雨の夜に部屋の灯を落として窓を開ける。外は小雨が降りしきっていた。
(今日は……来ないか)
今日は満月の筈だったが、垂れ込める雨雲に遮られその姿は確認できない。
吸血鬼は流れる水を渡れないというが、雨がどれほど影響するのか瀬戸内は知らない。
けれど、きっと得意ではないのだろうし、飢えより面倒臭いが勝ってしまうような怠惰を極めた人外が、それを押してまで訪ねてくるとは思い難かった。
「待つ義理がある訳じゃないし…―」
もう寝よう、と窓を閉めかけた、その時―
べちゃ。
瀬戸内の顔面に、濡れそぼった何かが張り付いてきた。
「貴様というやつは……っ」
飛び込んできた物体Xはデカ目の蝙蝠。
その正体は満月ごとに瀬戸内に血を無心にくる、迷惑な吸血鬼の仮の姿であった。
ポムっとどこかコミカルな音と共にヒト型の姿に立ち戻るが、その姿も見事な濡れネズミ。
「小降りだったし、蝙蝠だったらギリ行けると思ったんだけど、思ったより大変だった……」
投げつける様に渡したタオルに、盛大な溜息と共に顔を埋める姿は疲労の色が濃い。
「だったら、別に明日でも明後日でも、雨が止んでからにすれば良かっただろう」
「うんまぁ、そうなんだけどさ……」
「だけど?」
珍しい歯切れの悪さに、何の気なしに問い返してみれば。
「―……なんだか、会いたくなっちゃってさ」
碌に水気も拭き取れてないのに、後ろから抱きすくめられる。
「明け方まで止みそうにないし……折角来たんだから、雨宿りさせてよ」
当然とでも言いたげに、勝手にボタンを外し始める男からは、夜と雨の匂いがした。
ベッドに腰かけた男の膝の間。
背後から抱きすくめられて、噛まれた首筋の甘い痺れに上がりそうになる声を噛み殺す。
「んっ、…くぅ、ん……っ」
吸い終わった牙の痕を丹念に舐めあげてから落とされるキスが擽ったい。
ほのかに感じる熱は、治癒の術式なのだろう。
そんな普通に生きているだけならば縁遠い筈の感覚にも、いつの間にか慣らされてしまっていた。
「瀬戸内くん…へーき?」
「あぁ……、いつもより、少なくないか?」
「うん。今日は…ちょっと長く付き合って欲しいから」
「雨が止むまで…?」
「そう。いい?」
「いいも悪いも。俺の意見なんか聞く気もないだろう」
「いちおう、だよ」
「了承しないと出来ないわけでもあるまいに」
「言うようになったねぇ……」
どこか楽し気に額にキス一つ。
子供扱いされてるような気もするが、これからされることは決してお子様向けである訳もない。
「雨の中ほっぽり出したら、今の分が無駄になるだろ」
ふい、と顔をそらして告げると、クスリと吐息で笑う気配。
「確かに、それは勿体ないね」
シーツに沈められると、小さなキスが少しずつ位置をずらして施される。
まるで、俺の輪郭を確かめる様に。
いつもはその繊細な指先からは考えられない様な膂力で持って好き勝手にされるのに、今日の彼はどこか気怠げで、瀬戸内はどんな顔をしたらいいのか解らない。
そう、いつもなら。吸血の酩酊で訳が分からない所に畳みかける様に行為に及ぶから。相手の事も自分の事も、考える余裕はどこにもない。
こんな風に……自分から、触れようと思うようなことも、無かったのに―
そろりと腕を上げ、まだ濡れている前髪を指を差し入れ撫でつける。
「ん?」
不思議そうに瀬戸内を漆黒の瞳が覗き込む。
「髪、濡れたままだから、雫が冷たいんだよ」
「ふぅん?」
少し楽し気に片眉を上げるその表情も、いつもより余裕がないように思える。
「手も……頬も冷たいな」
いつもはもう少し熱を持っているのにと、頬に触れると、何か取り繕うとしていた表情が崩れた。深めのため息とともにパタリと首元に顔をうずめる様に倒れ込まれる。
「―……やっぱり思ったより、消耗してるの、かも」
やはり、顔色が悪く思えたのは月光のない夜闇のせいだけではなかったようだ。
「馬鹿。……もう、血で済ませた方が」
「ヤだ」
「嫌じゃないだろう……」
覆いかぶさられ身動きが取れないので、声のみの抗議が空しい。
「瀬戸内くん……キス、しよっか」
「それは、いいが」
中断したとはいえ、行為の真っ最中にわざわざ聞く事かとやや呆れつつ頷いてしまう。
「口開けて……」
「んっ……ぁ…っ」
言われるままに開いた口に舌が差し入れられ歯列をなぞられる。
絡めとられた舌を強く吸われて、軽く食まれるとクラリとよく知った酩酊感。
(こ、れは……)
薄目を開けると、漆黒の瞳の奥に夜闇に鮮やかな深紅の光。初めて遭遇した夜を思い出す魔性の色だ。
「やっぱり、甘いね」
「あま…い?」
「うん。濁りが少なくて」
―血もいいけど、そのままも好き―
存外無邪気に告げられて、かぁっと耳が熱くなる。
(味の話だ味の!勘違いするな俺…!)
「ん。調子戻ってきたかも。もう少しいい?」
「貴様は、そればっかりだな」
仕方ない、と鷹揚に言って両手を広げてみせた。
雨音に閉ざされた部屋は、まるで世界に二人きりになったみたいで
―ずっとこのまま、閉じ込められたら―
そんな思いがよぎったが、そんなことは言えるわけがなかった。