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    紫乃_24

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    紫乃_24

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    まとめ本に収録していた小説です。
    本の方には、書き下ろしで後日談SS(仁淀告白編)も入れています。
     通販⇒https://hoshikawa.booth.pm/items/4558934

    #によせと

    暗がりとめぐる世界【序章】

    「この後、時間ある?」
     いつもの定例ライブ後の、いつもの握手会。今日も今日とて脳内にずらりと並べ立てた文句を直接ぶつけてやろうと思った矢先に、推しのそんな一言で出鼻を挫かれた。
    「――…は?」
     意気込んでいた延長線で滑り出た思いきり圧の強い声色に、眼前の男がビクリとたじろいだ。やや引いたその表情にハッとして、ひとつ咳払いをした後になんとか表情筋を和らげる。そうして瀬戸内が「なんだ、急に」と言い直すと、あー、とか、えー、とか、いまいち要領を得ない音が続いてから、仁淀が慣れない様子で後頭部を掻いた。
    「あー、その…。この前、吉野くんのプレゼント選ぶの手伝ってくれたから、お礼…」
    「え、」
     予想外の返答に思わず声がまろび出る。
     確かに先日、この男が相方の誕生日プレゼントを選んでいる場面に突然巻き込まれはした。けれど、だからといって仁淀に〝お礼〟なんていう殊勝な心掛けがあるなんて、思ってもいなかったのだ。瀬戸内が目を瞬かせると、仁淀は一度ちらりと斜め上のほうに視線を外してから、もごもごと続けた。
    「――したほうがいいって言われて」
    「……お前の意志じゃないのかよ!」

     待ち合わせ場所に指定された会場外のベンチはひと気がないわりに、隣接する自動販売機の白々しい光をスポットライトにしてぼんやりと浮かび上がっている。昼間は大分暖かくなってきたこの時期にも、夜分はまだ、ほんのりと冷える。つい先程まで首元の暖かそうなステージ衣装を着ていた待ち人は、薄いコート一枚で瀬戸内の前に現れた。
    「コーヒーでいい?」
     来て早々、流れるように自販機を差す指先に釣られて頷いてしまってから、〝お礼〟とかわざわざ言うわりに安いな と内心突っ込む。
     ――いや、元からもらうつもりもなかったから別にいいんだが!
     自己完結しながら、てのひらで覆うようにして眼鏡をぐっと押し上げる。そんな己の内心など気にした様子もなくボタンを押す淀みのない仕草を眺め、瀬戸内は大仰に溜息を吐いた。
     手渡された缶のじんわりとした熱が、てのひらを温めていく。ほぅ、と知らず息が零れ、そこでようやく、自分が思ったより緊張していたらしいことに気付いた。緊張、というよりも正確には――先刻まで身を浸していた、興奮の余韻だろう。ちかちかと明滅するようなそれが、夜の淡い空気にほどけていく心地がする。
     隣に腰掛けた仁淀の手元で、プシュ、とプルタブを引く小気味の良い音が響いた。そっと横を盗み見る。相変わらず、ステージを降りた瞬間に暗闇に溶けてしまうような男だ。先程までの喧騒を押し流した静かな夜のなかで、ただじっと座って缶コーヒーをちびちびと啜る。そんな物珍しくもない姿が、それでも様になるのだから不思議だった。
    「吉野くん、喜んでくれたみたいでよかったな」
    「ああ、うん」
     MCでの報告を受けて、自分のほうまでホッと胸を撫で下ろしたのも、記憶に新しい。
    「お前にプレゼントとかいう概念があるとは思わなかった」
    「……それ、みんなに言われた…」
     はぁ、と空気を多分に含ませた台詞。まあそうだろうな、と呆れ交じりに笑うと、なぜか急に仁淀がじろじろとこちらを凝視してきて思わず肩が跳ねる。
    「瀬戸内くんって、そういう顔もするんだ」
    「……前々から思っていたが、お前は俺のことをなんだと思ってるんだ」
     じとりと半目を返す。初めの頃の印象が最悪だったせいか、仁淀はしばしばこの手の物言いをしてきた。その点に関しては、若干申し訳ない気持ちがないわけではないが――こうもいちいち言われるとやや引っかかる。無遠慮に瀬戸内の顔を見つめていた仁淀は、長考の末、やがてのそりと首を捻って言った。
    「……なんだろ……?」
    「なんだよ、その反応……」
     口角がひくりと強張る。仁淀の曖昧模糊とした返事に、いやな予感がした。
     ――まさか…、本当になにも思っていないのか?
     思えば初共演の後も『イケ産まで知らなかった』と言っていたし、基本的に何事にも興味の薄い男だ。なぜだか自分と〝仲がいい〟という触れ込みで何度か共演していたところで、仁淀にとってはいまでもなお、自分のことなどまったく関心の外なのかもしれない。
     別段、注目してほしいなんて思っていないけれど、職業柄多少は悲しくなるというものだ。そうやって瀬戸内が内心肩を落とす間も、肝心の仁淀は未だに首を傾げて考えるそぶりを見せる。
    「いや……なんていうか。Cgrassのときは〝同業者〟って感じだけど、ホッカムリさんは一応〝ファン〟…なんでしょ……? 怖いけど」
     付け加えられた余計な一言に追い討ちをかけられる。いよいよ落ち込んだ瀬戸内にもやはり気が付かないまま、隣の男はうーんと唸って続けた。
    「でも、じゃあ瀬戸内くんはなにかって訊かれると……ちょっと困る」
     最後に、ハア〜といかにも面倒臭いと言わんばかりの溜息で締められた台詞。ゆるりと視線を空に移しながら、仁淀がコーヒーをひとくち飲み込む。どこか億劫そうに目を眇める様子に、瀬戸内は胸のうちの風船がしおしおと萎んでいくような心地を覚えた。
    「……その……、すまん」
     そんなありきたりな一言しか出てこなかった。続く言葉が見つけられないまま、自動販売機の微かなモーター音がいやに響いて聞こえる。その耳障りな機械音に紛れるように、こちらに意識を戻した仁淀が不思議そうな声を出した。
    「なんで瀬戸内くんが謝るんだ?」
    「……いやだろ?」
     面倒臭い奴で……。
     相手の耳に届くかどうかの小声が零れた。俯くと、ちりちりと地面に伸びる白く人工的な光の、やがて暗がりに飲まれていくさまが視界に映る。もはや仁淀の顔を、見れる気がしなかった。
    「ええ…、今更……?」
     ただただ当惑したような返事に、返す言葉もない。だって、アイドルとして接するのも、ファンとして接するのも――仁淀の前ではどうにも上手くいかなくて、変な態度ばかり取ってしまっている自覚はあったから。それを外から突き付けられただけのことに、こうも落ち込んでいる自分が一層情けなかった。
     そうして瀬戸内が足元の雑草を見つめたまま動けずにいると、ふいに――頭上から聞き慣れた声が降ってくる。
    「まあ流石に、ペンライトで斬りかかってくるのはもう勘弁してほしいけど」
    「うぅ…、自重する……」
    「――……別に、いやじゃないよ」
     えっ、と反射的に顔を上げる。ぱちりと目が合う。
     凪いだアンバーの双眸が、じっとこちらに向けられていた。これまで何度も見てきた、なにを考えているのかさっぱり分からない瞳よりも、幾分か柔らかい色を宿したそれ。それから「確かにいつも変だけど――」との前置きの後、仁淀がぽつぽつと呟く。
    「俺のこと、色々考えて言ってくれてるのは分かるから。プレゼントのことも――吉野くんと喧嘩したときも瀬戸内くん、助けてくれたでしょ。そういうのって多分、ありがたいことだし。変なときのほうが多いのは…そうなんだけど」
     ひとつひとつ、言葉を拾い集めるようにして紡がれていく音色。仁淀ユウヤという男が、自分の考えをきちんと形にしようとするときほどそういう喋り方をするのだと、初めて知ったのは周年ライブのときだ。
     変って何度も言うな、と抗議したかったのに、声が全部喉につっかえてしまった。てのひらのなか、ぬるくなったアルミ缶の表面がじわりと温度を増したような気がした。
     どうせ、よく思われてはいないだろうと思っていた。すぐに怒って突っかかって、笑みを浮かべようとしたところで引きつった顔しか見せられない自分に、仁淀はいつも、どう接したらいいか分からないような態度を取っていたから。それでも、仕方がないと思っていたのに。〝助けてくれた〟なんて――仁淀がそんなふうに己を捉えているだなんて、思いも寄らなかったのだ。
     思わず目を見開き、変わらず涼しげな顔をまじまじと見つめる。仁淀はおもむろにひとつ瞬きをして、「――だから、」と続けた。
    「瀬戸内くんは、そのままでいいんじゃない?」
     そう言って、最後にゆるりと目元を緩ませるのだ。
    「――…え、…あ……」
     明確に笑みとも呼べないほどのそれは、弱々しい蛍光灯の光なんかより、ずっと眩しく見えた。
     カーッと急速に首筋を、頬を、熱がせり上がってくる。胸の内を占めたのは、紛れもない喜びだった。
     どうしてこんなに心臓がうるさいのか分からなかった。〝そのままでいい〟なんて、アイドルの――そうして誰かのファンでもある――自分ならば、絶対に否定している言葉だ。
     ――だって、そのままでよかったことなんか、いままでひとつもないのに。
     それなのに――その両側を軽々とすり抜けて、防ぎようもなく心臓の真ん中に矢で撃たれたみたいに。頬はすっかり火照り、まだ中身の残った缶をどうにか落とさないようにと掴む手が、ぶるぶると小刻みに痙攣した。
     突然震え出した瀬戸内に、隣の男がギョッと動揺する様子が伝わってくる。
    「今度はどうした」
    「な、…っなんでもない!」
     精一杯の力を込めてなんとか立ち上がる。これ以上ここにいてはだめだと、いまやすっかり汗をかいた脳みそが急かす。理由を考える余裕もなく、困惑する仁淀をよそに急いでコーヒーを飲み干した。乱雑にマスクを付け直しフードを被り、すぐにでも走り出しそうな足を――けれど寸でのところで留め、瀬戸内は勢いよく仁淀のほうを振り返って告げた。
    「……ま…、またな!」
    「えっ? あ、うん、また…」

     走る、走る、走る。
     夜の街を彩るネオンライトが、薄いレンズの縁でちかりと光っては過ぎ去っていく。まるで幻のような景色のなか、息が上がるのも構うことなくやたらめったらに足を動かし続けた。バクバクと鼓動が跳ね上がるのを、走っているせいにして。
     この感覚は、多分、二度目だ。冷静になろうとすればするほど、どうしたって脳内を駆け巡る。
     同業者としても、アイドルとファンとしても、どうにも上手くできずに横たわる歪な関係性を――仕方がないと思いながら。どうにかしたくないわけは、なかったのだ。
     ――『瀬戸内くんは、そのままでいいんじゃない?』
     じわり、じわりとなにか、途方もないことに気が付いてしまいそうな予感が心臓の裏側をくすぐる。頭のなかは未だに混乱しっぱなしなのに、足元からふわふわと浮き上がってしまうようだった。また…、と思わず口を衝いて出た言葉を思い出す。

     ――そのままで、いいなら。

     それなら――この先、〝そのまま〟の自分は彼にとって、何者かになれるのだろうか。



    【第一章】

     終演直後のロビーは、相も変わらずむわっとした熱気を孕んでいる。公演で疲れるのはなにも演者だけではなく、観ているほうだってずっと立って叫んで疲れるだろうに、一体どこにこんな元気が余っているのだろうか。次々に握手を求める活気に満ちた笑顔に最低限の対応をしながら、仁淀はいますぐにでも横になってしまいたい気持ちでいっぱいだった。
     そうして手を握り返す機械にでもなったみたいに粛々と列を捌いていると、ふいに――異様に迫力のある、尖った視線が頬に突き刺さった。
    「あ……、どうも」
     現れたのは、いまをときめく大人気アイドル、瀬戸内ヒカルそのひとであった。サングラスで覆われた目元はよく見えないはずなのに、睨み付けるような鋭い目つきをしているのがひしひしと伝わってくる。そんな、まるで宿敵との決闘に挑むみたいな鬼気迫る表情でスッと差し出される手に、仁淀はいつも、どうするのが正解なのかと一瞬戸惑ってしまう。
     眼前の手と険しい顔を交互に見やり、おずおずとてのひらを握ると、ようやく瀬戸内が口を開いた。
    「仁淀ユウヤ、相変わらずSNSのネタが酷いな」
    「あ、ハイ…。スミマセン……」
    「大体、食事の写真を上げるにしてももう少し気を遣ったものを選べ。毎回同じコンビニのおにぎりはやめろ。普段からもっとトレンドや飲食店にもアンテナを張っておけ」
     握った手をぎゅうっと力任せに握り返される。元から話半分にも聞いていないけれど、手の甲が痛くて普通に内容が頭に入ってこないからやめてほしかった。そう思う間にも話は今日の公演内容に移り、くどくどと説教が止まらない瀬戸内に、仁淀は目を逸らしながら内心嘆息した。
     ――こんなに文句があるのに、なんだって瀬戸内くんは俺なんかを推しているのだろう。
     気が付けば話題はいつの間にか一周し、再び食事の話に戻っていたようだった。「聞いているのか、仁淀ッ!」と添えられた台詞に強引に意識を引き戻され、仕方なく返事をする。
    「でも俺、全然店とかも知らないし…そういうの探すの、面倒臭い……」
     そう正直に答え、またすぐに文句が飛んでくるだろうと身構えていたのに、予想に反してなかなか瀬戸内の声は聞こえてこなかった。恐る恐る視線を上げれば、そこには――怒っているのか弱っているのか判然としない、どこか迷子を思わせる表情があった。
    「……? ええと、どうかした…?」
     思わず声をかける。そうして黙り込んでしまった相手の反応をじっと待っていると、しばしの沈黙の後。瀬戸内はおもむろに指先で眼鏡をずり上げた。
     最初にその唇の隙間から零れたのは、細く長い溜息。
    「仕方ないな……」
     それから、注意していないと聞き漏らしてしまいそうなほどの小さな声。
    「え?」
    「――教えてやる、から」
     その短い返答の意味するところが分からず目をしばたたかせた仁淀に、瀬戸内はぎゅっと眉間に皺を寄せながらもどこか気もそぞろな様子で続けた。
    「だからその…待っていてやるから、――この後…」
     そうしてごにょごにょと告げられた言葉の最後に、じっと向けられた視線を受け止める。意志の強そうな色を宿した瞳が不安定に揺らめくさまは、どうにも断ってはいけないような心地にさせられた。

     いつものように手早く帰り支度を済ませ、吉野より先に会場を出る。この後も見たい公演があるとかいうアサヒとも別れ、ひとり。普段ならばまっすぐ家に帰りたがる足を、あの日と同じ会場外のベンチへと向かわせた。
     見覚えのある背中が目に入り、名前を呼ぶ。ベンチからすっくと立ち上がった瀬戸内がこちらを振り返った。流石に会場内でつけていたサングラスは外したようだけれど、トレードマーク――なのかよく分からないが――のほっかむりはしたままだ。夜にそんな格好をしていたら普通は不審極まりないだろうに、その立ち姿からは不審どころかどこか品の良さが滲み出ている。これもトップアイドルの所作というやつなのだろうか、と妙なところで感心した。
     そんなことをぼんやり考えていると、瀬戸内は真顔のままただ一言「行くか」とだけ言って、さくさくと歩き出してしまう。どこへ、と、訊き返す暇もなかった。仁淀は戸惑いながらも、置いて行かれないように慌てて後を追った。
     まだ深くはない夜の街は、色とりどりの明かりがあちこちで瞬き、昼間よりもけばけばしく映る。そんな騒々しい灯りのなかを颯爽と歩くひとつの背中。前を行く瀬戸内の両側を、夜の光の群れがわらわらとついていく。その光景にふと、頭の片隅に思い浮かんだものがあった。いままで何度も目にして、そして大して意識したことなんかなかったのに――それはどことなく、ペンライトの海に少し似ていた。
     足早に抜ける後ろ姿を見失わないようについていくのに精一杯だった。仁淀には、どこへ向かっているのか、いまどこを歩いているのかも気にする余裕はなかったけれど、無心で足を動かしていると、ふいに前を歩く瀬戸内がぴたりと歩みを止める。そうして先程と同じように「ここだ」とだけ短く告げ、横の扉のなかへと入っていったのだった。
     カラン、と古風なドアベルの音が鳴った。照明を絞った、薄暗くこじんまりとした店内はテーブルごとに仕切りが立てられており、どこか秘密めいた雰囲気が漂う。飲み屋にしては小洒落た雰囲気だな、となんとはなしに思った。
     入店した自分たちに気付いた店員が、慣れた様子で一番奥の席へと案内する。いつの間にほっかむりを外したのか――先に相手が座るのを見届けてから、仁淀もおもむろに反対側の席についた。この店には馴染みがあるらしく、テーブルに置かれたメニュー表を仁淀のほうへ滑らせながら瀬戸内が問う。
    「なににする」
    「え〜……とりあえず生で」
     ちらりとメニューを一瞥し、そのどれもがどんな代物なのかも分からないカタカナの羅列ばかりだったので、仁淀は文字を追うのをやめた。ひとまず考えるのが面倒臭いときの常套句を口にすれば、すかさず「おいっ!」と鋭い声が噛み付いてきた。
    「居酒屋じゃないんだよ! …それと…、少しくらいは相手に合わせるそぶりを見せろ」
     ああ、ここ、居酒屋じゃないのか、と。瀬戸内の台詞を内心復唱しながら、仁淀はぱちりと瞬きをした。夜に行く飲食店といえば、居酒屋かファミレスくらいなものだろうと思っていたのだ。
     きょとんとした仁淀の表情になにを思ったのか。眉を吊り上げていた瀬戸内はしばし黙り込み、やがて不満げに口を曲げる。そうして「――俺は酒が飲めないんだから、」とぽつりと続く言葉に、今度こそ「えっ」と声が漏れた。
    「瀬戸内くん、酒ダメなの?」
    「はあ? ダメに決まってるだろう」
     あからさまに訝しげな返事に、仁淀も同じように怪訝な視線を返す。
    「いや知らんけども」
     これまで一度も一緒に酒を飲んだことのない他人のアルコール耐性など、知る由もないだろうに。
     そもそも知り得たところで、自分が他人のそんな情報を覚えているはずもないことは、瀬戸内だって分かりそうなものだ。こちらへ投げられる、一体なにを言っているのかと言いたげな視線を受け止めながら負けじと頭上に疑問符を飛ばしていると――ふいに、ハッとした様子で瀬戸内がぎこちなく口を開いた。
    「……俺は、まだ、成人してない」
    「…えっ! あ、そうなんだ……?」
    「お前って、本当に他人に興味ないよな…」
     思いきり呆れたような口調に、ハハハ…、と曖昧に笑って返事を濁す。
     初手からタメ口で恫喝された手前、年下という可能性を考えていなかった、というのが正直なところだった。今更敬ってほしいとも思わないし、業界内では向こうのほうが先輩であることには変わりないので、別段どうとも思わないけれど。そう思って改めて見れば、確かに輪郭などはまだ少し幼さを残しているような気がした。
     ――未成年なのに、もうこんなにしっかり仕事してるのか。えらいな……
     その未成年に毎度説教されている自分のことはさておき、なんだかしみじみとしてしまう。
     とはいえ、瀬戸内の言う通りだった。瀬戸内ヒカルについて仁淀が知っていることといえば、大人気アイドルであること、最上アサヒの――なぜか自分の、でもあるようだが――ファンであること、そしてえらく情緒が不安定な犬嫌いだということくらいなものだ。仕事でもなければ、一体なんの話をすればいいかも分からない。
     そうして早速気まずい沈黙が始まろうというところで、タイミングを見計らったかのようにウェイターがオーダーを取りに来る。結局あれからまったくメニューのことを考えていなかったので、取り急ぎ瀬戸内の注文に「同じやつで」と続けた。聞き慣れない冠名称のついたコーヒーは、恐らくこの店のオリジナルブレンドだろう。
    「……この喫茶店はチヒロに教わったんだが、」
     突如浮上した名前に、チヒロって誰だっけ? と思ったことは、また怒らせそうなので黙っておく。ただひとつ、ようやくはっきりしたこと。どうやらここは、喫茶店らしい。言われて初めて店内を包む豆の香りが鼻を抜けるほどには、この稀有な状況に未だに頭が付いていっていないようだった。
     小さく息を吸って吐く。そうすれば幾分か頭のなかも冴えてきて、ぽつぽつと話し始める珍しく穏やかな声色に仁淀はそっと耳を傾けた。いつも怒っているか、アイドルモードのはきはきとした声しか聞いたことがなかったけれど、店内にかかる控えめなジャズに、瀬戸内の声は不思議とよく馴染んでいた。
    「夜なら店内も照明を絞るし、事情を汲んでくれる店員もいるから。店を特定されても居ることはバレづらくて、よく来るんだ」
     ふうん、と相槌をひとつ。仁淀などは未だ素顔のままでその辺を歩いていても気付かれることが少ないから、あまりピンと来なかったけれど、飲食店ひとつをとっても色々と気を遣うものらしい。人気が出るのも案外大変なのかもしれない、と考えて、それでも自分はそもそも外に出たいわけではないから関係ないか、と思い直す。
     食事が運ばれてきてからも、どのコーヒーが美味しいとか、メンバー内でよく頼むメニューはどれとかいう話が続く。なにやらオシャレに盛り付けられたハンバーグプレートをせっせと切り崩しながら、ふと、瀬戸内がこんなふうに自身のプライベートについて語るのは少し珍しいなと思った。以前アサヒのファンであることについては猛烈な勢いで語ってきたことがあったけれど、それだって、アサヒのことだ。当のアサヒや吉野が仁淀に度々語って聞かせてくるように、いつなにをしたとか、だからどうしたとか、そういう話を瀬戸内からはあまり聞かない。
     ――まあ、そもそも瀬戸内くんとは、あんまり接点もないんだけど…。
     しばしば気安く顔を合わせているような気がするけれど、元々事務所も違えば格も違う相手なのだから当然といえば当然だ。……ああ、とそこでようやっと思い至る。今日、いきなりここに連れてこられたのも――そういえば「教えてやる」などと言っていたし――芸能界の先達として指導してやろうという配慮なのかもしれない。
     やがて、食事を平らげた頃にちょうどよくコーヒーが二杯、運ばれてきた。カップを手に取った瀬戸内が、ふぅと表面の湯気を冷ましてから口を付ける。薄暗い店内でも、照明を反射する眼鏡の縁がほんのりと曇るのが見えた。遅れて自分もひとくち飲み込む。普段飲み慣れているインスタントとは違う、深くホッとする味がした。
    「悪かったな。疲れてるだろうに、無理矢理連れてきて」
     濃褐色の液面を揺らすように、ぽつりと落ちる声。一瞬、以前のような嫌味なのかを図りかねてそろりと表情を窺えば、予想に反して、どこか所在なさげに視線を彷徨わせている瀬戸内の姿があった。
    「え。いや……まあ、そこまでは」
     どうやら本心で言っているらしいと分かると、逆になんだか申し訳ない気分になってくる。瀬戸内のほうが、恐らく仁淀の倍以上は忙しいだろうに。それに今日は――公演後半をアサヒと交代する日だったので、全部ひとりで通す日ほどは疲れていないのも事実だった。もごもごと気後れしながらそう答えると、束の間、ガタンとテーブルが揺れた。
    「貴様ッ! よもや手を抜いたから疲れていないとか言うわけじゃないだろうなっ」
    「 ―いやいやいや、疲れてます疲れてます!」
    「本当だろうな 大体、今日のライブも二曲目から早速振りが――」
     突然ひとが変わったようにガーガーと怒り出した瀬戸内に、仁淀はびくりと胸の前に手を掲げ、咄嗟に防御姿勢を取る。柔らかい橙色の灯りに照らされていた穏やかな空気が、あっという間に霧散したようだった。つい先刻までの、気が引けてしまうくらいのしおらしい態度は何処へやら――見事なまでにいつもの瀬戸内に戻っていて、仁淀は呆気に取られた。
    「……げ、元気だね…」
     人間びっくり箱かなにかなのか。そう思わざるを得ず率直な感想を述べると、今度は打って変わって「なっ、なんだよ…、」と瀬戸内が少し気まずそうな様子を見せる。コロコロと一瞬で移り変わる表情を、思わずしげしげと眺めてしまう。
     うぐ、となにやら呻き声を上げた瀬戸内が、今度は目をまんまるに見開いて黙り込んだ。ピシリと完全に固まってしまうのを見届けると、だんだん不安にすらなってくる。一体情緒がどうなっているのか、さっぱり分からない。
     元気そうに見えても、疲れているのは本当は瀬戸内のほうなのかもしれない。ううんと思考を巡らせて、仁淀はぽつぽつと言葉を選び取るように声に乗せた。
    「なんか…。俺よりよっぽど忙しいだろうに、いつも観に来てるし、いまも……瀬戸内くんはマメだよね」
     そのバイタリティが、単純にすごいと思った。アサヒや、ファンのひとたちもそうだけれど、どう考えても仁淀とは違うエネルギー源で動いているとしか思えないのだ。
    「はあ? それはお前が――」
     なにやら意気込んで言いかけた瀬戸内が、ハッと口を噤む。それから言葉を探すようにむずむずと唇を擦り合わせると、眼鏡のブリッジを押し上げながら微かにばつの悪そうな表情を浮かべた。
    「その…、お前の見聞の浅さが見るに堪えなくてだな。だからその……こうして一緒に…」
     一拍置いて、ああ、と仁淀は首肯した。やはりそうだった。自分の怠惰さが目に余り、こうして世話を焼いたということらしい。
     そろりと一度テーブルに目を落とす。湯気の消えたコーヒーカップに、淡い照明が穏やかに滲んでいるのが見えた。
     ――……いいひとだな。
     以前から分かっていたことではあるけれど、改めて思った。こうして同業者としても、日頃からファンとしても、手を差し伸べてくれるということ。視線を戻せば、薄いレンズ越し――カップのなかを映し取ったみたいに、赤みを帯びた瞳がゆらゆらと光っている。ちかりとあたたかく揺らめくその色に、ふいに腹の底で力がすとんと抜ける心地がした。
     勝手が分からないアイドル業というものにも、幾分か慣れてはきた。そうして、慣れてきたからこそ――仁淀は最近少し、緊張を覚えることが増えた。以前のように言われるがままではなく、己自身の意志を求められる瞬間があるから。意志を求められつつ、そこには常になにかしらの期待があることを、知っているから。等身大ではない、足元に伸びるほっそりとした影のような形をした、上からの期待が。
     ひとの心は分からないものだ。言葉で明確に求められたならば、ある程度応えようともできる。けれど正解がはっきりしない期待というのは、仁淀にとって先の見えない暗がりのように底知れない。
     その反面、瀬戸内の言葉は分かりやすいのだ。仁淀の立つ土俵まで律儀に降りてきて、真正面から詳らかに投げられるそれらは――全部を全部、ちゃんと聞いているわけではないけれど――単純明快で、気負わずに済む。
     ――……ああ、そうだ。だから、
    「ありがとう、瀬戸内くん」
     どれだけ叱られても大していやじゃないと思えるのは、多分、それがすべてだ。
     己のなかで反芻するようにゆっくりと言葉を紡ぐと、なにやら据わりが悪そうな様子だった瀬戸内が再び瞠目した。
    「え…あ、…こ、こちらこそ……?」
     そうして今度は困惑しながらよく分からない返事をするさまに、少し笑ってしまう。
     コーヒーを啜る。瀬戸内のオススメだと言っていたそれは、わずかにぬるくなっても変わらず美味しかった。深くホッとして、それからどこか、ふわふわする味。
     これを飲み終わる頃には、もう帰る時間がやってくる。そう意識するほどに、薄暗い橙色の安寧のなか。あと少しだけ、このまま揺蕩っていたいと思った。


    ***

    「仁淀くん、おかえりなさい!」
     見慣れた玄関扉を開くと、先に帰ってきていたアサヒに元気良く出迎えられる。
    「瀬戸内くんとどこに行ってきたんですか?」
     にこにこと楽しげに尋ねてくるアサヒに、「ん、あー…なんか、喫茶店…」とぼんやり答える。家に着いた途端、スイッチが切れたように異様に眠かった。
    「いいですねえ〜! 素敵なパフェとかありましたっ? 美味しかったですか」
     仁淀の眠たそうな態度に気付いているのかいないのか、夜になっても相変わらずのハイテンションで質問攻めにしてくる。眠いし面倒臭いし、もうアサヒになにを訊かれても無視しておこう。そう仁淀がこころに決めたところで、ひとつの言葉がぽんと脳内に滑り込んでくる。
    「楽しめましたか」
     捲し立ててくる台詞のほんの一部に過ぎないその言葉が、妙に頭のなかでわだかまるようだった。
     ――……楽しかった、のだろうか。
     内心自問自答する。結局、始終百面相をする瀬戸内に怒られたり、質問に答えたり、それでまた怒られたりしていただけだ。

     ただ――それでも。ひとつだけ、胸の内に確かに浮かんだこと。
     あの居心地の良さを、無くさずにいられるならば――少しずつでもちゃんと、応えていけたらいい、と。彼の期待する〝仁淀ユウヤ〟に、少しでも近づけたらいいと思った。



    【第二章】

    「あれえ、ZINGSじゃん!」
     アキラがにこにこと指先を向けるのを、「こら、指差さない」と隣のホマレが注意した。
     その日は、偶然同じスタジオでの収録のようだった。アキラの弾んだ声に釣られて瀬戸内がふっと視線を向ければ、向こうもこちらに気付いたらしい。パチリと目が合って瞬間、心臓が跳ねた。
     その横に佇む吉野がにわかに緊張した面持ちになり、隣の男の腕をぐいぐいと引っ張って近づいて来る。
    「こ、こんにちはっ」
    「おー、そっちも収録? 一緒のスタジオだったんだね〜」
     チヒロが間伸びした口調で答える。
     最近になって、ZINGSのテレビ露出がじわじわと増えてきた。毎日公式サイトはチェックしているし、そうでなくとも同じ業界人として世間より早く情報を知り得てしまう身の上ながら、こうして仕事中にばったり出くわすことには未だに慣れない。瀬戸内は一瞬飛び上がった心臓を宥めながら、外面だけはどうにか取り繕ってにっこりと笑みを浮かべた。
     こちらの気安い雰囲気を感じ取ったらしい吉野が、ホッと胸を撫で下ろして続けた。
    「そうなんです! まさか今日Cgrassの皆さんに会えるなんて思わなくて! ねっ、ユウくんっ」
    「え? ……ああ、そうだね」
     相変わらずの薄ぼんやりとした返事だった。
     瀬戸内は貼り付けた笑顔のまま、余計な言葉が口を飛び出してしまわぬようにぐっと頬の内側に力を入れた。いまの自分が〝Cgrassの瀬戸内ヒカル〟でなければ、いつもの如く詰め寄って一喝してしまっていたことだろう。
     衝動と世間話をそこそこにやり過ごし、それじゃあまた、と各々の楽屋へと向かう。
     その、別れ際のことだった。
     己の名を呼ぶ、ささやかな声が鼓膜を叩いた。先に歩いていった他のメンバーには聞こえなかったようだ。自分だけが拾い上げたその聞き慣れた声に、ハッと振り向く。
    「……今日は?」
     続きはそれだけの、短い言葉だった。
    「――…ああ、」
     それから、相手のことをどうこう言えそうもない、淡い返事が瀬戸内の喉から滑り落ちた。

     あれから時折、ZINGSの公演後に待ち合わせをするようになった。その場で多少の立ち話をするだけで終わる日もあれば、いつぞやのようにどこか店に入って食事をともにすることも。一度仁淀に店選びをやらせてみた日には、いやだ止めろ自分に任せないほうがいいと散々ごねた果てに「俺が知ってるのなんてこんなとこしかないよ…」と悲愴感を漂わせながら牛丼チェーン店に連れて行かれたりもした。
    「別に…、いやだなんて言ってないだろ」
     仁淀のあまりの鎮痛な面持ちにまたしても、一体自分はなんだと思われているのかと気になりつつ、瀬戸内はそのときふんと鼻を鳴らして言ってやったのだ。
    「大体、お前に店選びのセンスなんて期待していない」
    「……いつもそれくらい期待しないでいてくれると助かるんだけど」
    「……。仕事はしろよ、仕事はッ!」
     何度かそういう日々を繰り返して、ひとつ分かったこと。職業という共通点があったところで、特段なにか事情がない限り、仁淀のほうからその手の真面目な話を振ってくることは少ない。先日は、コンビニおにぎりの具材増量キャンペーンの対象にいつも買っている種類が入っていなくて危うく騙されるところだったとか、そんな話題だった。結局、釣られて「ちゃんと注意書きを見ていないからだろう。その調子で変な契約とかさせられるなよ」「いまのところ口座開設以外の契約は興味ないから大丈夫」などと、アイドル同士とは思えないような不毛な会話ばかりしていたけれど、帰宅する頃には不思議と充足感に満たされていた。
    「――それじゃあ…、」
     互いの終了時刻を確認し合い、本日の待ち合わせ場所を決めてようやっと、楽屋へと歩き出す。
     ふいに――まだ、ネオンライトの散らばる時間帯には遠いのに。ふわふわと、まるで床が真白い綿になってしまったような不可解な感覚を覚えた。
     これまで、こうして夜の小暇をともに過ごすのは、決まって瀬戸内がライブ会場に出向いたときだけだったのだ。そういう単なる〝ついで〟でしかなかった濃紺の色が、なぜだか今日は。少しだけ変わりそうな――そんな柔らかな気配が、足元に満ちていた。

     楽屋に戻る道筋が、行きと合っていたのかは定かではない。ドアをくぐると、ちょうどこちらに気付いたホマレが近寄ってきて、どこかホッとした表情で声をかけてきた。
    「――よかったな」
    「……うん?」
     本日二度目の随分と短い台詞に、今度はなんのことだか分からず首を傾げれば、ホマレは優しげな双眸を一層柔らかく細めて言った。
    「嬉しそうな顔、してるぞ」
     ヒカルはあんまり、ひとに近い距離を求めないからちょっと安心したよ、と。
     嬉しそうに告げられて、遅れてぶわりと頬に血が上った。


    ***

     それから数日後の、なんとなく恒例となった夜のひととき。
     今晩は、いつもより緊張していた。待ち合わせ前からどきどきと早鐘を打ちそうになる心臓をどうにか抑えて、瀬戸内は小さく深呼吸を繰り返しながら歩みを進める。店までの道中ずっと、ショルダーバッグのベルトをぎゅっと握り締めていた。
     大事に抱えたバッグのなかに入っているのは――番組の伝手でもらった、水族館の入場チケットだった。Cgrassのメンバーそれぞれに二枚ずつ渡されたそれ。各自が二枚持っているとあっては、残りの一枚でメンバーを誘うわけにもいかないし、ほかにプライベートで気軽に誘えるような相手も、瀬戸内にはいない。だからこれは――仕方なくだ。そう自分に言い聞かせながら、瀬戸内はただ無心で歩いていた。
     何度か来たことのあるレストラン。入店して、疲れたようにさっさと席につく仁淀に続いて向かいの席に座った。バッグを肩から下ろすと、思いのほか力強く握り込んでしまっていたらしく、ベルト部分が若干歪んでいる。そろそろと開いたてのひらには、くっきりと赤い線が描かれていた。
    「瀬戸内くんはなににする?」
     俺はこれでいいや、と。まだ座って数分も経っていないのに、ディナータイムのメニュー表に大きく印刷された〝サービス価格〟の文字を指差して仁淀が言う。初めてこうして瀬戸内の行きつけの店に連れてきた頃はまるで借りてきた猫のようだったというのに、すっかり相変わらずの調子だ。どこまでも価値観のぶれないさまに妙に気が抜けて、自分もさっとメニュー表に目を通して適当に選ぶ。
     注文を終え、食事が運ばれてくるまでの間に落ちた小さなしじま。いつもは勝手に滑り出てくるライブの感想――もとい、指摘――が今日に限っては、喉の奥に引っかかって上手く出てこなかった。ありありと喉元を塞ぐ、ひとつの言葉があるからだ。
     なかなか話し始めようとしない瀬戸内に、仁淀が不思議そうな表情を向けてくる。そうして、しばらく首を傾げた後に、なにやらハッとした様子で顔を青ざめさせた。
    「あの……ごめんなさい」
    「……は?」
     脈絡のない突然の謝罪に、思いきり胡乱な目を向けてしまう。
    「……今日俺、そんなに酷かった…? 今回は分担が…あーいや、その……」
     ごにょごにょと語尾を濁しながら、仁淀が後頭部を掻く。どうやら瀬戸内が黙り込んでいるのを、本日の公演の出来がすこぶる悪かったから怒っているのだと解釈したようだった。予想外の反応に瀬戸内はぽかんと目をしばたたかせた。
    「は……。いや、今日は――」
     わりと、良かった。今日は、というより、最近は、だ。
     確かに、まだまだアイドルとして技量の足りない部分は多くあるけれど、着実に良くなってきているのが見て取れた。だから、ここ最近は以前ほど全面的に突っかかることも少なくなり、それどころか必ず一度にひとつは良かったところも伝えるようにしていたのだ。
     だというのに――怒られるのを待つ子犬みたいな表情を浮かべる年上の男がどこか可笑しくて、…はは、と吐息のような笑みが零れた。
    「三曲目のステップが以前より良くなっていたな」
     そう告げると、仁淀は一瞬理解が及ばないとでも言うようにぱちりと瞬きをして、今度はあからさまにホッと胸を撫で下ろす仕草を見せた。
    「なんだ……、ものすごい怒られるのかと思った」
    「おい……」
     俺のことをなんだと思っているんだ、と、ここ最近の決まり文句が口を衝いて出そうになる。それを一度かぶりを振って紛らすと、瀬戸内は口角を引き下げながら「怒らないとは言っていないが」と続ける。
     え、と仁淀が肩を強張らせる。途端に引きつる表情に、幾分か溜飲が下がる思いだった。おもむろに眼鏡のブリッジを押し上げると、瀬戸内は腕を組みながら眼前の男を睨め上げた。
    「問題はその後だ。五曲目の――……」

     注文したメニューが運ばれてきて、説教もひと段落したところで食事に取り掛かる。
     こんがりと焼き目の付いた鯛のムニエル。パリッとした皮へナイフを入れ、一口大に切り分けていく。口に運べば、皮とふっくらとした身のバランスがよく、瀬戸内は舌鼓を打った。文句を一通り言い終えた爽快感のなか、舌に溶けるバターとほんのりレモンの香るクリームの相性も絶妙で、先程まで吊り上がっていた目が緩む思いだった。同じタイミングで運ばれてきたローストチキンを前にして、すっかり引いた様子で食の進まない仁淀をよそにぱくぱくと食べ進めていると、ややあってぽつりと呟く声が聞こえた。
    「なんていうか……本当、よく見てるよね…」
    「なにを」
    「俺のこと?」
     瞬間、喉が詰まりごほごほと咽せる。慌てて水を飲み込めば、その様子を眺めていた仁淀が声をかけてくる。
    「だ、大丈夫?」
     ふわふわと他人事のように告げられるその台詞に、お前のせいだろうがっ、とばかりに思わずじろりと睨め付けてしまった。
    〝よく見てる〟だなんて、――そんなの、言われるまでもないのだから。
     ――……見ているも、なにも。
     仁淀ユウヤのファンなのだから、見るに決まっている。
     それなのに、だ。瀬戸内が仁淀のファンであることは重々承知しているはずなのに―未だにそれがどういうことなのか、本人はピンと来ていないらしい。
     それが幾分か、面白くなかったからだ。すう、はあ、とぞんざいに呼吸をひとつ。一度息を落ち着けてから、瀬戸内はむっと眉間に皺を寄せて告げたのだった。
    「ファンが、ステージ上のアイドルを見て〝ここが良かった〟〝もっとこうしてほしい〟と考えるのは、当たり前のことだろう」
     誰かが自分を推しているということが、どういうことなのか。いつもそのことを胸に、瀬戸内はステージに立っているのだから。そしてそれがアイドルの責務であると、信じていた。
     対面に座る男は、しばらく瀬戸内の言葉を吟味するように俯き、ふいに―微かに笑ったように見えた。え、と心臓が淡く跳ねる。どこか柔らかい視線が、そっと瀬戸内のほうに向けられる。それからいつかと同じように、仁淀はじっと目を合わせたまま、「ありがとう」と一言呟いたのだった。
     ――……ああ、まただ。
     店内の照度は、夜の時間帯に合わせて絞られているのに。そんなことお構いなしに、目映く光るのだ。そうしていつかと同じように、瀬戸内はほろほろと――こころの結び目が緩んでしまうような、不安定な心地を覚えた。

     そんなふうに、話がどんどんと脇道に逸れていったせいだ。テーブル上の皿があらかた下げられた頃、眼前の男の帰り支度を整える雰囲気を感じ取って、ようやく瀬戸内はハッと本日の目的を思い出したのだった。
    「……あッ」
     うん? とやや眠たげに細められた瞳がのろりとこちらを向く。
    「あの……仁淀、ちょっと」
     もごもごと、引き留める言葉だけを取り急ぎ口に出す。仁淀がソファ席に深く座り直すのを目で追って、瀬戸内はこくりと唾を飲み込んだ。次第に緊張を思い出した心臓が、鼓動を早めていく。喉元にじわりと熱が籠るのを感じつつ、すっかり重くなった口をどうにか動かした。
    「今日は、その。渡したいものがあって」
     口に出しながら、勢い付いて鞄のなかへ突っ込んだ指が震えそうになるのを、ぎゅっと力を込めて堪える。指先に挟んだ紙切れがひしゃげてしまわないか、気に留める余裕は、もうなかった。
     急かすこともなく、ただじっと瀬戸内の言葉の続きを待つ仁淀の姿が目に映る。その変わらない様子を見るほどに、早くしなくてはとこころが急く。乱雑に鞄のなかからそれを引っ張り出し、瀬戸内はその勢いのままテーブルの上に差し出した。
    「――これ……、チケット?」
     不思議そうに問う仁淀の台詞に、こくりと頷く。
    「ええと……Cgrassのってこと?」
     今度はふるりと首を横に振る。一向に言葉を発しない瀬戸内の頬に、少しばかり困惑の滲んだ視線が突き刺さった。はくり、と無理矢理開いた唇が空を切る。戦慄きそうになる口元を叱咤して、瀬戸内は再び慎重に言葉を連ねていった。
    「……水族館の。この前、番組の景品でもらったんだ…グループ全員に、二枚ずつ、」
     口を動かし続けるほどに、目が泳いでテーブルに落っこちてしまう。仁淀の顔が、上手く見られない。躊躇う視線とは裏腹に、鼓膜には心臓の音が痛いほどに響いた。声が震えてしまっていないか、きちんと言葉にできているのか確かめたいのに、鼓動の音に遮られて自分の声がよく聞こえなかった。
    「だから、……どうかなと、思って…」
     それ以上言葉が出てこなくて、ついには黙りこくってしまう。
     じとりとした、沈黙が落ちた。なにか、なにか言ってほしい――願わくば。そんな縋るような気持ちでテーブルの上、突き出した腕の先をじっと見つめていると、しばらくして。…ああ、となにやら納得のいったような、どこか嬉しそうに響く仁淀の声が鼓膜を叩いた。
    「ありがとう、瀬戸内くん」
     弾かれるように顔を上げる。ちかり、とあたたかい色の照明に一瞬目が眩んだ。瞬きをした先には、先程と変わらない穏やかな雰囲気を纏った姿があった。
     和らいだ空気に、ホッと全身が弛緩する。変に思われずに済んだらしいことに大袈裟なほどに安堵して、チケットに添えた指先の力までが緩まった――瞬間だった。
    「――ちゃんと、吉野くんと一緒に行くようにするよ」
     返事をしようとした喉から、ひゅ、と乾いた息だけが漏れた。にわかに目を見開く。脳の処理速度が急激に落ちてしまったみたいに、与えられた言葉の意味が一向に頭に入ってこなかった。瀬戸内が言葉を失うなか、仁淀の落ち着いた声が続く。
    「俺、いままであんまり分かってなくて。こういうの、俺と吉野くんが一緒に出かけると、ファンのひとは嬉しいんだよね?」
     そうして今度こそ――その言葉に愕然とする。一瞬で、全身が凍りつくような心地がした。
     唐突に足が重くなり、そのまま床にずぶずぶと沈んでいってしまいそうだった。足元から生じたざらりとした痛みが、ゆっくりと這い上がってきて、次第に心臓の周りにまとわりつく。てのひらが震え、指先に弾かれたチケットが仁淀の前に滑るのを呆然と見送りながら思った。
     ――俺は、一体、なにをしようとしていた……?
     のろのろと仁淀の目を見る。そこに浮かぶ、瀬戸内に対する確かな信頼の色に、ぞわぞわと羞恥が込み上げてきた。
     ――『瀬戸内くんは、そのままでいいんじゃない?』
     いつかの言葉が脳裏に蘇る。そうして、今更ながらに思い知るのだ。瀬戸内を〝そのままでいい〟と言ったことと、仁淀が〝変わらない〟ことは、同義じゃない。
     同業者としても、アイドルとファンとしても、どうにも上手くできずに横たわる歪な関係性を、瀬戸内はずっと歯痒く思っていたのだから。だからこうして――同業者としても、ファンとしても。仁淀が己を頼ってくれるようになったことは、嬉しいし、正しいことに違いないのに。
     全身をぐるぐると渦巻く痛み。心臓から響く軋むような音が気持ち悪くて、瀬戸内は咄嗟に口元を手で覆う。そうしていないと、なにかとんでもないものが口から飛び出してしまいそうだったのだ。
     ――……なんで……、
     そのときはっきりと―ふたりの間で積み上げてきたものすべてを裏切るような、思い上がった感情がこころの奥に潜んでいることに気付いてしまった。
    「瀬戸内くん、どうかした……?」
     ふいに声がして、沈み込んでいた意識を無理やり引きずり上げられる。ぱちりと焦点を合わせるように目を動かせば、そこには気遣わしげにこちらを見つめる仁淀の姿があった。
     その視線が、ふと、いつかの景色に重なって見えたから。指の隙間から、細い息が零れる。眼前の不安そうな表情に束の間、すぅっと、どこか頭の芯が冷えていく感覚があった。そうして動悸が次第に静まれば、……考えるな、と今度は脳内で聞き慣れた己の声が響き始める。それは――何度も何度も、これまでずっと自分自身に唱えてきた言葉だった。
     ――……冷静に、冷静になれ…、
     ――ちゃんと笑顔を浮かべろ、ここをステージの上だと思え、
     ――そうだ、俺は……〝瀬戸内ヒカル〟なんだから……!
     アイドルは、誰かの前で心配されるような姿であってはならないのだから。そのために痛くないふりをすることくらい、自分はいくらだってできる。
     一度息を吸って、ふーっと肺のなかの空気を全部抜き切る。身体のなかがすっからかんになってしまえば、いつだってカチリ、とスイッチが入るのだ。己が〝瀬戸内ヒカル〟になるための、大事なスイッチが。
     それからゆるりと仁淀に視線を戻すと、瀬戸内は殊更に柔らかい笑みを浮かべて告げた。
    「悪い、なんでもないんだ。――ぜひ楽しんできてくれ」



    【第三章】

    「えええええっ」
     差し出されたチケットの出どころを聞き、ほとんど悲鳴に近い大声が口から飛び出た。そうして吉野が絶句する間にも、眼前の仁淀は斜め上のほうを見てうるさそうに耳を塞いでいるので、どうやらアサヒも自分と同じように動転しているらしいのが見て取れた。
    「そんなに驚くこと……?」
     仁淀だけが殊更フラットな口調で呟く。迷惑そうですらあるその声に釣られたわけではない。けれど、目には見えなくとも他人が慌てている様子を見ると逆に冷静になるようで、吉野は幾分か平常心を取り戻して切り返した。
    「いや、違うでしょ、ユウくん!」
    「え…、なにが?」
     きょとんと首を傾げるいつも通りの相方にどこか気が遠くなる心地を覚えながら、吉野は勢いよくかぶりを振った。
    「な――なんでユウくんと僕の分だと思ったの」
     それ! と、仁淀の手に収まっている二枚の紙切れを指差す。都内にある、特別展を開催するたびになにかとテレビで話題になる水族館。そんな人気の水族館の入場チケットを、仁淀は瀬戸内から譲り受けたのだと言って今日、吉野を誘ってきたのだ。
     ふたりがプライベートでも交流があるほど仲が良いらしい、というのは、そばで見ていてなんとなく知っている。だから、仁淀が瀬戸内からチケットをもらったこと自体は、別段驚くようなことでもなかった――のだが。
     どう考えても、誘う相手を間違っている。もちろん、瀬戸内が行けなくなったとかいう可能性もなくはない。けれど、二年間仁淀の相方を務めてきたからこそ、吉野には分かるのだ。
     ―ユウくん……、また変な勘違いをしたんだろうな……。
     昔から自分自身のことにはなにかと頑固な一方で、仁淀には、他人との交流から一歩引く癖があったから。
     吉野に詰められて、仁淀が途方に暮れたような声を出した。
    「だって……」
     そう呟いたきり、言いづらそうにもぞもぞと唇を擦り合わせる。どこか珍しいその強張った表情に、思わず心配になり「ユウくん…?」と声をかければ、仁淀はハッとした様子で吉野の目を見た。
    「いや、なんていうか……。この前はちゃんと吉野くんに声、掛けなかったから…、」
     最後のほうは、ごにょごにょと口籠もってよく聞き取れなかった。けれど、その台詞の端々からでも――十分すぎるほどに。
     ――……ああ、そっか。
     すとん、と腑に落ちた。いつか、遊園地のチケットを各々消費した後から『誘えばよかったね〜…』と申し訳なく呟いたのは―誤解して喜んでいるファンのコメントを見ながら『なんだか申し訳ないよね…』と苦笑交じりに零したのは、吉野自身なのだから。
     自分にとって一番のきっかけだったあのときのことを、仁淀はずっと気にしてくれていたのだと。
     ぎゅっと、知らず口元に力が籠る。鼻の奥がツンとして、目頭が仄かに熱かった。詰まってしまった息をどうにか吐き出そうと、ゆっくりと唇をほどく。そうして吉野は、精一杯の笑みを浮かべたのだ。
     きっと、くしゃりと泣きそうに歪んだ、変な顔になってしまっている。――それでも、
    「――ありがとう、ユウくん。……ごめんね」
     あのときのことは、散々〝謝らなくていい〟と仁淀に釘を刺されていたから、またこうして謝ってしまっては怒られるかもしれない。それでも、――そう言葉にせずにはいられなかったのだ。
     深く息を吸って、吐いて。ひとつ瞬きをすれば先程までの動揺が霧散して、身体の奥にはただゆらゆらと揺蕩うような愛おしさだけが残る。吉野は、努めて穏やかな声で尋ねた。
    「本当に――僕とユウくんの分だって、言ってた? それ、渡されたとき」
    「……言葉にしては、なかった…かもしれない、けど」
     どうかなって、言われて…、と。どこかおどおどした、迷うようなそぶりを見せながら仁淀が答えた。しきりに後ろ髪をぐしゃぐしゃと掻き雑ぜ、視線だけで『違うの?』と問うてくる仕草。仁淀本人も、正しいことを言えている自信がないのだろう。それがありありと分かる口ぶりから、本当にひとの考えを汲み取るのが苦手なんだなあ、と思わず笑みが溢れてしまった。
    「瀬戸内くんは、さ。ユウくんと一緒に行きたかったから、誘うつもりだったんじゃないかな」
     俺と……? と、微かな声が部屋に滲む。暗いアンバーの瞳が不安そうに揺らめいているのを見つめながら、吉野はただ、こくりと頷いた。仁淀がゆるゆると手元のチケットに視線を落とす。じっと黙り込んで、なにかを必死に思い出そうとしているようだった。
     やがて、ぽつりと小さな声が響く。
    「瀬戸内くんは…いつも。俺が間違えると、ちゃんと正してくれるんだ」
     うん、と吉野が柔らかく相槌を打って先を促せば、少しの間を置いて「だけど…、」と躊躇いがちな口調が続いた。
    「あのとき…、瀬戸内くんがどんな顔をしていたのか……思い出せない」
     懺悔をするかのような、弱々しい音色だった。
     その声を聞いた、瞬間。
     ――……ああ、ユウくんって、ほんとうに。
     じんわりと胸に広がる想いがあった。だって、瀬戸内が本当はなにを言おうとしていたのかなんて――顔を見なくたって、こうして話を聞いているだけで伝わってくるというのに。
     仁淀にとって自身に向けられる感情は、証明するものがなければ確信できず、そこに自分の意思を介在させようとはしないものなのだ。そしてそれは、紛れもなく――仁淀ユウヤというひとの優しさだと、吉野はちゃんと知っている。
     鳩尾の上、ぎゅう、とてのひらを握る。仁淀から向けられる視線をしっかりと受け止めたまま、吉野は小さく息を吸い込んだ。ちゃんと知っているからこそ――まず一番に、隣にいる自分がフォローしてあげたいのだ。
    「――ユウくんは、本当はどうしたかった?」
     尋ねると、仁淀は一瞬呆気に取られたように目をしばたたかせ、しばらく逡巡した後にこう答えた。
    「……よく、分からない。けど、俺は――」


    ***

    「おーはよ〜っヒカル!」
     どすんと体当たりをするみたいに、チヒロは眼前の肩に腕をかけた。それはいつもとなんら変わらない仕草であり、常ならば、弾かれるように顔を向けたヒカルが「重いっ!」と文句をつけてくるはずが――ここ最近ときたら。
    「……おはよう…」
     口調だけはしっかりしているものの、ほとんどゾンビのような澱んだオーラを纏っている。チヒロのほうをまともに見ようともしないのだ。
     最初にその反応が返ってきたときこそ、チヒロは目を瞬かせつつも、深く考えないままにやあと笑みを浮かべて尋ねたものだった。
    「なんだ〜? 珍しく寝不足かあ?」
     なにしろ、その前日はZINGSの定例ライブだったはずで、開場に間に合うようにヒカルは急いで帰っていった。だから、それがとんでもなく良くて興奮冷めやらず寝付けなかったとかで、しっかり者のリーダーとして気まずいのだろうと。そんなところかと当たりをつけていた――のだが。
    「――別に、なんともない」
     想定の百倍以上冷めた返事が、ひとつ返ってくるのみであった。チヒロは今度こそ目を見開いて、俯いたままの眼前の男を唖然と見つめた。そうしてようやく、先に来ていた周囲のメンバーの顔を見回して、全員がこちらを向いて渋い顔で首を振っていることに気付いたのだった。
    「……あ〜…、うん。なんともないならいいわ」
     あはは…、と乾いた笑い声を上げて、これ以上刺激しないようにそっと肩に回した腕を退けた。
     そういう日々が何週間か続いた頃。全員揃っての撮影がひと段落し、今度は順繰りにひとりずつ撮影していくとのことで、早速ヒカルが呼ばれて楽屋から出て行くのを見送った後のことだ。
    「――あーあー。アイツはいつになったら、自分がどんな顔してるか自覚すんのかね?」
     一番に声を上げたチヒロに、ユキナリが間髪入れずに答えた。
    「多分、一生無理」
     だな〜、とアキラがのんびりとした相槌を打ち、ホマレがやれやれと肩を竦める。そうして互いに顔を見合わせれば、じわじわと楽屋内に笑いが湧き出した。
     ――こんなふうに、この話題を笑って話せるようになったのは、いつ頃からだったろう。
     そして、そういうふうに当の本人が変わっていったのも――そう遠くはない過去のことだ。ふとそんなことを、なんとはなしに思い返す。変わっていく姿を見守りながら、ああよかったなと、確かにどこか胸のつかえが下りるように感じたのをチヒロは覚えているし、それはきっと、ほかの三人も例外ではない。Cgrassはずっと、リーダーをみんなで支えるグループだったのだから。
     チヒロはおもむろにポケットからスマートフォンを取り出し、ロックを解除しながらくっくっと喉を鳴らして言った。
    「仁淀くんも罪な男だな〜。ついこないだまで浮かれきってたじゃん、ヒカル」
     あんなに振り回されて、人生忙しそうだよなあ。
     そう呟くと、ホマレがうーん、と苦笑を浮かべて小さく首を傾げた。
    「まあでも…、それがヒカルだからねえ」
     うんうん、と残りのふたりの頷く仕草を視界の端に収めつつ、眼前の液晶画面をするすると操作していく。トークアプリを立ち上げて、友だちリストのなかからつい最近加わった目的のアカウントを探し出す。
    「まっ、そうなんだけど」
     プライベートでどんなことがあったとしても、仕事の質は絶対に落とさない。誰よりもそれを徹底しているのが、瀬戸内ヒカルという男だ。
     そして、だからこそチヒロは―首を突っ込ませてほしいと思うのだ。
     ――ヒカルが一番分かってないのは、俺たちがどんだけヒカルを見てるかってことなんだよな。
     願わくば、今度こそ。ちゃんと間に合ううちに、一緒に背負わせてほしいのだと。
     見知ったアイコンをぽんっと一度タップする。操作に合わせてぽつりと零す声に、アキラが「どした、チヒロ?」と声をかけてくる。そこでようやく画面から顔を上げると、チヒロはスマートフォンを見せつけるように掲げながら、ふふんと鼻を鳴らして告げたのだ。
    「いや〜、俺。そういや前回の収録んとき、吉野くんと連絡先交換したんだよな、って」
     えっ! とホマレが驚いたような声を上げる。それに続く「珍しく役に立つ」とは、隣に立つユキナリの台詞だ。
    「珍しくはないだろっ!」
     そう言い返すと、アキラが一等嬉しそうに破顔しながら背中をバシッと叩いてきた。
    「よっし! そういうことなら、作戦はチヒロ副隊長に任せるぜ!」
    「あんまり向こうに迷惑かけないようにな」
    「へーへー、…ってか副隊長、俺なの」
     勘弁してよと視線を向ければ、示し合わせたみたいに全員がサッと顔を背けるのだから、やっぱりCgrassのチームワークは、どこにも負けないのだ。

     まったく、世話の焼ける隊長様ですこと!

     茶化すように軽口を叩けば、今度こそ珍しく、ユキナリがニッと口角を上げて言った。
    「そうじゃなきゃ、支え甲斐がない」
     最後に全員で顔を見合わせ、間違いないなと再び笑い合った。


    ***

     謝ろうと思って、連絡先を知らないことに初めて気が付いた。
     それならそれで、握手会のときでもいいかとも思っていたのだが――最後にチケットを渡されたあの夜以降、ステージから探せばいつも通りの頻度で会場内に姿はあるのに、瀬戸内が握手をしに現れることはなく。今日に至っては、会場内にもその姿は見当たらなかった。
     常ならば、頼んでいなくても手を握り潰さんばかりの勢いであれやこれやと文句を並べ立ててくるのに、それがここ数回無いだけでどこか物足りなさを覚える自分に驚く。
     だってこれまで自分は、ファンはいついなくなったとしても仕方のないものだとずっと思っていたのだ。それは瀬戸内だって例外ではなく――いつまでも彼が現場に来続ける保証なんかどこにもないし、己にそれをどうこうする権利もないのに。
     ――……なのに。
     今日こそは来てくれたら話をしようと気負って、列が途切れるまで一向に現れないから肩透かしを食らう、その繰り返し。楽屋に戻り、ふぅ、と息を零しながらずるずるとソファにもたれ掛かると、ずっとなにか言いたげな様子だったアサヒが、おもむろに口を開いた。
    「……仁淀くん。いつ、瀬戸内くんとお話しするんですか?」
     少しだけ、責めるような響きを含んだ硬い声。
     そんなの、訊きたいのはこちらのほうだった。うーん…、と目の前の壁を睨む。早く謝らないと、と思う気持ちに嘘はない。けれど――瀬戸内が現れないことに変に気を擦り減らす一方で――紛れもなく、どこかほっとしている自分がいることにも、気付いていた。
     結局、謝ったその先で自分が本当はどうしたいのか、よく分からないままなのだ。
     ――……俺は、瀬戸内くんが喜んでくれればなんでもよかったんだから。
     彼の望むものに少しでも近づけたなら。
     だからチケットの行方も――瀬戸内が握手会に来ないことも全部、決定権は彼に委ねられているものだと思っていたのに。
     ――どうして、それじゃあ物足りないと思うのだろう。
     瀬戸内なら、その理由も分かるのだろうか、と。ふとそんなことを思う。
     仁淀はハァ、と再度重い溜息を吐いて、己のこころを映し取ったような白いばかりの壁を見つめながら、ぼそりと呟いた。
    「まあ、そのうちまたどこかで会えるだろうし、そのときで…」
     そう自分に言い訳をするように口にすれば、アサヒの纏う空気が一瞬、チリッ…と揺らいだ。
    「それは……。それは、――絶対にダメです」
    「……え?」
     コップから溢れる寸前の、張り詰めた声。驚いて、ようやくアサヒのほうを振り向くと――そこには。いまにも泣き出してしまいそうな、ひどく傷付いた表情があった。
     ――なんで、アサヒちゃんがそんな顔をしてるんだ……?
     呆気に取られ、眼前の沈痛な面持ちを見つめたまま数度瞬きをする。「あ――アサヒちゃん、」と思わず名前を呼びかけた仁淀の声を遮って、彼女はぐっとなにかを堪えるように首を横に振った。
    「ダメですよ……だって。〝また次〟が必ず来る保証なんて――誰にも、無いんですから」
     そうして一度言葉を切ると、小さく息を吸い込む。まるでライブが始まる瞬間のような、緊張を孕んだ微かな沈黙が落ちた。それから仁淀のほうへスッと手を差し出しながら、アサヒは「だから、仁淀くん、」と声量を強めて言った。
    「伝えたいことがあるなら、早く伝えにいかないと!」
     言い切って再び正面を見据えた視線は、つい先程までの痛ましさをすべて振り払い、まっすぐに仁淀を射抜くのだ。
     じっと向けられた、零れそうなほどの双眸から目を逸らせなかった。きらきらと、陰りなんかひとつも知らないみたいに力強く輝いて、言葉以上に雄弁に語りかけてくるエメラルドグリーンの大きな瞳。それはまごうことなく――最上アサヒの強さであり、初めて出会ったときからずっと、己をここまで引っ張り上げてきたものだったから。
    「――……うん」
     仁淀は、触れられないその手を握りながら、こくりと首肯を返したのだ。

     三人寄ればなんとやら。結局アサヒと仁淀のふたりでは早々に行き詰まり、「吉野くんに相談してみましょー!」とのアサヒの一声で翌日話を持ちかけると、意外にも吉野は意気込んだ様子で「任せて!」と頷いた。
     例のテレビ番組出演の際に、Cgrassのメンバーと連絡先を交換していたらしい。向こうからもちょうど連絡が来ていてどう返そうかと迷っていたのだと言って、仁淀の連絡先を伝えてもらうと、しばらくして仁淀のスマートフォンに着信が来た。
    『もしも〜し、仁淀くん?』
     間伸びした声は、確かに以前聞いたことはあるはずなのに、誰だかまったく思い出せなかった。
    「……はい。え〜と…、」
    『あーうん。俺、岬チヒロ』
     仁淀が言い淀むと、苦笑交じりの声がすぐに返ってくる。名前を聞いたところで結局顔は思い描けなかったけれど、岬のほうも仁淀の薄い反応を気にした様子はなかった。
    『いまね、俺たち収録してるんだ。ほら、この間偶然会ったスタジオ、覚えてる?』
    「はあ、」
    『一時間後には終わるからさあ。仁淀くん、もう仕事終わったんでしょ? こっち来なよ』
     明るく飄々とした声は、けれどどこか有無を言わせない響きがあった。ちらりと壁にかかった時計を確認する。確かにどちらも都内で距離もそう離れてはいないけれど、急いで向かわないと間に合わない場所だ。
     一瞬、面倒だなといつもの癖で思った。
     けれど――行かないという選択肢は、なかったから。取り急ぎ了承を返し、吉野への挨拶もそこそこに仁淀は手早く帰り支度を整えて会場を後にした。
     指定されたスタジオの入り口には既に、どこかで見たような顔の男が待ち構えていた。やや迷いながら近づいていくと、こっちこっちと笑顔で手招きをしてくるので、どうやら岬で間違いなさそうだと判断する。アサヒが隣にいれば、いち早く「岬くんですね!」とでも反応してくれるだろうに――肝心の彼女はといえば。スタジオの前までは付いて来ていたのに、門のところで突然「やっぱり私、ここで待ってます!」とか「仁淀くんのこと信じてますからね!」とかなんとか言って、当の本人よりよっぽど勇み立った表情で仁淀を見送ったのだ。
    「いやー。急にごめんね、仁淀くん」
     なにやらにこにこと笑みを浮かべた岬が声をかけてくる。本当に……とは思っても言わず、とりあえず無難に挨拶を返せば、岬はなんら気にした様子もなくからりと笑った。
    「ヒカルなら、まだ楽屋で待たせてるから」
    「……え。あの、ちょっと」
     電話口と変わらぬ飄々とした調子に、流石に当惑した。事情もなにも聞かずにさっさと歩き出そうとする男を思わず引き留めてしまう。
     くるりと振り返った岬は、やけに凪いだ瞳で仁淀を見つめた。
    「――別にさ、無理になんか話したり…、仲直り、とか? しなくたっていいと思ってるんだよ、俺」
    「はあ……」
     やはり、というべきか、己と瀬戸内の間でなにかがあったことは筒抜けのようだった。
     それを思うほどに――彼は一体どんな顔を浮かべていたんだろうかと気になった。ううむ、と微かに唇を尖らせながら仁淀が考え込むそぶりを見せると、束の間。「……ふっ、ふふ、」と息を吐き出すみたいにささやかな笑い声が聞こえてくる。ぱっと顔を上げれば、そこにはつい先刻までの穏やかな色から一転、随分と楽しげな笑みがあった。
    「だってめんどいもんな〜、ヒカルのやつ!」
     あっはは! と腰に手を当て、笑い飛ばす仕草付きで告げられた台詞。仁淀はいよいよ眉を顰めた。
     ――一体、なにを言おうとしているのだろう。
     突き放すようにも聞こえる小ざっぱりとした言い草のわりに、妙に距離が近くてどう捉えるのが正解なのか分からない。そうして仁淀が困惑を深めるなか、ふいに軽やかなままの笑顔がじっと仁淀の目を捉えた。
    「仁淀くんさ、ファンの子に〝存在に感謝〜!〟とかよく言われるっしょ?」
    「え、ええ?」
     今度は唐突すぎる話題転換に、まったくついて行けなかった。ぱちくりと岬を見つめ返すけれど、わくわくと返事を待つ笑みが向けられるのみで。内心若干引きつつも、答えないといつまで経っても瀬戸内のところに辿り着けそうもなく、仁淀はもぞもぞと首をさすりながら「まあ……?」と答えた。
     正確には〝息をしてるだけで偉い〟とか〝生きててくれてありがとう〟とか、そんな限界を極めたような台詞だったけれど。仁淀にとっては不可解でしかないその言葉たちを〝愛〟と称したのは、いつかのアサヒだったろうか。
    「やっぱ 俺もよく言われんだよね〜」
     瞬間、ぱっと顔を明らめた岬がうんうんと大仰に頷く。本当に、なにを言いたいのか理解不能だ。頭上に疑問符を並べながら仁淀が立ち尽くしていると、その肩を岬がバシバシと叩いた。
    「まあだから、そういうことなんで!」
     そう言ったきり、ぐるんと後ろを向いて颯爽とスタジオのなかへと歩き出してしまう。一瞬、呆気に取られた後。「え、えー……」と細い声が遅れて喉から漏れつつ、仁淀は慌てて岬の後を追った。
     夜になってもひと気に溢れた明るい建屋のなか、迷いのない足取りでずんずんと進む岬の後ろを、遅れないように急ぎ足でついて行く。広いロビーから二階へ上がると、楽屋の立ち並ぶ長い廊下に出る。ブラインダーの下りた窓がどこか無機質な印象を与える通路を、歩いて、歩いて。壁にはめ込まれた白いドアのひとつひとつが、古い映画のフィルムみたいに等間隔に視界の端を過ぎ去っていった。
     そうして廊下の角を曲がったところで、ようやく岬が歩みを止める。釣られて視線を上げると、立ち止まったドアの横。部屋のナンバープレートの下に、見知ったグループ名の印刷されたプリントが貼られていた。
     ふっ、と再度岬がこちらを振り向く。
    「――んじゃあ仁淀くん。さっき言った通り、きみは存在しててくれればいいからさ!」
     ドアの向こうに聞こえないくらいの囁き声で悪戯っぽくウインクを投げる仕草は、まさしくアイドルのそれで。そうして最後に「じゃあ頼むわ!」と言って、去り際に仁淀の背中を一度とんっと押した。

     コンコンと扉を叩けば、ほどなくして「――どうぞ、」と聞き慣れた声が聞こえてきた。
     そっと躊躇いがちにドアノブを回す。ドア越しに顔を覗かせると、椅子に腰掛けたままこちらに向けられていた瞳がにわかに丸く見開かれた。
    「……え?」
     些か決まりの悪い心地のなか「あー…あの、」とぎこちない声を零しながら、仁淀は後頭部を掻いた。
    「こんばんは、……瀬戸内くん」
    「…によ、ど……」
     チヒロは……? と続く迷子のような声。どこか幼げに紡がれるその声色に居た堪れなくなって、慌てて先に帰った旨を告げる。しばし呆然としていた瀬戸内は、けれど数度瞬きを繰り返すうち、次第に状況を飲み込めてきたようだった。そうして最後にぱちりと上がった目蓋の奥。ふっと、赤みがかった瞳の温度が変わる。仁淀のよく知る彼の眼差しから、テレビ越しに見る――アイドルのそれに。
    「――ああ、驚いたな。どうしたんだ、こんなところで。今日はここで収録じゃなかっただろう」
     目を細め、口元にはうっすらと綺麗な弧を描いた、淡く発光するような笑みだ。え、と思わず間の抜けた声が漏れる。ふいになにか、冷たいものがすっと背筋を流れていく感覚を覚え、口元が強張った。束の間、歪なしじまが降りる。けれどそれ以上瀬戸内の口から言葉が続く気配はなく、仁淀はどうにかざらついた空気を飲み込みながら、先の質問に答える。
    「ええと、そう…。…瀬戸内くんも、こんな時間まで仕事だったんだね」
     今日も、見かけなかったから…、と続けると、整った眉がピクリと跳ねる。
    「ああうん、――悪かったな。最近忙しくて行けてなくて」
    「いや……」
    「用件はそれだけか?」
     そう言って、首を傾げながら殊更にっこりと微笑まれる。言外に帰れと言われているのが、鈍い仁淀でも分かるほどだった。
    「いやあの」
    「――なんだ、まだなにかあるのか」
     微かに警戒の色が乗った声。拒むような声色に、キュッと喉の奥が締まる。
     こういうのは、苦手だった。ひとに言われるがまま流されるままに生きてきたから、拒まれるとその先どうしたらいいのか分からなくなって、立ち往生してしまうのだ。
     うろうろと視線を彷徨わせ、下ろした腕の先、所在なくてのひらを開いたり閉じたりする。もちろん、ちゃんと用件はあった。けれどそれをここで伝えることが、果たして本当に良いことなのか分からなくなる。
     そう、途方に暮れた瞬間だった。

     ――『仁淀くん! ……伝えたいことがあるなら、早く―』

     ふいにぱちんと耳元へ蘇る、声。いつになく真剣な響きを伴ったそれに、仁淀は弾かれるように視線を上げた。いつも浮かんでいるはずの、己の斜め上を見る。けれど――あると思った姿は、そこにはなく。
     初めは見えるほうが不可解だったはずのそれが、いまではもう、いないことのほうが不自然に見えた。
     それからそろりと戻した視線の先にはいま、瀬戸内がいて。――ああ、そういうことなのかもしれない、と。ひとつの仮説が浮かんだ。
     積み重なってできた自身の〝なくては困るもの〟のなかには、もう、瀬戸内ヒカルの場所があるのだ。
     それが己のどこなのかは、よく分からない――ただ。ここ数日の漠然とした喪失感の正体が、うっすらと見えたような気がした。
     そうして、己がいま取るべき行動も。
     また間違えたらどうしようと、恐ろしく思わないでもなかった。誰かの期待を裏切ることも、拒絶されることも、背負うには荷が重くてたまらないのだ。だけど――その〝また次〟が必ず来る保証だって、等しく無いのなら。
     仁淀はぐっと一度息を詰め、腹の底で渦巻く躊躇いを吹き飛ばすようにえいやと声を張り上げた。

    「――ごめん! 俺と、一緒にペンギンソフトを食べに行ってくれませんか!」

     吐き出し切ってから恐る恐る反応を窺うと、そこには。先程までの張り詰めた空気が呆気なく霧散し、ただポカンとこちらを見つめる瀬戸内の姿があった。
    「…………は?」
     いみが、わからん、と。拒むでもなくただ率直に零れたような台詞に、遅れてハッと気が付く。
    「あっ。――間違えた」
    「ま、間違えた……」
    「あーいや、違っ…。そうなんだけど違くて…、えーと、」
     すかさず訂正しようとして、余計にまごついてしまう。一向に上手く言葉にできない仁淀の様子に、呆気に取られていた瀬戸内のほうが先に冷静になったらしい。やがて、はーっと大仰な溜息がひとつだけ落ちた。
    「――分かった、一旦落ち着け。……話は、ちゃんと聞くから」
     そうして向けられた、いつかのように揺らぐあたたかな色に――やはりいつかと同じく、肩にのし掛かっていた重みが魔法みたいにすっと下りた。
     勧められた椅子に腰掛けると、自覚していなかった全身の強張りがほどけ、もう一度立ち上がるのが億劫なほどに一瞬で疲弊した。一気にぐったりしだした仁淀に、瀬戸内が不審な目を向けながらもお茶を差し出してくる。備え付けのテーブルポットから注がれただけのそれを受け取って、ひとまず喉に流し込めば幾分か気力を持ち直し、仁淀は「あの……、」と切り出した。
    「こないだの特番、見たよ」
    「え?」
    「クイズ番組のやつ…。あれ、収録したときだったんでしょ。その…チケットもらったの」
    「……ああ、」
     動物をテーマにしたクイズ形式の特集だった。アサヒが目ざとく番組表から見つけ出し、半ば強制的にチャンネルを変えさせられたちょうどそのときだ。
     画面いっぱいに映ったのは、ペンギンの形を模した水色のアイスクリーム。その右上の小さなワイプ画面のなかで、嬉しそうに喋る瀬戸内の姿が目に入ったのだ。
     ペンギンが好きだから、気になる、ぜひ食べてみたいのだと言って、笑っていたから。だから、ただ自然とそう思っただけ。
    「それ見て、瀬戸内くんに食べさせてあげたいって」



    【終章】

     チヒロを待っていたら代わりに仁淀が現れただけで驚愕したのに、その仁淀の口からまろび出た台詞に更に驚いた。咄嗟に貼り付け慣れた笑みを返した己に、珍しく食い下がっただけでなく――向けられたまっすぐな瞳に言葉を失ってしまったのだ。
     どう反応するのが正解なのか分からなかった。〝瀬戸内ヒカル〟の正しい距離感を思い出そうとするけれど、考えれば考えるほど、初めから間違ってばかりいた気がして。
     ――ちゃんと正しい場所に戻れるまで、顔を合わせないようにしていたのに。
     明確に境界線の見える――ステージと観客席でしか会わなければいい、ただそれだけのことだと。線を越えようとさえしなければ大丈夫だからと、あれから己に言い聞かせてきたのだ。だから――これは、困る。
    「……なに、言ってるんだ」
     口角が引きつってしまわないか、心配だった。じっと見つめてくる視線に思わず目を逸らしながら、瀬戸内は口早に告げた。
    「吉野くんと行くって言っていただろう」
    「……それは、」
    「いいじゃないか、ふたりで行ってくれば。お前もようやくユニット愛アピールというものが分かってきたようで安心したぞ」
     SNS更新、楽しみにしているから、と。淀みなく一息で言い切って、小さく唾を飲み込む。
     そろりと再び視線を戻せば、そこには――それでも変わらず注がれる、ただひたすらに真摯な眼差しがあった。静かにこちらを見つめたまま、仁淀がおもむろに口を開く。
    「――ごめん。俺、気付いてなくて」
     ぎくりと肩が跳ねた。
     ――なにに、気付いた?
     そう問いただしてしまいたい気持ちと、それに相反する感情が衝突するように身体のなかで荒れ狂う。先程よりも喉が渇きを主張して、瀬戸内は再び固唾を呑んだ。気付かれていないといい、と。ただそれだけを思った。
     己の、こんな身勝手な想いには、どうか気付かないでいてほしかった。
     あの夜。吉野と行く、と告げられて自分のなかに巣食った想い。それは言うなれば――〝裏切られた〟という感情に近いもので。期待してしまっていたのだ。仁淀がこの手を取ってくれるんじゃないか、なんて。

     アイドルとか、ファンとか、抜きにして。仁淀の特別になれるんじゃないかって。

     〝瀬戸内ヒカル〟はどうしようもないほどにアイドルで、仁淀ユウヤのファンだというのに。
     勝手にそんな馬鹿なことを期待して、勝手に傷付いている己の浅はかさを、突き付けられたのだ。
     だからこそ――ちゃんと戻れるうちに距離を適正化したかった。
     言い淀む仁淀の声に、全神経が持っていかれるような。それ以外の音が霞むように世界から消え、血の巡りだけが鼓膜を震わす空間は、まるで色のない湖の底だった。熱を失った指先をぎゅう、と握り込む。上手くこの場を凌げる言葉が、ひとつも出てこなかった。
     やがて、暗い湖面を震わすようにぽつりと落ちた言葉は、
    「瀬戸内くんに、喜んでほしかっただけなんだ」
    「――……え?」
     予想外の台詞に知らず声が漏れる。
    「あのときは、瀬戸内くんが……俺のファンっていうから、ああ答えたら喜んでくれるかなって。そう思って」
    「なにを言って……」
     先程から、一向に仁淀の言葉が理解できなかった。ざわざわと、焦燥感にも似た塊が胸を渦巻く。そんな居心地の悪さにせっつかれながら訊き返そうとして、眼前の存外真剣な表情に口を噤む。
     テーブルの上に落ちた淡いしじま。ともすれば停滞してしまいそうになる思考を、瀬戸内はなんとか必死に動かそうとする。
     ずっと――今日まで、極力思い出さないようにしていたあの夜のことを思い返す。どんよりと靄のかかった記憶のなか。指先を差し込んで、ぐちゃぐちゃに絡まった糸を恐る恐るほどいていく。そうしてようやっと思い至るのは――あの日の、チケットを渡す少し前の己の発言だった。
    『ファンが、ステージ上のアイドルを見て〝ここが良かった〟〝もっとこうしてほしい〟と考えるのは、当たり前のことだろう』
     確か、そんなことを言った。

     ――『瀬戸内くんが……、喜んでくれるかなって』……

     ぱちんっ、とふいに耳元で弾けるような音がした。それは真っ白な照明が急に点灯した感覚にも近く、一瞬目が眩む。は、と瀬戸内は息を呑んだ。それから数度ゆっくりと瞬きをすれば、今度は思考を覆う靄が急速に晴れていくのを感じる。
     ――……まさか。ほんとうに?
     自分が喜ぶと思ったから――それだけの理由で?
     呆然と仁淀を見やる。すっかり黙り込んでしまった瀬戸内に、目の前の男はどこかそわそわとした様子を見せる。それはいつかの――己に怒られると思い込んでいる顔によく似ていて。ずっと強張ったまま予防線を張っていたこころの端が、ほろりとほどけるような心地がした。
     暗い琥珀色の、これまで何度も眺めてきた瞳。ちかちかと、安っぽい白色灯の下でもそれは変わらず、鮮やかに瞬いていた。
     その双眸を見つめるほどに、ほどけた端からじわじわと満ちる想いがあった。この色を見飽きることなど――どうせこの先一生無い。一種の諦念にも似た決心のようなものが、にわかに腹の底へすとんと落ちるのだ。瀬戸内は意を決して沈黙を破った。
    「……それで、なんで今度は俺となんだ」
    「…吉野くんが…。きっと瀬戸内くんは、俺を誘ってくれたんだろうって言ってて」
     据わりの悪そうな表情で、視線を彷徨わせながら仁淀が答える。
     ――そうだよ、バカ。
     内心そう返事をした。頬の内側にぐっと力を籠める。そうしていないと、なにかが溢れてしまいそうで。目頭がほんのりと熱を持つのには、目を眇めて気付かないふり。それ以上熱が広がってしまわないように、脳内で文句を並べる。
     ――ひとにはっきり言われないと理解しないくせに、珍しく気を回したりなんかするから。
     ――こっちの気も知らないくせに、分かったように勝手に決めつけるから。
     ――そんなだから――……俺のためだなんて、これっぽっちも気付けなかった。
     一通りこころの内でそう責め立てると、幾分か胸が軽くなる。ゆるゆると肩から力が抜けていって、ふーっと長い溜息を吐く。そうして息を吐き切った先。澄んだ内側に残るたったひとつの感情を、瀬戸内は唇の端にそっと乗せた。
    「お前はほんとうに、なにを考えているのかよく分からないやつだよな」
     己の言葉にのろりと視線を上げた仁淀が、虚を衝かれたようにひとつ瞬きをした。
     ――…結局。
     どうあっても自分は、最初から――ファンを相手にするには純粋すぎるこの男に、手を差し伸べてあげたくて仕方がないらしいのだ。
    「……うん。俺も、よく分かんない…」
     そんな漠然とした返事に、なんだそれ、と小さく笑みを零す。眼前の男があからさまにほっとしたような顔をするのが、どこか可笑しかった。それから仁淀は少し逡巡する様子を見せ、再びそろそろと言葉を紡ぐ。
    「俺もよく分からない、から…瀬戸内くんに、教えてほしい」
    「――は、」
     思わず漏れた怪訝な声色に、仁淀が慌てたように付け加える。
    「自分だけじゃ、自分のことは分からないって。言ったのは瀬戸内くんだろ」
    「そりゃあ、言ったが……」
    「だから俺と、その……話して。俺の気持ちに名前をつけてほしい」

     瞬間、胸によぎった感情をなんと表せばいいのか。
     ぶわり、と。大袈裟なまでにこころが震えた。ずるい、と思わずにはいられなかった。そんなふうに言われて、断れるはずがないのに。こんなふうに――言葉ひとつ、覚えていてくれただけで。
     テーブルの下、ぎゅうと指先を握り込む。じんじんと痺れるような鼓動の音がてのひらのなかで響いた。せめて、分かった、と答えた声に滲む特別な色が、伝わってしまわなければいいと思った。


    ***

     某日、都内、晴れ。
     髪を結いマスクをつけた出立ちで相手を待つ。あの仁淀がこんな快晴のなか本当に来るのだろうかと疑わしかったが、約束の時間に十五分ほど遅れて待ち人はやって来た。
    「おはよう、瀬戸内くん」
    「堂々と遅れるなよ、お前…」
     とりあえず小言を言うけれど、こいつに言っても暖簾に腕押しかと諦める。呆れた瀬戸内の様子も意に介さず、仁淀はいつも通りの気怠げな表情で切り出した。
    「それで、どこで売ってるの? 例のアレは」
    「なんだその怪しげなブツみたいな言い方は それと…、一応はお前が一緒に行こうって言ってきたんだからな」
     あまりにも他人任せな発言に、諦めた早々にまた突っ込んでしまった。そして言い放ってしまってから、己の発言に遅れてじわじわと恥ずかしくなる。瀬戸内はひとつ咳払いをしてから続けた。
    「普通に…、順路通りに行けばいいだろう。遊園地じゃあるまいし」
    「……そっか」
     途端、仁淀がわずかに顔を曇らせる。咄嗟に、冷たく言い過ぎたかもしれない、と思った。けれど、瀬戸内が再び口を開こうとしたときには、すでに翳りの色はさっぱり消え失せていて。かける言葉を考えあぐねていると、仁淀が短く「あ、そうだ、」と呟いた。
    「ついでに本物のペンギンも一緒に見に行こう」
    「ついで、って…。見るのは構わないが…」
     少しばかり肩透かしを食らったような気分になりながらも取り急ぎ答える。仁淀が隣にいる時点で、なにを見たって大して集中できそうもない、とは思っても言わずに。瀬戸内が肩を竦めれば、仁淀はなにを思ったか、うんとひとつ頷いて。
    「瀬戸内くん、好きなんだもんね?」
    「――ぇあ、っ……」
     真正面からの不意打ちに、思いきり動揺してしまった。ちょうどこころを見透かしたかのようなタイミングで投げ込まれたものだから、上手く言葉が紡げなくなる。そうして瀬戸内がただ口をぱくぱくさせていると、仁淀が不思議そうに首を傾げた。
    「あれ、違った…? ペンギン、好きなんじゃないの?」
    「ペン……っいや、……す、…き、だが」
     まさか、序盤からこんなに精神を削らされるとは思っていなかった。
     声を詰まらせつつなんとか返事をしながら――これ、俺、今日一日保つんだろうか…と。己の心情など露知らず、青々と晴れ渡る空の下。瀬戸内は今更ながらに不安を抱いたのだった。

     目当てのカフェは、ペンギンの展示コーナーの横に併設されていた。
     場所に違わずペンギンをイメージしたメニューが売りのそのカフェで、一休みすることになった。水族館のなかに設置された奥まったテーブルは、館内の青みがかった仄かな明かりに照らされるのみで、ここなら席でマスクを外しても身バレすることはなさそうだと胸を撫で下ろす。
     ひとまずカウンターに並んで、注文したのは二人分のコーヒー。それから例のアレ――もとい、ペンギンを模した形の水色のアイスクリームだ。それを目当てに来たとはいえ、なかなかに可愛らしい見た目に瀬戸内が注文するのを躊躇っていたら、肩越しに「あと、このアイスクリームもふたつ」と平坦な声が飛んできたので驚いてしまった。
     注文を終え、席に向かう間。先を歩く仁淀にまじまじと視線を向けていると、それに気付いた仁淀がこちらを振り返って言った。
    「あれでしょ? 食べたかったやつ。早く注文すればいいのに」
     呆れ調子の柔らかい声が鼓膜を撫ぜる。
     今日の仁淀は、やはりなにかおかしい気がする。いつもよりどこか――優先されている、ような。滲み出る優しげな雰囲気に調子が狂いっぱなしだった。鼓動が淡く跳ね、じわじわと耳に上る熱を紛らすように、瀬戸内はふるりと小さく首を振った。
     そうしてなにも言い返せずにいると、仁淀のほうも次第に気まずくなったらしい。最後に「俺が止めても聞かずに注文しちゃう誰かさんとは、大違いだな……」と、言い訳のように独りごちる仁淀の声を聞きながら――果たして吉野くんがそんなことをするだろうかと、わずかに残る脳の冷静な部分でふと思った。
     ほどなくして、受け取ったナンバーカードと引き換えに注文したメニューが運ばれてくる。カラフルなカップに入ったアイスクリームは、ペンギンがこちらを見上げているような造形だ。実物を目の前にしたからか、思っていた以上に愛くるしく見える。思わず目を奪われていると――ふいに。そっと息を吐くみたいな控えめな笑い声が聞こえてきて、瀬戸内は弾かれるように顔を上げた。
    「な、なんだよ」
    「なんでもないよ」
    「………。」
     むぅ、と不服を露わに唇を尖らせてみるものの、眼前の男は涼しげな表情を浮かべるのみで。さっさとコーヒーに口を付ける仁淀に続いて、瀬戸内も仕方なくカップを手に取った。細く溜息を吐く。揺れるコーヒーの液面から、ゆらりと白い湯気が立ちのぼった。ひとくち飲み込めば、鳩尾のあたりがあたたまって心持ちホッとする。無意識にずっと、気を張っていたらしかった。
     そうして、ほぅ、と息を吐いて二口目を啜った直後のことだ。向かい側から妙な圧が漂ってきていることにふと気付いて、瀬戸内は思わず咳き込みそうになった。対面を見れば、仁淀がじっとこちらを――正しくは、瀬戸内の前に置かれたアイスを――見つめているのだ。
     いつもなにを考えているのか皆目見当がつかないけれど、こればかりは、目は口ほどにものを言うというやつだった。間違いなく〝早く食べろ〟という意図であろう視線に気圧され、瀬戸内はそろそろと可愛らしい見目のそれにスプーンを近づけていく。なるべく崩さないように端のほうから少しずつ、スプーンを差し入れて削った分を口に運ぶ。
     初めに、キンとした冷たさ。それから舌の上でほどけるように、ラムネの爽やかな甘さが広がっていく。口内でほろりと溶ける柔らかい食感に、釣られてほわほわと頬が緩んでしまう。けれどチラリと向かいを確認すれば、次はどこか満足そうに頷いてみせる仁淀の表情が目に入って、冷えたばかりの喉元の熱が簡単にぶり返すのだからたまらなかった。
     ――どうしろっていうんだ……!
     これでは心臓がいくつあっても足りない。内心猛烈に抗議をしながらスプーンを握り締めて、外面だけはなにも気にしていないふうを装ってぱくぱくとアイスを口に放り込んでいく。
     かくしてようやく、瀬戸内があらかた食べ終えた頃。元凶たる張本人が口火を切った。
    「――あのさ。ずっと、瀬戸内くんのことを考えてたんだけど」
     そんなとんでもない口上から始まった突然の会話に今度こそ、瀬戸内は勢いよく咽せてしまったのだ。
    「は、はあ……っ」
     されど仁淀はこちらの動揺などそっちのけで―というよりも、自身の主張を通すほうに意識が傾いているようで―コーヒーカップに添えた指先に視線を落としながらとつとつと話し始めた。
    「前に由良ちゃんと、友達の線引きについて揉めてさ」
     思いがけない名前に、一瞬誰のことかと思った。
     由良、というのは、仁淀と同じ事務所に移籍したI'mの元メンバー、由良チカゲのことか。ようやっとそう思い至ってもなお、なぜここで由良の名前が出てくるのか理解できなかった。
     ――というより、一体普段どういう会話をしているんだ…。
     眉を顰めながらも、瀬戸内はひとまずじっと続きを待つ。これまでの経験上、最後まで聞かなければ本当に言いたいことが見えてこないのが、仁淀という男だった。
    「多分…、当たり前になりすぎると、友達とか、好きとか嫌いとか、分からなくなるんだと思う。俺にとっての吉野くんや……、事務所のひとたちみたいに。ただいることが当然になるだけ」
     その言い分には、瀬戸内も覚えがあった。自分にとっても、Cgrassのメンバーがそうであるように。
    「でも…。瀬戸内くんは、俺の当たり前じゃあないのに」
     一度言葉を切って、そろりと仁淀の視線がこちらへ向けられる。仄暗い、青いライトに照らされて、アンバーの双眸がちりちりと揺らめく。そこに孕む、まるでろうそくの炎のような淡い熱から目が逸らせなかった。
    「――いないと、変なんだ」
    「……そ、れは…」
    「当たり前じゃないひとは、いなくなっても仕方がないって分かってるのに。瀬戸内くんは…、そうじゃない」
     ――それは、どういう……。
     尋ねたかった言葉は、喉が震えて音にならなかった。一瞬で輪郭が曖昧になった言葉の正体を、掴めないまま。正面から放たれる瞳の熱に当てられて、それは青い空気に溶け込んで消えていく。呆然と黙り込む瀬戸内に、仁淀はしばし迷うそぶりを見せたのち、そっと懺悔をするように吐露した。
    「握手、ちゃんとしに来てほしい。たまには、怒ってもいいから……瀬戸内くんがいないのは、いやなんだ」

     束の間、心臓が止まった。
     続いて鼓動の音が、後ろから追いかけてくる。どっ、と急激に全身の体温が上がって、しまいには、身体が宙に浮き上がってしまいそうな奇妙な浮遊感が身を満たした。
     まるで、海のなかに放り込まれたみたいだった。息もできないくらいに心臓が早鐘を打つ。大きく見開いた目蓋を、ぱち、ぱちと機械的に上下する。眼前の光景が、それで変わることはなかったけれど。薄暗がりの下、ただ自分だけに注がれる焦がれるような眼差しは、波打つ海面を隔てたように現実味がなかった。
     都合の良い解釈だと、己を笑ってやりたいのに。他にどう解釈したら良いのかも、分からなくて。
    「――ねえ、これって、なんでなのかな?」
     そう言って、とどめに「瀬戸内くん、分かる?」と首を傾げられてはもう、どうしようもなかった。

     ――分かるか、だって?
     ――そんなの……だって。
     だって、その言葉は。いないといやだなんて、特等席に座らせておいて真綿で縛るようなそれは。
     どう考えたって――執着心の塊だ。
     遅れて、かあっと顔に血液が集まる。頬だけでなく額も首も、熱くないところなどもはやひとつもなく。耳の奥でどくどくと鼓動が響いて、このまま溺れてしまうのではないかと思った。
     言葉がひとつも音になりそうにない。返事をしなければと確かに思うのに、それを圧倒するかのように、様々な記憶が脳内に溢れかえるのだ。
     それはふわふわと柔らかく、幻みたいにときめいて。鉛のように重たく、じくじくと痛い。そういう、幾つもの夜の記憶が。
     その内のひとつ。あの日の――何者かになりたいと願った自分に、教えてやりたかった。
     ――ああ、こんなに、と。青い光のなか。駆け巡るすべての夜を噛み締めるように、瀬戸内はぎゅっと唇を引き結ぶ。

     特別になりたいと焦がれたひとに、特別なのだと告げられることが、こんなに苦しいことだなんて知らなかった。
     こんなにも――幸せなことだなんて。

     痛いほどの幸福感がなみなみと身体中を満たす。それはすぐにでも心臓を破って溢れ出てしまいそうで――気付けば両目から、ぼたぼたと涙が零れ落ちていた。
    「――ぅえっ どっ…、どうしたの、急に」
     仁淀の仰天する声が、どこか遠くに聞こえるなか。――この感覚も、多分二度目だ、と。頭のほんの片隅でふと、いつかの光景が重なった気がした。
     薄暗い館内でも、それは一等眩しく。やっぱり、どうしたってこの光を手放すことなどできそうにないのだ。
     視界に映る、「俺、またなにかまずいこと言った…」とらしくもなく狼狽する姿が、水の膜に滲んでちかちかと明滅した。


    ***

     向かいの席で突然泣き出した瀬戸内に、仁淀は大いに動揺した。
     どうしたのかと何度尋ねても、俯いて首を振るばかりで要領を得ない。仕方なくしばらく黙って様子を見守っていると、少しずつではあるが落ち着いてきたらしい。眼鏡をずらし、ゴシゴシと目を擦る瀬戸内は、ついには借りてきた猫のように大人しくなった。
     どこか痛ましさすらあるその様相に、仁淀はしおしおと肺が萎んでいくような心地を覚えた。ちゃんと話をしなければと、焦りにも似た前のめりな感情にずっと突き動かされてきた。けれど、半ば強行して己の都合を優先させた結果、まさか泣かせてしまうことになるとは思ってもみなかったのだ。
    「えぇと…その、なんか…ごめん。俺が変なこと言ったから…だよね……?」
     テーブルの上に萎びた視線を落とす。手付かずのまますっかり溶けかけた仁淀の分のペンギンまでもが、どこか侘しげな表情を浮かべているように見えた。
     物悲しさが加速するなか「ごめん、忘れて…、」と。もごもごと口籠もりながらもそう伝えると、眼前の男は突然がばりと勢いよく顔を上げ、わずかに血色を増した瞳でこちらを睨み付けてくる。涙の跡が色濃く残るわりに迫力のある視線に、思わずギョッと椅子から身体が浮き上がった。
    「こ、今度はなに…」
    「忘れるわけ、ないだろっ!」
     気色ばんだ様子で告げられた噛み付くような台詞に、仁淀はいよいよ戸惑いを深めた。
    「ご…、ごめんって……」
     正直、なにがそこまで瀬戸内の逆鱗に触れたのかは、ピンと来ていなかった。けれどどうやら、無かったことにはしてもらえないほどに怒っているらしいことだけは分かる。こうなってはもう平謝りするしか手段がなく、兎にも角にも再び許しを乞うと、睨め付けるような目つきのままで瀬戸内がおもむろに口を開いた。
    「――許すものか。この……バカ、バカ、バカ」
     そうしてひとしきり〝バカ〟を連呼した男は、最後にハアーッと特大の溜息を吐きながら俯いた――かと思えば、次に顔を上げた瞬間には、やけにすっきりとした表情を浮かべていた。
    「……え、」
     そのとき仁淀の胸中によぎったのは安堵なんかではなく――むしろいやな予感が胸を占めた。瀬戸内がこうして妙に冷静な態度を取るシチュエーションに、いい思い出がまったく無いのだ。
     ――また……、
     また、これ以上突き放されるのは本当に無理だ、と咄嗟に思った。ざぁっと顔を強張らせる。どうしよう、と仁淀がおろおろと狼狽えていると、その様子をじぃっと観察していた瀬戸内がふいに――小さく声を出して笑った。
     初めは、呆れたような苦笑から。それからじわじわと綻ぶみたいに頬を緩ませて、しまいには、あははっと声を上げて笑う。そこに浮かぶ無邪気なまでの満面の笑みに、狐にでもつままれたような気分になる。
     今度こそ仁淀は目を白黒させ、頭上に溢れんばかりの疑問符を並べた。
    「え…、ええー…。本当に意味が分からないんだけど…、どういうことなのか教えていただけませんかね……?」
     無論、泣かれるよりは遙かにマシだけれど――突然怒ったかと思えば今度は笑い出して、理解が追いつかなかった。情緒がジェットコースターにも程がある。訳が分からずおずおずとそう尋ねると、瀬戸内はなおも可笑しそうに肩を揺らしながら、ただ一言。
    「――いやだ」
     やっぱり俺からは、教えてやらないことにした、と。泣いた余韻だろうか――目蓋のきわがそっと潤み、その内に収まる瞳をきらきらと蕩かせながら、悪戯っぽい笑みできっぱりと言い放つものだから。
     ――あ、あれ……?
     ふいに、目の隅でふっくらと白い光が弾けるような不思議な感覚があった。
     ステージ上で彼が見せる完璧な微笑みを知っている。それから、舞台を降りた後の多彩な表情に存外こころが安らぐことも。けれどいま目の前にあるそれは、これまでともに過ごしたなかで初めて見る――ただ眩しいだけでも、心地良いだけでもない――どこか心臓が浮き上がるような笑顔で。落ち着かないのに、目が離せない。思わず食い入るように見つめる仁淀に、瀬戸内は一層晴れやかな表情でこう告げたのだった。
    「せいぜい早く気付いてくれ。それまでは…、そうだな――」

     ふたりで一緒に、話でもしようか。


                     『暗がりとめぐる世界』/了
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