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    お茶は緑茶の方が好き

    @nakijo_ocha

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    POIPOI 6

    一次創作人間に向いてない

    注意 暴力・汚物・差別表現が含まれています。この文章は、いかなる場合であっても暴力を推奨するものではありません。

    【四月一日 零日目】
     一面が青い綺麗な空だった。太陽の熱が爛々と降り注いでいたのだ。それを女は呆然と眺めていた。
     視線を緩やかに落とすと女は目を見開いて、たたらを踏んだ。フェンスに背中が当たる。ガシャンと鉄が揺れる音が、遠い地面に急降下した。
     脚がすくみ、身体が痙攣したように震える。スマホを落とした刹那、急に重みを失った掌が重力を感じた。

    「うあ」

     心臓に冷水が掛けられた心地に襲われ、間抜け面で泣いた。時間差で下からスマホが落ちる音が聞こえる。遠い遠い下で、砕け散った小さな機械が見えた。視界の隅には建物の端に乗せている足がある。
     分からないのだ。
     分からないのである。自分がどこにいるのか、自分が誰なのか。

    「あ……、あ」

     痙攣する脚を動かそうとして、縁から滑らせた。咄嗟に後ろ手でフェンスを掴む。片脚が死をこまねいていた。
     女は目を見張ったそのとき初めて、ここは屋上だと、気付く。
     爪先から恐怖が這い、身体が震える。バランスを崩して屋上から飛び降りそうになった。
     両足が宙に浮いて浮遊感が心臓を押し潰す。
     振り返った先のフェンスに必死になって掴まった。
     腹に強くコンクリートがぶつかって嗚咽が出る。涙が止まらない。

    「うあー。あ。あー、あー!」

     酷くしゃがれた、子供じみた声が出た。
     女は足をばたつかせて縋りついた。ハイヒールが脱げるが、それすらも気にならないほどの恐怖だった。
     女は片手に力を込めてだらんと項垂れた。手が離れる、そう思ったときに女の手を掴む者がいた。女は胡乱気な目でその人を見上げる。

    「掴まって!」

     力の抜けた片手がコンクリートの縁を押し、身体を持ち上げる。二人分の体重がフェンスにぶつかって、ガシャンと衝撃音を出した。
     女が顔を上げると、女を助けてくれた女性は息を上げてにっこりと微笑んだ。

    「間に合って、良かった」



     屋上から降りてきて、地面に立つ。落ちたスマホを取って見るも、起動さえ出来ない状態だった。身分証明書もない。記憶のない女は困った顔をして、スマホを手に佇んでいた。

    「ここが何処なのかすら分からないの?」
    「……うん」

     口をもごもごさせて頷く。目の前の女性は柔らかく笑って、「私、菜々美っていうの」と名乗った。
     女は名前を反芻すると、恥ずかしそうに笑ってもう一度名前を呼ぶ。「菜々美」。
     菜々美は手を差し伸べる。骨が浮きだった腕。触るだけで骨が折れそうで、女は両手を後ろに組んで手を取らなかった。
     菜々美は行き場を失った手を気まずそうに引っ込めると、「名前は?」と尋ねる。

    「えっ、と」
    「もしかして名前も忘れたの」
    「……うん」
    「そっか」

     菜々美は「本当に思い出せない?」と首を傾げた。女は頷く。菜々美は困ったように笑ったのち、質問を続けた。
    「屋上で何をしていたの?」。「気付いたら屋上にいたの?」。視線は動くものの、女の口は動かなかった。
     そのあといくつか問いを投げられたが、一向に話は進まない。

    「家で何かあったの」

     女は視線を一瞬だけ菜々美に向けたが、すぐに下げた。

    「何も覚えてない」

     もう何も成す術はない。終いに菜々美は上げ損ねた手を下ろす。「じゃあ」、菜々美が別れを切り出そうとした瞬間だった。コール音が響く。
     当然、菜々美のスマホからだった。
     画面を確認した菜々美の顔色がゾーッと青くなっていく。

    「は、はい、もしもし」

     菜々美はその場で正座をした。
     砂利があるこの地面で、だ。
     その様子を見た女は考えるよりも先にスマホを取り上げた。

    「返してっ」

     菜々美は焦ったように手を伸ばして取り返そうとしたが、女は伸ばされた手を掴んで、耳にスマホを近付ける。無音が続き、女は痺れを切らして声を出した。

    「こんにちは」

     立ち上がった菜々美は、恐怖を顔に貼り付けている。

    「……どちら様ですか」

     電話の向こうから男の訝しげな声が聞こえた。
     スマホを咄嗟に取り上げたものだから何も考えていなかった。

    「わた……」

     私は? 誰と言えばいいのだろう。

    「わた?」

     聞き返し、というより確認のような声色だった。ワタという知り合いがいるのだろうか。
     この好機に縋り付くべく背中に冷たい汗をかきながら、頷く。

    「はい、ワタと申します。夫から逃げてきたところを彼女に助けられました。大変感謝をしているのでお礼をしたいと考えております、お宅にお伺いしても宜しいでしょうか」
    「……菜々美がですか」
    「はい、私が必死に助けを求めた通行人の中で唯一、助けてくれました」
    「待て、和多?」
    「はい」
    「ヨミさんですか」

     女は視線の端にいる菜々美を一瞥した。前を向いて返事をする。「はい」。

    「和多さんでしたか……、分かりました。いつでもお待ちしております」

     通話を切った。ヨミは顔を上げてほっと息を吐く。

    「返します」

     菜々美は黙ってスマホを受け取る。ヨミに対してどの感情を向けていいのか考えあぐねているようだった。
     ヨミは頭を掻くと、菜々美に向き直る。

    「菜々美はどうしてほしい」
    「どうって……」
    「私を家に連れて行きたくないの、着いて行ってもいいの」
    「……分からない」
    「夫の名前は?」
    「かず、ひろ」
    「一宏? 一宏ね……」

     ヨミは歩き出す。全く場所を理解出来ていなかったが。スマホを触れたあたり、普通の生活はできるのだろう。「自分」のことだけが思い出せないようだった。
     真後ろを菜々美が着いてくる。ヨミは立ち止まって後ろを向いた。

    「私、場所分からないんだけど」
    「えっ、ああ」

     菜々美は小走りでヨミの背後に走った。ヨミが振り向くと、そのままヨミの前を歩く。順序が変わっただけである。

    「え?」

     ヨミは思わず声を出した。菜々美が肩を小さくして黙り込む。

    「横にしようよ、会話したいから」

     菜々美の横に回って、視線を合わせて微笑む。

    「後ろから自転車が来たら一列になろ」

     菜々美は耳朶を触って、曖昧に頷いた。


    【四月四日 三日目】

     都会の離れにある祖母の家に住んでいるらしい。亡くなった祖父母の仏壇部屋があった。
     年季の入ったこの家は蟻がよく好む湿気をもっている。じめじめとした床は不思議と足裏に纏わりついてくる。
     しかしヨミはこの雰囲気が好きだった。心優しい菜々美はヨミの記憶を取り戻すために図書館を教えてくれた。本を紹介してくれた。買い物にも連れて行ってくれた。
     菜々美の夫である一宏の祖母の家だから、菜々美は勿論家の成り立ちを知っていた。ここの洗濯機は何年のもので、これは嫁入り道具だけれど息子しか生まれなかったからそのままだということ。夏は綺麗な夜空が見えること、今の時期は鳥が多くなるから囀りで目を覚ますこと。
     居心地がよかった。
     家にお邪魔した二日目から菜々美がよそよそしくなり、よく爪を隅で噛むようになったが、それでも目立つ嫌悪感は示さなかった。
     出ていけと言われない。それがヨミにとっての家に居座る一因であった。
     もう一つは一宏にある。
     一宏と菜々美の関係は、家にお邪魔して数時間で感じた。よそよそしい態度だったのだ。ヨミに対する他人の余所余所しさではなく、何と言うべきか。
     いや、これは雰囲気じゃなくてこの目で見たことだ。だから言葉にしづらいのだ。言葉にすると、二人の関係に溝が生まれる気がした。
     ヨミが知らないふりを、見て見ぬふりをすれば二人は形だけでも幸せなのではないか。

    「ヨミさん」

     一宏が縁側に立つヨミを呼んだ。一宏のそばに座る。

    「さっき電話が来てね、一ヶ月だって。一ヶ月間家にいていいから。それまでにはきちんと気持ちをつくって謝罪するように」
    「まあ、ボーナスがあるからこっちのことは気にしないで」

     それでヨミは納得する。
     話にボーナスを出してくるということは、ヨミの家族は一宏の会社の上の立場にいるということだ。それが親か夫か分からぬが。
     少なくとも良い人ではない。ヨミが他人の家に転がり込んで暮らしているのを、「ボーナスと引き換えに」顔も合わせないのだから。
     一宏は庭を見てフウと息を吐くと、

    「それにしても、何でこの家に転がり込んだ?」

     とヨミを一瞥した。

    「菜々美か」

     一宏は男性にしては可愛らしい顔をしていた。だから暴力の場面を見ても、菜々美を殴る男が一宏だとは思えなかったし、正当防衛を用いて殴ろうとも思わなかった。自分が本気で殴ったら死ぬような気がするのだ。そこまで大袈裟にする必要がない気もするのだ。
     それがまあ、厄介なのだが。

    「はい、私が出て行っても泊まる場所がないので」

     ヨミは話の帳尻を合わせた。

    「ホテルは」
    「管轄でしょう?」

     ハッタリであったが……、一宏は納得したように頷いた。

    「菜々美ー!」

     一宏は突然奥の部屋にいる菜々美を呼んだ。すると菜々美は三秒も経たぬうちにやってきて、両膝をついて「遅れてすみません」と謝った。

    「ヨミさんがこれから一ヶ月住むから。そこんところちゃんとしろよ」

     菜々美は言葉を詰まらせたあと、一拍遅れて返事をした。

    「なんか面白いこと言えよ」

     ヨミは「は?」と声を出しかけて、思い直す。他人の家庭に首を突っ込むことは藪蛇だ。菜々美は「は、はい」と姿勢を正した後、

    「庭の花が蕾を開きまして――」
    「残念だなぁ」

     菜々美が口を開いた途端に、一宏が大袈裟に溜息を吐いた。

    「えー、俺を立てようとしてくれないんだっ?」

     菜々美は首を窄めて一宏を見た。その仕草が一宏の逆鱗に触れたのか、「何その顔」と菜々美を見下す。

    「俺が馬鹿だってこと間接的にバレんじゃん」

     嘲笑に似た口調だった。
     菜々美は息を殺して黙っていた。

    「俺が馬鹿だって?」

     菜々美は瞬きも出来ず身を固くした。

    「否定くらいしろよ」

     ドスの効いた大声が響く。菜々美はピシャッと肩を震わせ、ヨミは目を眇めた。
     予兆が一切なかった。
     菜々美は掠れた声で「す、みません」と謝るが、一宏は一切聞く耳を持たない。
     このようなことがあと三回はあった。
     これを含めた四回きっちり。菜々美は後の祭りを死にそうな顔で見つめるのだった。
     救わないと、と無意識に思った。
     似ていたから。誰のことだか分からぬが、きっと消えた記憶の中の誰かに似ていたのだ。藪をつついて蛇を出す。余計なことをしてかえって悪い結果になるのなら、菜々美だけを救ってその毒を一身に受けようとさえ思った。


    【四月五日 四日目】

    「畳の上にマットを敷いて、その上に机と椅子を置きます」

     一宏が仕事でいない間、菜々美はヨミに家のルールを教えていた。
     菜々美は脚の長い、洋室で使う長机を取り出した。椅子を均等に四つ置く。

    「一宏さんはここ、居間で寝られますから、一宏さんが起きた後すぐにこれを。夜食終わりはこれらを片付け、座卓を出します。勿論マットも片付けます」

     座卓と呼ばれた机は、座卓というにはこたつ程に大きかった。

    「あの、この座卓は……」

     ヨミが尋ねると、ヨミは間髪入れずに「一宏さん専用です」と答える。

    「夜の時間になりましたら個室にいること。絶対に居間に行くなどしてはなりません」

     ヨミは恐る恐る手を挙げる。質問だった。

    「トイレに行きたいときは……?」

     居間は廊下に隣接しており、トイレやお風呂、台所に行くときには必ず居間の横を通る。仏壇部屋と個室は離れにあった。無論、個室が最も居間から遠い。

    「最悪、路上でします。そのことを考えて先に対策をとってください。私は携帯トイレを予備に持っています」
    「え」
    「あなたの不始末は私の不始末として扱われます」

     菜々美は静かな目でヨミを見た。
     この四日間の疲れが溜まった瞳だった。

    【四月八日 七日目】

     音を立てぬように移動をした菜々美は片膝を着く。

    「お風呂が沸きました」

     一宏は顔を歪めると「頭が悪いね」と菜々美の額を小突いた。一度額と拳を当ててから押す形で小突かれ、菜々美は後ろに下がる。

    「すみませ、」
    「テレビで言ってたじゃん。一番風呂は良くないって。え、もしかして、わざとやってる?」
    「い、いえ」

     服を持ったヨミが、廊下から居間に顔を出した。菜々美と目が合ったが、すぐに視線を逸らした。一宏に笑顔を向ける。

    「先入っていいですか」

     一宏は「いいよ」と返事をする。
     ヨミは肩を上げてクスと笑った。

    「菜々美も一緒に入れていいです?」
    「構わないよ」

     一宏が視線を下げて新聞に戻る。菜々美は逃げるように服を取りに行った。
     ヨミは首筋を触りつつ菜々美の背中を眺めたあと、一宏の後頭部を静かに見下す。今は、まだ。まだだ。

    「ヨミさん」
    「……ん、ありがとう」

     脱衣所に移動して、二人一緒に服を脱いだ。ヨミが身体の汚れだけを落として浴槽に入り、後から入ってきた菜々美を見つめる。肉がついているところはついているが、腕や臍辺りなどの骨が浮き出るところはハッキリ痩せこけていた。
     しかしあれ程殴られている筈なのに、痣が薄い。ヨミは黙して菜々美が自身の身体を洗うのを眺めていた。
     お湯をかけ、液体のままのボディソープを身体に擦り付ける。淡い痣色が、濃くなった。
     ヨミは、ああ、と頷いた。わざわざコンシーラーを腕に付けているのか。

    「菜々美さん」

     菜々美は黙って腕を擦っていた。段々と力がこもっていく。紫色が広がるように肌が揺れる。

    「菜々美」

     ヨミは腕を出して菜々美の手を掴んだ。菜々美の顔が上がる。

    「汚れ、落ちてるよ」

     菜々美は胡乱げな目で自身の腕を見た。ああ、と空気に包まれた言葉が残る。

    「……そう」

     すぐに腕から視線を外して前を見た。鼻筋に皺が寄って、歪に顔が笑った。下睫毛が綺麗に生え並んでいるのに対し、不健康からバサバサと固まっていた。

    「ハ」

     菜々美は乾いた笑いをこぼす。ヨミは居た堪れない気持ちになって立ち上がった。湯船に足を入れたまま両腕を伸ばして、菜々美の頭を抱き締める。

    「っ、出てけよ……」

     菜々美が小さく呟いたあと、ヨミの腹を殴るように押した。ヨミが後退ることで、お湯が波をつくる。

    「出ていけ!」

     ヨミは壁に背中をつけて、唖然として菜々美を見た。菜々美は怒鳴る。

    「出てけよ! お前が来てからなんだよ、何で気が遣えない!」

     菜々美は顔を真っ青にして怒っていた。ヨミは何か声を掛けようとして。浴室のドアに影が出来たことに気付いた。樹脂パネルによってぼんやりとした人型が立つ。
     菜々美が立ち上がり、ヨミに手を伸ばしているそのとき。
     その人型がドアをトントンとノックした。

    「菜々美ー?」

     低い声だった。菜々美は途端に前から悪かった顔色を更に青くして、声の方を向いた。

    「何かあったのか」

     意気消沈。この言葉がまるで合う姿だった。菜々美は一宏というバケモノから身を隠すように両腕で身体を抱えた。おもむろに床を凝視し、

    「い、いえ……すみませんでした」

     寂しく返した。その言葉を聞いた一宏は影を離す。
     菜々美はずるずると座り込み。

    「あ、ア」

     ほろほろと涙を流した。
     ヨミは丸く小さくなった菜々美の身体を抱き上げて浴槽に浸からせる。
     ヨミは冷たいタイルに膝を着いた。石鹸と男物のシャンプーしかなかったので、遠慮なくシャンプーを使った。
     泡をシャワーで流したあと、死んだように黙る菜々美を風呂から出して、彼女の髪を拭いた。
     菜々美は下を見たままヨミの手を振り払った。細い手でパキパキに割れた髪を押さえる。
     ヨミは「関わるのも野暮だな」と判断して先に居間に戻ることにした。

     廊下途中で仁王立ちしていた一宏が、ヨミを見るなり歩き出す。ヨミは避けようとしなかったから、肩がぶつかった。
     ヨミのすぐ後ろでパンッと、叩く音がした。
     女性の「すみませんすみません」と謝る声、そしてそれに被せるように小さな声が囁く。「被害者面すんなよぉ、な、分かってんだろ。……行動がヒトを……にす……を不幸に……」
     ヨミは再び歩き出して居間に向かった。


     数分後、構わず居間で待っていたヨミの目の前に、目を腫らした菜々美が座った。その斜め後ろには一宏が立っている。
     菜々美が正座をして、指を揃える。ピッタリと頭を床に着けた。

    「申し訳ありませんでした……」

     ヨミは数秒間、その光景を他人事のように眺めた。
     肯定も否定もしたくなかった。
     ヨミは視線を上げて、笑顔をつくり。

    「一宏さん、夜ご飯にしましょう」

     これ以上の辛さはない。
     ヨミは自分を鼓舞し続けた。負けるなよ、負けるな。自分が挫けたら誰がこの異常を救うんだ。

    「夜ご飯? 分かった。菜々美、飯」

     菜々美はキュと身を固くして台所に小走りで向かった。
     ヨミはツンと痛んだ鼻先を気付かれぬように抑えた。目頭に水が溜まる。やめろ、一番の被害者は菜々美だろ。

    「お持ちしました……」
    「茶」

     一宏が空のコップの底をコンコンと机に叩きつける。

    「すみま、せ、今からすぐに持って、」

     菜々美は冷蔵庫に走った。一宏のコップに注ぐ。
     一宏はそのコップを菜々美に向けた。中に入ったお茶が、菜々美の顔に掛かる。菜々美のお茶で濡れた瞳から驚愕が見てとれた。

    「え、いや。客が先だろ、なんでヨミさん先にしないの」
    「あっ、あ、す、みません」

     たどたどしい手付きでお茶を注ぐ。コプコプとお茶がコップに溜まっていった。菜々美は恐る恐る一宏の目の前、ヨミの隣に座る。一宏は箸を持って無言でご飯を食べ始めた。ヨミは一宏と菜々美の顔を見てから、箸を手に取った。

    「いただきます」

     ズラリと彩色鮮やかな食事が並ぶ。三人は黙々と栄養を胃に入れた。
     温かい、優しい食材を口に含み。無性に視界が白く染まった。口を拭くふりをして涙を拭う。ヨミはこのまま立ち上がって菜々美を連れ去ってしまいたかった。
     菜々美が逃げたいというのなら、すぐに手を握るのに。
     そう思う心が冷え切らなかった。


     ふと、食事が終わりに差し掛かったとき、一宏が顔を上げる。

    「そういえば、昨日近所の人から言われたんだよ、『奥さん食事ちゃんと摂ってる?』って」

     一宏は菜々美の皿を見た。おかずも食べていないに等しかった。一宏は重い溜息を吐く。食べ物を次々に箸で運び、菜々美の汚れ一つない綺麗な皿に盛り付けた。

    「明日ババアの所に行くから食べろよ」

     一宏は席を立って、自身の皿を片付けに行く。
     菜々美は俯いて震える手で箸を掴み直す。弱った胃に、明らかに合わない量を口へ詰め込んだ。
     時間を掛けて、しっかりと呑み込んでいた。が、十分後に顔を出した一宏は「おっそ」と驚いた様子を見せる。

    「もっと早く食べろよ、誰が片付けすんの?」

     菜々美である。

    「ヨミさんも気遣って席立てないじゃん。家のモンが先に立たないと!」

     一宏が急かしたことによって、菜々美の箸の動きは早くなる。急かしたことによって、菜々美の喉は緊張で締まった。

    「――ッお」

     オエ。菜々美は口に含んだ物を吐いた。
     急な嘔吐感に胃までが反応して、胃酸がせり上がる。
     菜々美は机に手を着いて床に吐いてしまった。
     一宏は汚臭に眉を顰めて身を引く。

    「クサ、ほんっと、お前って……」

     隣に座っていたヨミは、拭くものがなかったので自分の着ていた服を脱いで吐瀉物を拭き取った。
     一宏が近付いて何かを言おうとした。それをヨミが制止する。

    「一宏さん、後片付けは菜々美にさせますので、汚れが付きますから個室で寝ていてください」
    「いや、でも」
    「お構いなく」

     これ幸いと、一宏は申し訳なさそうな顔を見せてさっさと出て行った。
     タオルを持ってこようと、ヨミが離れようとした。菜々美がその腕を掴む。吐瀉物まみれの手だった。ツンとした臭いが鼻を刺す。

    「い、行かないで……」

     菜々美は顔を下げたまま、初めて弱った声を出した。

    「そばにいて」

     その夜は、菜々美のそばにいた。


    【四月十日 九日目】

    「食器を洗い終わったのでお風呂に入ってきます」

     菜々美がぱたぱたとヨミに駆け寄る。

    「うん、ゆっくり入っておいで」

     菜々美が息を吐くように微笑むと、「ゆっくりできたらいいのだけれど」と肩を落とす。

    「なぜかみんな強要してくるもんね。別に風呂の時間なんて人それぞれなのに」
    「みんな? ……記憶が戻ったんですか」

     ヨミは上唇に指を当ててから目線をゆっくり上げる。

    「……一般論で言っただけだよ」
    「そうですか」

     じゃあ入ってきます、と菜々美が残念そうに服を手に掴んだ。
     あの夜以降、一宏の姿がないときは菜々美の精神が安定するようになった。それが何よりヨミを安心させた。
     爪を噛むより先にヨミに愚痴を言うようになった。近所付き合いもするようになったが、スーパーの前での駄弁りが菜々美の性に合わなかったようだ。すぐに帰ってきて二人でアイスを分け合うのがここ最近でのブームだ。夏にはまだ早いけどと笑い合う余裕が、一番の幸せだった。
     それだけではない。菜々美が自分で結論付ける前にヨミに聞くようになった。「これってやはり私が悪いんですか?」と首を傾げてくる姿はほんと数日前まで想像できなかった。
     本当に、本当に。
     たった数日でも気が狂いそうになったのだ。これを何年も過ごした菜々美の苦労は計り知れない。
     賢明だった菜々美は一人で考え込む癖があったが、公平な目が欲しいとヨミに言うようになった。
     嬉しかった。頼られることが、じゃない。菜々美にとっての幸せに辿り着くまで我慢できたのだ。毒を一身に受けるなんて大層なことはし得なかったが、それでも逃げなくてよかったと思った。昼の、子供の笑い声が遠くから聞こえる長閑な時間に何度も悩んだ。情緒が安定しない菜々美と接しているうちに、自分まで一宏と同じになるのではないかと怖かった。
     逃げなくてよかった。
     本当に、本当に……。
     菜々美が風呂から上がってきた。ヨミは菜々美の布団を敷いて隣に座る。

    「ああ、ごめんなさい」
    「気にしないで」

     菜々美は敷かれた布団の上に足を崩して座る。畳の上に座るヨミに近寄った。

    「ヨミさんはどこで寝てるのですか」

     ヨミは本当のことを流石に言えなかったので「んん」と眉に力を入れて笑った。

    「それより、明日は」
    「特に何も」
    「そっか」

     菜々美はコソと身を乗り出して言った。

    「一宏さんも休みだそうで、二人でどこか行きませんか?」

     ヨミは「いいね」と返事をする。

    「どこに行きます?」

     菜々美は嬉しそうに声を出した。

    「隣町に行こう」
    「隣町!」

     ドン! と居間から音がした。一宏が壁を殴ったのだ。
     途端に菜々美は顔を青くして、動きを止めた。音を立てないように踵を着けずに立ち上がり、電気ボタンも音を立てないように、ゆっくりと、ゆっくりと押す。
     これまたゆっくり布団に戻って、布が擦れる音を出さないように時間をかけて被った。
     一宏が暴力の雰囲気を出せば、すぐにこうだ。菜々美は怯えるように以前の生活に戻る。音を出さないように、息を殺す生活に。
     ヨミは立って部屋を出る。扉を閉めようとして、ガタガタと床につっかえて音が出た。だから閉めなかったのか、とヨミは壁に手を置いて戸と壁に挟まるようにした。ガタン、とつっかえが取れて勢いよく動き、片手が挟まる。片手を抜いて戸を最後まで閉める。ここまで細心の注意を払ったにも関わらず、壁と戸がぶつかる衝撃音が発生した。
     ヨミは閉じた扉に向かって「ごめん」と謝る。
     仏壇部屋を通って居間に戻り、ビール缶を傾ける一宏にヨミは近付いた。

    「……お前は良いよなぁ」

     ヨミは机を挟んで一宏の目の前に座る。酔っている割には冷めた目をしているものだ。

    「金も払わずに何居座ってんの? って……」

     はは、と一宏は笑った。
     ヨミは一宏の持っていたビール缶を引っ手繰ると、それで一宏の顔を殴った。一宏の反応を待たずに机に乗り上げて、片足で、腕で顔を防いでいる一宏を踏みつける。
     二度目に踏みつけたとき、一宏の首がポキと音を立てた。なんてことない関節液から発生した気泡の破裂音であったが、一宏は「骨が折れた」と騒ぎ立てた。

    「お、おい、お前――」

     ヨミは黙って右足の踵で一宏の頬を左側から蹴った。のちに顔を上げて一宏は叫んだ。
     一宏の暴力は「ヨミがいない場」で行われていた。トイレに行っているとき、寝ているとき、散歩に行っているとき、別の部屋にいるとき。そのようなときに菜々美は集中的に暴力を受けていた。
     菜々美が暴力を受けているときに出て行って殴ってやろうと思ったが。菜々美は言ったのだ。「余計なことはしないで」、と。
     一宏が菜々美を殴っていた。ヨミは最初に菜々美から言われたことも忘れて、居間に乗り込もうとしたが。菜々美がヨミを睨み付けたのだ。
     そのときに、自分の成す術がないことに気付いた。

    「おい、身の程知らずが」

     ヨミは再び机に立つと、凪いだようにただ静かに一宏を見下していた。
     一宏は言葉を呑み込んで、ヨミを見上げる。
     彼はこれ以上攻撃されないと分かったのだろうか、顔を緩めた。

    「は、は。脅かすなよ、馬鹿の一つ覚えか」

     ヨミはビール缶を机に強く投げつけた。一宏の肩が震える。
     ヨミは心に渦巻く言葉の数々を吐いてやろうかと考えたが、口にするのも疲れる。
     ジッポを取って、一宏から視線を逸らさずに居間の電気を消した。
     仏壇部屋に戻って、ヨミは体育座りをして頭を埋める。
     馬鹿の一つ覚えはテメェだろ。
     その夜は涙が止まらなかった。恐怖からだろうか、同情からだろうか……。


    【四月一一日 十日目】

     菜々美が寝ている畳の部屋から音がして、ヨミは目を覚ます。固まった身体をほぐして立ち上がった。
     扉が開く。

    「……、ヨミさん」
    「おはよう」
    「あの……」

     菜々美が「昨日何があったのですか」と聞こうとする前に、

    「朝ご飯作ろ」

     ヨミは言葉を遮って歩き出した。
     菜々美は音を立てないように木目を歩いて、居間に繋がる台所に立った。
     居間に敷かれた布団の中で、一宏は死んだように寝ていた。音の小さいテレビがニュースを流している。一宏の手にはリモコンがあって、ヨミは何とも言えない気持ちでそれを見つめた。

    「ヨミさん」

     小声がヨミを呼ぶ。冷蔵庫を開けた菜々美がヨミに材料を手渡した。ヨミは戸惑いつつ受け取る。ほうれん草だった。

    「切ってくれますか」
    「うん、分かった」

     ヨミは包丁を手に取って軽く水で洗い、ほうれん草を切り始めた。
     菜々美は慣れた手付きで朝食を作り上げる。

    「切り終わりましたか」
    「う、うん」

     菜々美はヨミから受け取って、不恰好なそれを愛しそうな目で見つめた。力を加えられて萎えたほうれん草が菜々美の手に収まっている。
     ヨミは「やめてよ」と言おうとしたが、口を閉じ。代わりに黙ってこの光景を眺めた。
     菜々美はほうれん草を使った炒め物を作り、皿に盛り付ける。

    「時間ですね、一宏さんを起こしてきます」

     時計を見上げた菜々美が手を拭いた。

    「いや、私が起こすよ」

     ヨミが菜々美の肩を叩いて制す。菜々美が申し訳なさそうに渋った。

    「いや……、本当に。私には甘いし」

     そんなことはない。
     しかしその言葉を信じた菜々美は柔らかく笑った。「ありがとう」。
     ヨミは寝ている一宏の肩を叩いて起こす。身じろぎをした一宏は、目をぼんやりと開ける。

    「な……なみ?」

     幸せな野郎だなぁと思ったヨミは、黙って一宏を眺めていた。

    「……おまえか」

     寝起きの拙い言葉が、その口からこぼれる。

    「はい。おはようございます」
    「きのうのこと……、許してないからな」

     あっそ、と言うのをグッと堪えて。

    「すみませんでした」

     と謝った。
     一宏は布団の中で伸びをして、顔をゴシゴシと擦った。
     ヨミはこの擦る顔が嫌だった。きらいではないが、憎悪に近い。憎々しい人間が、気持ち悪い手つきで、布を扱うように顔を無遠慮に擦る。
     そのときにズレ動く皮膚に見え隠れする顔の部位が嫌いだった。
     一宏は立ち上がってヨミを見下す。

    「片付けとけよ」
    「はい」

     ヨミは一宏の布団を片付けた。今まで菜々美がしていたようにマットを敷き、その上に机を出して椅子を置く。
     一宏にタオルを渡しに行っていた菜々美が帰ってきて食器を並べる。

    「……あ、和食」

     トボトボと歩いてきた一宏が目を開いた。不服だったらしい顔を見せて、のんびりと椅子に座る。一宏が箸を取った瞬間に、菜々美とヨミは座る。

    「頂きます」

     ヨミは手を合わせて声を出す。
     一宏は味噌汁を喉に通していた。ヨミも味噌汁を呑んだ。
     一宏の瞳がグルンと一周まわった。

    「ん……美味しい」

     途端、ガシャンと大きな音を立てて一宏が机に突っ伏した。

    「旨いね……」

     ヨミはフウと息を吐く。菜々美は立ち上がってヨミを見た。

    「ヨミさんッ!」

     お椀を持ったまま、一瞬静止して、

    「一宏さんに何をしたんですか」

     ヨミに問い詰めた。

    「毎朝。冷水を渡すだろ。顔洗った後の一宏に、タオルと一緒に」

     菜々美は言葉を失う。ヨミはイライラしていたので、言葉が途切れ途切れだった。

    「その中に、入れた」
    「……何で」

     ヨミは台所から包丁を取り出した。

    「何をしてるんですか!」

     菜々美の声も聞かずに、首を晒して寝ている一宏に包丁を刺そうとした。右手、左手と馴染ませるように持ったあと、両手で柄を包み込んで勢い良く下ろす。

    「やめて!」

     ピタリと腕を止めて、ヨミは菜々美を見た。

    「は? なんて言った?」

     しかしすぐに視線を逸らす。止めに入った菜々美すら視界に入れていなかった。包丁を持っていない手で菜々美の腕を払った。

    「やめてください」

     菜々美はボロボロと泣いていて、負けじと身を乗り出す。
     ヨミの手の甲に、ふに、と柔いものが当たった。「え」。ヨミが右手へと目を向けて、何に当たったかを見た。
     菜々美の胸だった。
     ヨミは目を見開いて手を退かそうとする。
     明らかに動揺している顔だった。

    「げ、現金な人ね……」

     しかし菜々美はその手を逃すまいと抱き締めた。ヨミの肝臓辺りから熱いモノがせり上がり、顔を赤くして手に力を込めた。

    「離してよ」
    「嫌。殺すもの」
    「離して」
    「理由を言うまで離しません」
    「じゃあ、何で殺しちゃいけないの」

     菜々美の目元が赤児のように紅く染まった。

    「け、喧嘩でした」
    「けんか?」

     ヨミは残った手を菜々美の肩に置いた。指に力がこもる。

    「喧嘩? 喧嘩だって? これの、どこが、喧嘩だって?」
    「一宏さんが」

     菜々美が「うあ」と鼻を赤くして泣く。べそべそと鼻水を垂らして声を上げた。

    「合意の基です」

     ヨミは我に返って包丁を机に置く。

    「菜々美」

     菜々美がここまでハッキリと泣いたのは風呂場以来だったのだ。辛抱強い彼女を、泣かせてしまった。

    「わだしが、悪かったです」
    「ねえ」
    「ずみません、てした」
    「ごめん。言い過ぎた」
    「誰も悪くないですぅ」

     ヨミは菜々美を抱き締めて、菜々美の頭に横頬をつけた。

    「ごめん」
    「わ、わ、わだしがっ、すべて、わ、わ、わっ。わるかっあ、」

     鼻水が喉に詰まって言葉が出ていない。
     ヨミは、しまったと思って強く抱く。一番辛いのは、菜々美だったのに。
     背中を撫で続け、菜々美は泣き声を落ち着かせた。

    「ヨミさんが、悪くなったら、わたし、どうしたら良いの」

     ヨミは謝り、菜々美の頭を撫でた。菜々美は譫言のように呟く。

    「わたしだけが悪かったのに……」

     ヨミは菜々美を抱き締める。力を込めた。

    「菜々美は何も悪くない」

     その言葉を聞いた菜々美は、恐る恐るヨミの背中に手を回す。

    「私が全部悪いんだ。私が」

     ヨミの肩に顔を埋めて、声を上げた。

    「もう嫌だよ、嫌だ」

     ヨミの腕の力は更に強まり、それによって菜々美が泣いた。
     ヨミはもう何も言えなかった。

    「死ぬのは迷惑がかかるし、生きてても迷惑になる」

     菜々美がとつとつたる口調で続ける。

    「消えたい」
    「死にたいって、我が儘言えたらいいのに」
    「死ねなくてごめん、ごめんなさい」



    【五月三日 三二日目】

     固定電話に縛られたようにペコペコして、声を潜めていた一宏が受話器を置いた。
     花壇の手入れを終えて、手を洗うために居間を通るヨミに新聞紙を投げる。顔にパン! と音を立てて当たって落ちた。

    「このッ、金魚の糞が」

     ヨミは「新しい呼び名だ」と思いつつ適当に返事をする。それに反応したのが菜々美だった。ヨミの近くにいた菜々美は一宏を凝視していた。

    「……はい?」

     菜々美の顔がみるみるうちに赤く染まる。

    「何と言いました! いま、金魚の糞って?」

     畳の上に落ちた新聞紙を拾い、振りかぶって投げた。立て付けの悪いガラス戸にぶつかる。
     ガン、と暴力的な音がした。

     ヨミと一宏は固まって菜々美を見る。初めてだったから。菜々美が大きな音を出したのは、会った以来これが初めてだった。
     クーッと顔を赤くした菜々美は足を踏み込んで一宏に飛び掛かった。ヨミは菜々美を抑え込む。菜々美が何に怒っているのかさっぱりだった。
     ただ分かるのは、一宏を殺しても構わないといわんばかりの殺意をもっていることだけだった。

    「もう一度おっしゃい! ワタシがお前の喉笛掻き切ってやるッ!」
    「菜々美、やめて」

     一宏は皮膚を白くさせて、とぼけた声を出した。初めて歯向かわれたのだろうか、そんな表情だった。

    「ああ! 私だけならまだしも、ヨミさんに」
    「な、菜々美……、急にどうしたんだ」
    「殺してやる!」

     ヨミは菜々美の胴を必死になって掴んだ。
     しかし菜々美の怒りの方が上回っていた。机の端にあったペンを持って、一宏の二の腕に刺す。服が間にあって突き刺さることはなかったが、黒インクが濃く付いた。一宏が恐怖から声を出す。
     しまった、とヨミが力を弱めて一宏を見た瞬間。菜々美が腕から抜け出して一宏の股間を蹴り上げた。
     一宏の顔色が一気に悪くなり、「ヒュッ」と声を出して崩れ落ちる。

    「おお……」

     ヨミは感嘆の声を漏らすことしか出来なかった。
     菜々美は一宏を見下した。

    「あんたの不始末は、あんたの不始末よ」



    【五月八日 三七日目】

     しかし幸には必ず終わりがある。
     固定電話が鳴っていた。一宏は仕事で出かけていて、菜々美は買い物に行っている。ヨミが受話器を取った。
    「好き勝手やってるそうだね」
     低い声だった。一宏より低かった。
     知らない声の筈なのに、ヨミは手から受話器を離して尻餅をついた。
     手の震えが止まらなかった。ヨミは自身の身体を抱えるように両手で支え、ハ、ハ、と乾いた息を吐く。
     視界がボヤけて、服に染みをつくった。それが涙だと気付いたとき、同時に潮時だと悟る。

     悲惨な運命を死にそうな顔で見つめるのは、私だった。私だったのだ。

     視線を上げる。知らない声なんてものではない。生まれたときから聞いてきた声ではないか。
     私が後の祭りを死んだ顔で眺めていたのだ。私は菜々美を救うふりをして、自分を救おうとしていたのだ。

     本当に記憶喪失だったらよかったのに。そうしたら、この声を聞いてもきっと涙なんて溢れないし、指先も震えないだろう。
     そもそも、私を知る人の家に転がり込んだのが間違いだったのだ。記憶喪失のフリが通用しないと分かった途端逃げればよかったのだ。そうしたらこんな、釘を刺されることもなかった。でも不思議とこの家にいることの後悔はなかった。
     ただあるのは元の生活へ戻るかもしれない恐怖のみ。

     夫や義母からの虐げられる日々に耐えられなくなり逃げ出した。逃げ出すのも簡単じゃなかった。本当の家族も金持ちの和多一族を味方した。辛いのは私だけだった。損をするのも私だけだった。
     だから逃げ出した。
     菜々美があのとき助けてくれなければ、私はきっとそのまま飛び降りていただろう。だって、生きていても辛いだけだから。生きていく手段も方法も、気力もなかった。
     だから助けてくれる人がいて本当に嬉しかった。損得勘定なしで助けてくれた事実が心を楽にしてくれた。夫の権力目当てなんかじゃない。下心なんてない。
     初めてこの人のところで生きたいと思った。助けてくれた菜々美の家で過ごそうと思った。けれど、結局彼女もヨミと似た境遇だった。
     でも、それでよかった。
     菜々美を救うことができればきっと、ヨミ自身も救ったことと同義になると無意識のうちに思っていたから。

    「だからか……」

     手の震えは止まったのに、涙は止まらない。
     せめて、菜々美を助けたいと思う気持ちは純粋でいてほしかった。記憶喪失なんて嘘をついたせいで。自分でも気付かないうちに菜々美を利用して自分を救おうとしていたなんて。なんて、屑な。
     ツー、ツー、と電話の切れた音だけが家中に響いていた。

    「ただいま帰りました」

     錆びついたドアを開ける音がして、玄関から菜々美が顔を覗かせた。ヨミは菜々美の顔を見る気がしなくて、譫言のように呟く。

    「え? なあに、ヨミさん。聞こえな――」
    「きおくそうしつなんて嘘、ついてごめん」

     菜々美は一瞬立ち止まったが、すぐに動き出して買い物袋を奥に運んだ。ヨミの目尻はパキパキと乾いていた。目元にそっと手をやって、「ああ私、この人の目の前では強がりたいんだ」と思う。
     菜々美がヨミの頭上で返事をした。

    「知っていましたよ。何となく」

     菜々美は続ける。

    「どうして私に同情したんです。私以外にも似た境遇の方はいらっしゃいますよ。タイミングですか?」

     ヨミは顔を上げずに、右手だけをゆっくりと上げた。菜々美の右手を探して、ようやっと見つけた掌に指の腹を這わせた。菜々美は拒まなかった。代わりに優しく手を握ってやる。

    「……君の横顔を見ていたかったから。全てを犠牲にしてもいいと思ったの、は……後付け」

     ヨミは一度、唾を呑みかけて。勇気を振り絞って言った。

    「純粋な気持ちで助けているわけじゃない」

     見返りを求めているのですね。そう言われた気がした。



    【五月一二日 四一日目】

     菜々美がパタパタと足音を立てて廊下から顔を出した。
    「お先にお風呂失礼します」
     一宏が返事をする。一宏の目の前に座っていたヨミは俯いたまま体育座りをしていた。

     菜々美が浴場に入った途端、一宏は立ち上がってヨミを踏みつけた。
     ヨミは抵抗せず床に蹲り黙っていた。一宏がヨミの横腹を強く蹴り上げ、馬乗りになって髪を掴み上げる。ここまで強く引かれると、ブチブチという音もせず大量の髪が抜けるものだった。頭皮から血が滲む。
     ヨミは泣いていたが、声に出そうとはしなかった。腕を持ち上げられ、庭に繋がる戸に投げられた。
     戸にぶつかると音が鳴り響くと思ったヨミは、身を捻って避ける。
     近くの棚の角に腰が強く当たった。痛みで出た無意識の声すら押し殺す。
     一宏が戸を乱雑に開け、ヨミを蹴って外に出した。冷たい土の上に転がる。
     陶器の置物が後頭部に当たった。そこで初めて「ウ」と声を漏らす。戸が荒い動作で閉められるのを「音が風呂場まで届いてしまう」とだけ考えて目を細めた。傷痕を消そうと蹲りながら身を擦る。心配させたくなかった。

     愛していたから。
     菜々美と同時に私も幸せになろうと思っていた私が馬鹿だったから。
     最初からこうしておけば良かったのだ。
     菜々美が今まで受けてきた暴力を、私が受ければ良い話だったのだ。
     そう、ヨミは信じて疑わなかった。



    【五月一八日 四七日目】

     一宏は仕事でいなかった。
     庭に埋めた球根が見事に花開き、ヨミはそれを死んだ目で見ていた。ああ、花が咲いたな、としか思えなかった。
     その横から菜々美が覗き込み、「ヨミさん」と明るく声を掛けた。
     すぐにヨミは表情を戻し、優しい目で菜々美を見る。なあに、どうしたの。そうヨミが応える前に、

    「ヨミさんと私との思い出が咲きましたね、良かったです。……よかった、よかった」

     と菜々美が花を見て言ったのだ。ヨミは緩慢に花を見やる。菜々美はこの花を「思い出」とのたまった。思い出ね……、思い出か。そこでヨミは目を見張る。菜々美の横で再び見た、只の花が色付いていたのだ。

    「わたし、幸せです」

     こんなに綺麗な花だったか、菜々美によく似合う花だったか。
     ああ、そうか。私、とヨミは瞬きをする。
     スーパーに置いてあるこの花を見て、「菜々美に似合うだろうねえ」と言ったのだ。
     「庭で育てようか」とも。
     菜々美はそれを今も覚えていて、花弁が開いた今「幸せです」と言ったのか。

     ヨミはその瞬間、ドッと冷や汗をかいた。
     顔が真っ青になり、喉仏を触ってか細い息を吐く。菜々美がヨミの異常に気付いて背中をさすってやった。
     それにより更にキュルキュルと恐怖が襲ってきた。これが「死」か。
     菜々美はずっと、この恐怖と絶望と諦めを背負って生きていたのか。

     菜々美と幸せに生きたいと、上質な夢を抱いてしまった。地獄で生きるこの場でそれを願うことは御法度なのに。屍のように生きることが一番の最善策だったのに。

     ヨミは生を感じない代わりに死も感じずに生きてこれた。だのに、急に生を感じてしまったのだ。息を吹いた花を見て、好きな人の隣にいて、挙げ句の果てにはその人に「あなたといることが幸せだ」と言われてしまったのだ。
     初めて存在を認められた気がした。

     今が一番幸せな生き方だ、と思ってしまった瞬間。もう二度とこの幸せを不幸で塗り潰したくないと思うのだ。この幸せが一番だから、もうこのまま死ねたら一生私は幸せではないのか、と。
     くそやろう、くそやろう! ヨミは目をぐっと閉じ、「うわーん」と大声で泣いた。
     それをヨミはたった今経験したのだ。だからヨミは大声で泣きながら、「ごめんね、ごめんね」と前の菜々美のように謝った。この気持ちは自分ではどうしようも出来ないのだから。

    【同日 四七日目】
     その日は一宏の機嫌が悪かった。帰ってきて早々ヨミを蹴り上げる。ヨミは唾をこぼした。日中ヨミの背中を撫で続けていた菜々美が風呂に入っているときのことだった。
     一宏がヨミの頭を踏みつけて、涎を髪で拭く。ヨミの頭が生ゴミの中に入る寸前、菜々美が一宏の名を呼んだ。

    「何をなさっているんです」

     一宏がビクと肩を震わせて、ヨミの頭から手を離す。

    「ヨミさん。風呂にお入りください」

     ヨミは乾いた咳をした後、のろのろと立ち上がった。
     何度か振り返って二人を見たが、当の二人はお互いを見たまま動かなかった。

     浴場に入りカピカピの服を脱いだ瞬間の暗闇で、ヨミはドタと尻餅を着いた。
     脳裏がサーッと冷えて、目頭が熱くなる。
     口許を手の甲で拭いて百合籠のようにユラユラ動く視界に吐き気を覚えた。嘔吐感が襲ってオエと口を開いたが、何も出てこなかった。
     ヨミは壁に手を着いて立ち上がり、貧血で目の前が真っ暗になる時間を我慢した。お湯を頭から被ってボディソープを頭から足まで液体のまま付け、湯船のお湯で流した。
     菜々美が一宏に殴られないように、五分もかけずに身体を綺麗にして風呂場から出る。その瞬間に机を叩く音がした。

     ヨミは気が遠くなる思いがして、飛び出すように居間に向かった。しかしヨミの前に広がる光景は、ヨミが考えていたものと異なっていた。呆然と机を眺める一宏を怒鳴りつけるように、菜々美が立っていたのだ。
     菜々美は興奮しているようだった。飛び出してきたヨミに気付かないのだから。それでも菜々美の表情は氷のように冷たく、冷静であった。

    「もう我慢の限界でしょう、お互い。最後の我儘です。離婚してください」

     一宏が顔を上げた。

    「言わせてもらいますが、私がいないところでヨミさんを殴っていますよね。それ、あなたの会社に報告しても良いんです? いいのですね、あなた一生無職ですよ」

     菜々美は譲らないようだった。一宏は顔を再び下げ、覚束ない手先で離婚届に記名した。
     一宏は蚊の鳴くような声をして「それでいいのか」ポツリと、言った。菜々美は食い下がって言い放つ。

    「ヨミさんと生きる生活が、私の幸せです」

     ヨミは菜々美の顔を凝視する。菜々美は赤い鼻をズッ、と鳴らして「そ、それが幸せです」と繰り返した。

    「しあわせなのよ」

     ヨミはそのときようやく、自分って生きていていいんだ、と安堵の息を吐いた。
     重荷が降りたのだ。
     今のヨミには重すぎる責任であった。

     一宏は深い溜息を吐くと、席を立った。書類関係を纏めてある棚に向かう。菜々美はその後ろ姿を赤い目で睨むと、

    「もっと良い相手をお見つけになってください」

     戸棚に手を掛けた一宏が動きを止めた。全身の骨が抜けたように筋肉が弛緩する。

    「どの口が言ってるんだ」

     ヨミはこの前兆を知っていた。咄嗟に駆け出して菜々美と一宏との間に入ろうとする。が、急に走り出したことで頭の血が足りなくなり貧血を起こした。目の前が真っ暗に染まる。

    「ヨミさん!」

     瞬きを繰り返して、結露が晴れるようになくなる暗闇。ヨミは菜々美の顔を見上げてやんわりと微笑む。

    「ヨミさん、だめ。ヨミさん」

     腕が熱いな、と思ったのだ。菜々美の前に出した腕を見て、ようやく状況を悟る。そうして一宏を見た。
     包丁を持った一宏は、飛び血を気にする様子も見せず、ヨミの腕に驚愕の視線を浴びせていた。ヨミはこの三人の中で一番他人事のような顔をしていた。

    「やだ、ヨミさん」

     菜々美が焦って履いたままのスカートで止血を試みる。猛烈な痛みが襲い、ヨミは「アッ」と声を上げた。
     腕の内側に、肩に向かって一直線の切り傷ができていたのだ。
     血がダラダラと畳に垂れ落ち、畳の上で丸い染みとなる。
     ヨミの叫び声で、菜々美は手が震え止血が思うように出来なかった。スカートにベッタリと血が付く。

    「よ、ヨミさん」

     菜々美の指先が恐怖と怒りで震えていた。一宏に顔を向け、一宏が持っていた包丁を奪おうとしたとき、ヨミが菜々美の腕を掴んだ。切られた方でない腕で掴んだ。

    「ここまできたんだから」

     菜々美の正気に戻った顔がヨミを見る。
     指先に垂れる血を気にする間もなく離婚届を怪我した方の手で掴み……、指の力が抜けて落ちた。
     菜々美が離婚届を拾い上げる。
     二人で家を抜け出した。夕陽が最後の光で二人を照らす。
     ヨミと菜々美は裸足のまま息絶え絶えに歩道を歩いた。喋る気力もなかった。行く先など分かるはずもない。ただ分かることは、もうあの家に帰らなくてよいということだけだった。
     菜々美がヨミを追い越し、手を引っ張った。手の力が抜けて、二人の手は離れる。刹那、ガクンとヨミの膝が崩れ落ちた。
     急に力が抜けてしまったのだ。
     コンクリートに座り込むと、下半身がなくなったかのような感覚がしてくる。振り返った菜々美が駆け寄って、手を伸ばしたヨミの両手を握った。ヨミは菜々美を抱きしめたかったのに。
     冷たすぎる菜々美の手を握り返して、「菜々美の方が死ぬんじゃないか」と考えて、やめた。
     疲れ切っていた。
     このまま死ねたら天国に行けるのかとさえ思った。いや、行けないか。他人様の家庭を荒れに荒れさせ、挙げ句の果てに自分だけ楽になるなんて。後悔しか生まれないなぁ。
     しかしそれすらも考えられない程に馬鹿になっていく。「菜々美、好きだよ」。声に出して言いたかったが、言葉になっているとは思えなかった。
     元気に生きてね、大丈夫。これ以上の不幸なんてないから。
      視界が白くぼやけてきた。菜々美の泣き顔がそこにあるのに、声が聞こえない。菜々美の服に付いた血が乾いて茶色くなっていた。ああこれ、洗ったら落ちるかな。
     声が出なくて。抱き締めることさえ叶わないから。ヨミはフッと菜々美の顔に息を吹きかけた。菜々美の顔が一瞬だけしわくちゃになって、ヨミは安心しきって笑ってしまった。とうとう頭に血が回らなくなって、目の前が霧で覆われる。ヨミは抗わずにそのまま瞼を下ろした。
     空はきっと、綺麗なはずだ。
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