、お前さん脚長いもんね」
「ええ、実は股下5マイルらしいので」
「そりゃすごい。どんなとこでもひとっとびだ」
「浮気性のニンジャさんの下衆な過去までは跳べませんがね」
冗談めいたやりとりなのに、テーブルの下で断続的にガンガンなってる音が怖い。いったいどんな攻防が繰り広げられているのか、時折狐さんが舌打ちしているあたり、ニンジャさんが優勢なのか――というか、そもそもこの二人、一体どんな関係なんだろう。
さっきまでのラスボスみたいな笑顔をひっこめた狐さんは、やっぱり最初に見たのと同じにものすごくきれいな人だった。けれど、すんと澄ました顔はどこか冷たくて、バスルームから顔を出したときに見た、あの無防備に柔らかな感じとは全然ちがう。ニンジャさんにキスされてるときの、あのうっとりとした顔とも――ってことはあれはやっぱり、ニンジャさんの前だけの顔なんだろうか。
「――相棒です」
唐突に答えをドンと出されて、顔を上げる。不機嫌そうな目がじとりとぼくを睨んでいた。
「あなたとモクマさんがどういう関係かは知りませんが、今の彼は私の相棒ですから」
「あ……ハイ」
「相棒とはつまり、今後末永くともに生きる約束をした仲、ということです」
「はぁ……」
「つまりそういう関係ですから」
「……はぁ、」
「たとえ今後ぽっと出の隠し子が百人出てきてもそのあたりは揺らぎませんので」
「…………はぁ」
「お分かりいただけたなら、結構」
澄ました顔で、狐さんはハンバーグを口に運ぶ。
なんだろう、今の。牽制?警戒?やきもち?よくわからないけれど、なんだかすごく、ぼくは警戒されているらしい。くく、と隣でニンジャさんがおかしそうに笑う。おかしそうっていうか――なんだかすごく嬉しそうだった。
「お前さん、案外大人げないとこあるんだねぇ」
「そうさせている自覚はおありで?」
「うん、今、身に沁みて感じてるよ」
ありがとね、と、つけたした声のひびきをどこかで聞いたような気がした。だれより大事なひとを想うような、声――思い当たるより先に、ふい、と狐さんが視線を逸らす。
「……そういうところが、下衆なんですよ」
「ん?何か言ったかい?」
「いいえ、何も――少し、電話をしてきます」
そう言うと、狐さんはタブレットを片手に席を立つ。ぴんと伸びた背中に、すらりとした細身の身体、なにより綺麗なその顔に、すれちがうたびにテーブルのみんなが振り返る。さらさらのブロンドが、真昼の日差しをあびてきらきらしていた。
「べっぴんさんでしょ、おじさんの相棒」
はっとして、ニンジャさんを振り返る。いつの間にかぼうっとみとれていたらしい。なんだかそれが気恥ずかしくて、がじがじとエビフライの尻尾をかじる。
「……きれいだけど、なんかこわいし」
「そ?ま、怒らせると怖いけどねぇ――けど、ちゃんと怒れるってことは、それだけ情が深いってことだから」
なんでもないふうに、ニンジャさんはさらりと言う。
それはつまり、怒らないニンジャさんは、薄情ってことなんだろうか。ぼくにはそうは思えなかった。こわいよりも優しい方がいいに決まってる。
「ま、そう嫌わんといてくれよ。おじさんの大事な子だからさ」
くしゃ、とおおきな手が頭を撫でる。優しい言い方だったけれど、狐さんとは別の方向で、なんだか牽制されたような気がした。気のせいかもしれないけど。
「モクマさん」
呆れたみたいな声に振り返る。いつの間にか狐さんが戻ってきていた。
「ん?はやいね。電話終わった?」
「えェ――それにしても、あなた、あまり人のことは言えないのでは?」
「ん?なにが?」
「子供相手に大人げないです」
さっきのお返しみたいにそう言うと、狐さんは席につく。食後のコーヒーを一口すすると、じとりとまたぼくとニンジャさんを見た。
「それで?ずいぶんと仲がよろしいようですが――本当はどういったご関係で?」
「初対面だよ、ぜんぜん」
ニンジャさんの告げた嘘に、ばっとぼくは振り返る。コーヒーのカップに隠したくちもとが、僕だけに見える角度で、『しぃっ』と告げていた。内緒、ということらしい。
「……それで、モクマさんはそう仰ってますが、あなたは?本当にこの人の子供だと?」
助けを求めるようにニンジャさんを見る。視線に促されて、ぼくはこくりとうなずいた。
「……パパ、です。このひとが、ぼくのパパです」
「と、言っていますが?」
「あー……ま、ちと行き違いが起きてるみたいだねぇ。ええと――そういえばお前さん、名前は?」
話題をすり替えるみたいに振られた問いに、口ごもる。名乗りたくない、とかじゃなくて、なんとなく気恥ずかしかったからだ。さっきまでのくすぐったくなるような流れを聞いてしまうと、余計に。
「ポチとかタマとかでいいんじゃないですか?どうも名乗りたくないようですし」
「いや、よくないでしょ。犬や猫じゃないんだし」
「だからこそ、ですよ。よく言うでしょう?『名は体を表す』と――他人のスリッパやくつしたに勝手に悪戯する泥棒猫には丁度いいお名前では?」
ぎくっと、背中が震えた。バスルームから出てきたときは気づかれてなかったと思ったのに。やっぱりばれてしまったのだろうか。
「あの、」
「俺が、不注意でなくしちまっただけだよ」
かつん、と、ニンジャさんがカップを置く。
「おじさんがずぼらなの、お前さんがよく知ってるでしょ」
「そうですねェ。確かに、ただの子供が、あんなところにスリッパを隠せるはずがない。屋根の上とか、三ブロック先の民家の軒先とか――てっきり私は、『あなたが』誰かを庇うためにそのようにされているのかと思ったのですが」
「庇う?」
「えぇ、木を隠すなら森の中、とはよく言いますから。例えばそう――『一回目の犯人だけ』を隠したかったのかと」
「なるほど。連続殺人の一人目だけが別口でもばれにくい、みたいな?」
「ご理解が早くて助かります」
「生憎俺は、そこまでいいやつじゃないよ?――お前さんなら分かるだろ」
「ええ、存じ上げております。だから下衆だと申し上げているんです」
「……なるほど、ご理解が早くて助かるよ」
ひりひりしたやりとりに固まってしまっていると、狐さんが僕を見て、言った。
「そういう訳で、ポチとタマ、どちらがお好きで?」
「「チェズレイ」」
ぼくとニンジャさん、全然別のトーンで、二人分の声が重なった。
ありゃ、と、ニンジャさんがぼくを見る。それから狐さんを見て、また、ぼくを見た。
だから、言いたくなかったんだ。
「……『チェズレイ』が、名前」
もう一度繰り返すと、ぱちぱちとニンジャさんは目をしばたかせる。
「なるほど――そりゃ、すごい偶然だ」
「……嫌な偶然ですよ。確認ですが本名ですか、それは」
こく、と頷く。これについては嘘じゃなかった。たぶんこれは、狐さんと同じ名前なんだろう。じっと見定めるようにぼくを見ると、狐さんは――チェズレイは、ひとつ頷いた。
「紛らわしいので、ポチでいきましょう」
「は?」
「グリーンピースも食べられないクソガキ殿に同じ名前を名乗って頂きたくないので」
綺麗なゆびの指した先、チキンライスから摘出したグリーンピースがプレートの上に転がっていた。食べられないからいつも残してしまうのだけど――いや、それより、今このひとなんて言った?
「く……クソガキどの?」
「えぇ、クソガキ殿で十分でしょう。『ポチ』なんて豪勢な名前すら勿体ない。犬に対して失礼だ」
「い、いぬにしつれい……?」
「ええ、犬ですら出されたものは残さず食べますから。それすらできないクソガキ殿はクソガキ殿で十分でしょう?」
丁寧な口調とフランクな悪口のギャップがすごい。なんだろう、このひと。名乗った途端に急に態度が悪くなったような。
「あー……ほら、おじさんの相棒、ちと自分に厳しいとこあるから」
「……そういう問題?」
というかそれは完全にとばっちりというか――はっきり言ってぼくは全然関係ない気がするのだけど。
「おや、それとも、あなたのお好きなヒーローは好き嫌いをご推奨するのですか?」
綺麗な指が、ぼくのズボンにぶらさがったチェーンを指す。落とさないように鍵をつないだチェーンには、忍装束のヒーローのキーホルダーがくっついていた。
「あなた、ヒーローがお好きなので?」
見透かすような目が、ぼくを見て問う。本音を引きずり出すような視線に押し負けてしまわないように、きっとその目を睨み返した。
「……ヒーローなんて、きらいだし」
「おや、それはすごい偶然で」
「は?」
「私も、そういった類のものはあまり好きではありませんでしたから――以前は」
わざわざ付け足した、ということは、今は違う、ということだろうか。問いかける前に、呆れたみたいに笑われた。美人なぶん、嫌味の度合いが段違いにひどい。
「……なに」
「いえ、おかしな方だと思っただけですよ。嫌いだというヒーローをわざわざ大事に身に着けるなんて――被虐趣味でもおありですか?」
「しらないし……っていうか、関係ないじゃん」
「ええ、関係はありませんね。所詮は赤の他人ですから」
あっさりと引くと、チェズレイは肩をすくめる。
「私はただ、同じ名前のよしみでご忠告差し上げているだけです。思い込みは、目を曇らせる」
告げられた忠告は、どうしてか、すとんと心のうちに落ちた。同じ名前だから、というよりも、淡々とした言葉の温度が、さっきより少し高い気がしたからだと思う。血が通っている、というか――このひと自身が身をもってそれを思い知ってるみたいな。
「というわけで、手始めにきらいなソレを食べてみては?」
「は?」
とん、と、もういちど長い指が机を叩く。その先にはグリーンピースがころがっていた。
「……きらいって言ってるじゃん」
「ええ、けれど食べられない、と思っていたゲテモノも、しっかり味わってみると案外美味しかったりするものです。人生、なにがあるか分かりませんから」
ふ、とまた、言葉の温度が上がる。その、不意にふっと素がかおを出すような感じに、なんだか心臓がざわざわした。くすぐったいような、恥ずかしいような、甘酸っぱいような、へんな感じ。
誤魔化すみたいに、フォークで一粒だけ、グリーンピースを突き刺す。しわしわに湯だった緑色のそれを数秒じっと見つめてから、思い切って口にいれた。おぉ、と、ちょっと感心したみたいにニンジャさんが声をあげる。じっとこちらを見ているチェズレイを睨みながらもぐもぐしっかり噛んで、呑み込んだ。
「どうでしたか?」
「…………まずい」
くちの中いっぱいに広がる独特の青臭さは、久々だけど強烈だった。なんであれだけ小さな粒にこれだけの青っぽさが詰め込まれてるのか全然ちっとも分からない。グラスをつかんで、中の水で口をすすいでから、チェズレイを睨む。
「うそじゃん、さっきの!」
「はて、嘘、とは?」
「おいしいかもって言ったし!」
「おや?ちゃんと聞いていなかったのですか?私は可能性を提言しただけで、『美味しい』と断言はしていませんが?」
「だました!!!ずるい!!!」
「ええ、こう見えて一応悪党ですから――あァ、それ、全部残さず食べてくださいね。半端に残さないように。お店の人に迷惑ですから」
「っっっっ!!!」
「それとも、クソガキ殿はその程度のこともできないので?これはこれは、子供相手に大変過剰な期待をして申し訳ございませんクソガキ殿」
「ちょ、チェズレイ、相手子供なんだし、いい加減その辺に」
「子供じゃないし!!!」
だんっとグラスをおいて、お皿をつかむ。ころころに転がった緑の悪魔をフォークで片っ端から突き刺して、口の中にぜんぶ放り込んだ。あんまり噛むとだめだと分かったから、ほとんど噛まずにいっきに呑み込む。
「こどもじゃ、ないし」
だん、っとフォークを置いて啖呵をきる。
「おや、これはこれは――」
チェズレイは少しだけ目を見開いて、それからどこか満足げにうなずいた。
「よくできました。まあ、及第点でしょうね」
「またお前さんは厳しいんだから――えらいよ、ちびっこは」
わしわしとニンジャさんが頭を撫でてくれる。その、おっきなてのひらも、チェズレイのほんの少しだけ緩んだ瞳も、べつに全然嬉しくなんかない。胸がぎゅっとなったりしない。
パパとママみたいだなんて、ぜんぜん、思ってなんか、ない。
ぼくの好き嫌いとチェズレイとの関係が多少改善した以外、何の進展もないまま――ぼくがあくまで嘘をつきつづけているからだけど――ランチタイムは終わってしまい、仕方なく三人で外に出た。
飾り煉瓦の通りを行く当てもなく三人で歩く。途中、交番の前を通りかかったときには連れていかれるんじゃないかとひやひやしたけれど、どういうわけか、二人はおまわりさんを頼るつもりがないみたいだった。
「まぁ、悪党ですからね。あまりお世話になりたくないんですよ」
「悪党?」
そういえばさっきもそんなことを言っていた気がする。移動販売のクレープのはじっこをかじりながら見上げると、チェズレイはおや、と小首を傾げた。
「まさかあなた、そこのニンジャさんの正体も知らないのですか?隠し子のくせに?」
「……べつに、しってるし」
「そうですか、では確認ですがモクマさんが先日潰した組織のお名前は?」
「は?組織???」
「では、モクマさんが先月単身乗り込んだマフィアのボスのお名前は?」
「ま、マフィア!?!?」
「おや、存じ上げていない?相棒の私ですら知っていることを?隠し子のくせに?知らない??」
「う、うるさいな……」
「チェーズレイ、あんまり変なこと言って虐めないの――って、どっちも『チェズレイ』なんだっけ」
ぼくの手からクレープをとりあげると、ニンジャさんはひとくち齧る。もぐ、とクリームをほおばると、冗談だからね、と困ったみたいにニンジャさんは念押しした。
ほっぺたにクリームをつけてるニンジャさんは、とてもマフィアとか組織とか壊滅とか、そういう単語が似合うようには見えなかった――けど、
「ん?どうかした」
「……なんでもない。アイス、垂れてるし」
「そ?ありがとね」
ごつごつとした指でぬぐったクリームをぺろりと舐めて、ニンジャさんはもうひとくちだけクレープをかじる。
はんぶんこ、という約束で買ってもらったそれは、昼間の日差しでトッピングのアイスがとけかけていた。チョコソースのついた包み紙を食べやすいようぺりぺりと捲ると、ニンジャさんはもう一度ぼくにクレープを手渡す。その様子をチェズレイがじっと見ていた。
「どしたの、お前さんも食べたくなっちゃった?」
「いえ、よくそんな糖質の塊みたいな甘ったるそうなものが食べれるなと感心していただけです」
「あ、好き嫌いだ!いけないんだー!」
さっきの仕返しに指をさして言ってやると、チェズレイは眉一つ動かさずに頷いた。
「ええ、それが何か?」
「な、なにかって……好き嫌いするとよくないってさっき言ってたじゃん」
「私は大人だからいいんですよ。それに、これ以上私が大きくなったらモクマさんがかわいそうでしょう?キスするときも一苦労だ」
「――ッッ、キス、って、」
不意打ちでフラッシュバックした濃厚なアレに、かっと耳が熱くなる。確かに、この前見たときはチェズレイの方が結構かがんでた――というか、凭れてた、というか、その、
「おや、まるで見たことがあるような反応ですねェ――覗きは感心しませんよ?」
「覗いてないし!見てないし!!」
「モクマさァん、クソガキ殿が私のことをいやらしい目で見てるんですゥ」
「はァ!?!?!?べつに見てないし!!!!!」
「あー……うん、なんかお前さん、おじさんより仲良くなってない?っていうか実はそっちの隠し子だったりしない??産んでない???」
「私の息子はボスだけですが?」
「あ、その設定は生きてるのね……」
ひょいとぼくの手からクレープをとりあげるとニンジャさんはまたひとくちかじる。息子、ということは、この二人にはちゃんと本物の子供がいるんだろうか――こんなふうに、三人で並ぶような。
少しだけ、その子が羨ましいと思った。
「そういえば、少し気になっていたのですが」
と、ふいにチェズレイが足を止めた。
「あれは、あなたのご友人では?」
す、と伸びた指が、郵便ポストの方を指す。ポストに隠れるように――というか、隠れきれていないのだけど――している、三人組がじっとこちらを見ていた。ぼくと目が合うと、気まずそうにばっと背を向けて逃げていく。
「ありゃ、逃げちゃったねぇ……追いかけなくていいのかい?」
「いい。っていうか、友達じゃないし」
ふいっと目をそらすと、チェズレイがしゃがむ気配がした。
「なに」
「いえ、やはり『これ』が、矛盾していると思って」
長い指がキーチェーンを弄ぶ。古いキーホルダーが、その先でちゃりちゃりと揺れていた。
「お揃いのグッズを身に着ける仲の癖に、『お友達』ではない、と――つまり、喧嘩中、ということでしょうか?」
「……喧嘩じゃないし」
「おや、『お友達だったこと』は否定しないのですね」
「――っ、」
ずるい、と、言いかけてやめた。それを言ったら、何もかもを認めたことになりそうだった。
「先ほどのご友人、ずいぶんと心配そうに見ていらっしゃいましたねェ――おおかた、あなたが悪党に誑かされないか、案じていらっしゃったのでは?本当に、追いかけなくていいんですか?」
「知らないし」
「いやぁ、今にもペンキとかぶっかけてきそうだったよねぇ、さっきの子たち。片手に持ってたバケツの中身、お前さんがぶちまけてたのと同じやつでしょ。ヒーローごっこ、ほんとはみんなでやってたんじゃないの?」
「……知らないし。ヒーローなんて、きらいだし」
ニンジャさんの手からクレープを奪い取って、のこりの全部を口に詰め込む。何かで蓋をしておかないと、泣きだしてしまいそうだったからだ。ヒーローなら、こんなところで泣いたりなんかしないのに。べつに、ヒーローなんてきらいだけれど。なんて、全然逆のことをいっしょくたに思ってるあたり、チェズレイが言ったとおりなんだろう。
ぼくはきっと、たぶん、ものすごく矛盾してる。
「――ヒーローは、あなたを救ってはくれませんか?」
と、しゃがみこんだチェズレイと、正面から目が合った。
「それとも――『ヒーロー』では、何か都合の悪いことでも?」
見透かすような視線から、けれど目がはなせなかった。微かに、チェズレイの口元が笑みを浮かべる。
「――なら、悪党になりますか?」
ひそりと囁かれたのは、ひどく魅惑的な誘いだった。口いっぱいのクレープよりもずっとずっと甘い誘惑。
「お望みなら、教えて差し上げますよ。ヒーローじゃない、悪党のやり方」
どうしますか?と――問いかけたときには、きっと二人とも、ぼくの答えなんてとうに分かっていたんだろう。
望むまま、望まれるまま、ぼくは小さく頷いた。
手を引かれるまま連れてこられたのは、この街の表通りの中心部――カジノだった。噴水や広場やネオンライトでリゾートホテルっぽく彩られた、大人向けのテーマパーク。海の向こうにある大きなカジノを真似したのだと、前にパパが言っていた。夜はきらびやかにライトアップされる建物は、昼間の日の光の中では薄っぺらくてしらじらしい。なんだか安っぽい玩具みたいだ。きらきらしたその裏側が、意外とそっけないところとか。
「誰もいないみたいですね」
建物の裏手、従業員用の出入り口にはひとけがなかった。カジノは夜しかやっていないから、昼間はみんな休んでる。普段ならうろついている警備員も、休憩に出ているのかいなかった。ひびの入ったコンクリートが剥き出しの壁に凭れて、チェズレイがタブレットを操作する。
「この時間であれば、従業員はほぼ帰宅しています。見張りと、それから警備の網を潜れるルートはこちら――天井裏から行く方がよろしいかと」
「了解。ちなみに警備って何人いるの?」
「二十人程度でしょうね。仮に見つかってもあなたならどうにかできるでしょう?まあ、見つからないにこしたことはありませんが――」
と、そこで言葉を切ると、チェズレイはぼくの方を見下ろす。結わえた髪が、傾げた首に合わせて揺れた。
「どうかされましたか?」
「どうか……って、」
何から言ったらいいのか分からずに、ぼくはただ金魚みたいに口をぱくぱくさせる。
二人とも、さっきと服が全然違った。全体的に黒っぽくて、動きやすくて、無駄のない服――ニンジャさんのそれは、それこそ本物の忍装束みたいで、なんだかものすごく――そう、ものすごく、本格的、というか。
本物の、悪党みたいだった。
「おや、心外ですね。最初から悪党だ、と申告していたはずですが?」
あァ、と、チェズレイはそこで馬鹿にするみたいに鼻で笑う。
「クソガキ殿は今更怖気づかれたのですか?我々が『本物らしい』そぶりをみせたので怖くなった、と」
「……っ、ちがうし」
「いえいえ、別に構いませんよ?覚悟のない子供なんて、連れて行ったところで大した役にも立ちませんし、むしろ邪魔です。別に止めませんのでさっさとお引き取りくださいクソガキ殿」
「べつに!こわくないし!子供じゃないし!行くし!!」
「おや、威勢の良いお返事で。漏らしても面倒は見ませんよ?」
「漏らさないし!!!」
「あー……仲いいのはいいけど、ちと静かにしよっか」
しーっと人差し指を唇にあてると、ニンジャさんはさっと周囲に目を走らせる。口元まで布で隠されているから表情がよく分からないけれど、苦笑しているんだと思った。
「ま、そんな怖がらんでも、今回は下調べ程度だから、そんな危ないことはないよ。見つからないように、警備もできるだけ避けるしね」
「下調べ?」
てっきり今からカジノを襲いにいくと思っていたのに、どうやらそういうことではないらしい。
「いきなり突撃しちゃ、成功するもんも上手くいかんからねぇ。今日のとこは、本番の逃走経路の確認と、金庫の中身のチェック、そんなとこかね」
「……金庫、」
ぎゅ、と、チェーンの先のキーホルダーを握り締める。
「……あのさ、もし敵に見つかったら、どうなるの?」
「どうもしません、逃げるだけですから」
しれっと慣れた様子でチェズレイは言う。
「正直、どちらでもいいんですよ。見つかったところで、『お前は狙われているんだぞ』という脅迫になりますから、それなりのメリットはある――まあ、見つからないにこしたことはありませんがね」
その言い方に、確信した。たぶん、この二人は、これまで何度かこういうことをしてきてる。ヒーローじゃなかったけれど、それでも、ぼくの予想はあたってた。
このふたりは、どっちも、まともな大人なんかじゃない。
「確認したいことは、それだけですか?」
最終確認めいた問いに、うなずく。
「あァ、そういえば」
従業員口の扉を潜る前、チェズレイは、ふと思いだしたみたいに振り返った。
「あなたのお名前、御父上がつけたものですか?」
「……だったら、なに」
「いえ――皮肉だなと、思っただけです」
ひとりごとめいた呟きの意味を、このときはまだ、知らなかった。
カジノの天井裏は、狭くて暗くて、よく分からない配線がたくさんのたくっていた。格子状の網目の下から覗く廊下を見下ろしながら、息をひそめて這いつくばって進んでいく。どういうわけか、廊下には警備どころか人がぜんぜんいなかった。
いくら昼間だからって、誰もいないなんてことあるはずがないのに。
「一応、事前調査はしていますからね」
ぼくの疑問に、ひそめた声でチェズレイがこたえる。
「警備の時間、休憩中の従業員の動き、カメラの死角――全部調べてこそ、悪党というものですから。段取りなしのぶっつけ本番でうまくいく程、世の中甘くないんですよ」
「……あっそ」
「おや、何か癇に障ることでも?」
「べつに」
「ま、そうは言っても予想外の出来事っちゅうのはあるけどね」
かた、と、配線用の窓のひとつを外して、ニンジャさんは片手だけを翻す。足元で鈍い悲鳴が二人分聞こえた。そろりと金網越しに廊下を見る。黒服の男が二人、重なり合うように倒れていた。
「殺しちゃいないよ。寝てるだけ」
ま、あと半日は起きんけどね、とつけたして、ニンジャさんは慎重に周囲を見回す。他に誰も来ないことを確認してから、とん、と廊下に降り立った。
「うん、今なら大丈夫――おいで」
ニンジャさんの手を支えに、ずるずると天井裏から地面に降り立つ。地下一階の廊下は、なんだか地上のそれより空気が淀んでいるような気がした。外した天井板をもとに戻すと、チェズレイはタブレットに片手を走らす。
「あとは――あちらの廊下の突き当りが金庫室ですね。廊下のカメラはダミーなので無視してよいかと」
「意外とザルだねぇ、警備」
「表側にお金をかけすぎたんでしょう。いらない見栄を張るから、こうやって痛い目に遭う」
「言うねぇ、お前さん」
多分敵地のど真ん中のはずなのに、二人の調子はさっき散歩してた時となにも変わらない。どきどきしているのは僕だけみたいだった。ぎゅ、と心臓を抑えながら二人に挟まれてぺたぺたと歩く。
「それにしても、クソガキ殿は随分しっかりしているんですねぇ」
「……なにが」
タブレットからぼくへと視線を落として、チェズレイが薄く笑う。
「いえ、先ほどから足取りに一切の迷いがありませんので――てっきり、一度ここに来たことがあるのかと」
疑問に思っている、というより、鎌をかけてるみたいな口調だった。
「……そんなわけないし」
「あァ、そうですか。まあ、一度来ていたらそんな怯えた顔はされませんよね」
「怯えてないし。怖くないし」
「そうですか――まぁ、覚悟がおありなら、それで」
ぱちん、と、チェズレイは扉の脇のキーボックスを開く。関係者以外では絶対に開けないはずの指紋認証式の電子ロックは、けれど手袋越しに触れるだけで簡単に解除されてしまった。
「指紋程度、従業員であればどうとでも盗めますからねェ」
ぺり、と、手袋の指先に張り付けたシールを床に捨てて踏みつける。鮮やかな手腕は、確かに本物の悪党のそれだった。中の様子を確認しながら、そっと二人は金属製の扉を開く。金庫室、の名の通り、そこには金庫が並んでいた。壁一面に、ずらりと。
「こりゃまた――壮観だねぇ。全部開けてたら日が暮れちまう」
「全部は開けませんよ。確認するのは一つでいい――鍵は、ひとつしかないのですから」
チェズレイが振り返る。翻した片手の指先、鍵のついた細いチェーンがぶらさがっていた。
「――ッ、」
反射的に、ズボンにつけていたチェーンを引っ張る。キーホルダーのぶらさがったその先に、あるはずの鍵はどこにもなかった。
「なんで……」
「先ほど、すり替えさせて頂きました。どうせお渡し頂けるかと思っていましたが――好きではないんですよ。他人に踊らされるのは」
にい、と、口の端を吊り上げてラスボスめいてチェズレイは笑う。
「それで、あなたが開けさせたかったのは、一体どの金庫です?」
咄嗟に、目で追ってしまった。右から三番目、上から二番目――鍵を盗んだ時、管理リストに書かれていた番号。何度も何度も心のうちで読み上げたせいで、すっかり暗記してしまった場所。
「あァ、ここですか。確かに、ぴったり合いそうだ」
かち、と、鍵穴に鍵を差し込む音が聞こえた。咄嗟に俯くと、馬鹿にするみたいに喉を鳴らす音がきこえた。
「今更なにを怯えているんです?悪党になると決めたのでしょう?ヒーローでは駄目だとあきらめたのでしょう?――そもそもあなた、この展開を期待してモクマさんに近づいたのでしょう?」
歌うように、チェズレイは綺麗に図星を抉る。
「いくら鍵を盗めたって、子供一人では到底ここまでたどり着けやしませんからねェ。悪事を暴くヒーローか、罪悪感ひとつなく盗みに入れる悪党か、いずれ、『まともじゃない大人』の協力が、あなたには必要だった。だってあなたは所詮、度胸も覚悟も何もない、ただの子供なんですから」
「……子供じゃ、ないし」
「子供ですよ――だからこれは、あなたが背負うものじゃない」
顔を上げたその前で、古びた金庫の扉が開く。
「だって、あなたの父親のしたことは、あなたの責任ではないのだから」
ぼたりと、重たい音をたてて金庫からビニール袋がこぼれおちる。中に詰まった白い粉が何なのかは、見なくたって分かっていた。けど、この目でちゃんと見るまでは信じたくなんかなかった。
指ですくったそれを舌先にのせて、ニンジャさんが顔をしかめる。
「ドラッグ、だね、これ。結構混ぜ物してる」
「普通に流通してるものとは違うのでしょうね。さしずめ、お得意様限定品、といったところでしょうか――ご存じですか?」
「……しらない」
なんて、うそだ。しってる。世界はひどいことにあふれてて、呪いたいぐらいに最低だ。
たから、ぼくは今、ここにいる。
「もう隠し子ごっこはいいでしょう?あなたの本当の父親は、このカジノの支配人――裏の人間とずぶずぶに癒着しきってる、悪党だ」
チェズレイの声が、すぱんと真実のど真ん中を言い当てる。追い詰められた犯人ってこういう気持ちなんだろうか。すっとまっすぐぼくを指す、綺麗な指先に心臓ごと突き刺されてしまいそうな気分だった。
「あなたが『これ』を知ったのはそう――半年ほど前でしょうか?ご友人を遠ざけ始めたのが丁度そのあたりと聞きましたから。それまでは随分と可愛らしいヒーローごっこに精を出していらしたようで」
「なんで、そんなの」
「近所のかたに聞きました。大人は案外、子供のことを見ているものですからね。我々みたいな根無し草ならともかく、地元で身分を偽ること自体、そもそも不可能なんですよ」
チェズレイの指摘に、気まずそうにニンジャさんが視線を逸らす。二人とも、最初から分かっていた、ということだろうか。
「きっかけは、この近くで起きた裏社会絡みの自殺騒動でしょうか?表向き飛び降りとされたその事件にあなたたちは半端な好奇心で首を突っ込んだ。そして恐らく、あなたは被害者がここに忍び込んでいたことを知った――大方、監視カメラの映像でも勝手に盗み見たんでしょう。そこから真実を見つけ出すまでにそれ程に時間はかからなかった。だってあなたなら、カジノに出入りするくらい簡単にできたでしょうから。知った時は、さぞ最低な気分だったでしょうねェ、自分がヒーローごっこに精を出している間に、父親は現実に悪事を犯していたのですから」
「……うるさい」
「だからヒーローが嫌いだったのでしょう?いえ、嫌い、という言い方はおかしい。嫌いになりたかった、でしょうか?だって、父親がひどい悪党なのに、息子のあなたがヒーローなんて笑わせるじゃないですか。仮に父親の悪事を暴いたところで、家族を裏切ったことに変わりはない、どちらにせよ、正義のヒーローには程遠い。だいいち、法に則った正しい方法では、あなたはここまでたどり着くことすらできないのだから――だから、ヒーローはあなたを救わないし、あなたにとって、とても都合が悪かった。むしろ悪党である方が、ずっとずっと、都合が良かった」
「……だったら、なに」
「気に入りませんねェ、クソガキ殿」
その先を続けようとチェズレイが口を開いた瞬間、けたたましい音で、防犯ベルが鳴り響いた。
「――っ、」
そうだった、と今更気づく。
確かにチェズレイは、廊下のカメラはダミーだと言った。けれど、それはつまり逆に言うと――この部屋のカメラは、ダミーじゃない。
ひゅ、と風を切るような音に天井を見上げる。ぱかりと開いた天井板から、無数の鉄棒が降ってくるところだった。丁度、金庫の真上――チェズレイの、真上に。
「「チェズレイ!!」」
声が重なった。ぼくとニンジャさんの、けれど今度は全く同じ相手を指して。突き飛ばそうとした手を、けれど逆に掴まれた。目の前が一瞬真っ暗になる。何かに塞がれた鼓膜の向こう、無数の金属音と、低い呻き声が聞こえる。押し付けられた鼻先から、ふわりといい匂いがした。とくとくと聞こえる心臓の音に、逆に庇われたのだとやっと気づく。
げほ、と、濁音の混じった咳に顔を上げる。ずる、と崩れる身体を慌てて支えた。からからと、床に落ちた鉄棒が転がる。
「……悪党である、とは、こういうことです」
鳴り響く警報音にかき消されそうな声で、チェズレイが言う。
「自身の行動に責任を持つこと、その先で何があろうと後悔などしないこと、何よりそれを、誰かのせいにしないこと――父親と向き合う覚悟もなかった臆病者が、半端にヒーローであろうとしたクソガキが、『悪党』などと笑わせる」
ぺちんと、両側から頬を叩かれる。右と左、両方。それはなんだか、ぼくのしたことへの優しい断罪みたいだった。
「これに懲りたら、二度と『悪党の方がいい』なんて思わないことです。適当で行き当たりばったりで泣き虫のクソガキには、多分、向いていません」
「っ、くそがきじゃないし、泣いてないし」
「それに、例えあなたの父親が悪党だろうと、あなたが悪党である必要はない。親子といえど、所詮は赤の他人です。どうするかは、あなたが勝手に選べばいい」
と、そこで、チェズレイはあァ、と鬱陶しそうに乱れた髪をかき上げる。
「うるさいですねェ、この品のない警報音」
ぱちん、とチェズレイが指を鳴らす。とたん、まるで手品みたいにベルの音が止まった。
「……へ?」
「言ったでしょう?悪党であるとは、こういうことだ、と」
まるで怪我なんてひとつもしていないみたいな、何でもない様子でチェズレイは立ち上がる。さっきまでの苦痛に満ちた表情はなんてそこにはひとつもなかった。というか、
「もしかして、怪我……してない?」
「おや?私がクソガキ殿を庇ってわざわざ負傷する暗愚だとでも?」
「は???」
「悪党なら、潜入前には周到に準備をするものです――腕の立つ相棒と一緒にね」
振り返ったその先に、すとんと、ニンジャさんが着地する。
「ほんっと――こーゆーの、なるべくやめてほしいんだけどねぇ……おじさん寿命縮んじゃうから」
ぶん、と振った片手には落ちてたのと同じ、鉄棒の一つが握られていた。ただし、長さが転がっているものより倍近く長い――というか、元は、この長さだったのか。
「お前さん、いくつか当たってなかった?一応全部折ったつもりだったんだけど」
「問題ない範囲でしたよ。大したことはありません」
ぱん、と、膝の埃を払うと、チェズレイはニイと笑ってカメラを見上げる。まるで、その向こうの誰かを挑発でもするみたいに。
「では、追っ手が来る前にさっさとトンズラといきましょう」
「――チェズレイ、という名前は、牧草地をイメージしてつけたそうです。のびのびと、健やかであれ、と」
独り言めいた呟きに顔を上げる。夕焼けのオレンジに染まったブロンドがきらきらと綺麗に輝いていた。
「それ、おふくろさんが?」
「ええ、父親はまあまあの下衆でしたから。あの人に任せたら、今頃私は名無しです」
夕暮れの煉瓦通りを来た時と反対にゆっくり歩く。ふしぎなことに、金庫室から逃げる間にも、カジノを出てからも、追っ手は一人も来なかった。
「あなたのご両親も、そう願ったのではないでしょうか。ひどく皮肉で、さいごは呪いに近かったのかもしれませんが――それでも、何もないより、きっといい」
「……それ、どういう意味?」
「癖ですか?それ」
『それ』が、無意識に抑えていた胸のことだと、気づくまでにしばらくかかった。
「それとも、まだ後遺症でも?」
確信めいた問いに、けれどぼくはもう驚かなかった。
「……ほんと、どこまで知ってるの」
「知られたくないなら、お友達想いのご友人に口止めをしておくべきでしたね。まあ、クリーニング代として、この程度の情報、頂かないと割に合いませんが」
「あー……それは、なんかごめんね」
じとりとチェズレイに睨まれて、どうしてかニンジャさんが頭を掻く。
「後遺症とか、べつにないし……もう、治ったし」
「遺伝性の病気だったそうですね。御母上も、同じ病でお亡くなりになったとか。あなたのご病気が発覚したとき、さぞ御父上は悲嘆に暮れたのではないでしょうか?だって、『健やかであれ』と願いを込めて育てた息子が、とうに病に侵されていたのですから――今度こそ失いたくないと思うのは、ある意味当然のことでしょう。それこそ、どんな悪事に手を染めても」
「チェズレイ、」
窘めるようなニンジャさんの声に首を横に振ると、チェズレイはつづけた。
「あなたの治療にはお金がかかった。いえ、お金だけならきっとまともな手段でどうにでも工面できたでしょう。けれど、それでは駄目だった。恐らく、あなたの治療には健康な臓器が必要だった――具体的には、心臓が」
どくん、と抑えた胸の奥が跳ねる。手術のあと、後遺症もなく動いている心臓が。
「恐らく、裏社会に手を出すきっかけはそれだったのでしょう。表社会では手に入らない物も、裏ではたやすく手に入りますから――もっとも、代償は大きかったでしょうがね。簡単に足を洗えるほど、世界の裏側は甘くはありませんから」
どくどくと不穏に心臓が跳ねた。そういえば、いつからか、家に変な人が来るようになった。もうカジノに来ないように、パパに言われた。パパの帰りが遅くなって、あまり話さなくなった。
あれは丁度――手術が終わった頃からだ。
それなら、やっぱり、
「『やっぱり、ぼくが、悪党なんじゃないか』なんて言ったら、今度は全力で引っ叩きますが?」
「は?」
「あなたの心臓が動いていることと、あなたの父親のしたことは切り離して考えるべきだ。そうでなければ、きっと何も報われない」
「けど、」
「そんな風には考えられない?なら、それでも構いません。ただ、そういった考えもある、程度に頭に入れておいてください――無責任な他人に振り回されて、真実を見誤らないように」
付け足された言葉の意味が、よく分からなかった。見上げた先で、チェズレイが言う。
「『恨むなら、ただしい相手を恨むべきだ』――私がしたいのは、そういう話です」
「……どういう意味?」
「これは予言ですが、近いうちにあのカジノでちょっとした事故が起こります。それを皮切りに、カジノと裏社会のつながりは世間の明るみに出るでしょう。あなたの御父上もきっと逮捕されるでしょうね。だって、証拠がしっかり収められた防犯カメラの映像が、警察にリークされるのですから」
「それ――」
混乱した頭で記憶をたどる。そういえば、入念に下調べをしておきながら、どうしてチェズレイは、無防備にあの部屋に入ったのだろう?どうしてわざわざあんな危険を犯したのだろう。
そもそも――どうしてあんなに都合よく、全ての準備が整っていたのだろう。
疑問の全てに応えるように、チェズレイは優雅に頭を下げる。その横で、ニンジャさんがきまずそうに頭を掻いていた。
「先ほどはご案内、ありがとうございました。助かりましたよ、流石に我々では、金庫の鍵までは開けられませんでしたから」
「は……?」
つまり――つまり、ぼくは、この二人に、
「利用された、って、こと?」
「だから言ってるんですよ。『恨むなら、ただしい相手を恨むべきだ』、と――あなたの平穏を全て奪うのは、あなたの父親ではなく、我々です。恨むべき相手を、間違えないように」
「……なにそれ」
それは、ひどく優しい犯行予告だった。優しくてずるい、悪党のことばだ。
「……ずるい」
「ええ、悪党ですから。復讐ついでに捕まえて頂いても結構ですよ?まあ、子供には無理でしょうけど」
どうします?と、どこか背中を押すみたいな視線に、応えるように一歩、踏み出す。二人の少し前に、宣戦布告するみたいに、向かい合ってしっかり立った。
「なら、ぼくは、ヒーローになる」
きっぱりと、そう、宣言する。
「ヒーローになって、ぜったい、お前らを捕まえるから」
ニンジャさんと、チェズレイを順番に見て、そう言った。
「では、その日を楽しみにしていますね――『チェズレイ』」
紫の瞳を満足げに細めて、チェズレイは笑う。少しだけ悪い、けれどやっぱり綺麗な笑みで。
「うん、またいつかね――ちっこい『チェズレイ』」
くしゃりと、一度だけぼくの頭を撫でて、ニンジャさんは笑う。穏やかあったかな、けれどどこか食えない笑みで。
ぼくの脇を通り過ぎて背中を向ける二人に、気づく。まるでタイミングを計ったみたいに、そこは分かれ道だった――いや、きっと、全部図ってたんだろう。だって、それが悪党だから。
「――っ、手紙!書いていい!?」
ゆっくり去っていく二人の背中に呼びかける。
「返事、いらないから!!また会えるまで、ずっと!!」
泣きそうな呼びかけに返事はない。けれど、一度だけ、振り返ったふたりが笑って頷いたような気がした。
チェズレイの予告通り、しばらくしてカジノで爆発事故があった。そのあおりでカジノと裏社会のつながりも発覚して、カジノは営業停止になった。パパも、警察に逮捕された。
けれど一つだけ、予告と違ったことがある。
監視カメラの映像はリークされていなかった。パパは、自分から出頭したのだ。申し訳なかった、と頭を下げて。
どうしてそうなったのかは分からない。パパも教えてはくれなかった。けれど、ぼくはその原因も、あの二人だったんじゃないかと思う。
もっとも、あの二人のことだからまだ何か裏があるかもしれないけれど。
いつか、大きくなって、いつか本物のヒーローになったら、二人に直接、あの日のことを聞いてみたい。もしかするとそう思っているのは、ぼくひとりじゃないかもしれないけれど。
そう思いながら、今日もぼくは、時間をかけて手紙を書く。
今この瞬間もきっと、この世界のどこかで誰かを助けてる、二人の優しい悪党へ。
いつか、本物のヒーローになる、その日まで。
END