指を折るあと、よっか。
西陽が強く差し込む自室の中、幸夫は解けたもちのようにぺちゃりと畳に仰向けになって、壁にかかったカレンダーの日付を目で追っていた。
今日は8月28日、いち、に、さん、あと四日。四日で学校が始まる。
一年前の夏はこれ幸いとばかりに毎日あちこちの劇場へ出かけ、世話になっている劇団の稽古に参加し、その合間にバイトを入れて、とひたすら夏休みの恩恵にあやかっていた。それはもう夏休みの宿題なんてすっかり忘れるほどに。
今年だって劇場に足を運んで、劇団に顔を出さなくなった代わりに図書館に足を運んで戯曲を読み、ありとあらゆるジャンルの物語を読んで、そしてまた合間にバイトを入れる。充分すぎる程に夏休みの特権にあやかっていた。
演劇がそこにあれば幸せで楽しくて、没頭するだけならばそれでいい。だけど、なんだかどうしようもなく
「さみしい」
思わず口から漏れていた。さみしい、そうさみしいのだ。
舞台を見た後は満ち足りた気持ちになる。戯曲を読み込んでいれば時間を忘れて没頭できる。いつか自分の劇団を立ち上げる日のためだと思えばバイトだって、楽しかった。
「さみしい」もう一度口から発する。さっきより少し意識的に。
お前が引っ張るから仕方なく着いてきてやった、という表情が客電がついた途端、高揚をありありと浮かべた表情に変わるその瞬間が見たい。お互いの肩同士がくっつくくらいに隣り合って一冊の戯曲を取り合うみたいに読みたい。バイトをするくらいなら二人でたくさん稽古がしたい。
どれだけ見つめても早く進まないカレンダーの日付がもどかしくて、逃げるようにごろりと寝返りを打ち、やはりぺちゃりとうつ伏せになって目を伏せる。「平日の放課後のみ、という家の約束があるから夏休みの間は登校日以外は部活動に出られない」と告げられた言葉に「わかった、おうちの人との約束は大事だから!」なんて返した夏休み前最後の部活の日がはるか遠い昔のようだった。
たった一ヶ月と少し。あっという間に過ぎ去ると思っていた。なのにこんなにも寂しくなるなんて、俺はレニに俺を変えられちゃったのかもしれない。
もう一度ころりと仰向けになって、またうつ伏せに転がって。お煎餅みたいに一回ひっくり返るごとに一日過ぎればいいのに。
気が付けばつい先ほどまで強く差し込んでいた西陽がすっかり落ちて、部屋の中はすっかり暗くなっていた。電気を点けにいくのも億劫でこのまま寝てしまおうと目を閉じた瞬間、それを遮るように電話が鳴った。
慌てて起き上がった暗い部屋の中で一度転びかけ、電話の元へと向かう廊下で再び転びかける。
ようやく受話器を取る頃には息が上がりきっていて、それを落ち着けるために大きく深呼吸してから口を開く。
もしもし? と口にした声は自分で思っていたよりもずっと低く響いた。
『もしもし、立花さんのお宅ですか。夜分遅くに申し訳ありません。僕は、』
耳元に飛び込んできたその声に幸夫は思わず手にした受話器を落としかけた。うたた寝している間に見た夢だろうか。それともついに寂しさが過ぎて幻聴でも聞こえ始めたのか。どちらにせよ、あまりよろしくない兆候だ。
だけど、これは現実に違いない。だって、今まさに耳に届いているこの声を聞き間違えることなどありえない。
戸惑い固まる幸夫をよそに、電話の向こうの相手は言葉を続ける。
『幸夫くんと同じクラスの神木坂麗仁と申します。幸夫くんは今ご在宅でしょうか。』
えっと、と戸惑うような声を上げたきり何も言わずにいると、向こうもそこでようやく電話口の相手が幸夫本人であると気が付いたらしい。
先ほどまでの畏まった声が途端に呆れたようなほんの少し、砕けた声色に変わる。
『なんだ、立花か』
「ええ、えっと、レニ? カミキザカレイジさんは、レニ?」
『は?』
幸夫が発した怪しげな日本語に対し、困惑を乗せて一言返すレニの声を聞いて、やっぱり間違いないと確信する。
ああ、本当に本物のレニだ! 嬉しくなって思わず頬が緩む。そのまま勢いに任せて口を開こうとした瞬間、レニの言葉によって遮られる。
『あまり時間がないから手短に言う』
それは確かにいつも通りで、だけどどこかぶっきらぼうな言い方。まるで照れ隠しみたいな。
そんなことを思いながら、幸夫は続く言葉を待った。
受話器越しにレニが小さく咳払いをする音が聞こえる。
そして、彼は言った。
つまるところ、『明日は家の者が所用で出かけて誰もいない。日中の限られた時間ならば上手く言って出られそうだ。だから、天鵞絨町へ行こうと思うがお前はどうだ。』ということだった。
その誘い文句に思わず幸夫の口から笑い声が漏れた。だって、なんだかあまりにもレニらしい。
「デートのお誘いなんて嬉しいなあ」
『……行かないんだな』
「行くから!絶対!」
やや不機嫌そうなレニの口調に幸夫は勢いよく返事をする。今度はレニの小さな笑い声が受話器から聞こえた。
『じゃあ、明日。昼過ぎ、13時に駅でいいか』
「うん、それで。じゃあ、明日」
そうして、あっさりと通話を終えた後、幸夫はしばらくぼんやりと受話器を見つめていた。今すぐ天鵞絨町まで走って行きたい。
気持ちをぐっと堪え、代わりに小走りで自室へと戻った。
そしてさっきまでなんとなく恨めしく眺めていたカレンダーに向かい合い、そこに記された8月29日を指先でなぞって、小さく呟いた。
「あと、一日」