「またお前は……。ここでなにやってんだ」
そう背後からかけられた声に、ジャックは勢いよく振り返った。星空を浮かべる中庭だけが、この人と会える唯一の場所だ。持ち上がった尻尾が大きく左右に揺れる。
「またお会いできて嬉しいです。よかったら少しお話しませんか?」
ジャックは長い耳を少しだけ伏せながら控え目に首を傾げる。男は腕を組みながらジャックを見ていたが、やがてふぅと息を吐いて腕を解いた。
「少しだけならな」
「ありがとうございます!」
近づいてくる足音にさえ、体が過敏に反応してしまう。ジャリジャリと砂は踏み潰され、ザッと土は蹴られる。一歩、また一歩と少しずつ近づいてくるその音に、ジャックの胸は早くなっていった。
やがて男は立ち止まり、隣に立つジャックを見上げてくる。波を描く髪の毛の先が明かりに薄く透ける。スッと通った鼻筋と小さく閉じた唇がとても美しかった。
ジャックはそんな考えを持った自分を誤魔化すように咳払いをし、適当に思いついたことを口にする。
「え、っと、好きな食べ物はなんですか?」
とっさに出た言葉がこれだった。ジャックは一人心の中で頭を抱える。案の定、男は話の意図が見えずに訝し気な表情をしている。ジャックは急いで言葉を続けた。
「俺は洋ナシのコンポートが好きです」
ダメ押しでにっこりと笑みを浮かべると、男は目をしぱしぱとまばたかせてこう言った。
「肉」
「え……」
そのあまりのシンプルさに一瞬二人の間に沈黙が流れるが、ジャックは気を取り直し、再び質問をぶつけてみる。
「えーと、じゃあ嫌いな食べ物はなんですか?俺はねぎが苦手です」
「野菜」
またもや返ってきたシンプルすぎる答えに、ジャックは男がわざとではなく、ただ実直に答えているだけなのだと理解する。と同時に小さく噴き出した。
「なんですかそれっ。子どもかよ」
クックッと我慢できずに喉が震える。自分よりも幾分か年上のはずなのに、まるで子どものような言い分だ。しかし、いくらジャックが笑い続けようと、男は憮然とした態度を崩さなかった。
「お前が聞いてきたんだろうが。俺は正直に答えただけだ」
「正直すぎるんですよ」
まさかこんな答えが返ってくるとは予想外だ。ジャックは笑みが外れないまま次の質問に移る。
「なら趣味は?」
「チェスだな」
その答えを聞いて再び笑いがぶり返す。
「そこは大人なんですね」
肉だ、野菜だと、まるで子どもみたいなことを言うと思っていたら次はチェスだなんて。その正反対の回答にジャックは笑いが止まらない。しかしさすがにむっとしたのか、男は口を尖らせて逆にジャックへ質問をぶつけてきた。
「じゃあお前の趣味はなんなんだ。さぞ高尚な趣味をお持ちなんだろうなぁ」
切れ長の瞳が鋭くジャックを見上げてくる。ニヤリという擬音が合いそうな表情は男によく似合っていた。ジャックは腹に力を込めてどうにか笑いを抑え込み、男からの質問に答える。
「俺の趣味はサボテンの栽培です」
そして、あっと声を上げズボンのポケットに手を伸ばす。取り出したのは携帯だった。男からは見えないところですいすいと画面をいじっていく。
「そういえば、この前花が咲いたんです。サボテンの花って見たことありますか?」
そしてジャックは目当ての画像を探し出し、男にその写真を見せる。首を傾げて覗き込まれ、二人の距離は更に縮まった。
「こいつは結構頻繁に花をつけてくれるんです」
画面には赤い花を咲かせた、まるく細い綿毛のような棘を持ったサボテンが写っていた。指を横にスライドさせると同じサボテンの違う角度の写真が映し出される。
「へぇ、綺麗なもんだな。そんなに花がつくもんなのか?サボテンってのは」
全く興味がないジャンルの話かもしれないと不安に思っていたが、多少なりとも興味は持ってもらえたようで、ジャックはほっと胸を撫でおろす。先ほどとは違う笑みが顔に浮かぶ。
「サボテンってあんまり花のイメージないですもんね。あるとしても数年に一回とか、年単位のものだったり。サボテンにも色々あるんですよ、こいつはしっかり世話してやれば一年のうちに何回か花をつけてくれます」
「へぇ」
他にもジャックの画像フォルダの中には黄色い花をつけたものや、白っぽい色をした蕾なども収められていた。それでもお気に入りはこの赤い花を咲かせたサボテンらしく、他のものよりも多くの写真が残されている。
「なかなか花を咲かせるのって難しくて。だからこうして花が咲くたびに写真を撮っちゃうんです」
「そうか」
「はい」
ツイ、と男の指が画面に向けて伸ばされ、そして携帯に映し出されたサボテンを一撫でした。
「お前がきちんと手入れしてやっているから、こいつは花をつけられるんだな」
「……はい」
その一言に胸がジンと熱くなる。まさかこんなことも言ってもらえるとは。男の発言にジャックは目が熱くなるのを感じた。
誰に強要されたわけでもなく、ただ自分が好きで世話をしているだけなのに、男からの言葉は素直に喜ばしいものだった。何故か分からないが、それはジャックの胸に深く響いた。
ふぅと体内にこもった熱を逃がそうと、無意識に息が漏れる。
「いつか、本物を殿下にも見てもらいたいです。すごく綺麗なんですよ」
「……」
男は一度ジャックを見上げたあと、再び画面に目を落とした。
それからしばらく、ジャックは男が言うように画面をスライドさせ、サボテンについて語っていた。
*****
ひとしきり二人で画像を見て、ジャックは携帯を元のポケットに戻した。柄にもなくあれこれと語ってしまったような気がする。
「そういえば」
「え」
そんなジャックを現実に引き戻したのは男の声だった。
「知ってたんだな、俺のこと」
「……あ」
男の横顔からは感情が読み取れない。怒っているのか、なにかを探っているのか、真意が見えない。
けれどジャックは誤魔化すことはしなかった。気まずそうに頭を掻きながら、恐る恐る口を開く。
「あんな恰好してこの王宮内を歩ける人物は限られていますし、ちょっとネットで検索してみたら画像が出てきて……」
語尾にかけて声がどんどん小さくなる。レオナ殿下はあまりメディアに顔を出すのを好まれる質ではないが、それでも検索をかければそれなりの数がヒットした。
思い返すと、先ほどぽろりとレオナ殿下のことを口にした気がする。
「そろそろ戻る時間だな」
「えっ、もうそんな時間ですか?」
「少しだけ、って約束だっただろう」
「……はい」
名残惜しい。許されるならばもっと話をしていたい。けれど確かに宴から抜け出すのもそろそろ限界かもしれない。それに下手に探しに来られてここで二人でいるのを見られたら、もう二度とこの人とここで会えないような気がする。ジャックはしぶしぶ頷いた。
「じゃあな」
「はい。また……」
レオナはジャックに背を向けて歩き出す。が、突然何を思ったのかすぐに立ち止まり、こちらを振り返った。
「そうだ。一つだけ言うことがある」
「はい」
いったいなんだろうか。正直なところ今日は、国弟殿下であるこのお方に対して無礼な態度を取ってしまっていたという自覚はある。
次はないと釘を刺されてしまうのか、最悪もう次はないと告げられてしまうのか。
ジャックは息を飲み、続く言葉を待った。
「その呼び方は止めろ」
「え?……え、と、レオナ殿下?」
「それだそれ、背中が痒くなる」
途端、ジャックは言葉を詰まらせる。王族の方を他になんとお呼びすればいいのか分からない。必死に頭を巡らせ、出てきたのはレオナ様という呼び方だった。
「ダメだ」
ただの一般人の自分が、王族を様付けで呼ぶことさえも相当分不相応だと思ったのだが、当の本人であるレオナが許さなかった。
ジャックは他に人を呼ぶ言い方を一つしか知らない。あれしかない。ジャックは怒られる覚悟を決め、思い浮かんだ呼び方を口にする。
「……レオナ、さん」
緊張のあまり、心臓が口から飛び出そうだった。これ以上はなんとお呼びすれば良いのか分からないので、駄目な時はどう呼んだらいいか直接聞かなければならない。黙して審判を待つ。その間にも口の中が乾いていく。
レオナは顎に手を置き、しばらく考えていた。
「まぁ、それが一番ましだな」
それだけ言うと、レオナはジャックに背を向け、今度こそそのまま王宮内へ帰っていった。
来た時とは反対に、体がどんどん明かりから離れ陰っていく。中庭から王宮の柱の奥まで行き、ジャックから見えなくなると、ようやくジャックは止まっていた息を吐き出した。
レオナさん。次会った時、きっとこう呼ばなければそれこそ怒られてしまうのだろう。
レオナさん。レオナさん。何度も心の中で呟き、体に馴染ませていく。
またここで会えるといい。ジャックはレオナが消えていった柱の奥に目をやり、誰もいないことを確認すると、自分もパーティ会場に戻っていった。