式日 カップ酒の封を切る音が夜空に溶ける。男は開けたばかりのそれを左手に、右手で煙草を一本取り出し、口にくわえた。
目に止まった車止めへと腰を預けながら、身に纏った衣服を叩き目当てのものを探る。細身のボトムのあちこちを経由し、最後は気怠く羽織ったシャツの胸ポケットへ。そうしてようやく指先に目当ての固い感触が触れた。
蛍光ピンクの地に白抜き文字が躍るライターは、取り出す度に仲間内、特に幼馴染からは「悪趣味だ」と揶揄される代物だった。
こういうのはこれくらいの陳腐さがちょうどいいんだ、百円ライターよりいくらか洒落てんだろうが。という反論も虚しく聞き流されたまま今に至る。
稀にそこへ「後生大事に抱えとくような立派なオイルライターなんて持ってねぇからなあ」などと付け足すと無言の圧と物理攻撃が飛んできたりするが、時と場所は選んだ上で遊んでるのだからいいだろう。
指先で小気味良い音を数度鳴らせば、安っぽいガスライター特有の匂いと共に小さな炎が灯り、やがて慣れ親しんだ味と香りの煙が肺を満たしていく。
吐き出された紫煙の行方をぼんやりと視線で追っていると、遠くに桜の木々とその下で酒を酌み交わす人々の姿があった。木々はどれもせいぜい五分咲きと言ったところで、おおよそ満開には程遠いが、それでも花見客たちはそれなりに楽しんでいるようだった。
春の夜風に乗って聞こえる喧騒や笑い声を耳にしながら、男は紫煙を燻らせ、カップ酒を喉の奥へと流し込む。
しばらくすると、彼はぽつりと呟いた。
「ああ、またこの季節か」
わずかに掠れたその言葉は誰に向けられたものでもなく、ただ独り言として零れ落ちたものだった。
時折通り過ぎる車のヘッドライトが照らし出すその横顔はひどく無表情だったが、同時にどこか懐かしむような色を帯びている。
不意に吹いてきた風に煽られ、真ん中で分けた真っ直ぐな前髪が額にかかる。それを払うこともせず、手にした酒の最後の一滴を飲み干すと、男は再び煙草を口元へ運んだ。
喧騒からは程遠い闇夜に、またひとつ、紫煙が立ち上っていく。
「っつーわけで、花見するぞ」
すでに馴染みとなったバー、Journeyの扉を開けるなり、乙宮柊は高々と宣言をした。カウンターの中でグラスを拭いていたこの店のマスターであるガイが珍しく呆気に取られた様子で一瞬動きを止めたのち、すぐに落ち着いた口調で柊を出迎える。彼の手元では磨き終えたグラスが照明を受けてきらりと光っており、どうやら丁度最後の仕上げに取り掛かっているところだったようだ。
「柊、なんだいきなり。それに人を呼び出しておいておきながら堂々遅れるとはどういうことだ」
先にこのバーを訪れていたレニが琥珀色の液体の入ったグラスを傾けつつ問う。すでに何杯か飲んでいたらしく、その頬はわずかに赤みが差していた。
しかし柊はその問いには答えず、勝手知ったるなんとやらとばかりに空いた席へと向かう。そして当然のごとく指定席となりつつある一番奥の席へと腰掛けた。
それを見計らったかのようにコースターが置かれ、その上に冷えた水が運ばれる。ガイの気遣いに感謝しつつ、柊は置かれた水を一気に飲み干し、それからやっと発言の趣旨を説明し始めた。
曰く、来週にゃ幸夫のやつが帰ってくるんだろう。あいつが花見に行きたいだなんて言い出す前に先手を打ってやろうと、そういう魂胆らしい。
レニはふんと鼻息荒く話す幼馴染を前にして小さく溜息をつくと、目の前に置かれたウィスキーを口に含んだ。
「お、良さそうなもん飲んでんな」
すかさず柊の手が伸びてきて、レニの手から飲みかけのグラスを奪い取る。
まだ中身は半分以上残っていはいたが、そのまま躊躇なく残りを全て胃の中に収めてしまうと、満足げに唇の端を持ち上げて笑みを浮かべた。
その様子を見ていたレニが眉間に深いしわを寄せながら苦々しげに呟く。
「……お前のその行動の方がよっぽど花見っぽい」
そんな二人のやり取りを微笑ましく眺めていたガイが、ふと思いついたように尋ねる。
「そういえば、初代の面々で花見に出かけたことはあるのか?」
「あー、そりゃあ初代っつーか俺が寮にいた頃はまあ、中庭の木が綻び始めた日から完全に散るまで毎日どんちゃん騒ぎよ。この辺はお前らもそんなもんだろ」
「いや、そこまでではないな」
柊の言葉にガイが首を横に振る。
まぁ、そうだろうな。ちぇっとつまらなさそうに舌打ちをする柊を見ながら、レニもまたぼんやりとした記憶を辿る。
「立花に引きずられて当時住んでた近所の公園まで出かけたことはあるが……花見というほどのものではなかった気がする。せいぜい公園の隅の方にある桜の樹の下でシートを敷いて、あ」
レニが何かを思い出したように言葉を切る。それをきっかけに柊も思い出したように声を上げた。
ふたりの様子を見てガイが僅かに目を細める。彼は何も言わなかったが、その表情は物語の続きを急かす子供のような色をしていた。
それに気づいた柊が仕方ねぇな、とでも言うように肩をすくめ、話を続ける。
「ありゃあ、確か旗揚げからすぐだ、まだ団員なんて旗揚げの俺たちだけで、――」
***
あの日も確か五分咲きかその程度の、花冷えの日だった。
その頃はまだ霞も芝居に関してはど素人そのもので、緊張も抜けなくて、それを見た麗仁は不機嫌になるわで、稽古だっつーのにとにかくひでえ日だった。
そんな稽古終わり、これから花見をしようと言い出したのは幸夫だった。
あいつはすぐこうやって突拍子もないことを言うんだよ。
稽古終わりにギリギリ開いてたスーパーに駆け込んで、酒や食い物を買い込んで、ブルーシートの上に座って。
そうそう、稽古場から持ってったんだよブルーシート。それなりにでけえのに一発でじゃんけんに負けた紘が抱えてってな。霞も雄三もあの頃は年下なりに気ぃ使って一緒に運ぶとか言ってたけど、紘は意地になって断ってたな。そこですーぐ善のやつが隣でいらねえこと言いつつギャアギャア言い合いしながら運んでた。あいつらずっと喧嘩ばっかして、ああ昔っからだよ、本当に。あれが楽しいんだろ。
っと、話が逸れちまった。そんなこんなで灯りもろくにねえ、咲いてもねえ桜の下に酒やツマミが並んだところで、幸夫が言ったんだ。
『今日寒くない?』
馬鹿野郎、寒いっつーなら花見とか言うななんで一人で先にビール飲んでんだよ。寒いのが嫌なら家に帰って鍋でも食ってろっつー話なのに、缶ビール片手に幸夫はへらへらと笑って続けた。
『今日の霞の芝居見てたら桜の花びらが待ってるように見えたんだ。その瞬間お花見がしたくなっちゃって、あ、ほらそれにみんなとこうやってお酒が飲めたら楽しいかなって!』
相変わらず馬鹿みたいに能天気なことを言いやがる。呆れた顔をする俺や麗仁の横では、酒を飲んでいたはずの紘と雄三が腹を抱えて笑い出し、善はそれに釣られるみてえに静かーに噴き出して、霞は桜の花通り越して真っ赤になっちまっててよ。
結局、なんだかんだで俺も麗仁もその雰囲気に飲まれて、もうどうにでもなれって気持ちにさせられて、しょうがねぇから付き合ってやるかって、あ?
私はそんな乗り気じゃなかった、って未成年だったくせにしっかり飲んでたやつがなぁに言ってんだか。まあいい、とりあえず全員参加。それで幸夫のわがままから始まった花見は始まったんだ。
買ってきたもんはスーパーの惣菜のあまりもんばっかだったんだが、大学芋に唐揚げ、んでチーズと餃子。あとは誰かが知らねえうちにカゴに突っ込んでたぬれおかき。酒のつまみらしい乾きもんと、イカの塩辛。まあ、そんなもんだった。
ここに並んでんのがそれぞれの好物だって知ったのはそん時だ。ただ一つだけ、ここにジョーカー、っつーか当たりがあってな。
それまで寒い寒いなんて言いつつもはしゃいでた幸夫が急に黙って一点を見つめてんなって視線追っかけたらイカの塩辛。あいつ、これだけはむり、なんて青ざめてたっけ。
そうそう美味いのになあ塩辛。今度巡業の土産に買ってきてやるから楽しみにしてな。
また話が逸れた、っつってもただ飲んで食って最後には全員で寒い寒い言いながら固まって寝落ちしそうになるのをどうにか留めてふらふら帰った。
毎年やりたいね、なんて幸夫は言ってたが翌年からはそれぞれ公演だなんだでスケジュールが合わなかったり、
そのうち幸夫と麗仁がそれどころじゃなくなったりで、まあ、実現はしなかったんだけどよ。
これが俺らの花見だ。
***
柊の話を聞き終えると、ガイは静かに相槌を打った。
その表情には先ほどまでの子供じみた色は消え失せて、代わりに凪いだ海のような穏やかさがある。
その様子を横目で見ながらレニもまた、思い出を辿るように目を閉じて耳を傾けていた。
「だから、幸夫に言われる前に花見の計画をしちまおうと思ったわけ」
柊がグラスに入った氷を指先で弄びつつ言う。
確かに幸夫の性格を考えると、花見をしたいと言い出すのは目に見えている。それに異国で暮らさざるを得なくなった背景とその年月を思えばあの男が喜ぶだろうことは想像に難くない。
レニは小さく溜息をつくと、ウィスキーを一口含んだ。
香りとともに喉の奥に熱いものが滑り落ちる感覚を味わいつつ、呟く。
「柊も随分あいつに絆されてるな」
柊はその言葉にぱちりと瞬きをすると、お前と一緒にするんじゃねえよ、と不機嫌そうな声を出した。
だが、その頬は酔いとは違った意味で赤く染まっている。それを誤魔化すかのようにぐいと一気に酒を飲み干すと、空になったグラスをテーブルの上に音を立てて置いた。
「ごちそーさん!」
そのまま勢いよく立ち上がると、振り返ることなく部屋を出て行く。
残された二人はその後ろ姿を見ながら互いに顔を見合わせると、どちらからともなく苦笑を浮かべあった。
「悪かったな」
ぽつりとレニがつぶやく。その瞳はどこか楽しげに細められ、手の中の琥珀色の液体が入ったグラスはゆらゆらと揺れていた。
ガイは首を横に振る。そして少しばかり考える素振りを見せ、背後に並ぶボトルの中から一本を手に取るとレニへと差し出した。
ラベルに書かれた文字を見て、レニがわずかに眉根を寄せ、それからゆっくりとした動作で手に取った。馴染みのない文字はザフラのものなのだろう、顔を寄せれば微かにやわらかな花の匂いが漂ってくる。
「差し入れだ。ザフラに桜はないが花を見て酒を飲む習慣はある。これはよく飲まれているものだ。口に合うといいのだが……」
「ありがたく頂戴しよう。また来週世話になるだろうからな」
レニの言葉にガイは嬉しそうに微笑むと、ゆっくりとうなずいて見せた。
「またのお越しを心よりお待ちしております」