「おーはよ〜っヒカル!」
どすんと体当たりをするみたいに、チヒロは眼前の肩に腕をかけた。それはいつもとなんら変わらない仕草であり――そして概ね自らの予想通り、弾かれるように顔を向けたヒカルが抗議の声を上げた。
「――チヒロッ! お前、なにか俺に言うことがあるんじゃないのか…っ⁉︎」
ギッと睨め上げてくる赤みがかった瞳には、ここしばらく見えなかった生気が溢れんばかりに漲っている。ようやっと、いつもの〝らしさ〟が戻ってきた。思惑通りに事が進んだことを確信して、チヒロはニヤニヤと上がる口角を抑えることなく訊き返した。
「え〜〜? 言っていいの〜〜?」
わざとらしく身体をくねらせてさえみせれば、素直に煽られたらしい相手はクワッと噛み付かんばかりに大きく口を開き――次いで、一転。今度は蝶番の錆び付いたドアみたいにぎこちなく閉じ直すのだった。
「ぐっ……い、…ぅ…っ」
閉じた唇の隙間からは、そんな苦しげな呻き声が漏れ出ている。けれどそこに浮かぶ、物騒な声とはあまりにもかけ離れた表情を目に留めて、チヒロは一瞬、ぱちくりと瞬きをした。
一拍遅れて――じわりじわりと、腹の底から込み上げてくるものを感じる。それから、こういう部分を頑として見せようとしないのが、彼の勿体無いところだとも思った。
だって、いま目の前にあるものと言ったら――まるでクリスマスを前に、ちゃんとサンタからプレゼントがもらえるだろうかと不安と期待に揺れる、小さな子供みたいな顔なのだ。
誇り高く、ファンの前では嫌いな犬とさえ笑顔を絶やさず接するような男が、たったひとりの影響でそんな朧げな表情を晒すのだ。正直――面白すぎるだろう。ついに喉元まで込み上げてきたものをそのまま吐き出すみたいに、チヒロは大きく口を開けた。
「は――あっはっはっはっ!」
げらげらと、腹を抱えて笑い出す。
束の間、鳩が豆鉄砲を食ったようになったヒカルが、次第に拳をぶるぶるとさせ始めるのが視界の端で見えたけれど、どうにも抑えられそうにない。
「~~っもういい! なにも言うなさっさと準備しろっ!」
久しぶりの、活きの良い怒号が響いた。そうして、続く「先に行ってるぞ!」の声とともに、回した腕を勢いよく振り払われる。
肩を怒らせてドアから出ていく後ろ姿を見送って、くるりと部屋のなかへと視線を向けた。そこには、己と同じようににやついたり、微笑んだり、思い思いの笑みを浮かべるメンバーたちの姿があって。――ああ、やっぱりCgrassはこれがいいな、と。ヒカルの後を追い、先に部屋を出ていく三人にそれぞれ背中を叩かれながら、チヒロは改めて思った。
***
【一方その頃のZINGS】
「ユウくん! ちゃんと瀬戸内くんと仲直りできた…⁉」
駆け寄って、朝一番の挨拶よりも先に吉野がそう尋ねれば、仁淀はなんとも言えない表情を浮かべて小さく首をひねった。
「うーん…、多分……?」
予想に反して返ってきたのは、そんな不安しかない返事ひとつで。
「た、多分……? なにか揉めたの……⁉︎」
持ち前の心配性を遺憾無く発揮して、吉野は頭から血の気が引いていく感覚を覚えた。
相方の貴重な交友関係の危機もさることながら――それがあの大人気グループのリーダーとの不和だなんて、自分たちのような駆け出しアイドルにとっては致命傷になりかねない。最悪の想像が勢いよく脳内で渦を巻き出す。
けれど、ハラハラしながら重ねた問いにも、目の前の男は相変わらずのマイペースさを崩さないまま緩く首を振るのみだった。
「いや、そういうのはないけど、なんか…。よく分からないやつだって言われただけ」
そう言って、くしゃりと一度後頭部を掻くのだ。吉野は思わず目が点になった。
なんと言ったらいいのか。一旦わだかまってしまった思考では、放り込まれた言葉を上手く受け止めることすらできなくて、ただただ頭上に疑問符が浮かび上がるばかりだ。
「……? う、うん……⁇」
結局、いい返事などひとつも浮かばないまま、鏡写しのように小さく首を傾げながら――兎にも角にも。いつもと変わらぬこの様子なら、なんか、大丈夫そうかな、とも思わせるのが己の相方なので。
頭上に立ち並ぶ疑問符に紛れ、ひとつだけ浮かんだものもあるにはあったのだけれど。『それは、否定できないのでは』なんていう、一瞬脳裏をよぎったそんな台詞を、吉野はとりあえず呑み込んでおいた。