七草日誌 十六歳の春。生まれて初めて自分の姓を呪った。
高校二年に進学した春の日、ある男が黒板に貼られた座席表をぼんやりと眺めていた。
男の名はオカダ、といった。
オカダは平々凡々とした見た目と同様、なんの面白みもない己の姓にさしたる思い入れを持たず生きている。しかしクラス替えのこの時期となれば話は別である。
なんせ、“お”は五十音順に並んだ時に後ろの席が割り当てられやすい。
オカダは端から順に追って己の名が記された席を探す。今年はどうやら後ろから二番めの席のようだ。一番後ろではなかったことにほんのりと落胆しつつ、それなりに過ごしやすい席であることに安堵する。
早々に席に着き、机の中を整頓しているオカダの横を晴れてクラスメイトとなったひとりの同級生が通り過ぎる。春の麗らかな陽気にそぐわぬ空気を纏うその男はオカダの真後ろで足を止め、音を立てずに席に着いた。
今、オカダの背後の席にいるのは学年の中でもいっとう目立ち、そして誰よりも周囲から浮いている男だった。
どこぞの伝統芸能の家生まれの坊ちゃんだとか、御曹司だとかなんとか。そういった噂が学年中、学校中で囁かれている男。
——神木坂麗仁。
その噂に違わぬ風貌と、他者を一切寄せ付ける気のない冷徹で高潔で無愛想な在り方。何もかもがオカダとは別の要素で構成されているような人間だった。
ここはどうすべきか。オカダは逡巡する。
あえて気さくに話しかけてみるべきではないだろうか。現に前の席の彼はこちらが席に着くなり「俺、エノモト、よろしくな」などと話しかけてくれた。そうだ、挨拶、挨拶というのは何より大切なことである。
オカダは意を決し、あくまでなんでもない風に、掲示物が気になるのだといった体を装いながら背後の様子をチラリと窺い見る。
渦中の人物はどうやら机の中を整理しているようだ。よし、これはまだだ。このタイミングではない。
背後の一挙一動を空気で感じながらオカダはただただじっと座る。じっとりとした緊張感だけがオカダを包み込み、手のひらがじわじわとして湿り気を帯びていった。
そんなときふと、今朝方家を出ようかという頃合いに母親から呼びかけられた言葉を思い出す。
「新学期なんだから制服にブラシくらいかけていきな!」
確かにそう言っていた。そしてオカダはそれに生返事をしたまま登校した。今に至る。
ブラシをかけるどころか己の背中がどうなっているか、それが果たして後ろの席の彼にどう写っているか。気になったところで時すでに遅し。
背中にゴミが付いてないことだけを祈りながら一点を見つめるほか、今のオカダにできることはなかった。
おおよそ、神木坂という人間の目は一介の同級生のことなど映さない。仮に、その冷ややかな双眸にオカダの背中とそこにあるゴミのことが入ることがあったとしても、わざわざそれを当人に指摘するタイプでもないだろう。
万が一「ゴミ」とでも一言指摘されるようなことがあれば、瞬く間にこのちっぽけな自尊心と共に身が砕け、本当の意味で塵芥になってしまう。そんな予感にオカダは小さく身震いをした。
もう挨拶はやめにしようか、そうだ。その方がいい。ただ、この空間に身じろぎひとつできず座っているのは辛い。
エノモトくんよ、クラスメイトの誰かしらよ。俺にも話しかけてはくれないだろうか。
「なぁ、」
突如、背後から聞こえた声にいよいよ塵芥になる日が来たのかとオカダはびくりと肩を震わせた。が、その声は「神木坂。」と続く。
——なるほど、この声は神木坂に用があった者の声らしい。 ……神木坂に⁉︎
オカダの先ほどまでの緊張が驚嘆一色に塗り替えられていく。
背後の何者かはその驚嘆をさらに上回る言葉を口にした。
「麗仁って本名?」
何者かの第一声に肩を震わせてからここまで、時間にしてほんの数秒の出来事。そのほんの数秒、オカダはとんでもない絶叫マシンにでも乗せられているような心地だった。
上がり下がりぶん回されているオカダの心境と、無視を決め込んだらしい神木坂を他所に背後の何者かは言葉を続ける。
「レニ、って呼んでいい?」
オカダは己の耳を疑った。聞き間違えか。聞き間違えだろう。なあそう言ってくれ。
れに、とかいう間の抜けたような響き。
呼んでいい? だめだろう。
いや自分は書きやすく読みやすいオカダであり、神木坂麗仁当人ではない。とやかくいう権利は勿論ない。
が、だめだろう、それは!
ここがギャグ漫画の世界であれば立ち上がって二人にツッコミでも入れていたかもしれない。
しかし、ここは現実。オカダは背後の声を聞きながら、ただただそこに座るしかできない。
とんでもないクラスの、とんでもない席になってしまった己の姓を呪い、今後背後の二人の何事にも巻き込まれることのないよう祈った。
***
あの春の日から何年もの時が過ぎた。
オカダは高校時代のことを逐一思い出すような年齢をとうに越えた。
“高校“と聞いて、真っ先に思い浮かべるのは己のことより、現在高校二年になった娘のことである。
反抗期ゆえか会話も少なくなって久しいが男親とはこんなものだろう。
そんなある日、娘の方から声をかけられた。
観たい舞台の配信があるのだと、最近ハマってるというテンマ君が出るとか、テレビでしっかり見たくて、あとお小遣い前借りしたいなー。という調子だった。
「へえ、お前が珍しいな。他には誰か出るのか?」
「あとは、MANKAIカンパニーの劇団員と、お父さんの知ってそうなのだと俳優の日向紘とか!」
そういえば日向紘ってお父さんと同い年なのにぜんっぜん違うよね、と続けながら娘はなにやらスマートフォンを操作し、その画面を見せつけてくる。
その画面いっぱいに公演チラシが表示されていた。日向紘を始めとした華やかで重厚感ある役者たち、の中のひとりに目を奪われる。
艶やかな髪。怜悧な眼差し。冷徹で高潔で無愛想なその存在。
娘に一言断りを入れ、スマートフォンの画面をすい、と指で辿る。出演者の中に見つけた名に、あの春の日、背後から聞こえた声が蘇る。
なんでいまだに名乗ってんだよ。高校時代は確かにずっとそのあだ名で呼ばれてたけれど。
突然、スマートフォンの画面を食い入るかのように見始めたかと思えば、唐突に笑い出した父親の様子に、娘はなにごとかと怪訝な目を向ける。
「ああ、ごめん。ちょっと懐かしくなって。……、もし嫌じゃなかったら、お父さんもその舞台、一緒に見ていいか?」