ねえ?(サイド美食)「――だから、今のは、なし。全部なし。わたしは何も言わなかったし、不良くんも何も聞かなかったことにして」
そうよそうだよ、そういうことにしよう……と、まくし立てて、眉美は俺に背を向けた。――向けようとした。
できなかったのは、させなかったのは、俺が引き止めたからだ。ほぼ無意識に。
伸ばした手で眉美の肩をつかむ。俺の手を振り払うことなく、それでも戸惑いをにじませた目で、眉美が俺を見上げる。
小さな顔に覆い被さるように、俺はゆっくりと上体を傾けた。
「不良くん?」
ふざけたあだ名で俺を呼ぶ唇に、かすめるように触れた。とくん……と、俺のものなのか眉美のものなのか分からねえが、心臓が跳ねる音が聞こえた。
そっと、唇を離す。
眉美は俺を見つめたまま何度か睫毛をまたたかせて、それからくしゃっと眉を下げて、今にも泣き出しそうな表情になった。
――ああ、俺は。こいつのこの顔が見たかったんだ。たまらなく、見たかったんだ。
フローリングにタオルが落ちる。爪の先で、眉美が自分の唇をなぞる。
「……うそ」
第一声がそれかよ?
「嘘じゃねえよ」
「だって……、どうして?」
『どうして』?
質問の意味が分からず、俺は一瞬、呆気に取られる。――そうか、そういえば。
「……言ってなかったっけ?」
「き、聞いてないわよ!」
噛みつくように眉美が声を上げる。
「あー……」
息をひとつ落として、俺はもう一度、眉美の目をのぞき込んだ。
「……いま、言ってもいいか?」
「ダ、ダメ!」
ダメだよ……と、弱々しくかぶりを振って、眉美は一歩後退る。湿り気を残した髪を撫でつけるようにしながらうつむくと、深く息を吸い込んだ。
「な、なんか……、不良くん、おかしいよ……」
視線を足もとへ落としたまま、もう一度「おかしいよ」と繰り返して、眉美は手を振り上げた。かたく握った拳で俺の胸を叩く。
「――信じらんないっ! 何でいきなりキスするのよ!」
言葉は荒々しいが、何度も何度も繰り返し振り下ろされる拳は、ちっとも痛くない。
「だって、ほら、いろいろ順番ってもんがあるでしょ……」
「――順番って何だよ?」
ぱっと顔を上げると、眉美は鋭い眼差しで俺をにらみつけた。
「そりゃあねっ、不良くんには無理かもしれないけどっ」
「まず、優しく抱きしめて」
「それから、『好き』って言って」
「それから、」
「不良……くん……には、無理かもしれない……けど……」
「それ……から…………」
レンズ越しに見える星が揺れて、瞳からあふれた涙が眉美の頬を伝う。
「――わたしが先に言おうって、ちゃんとけじめをつけようって、そう思ってたんだよ……」
涙を隠すように、眉美は再び顔を伏せた。
「だいなしじゃん……」
俺は両腕を伸ばして眉美の身体を抱きしめた。壊れものに触れるように、そっと。
「好きだ」
「――!」
俺の腕の中にすっぽりと収まってしまうほど小さな身体。
「眉美」
名前を呼ぶ。抱きしめる腕に力を込める。
「好きだ」
腕の中で、毛を逆立てた猫のように強張っていた眉美の身体が徐々に弛んでいくのが分かる。緊張から解き放たれたように全身の力を抜いて、眉美は俺の胸にもたれかかかってきた。細い腕が俺の背中に回される。
「――クズだよ?」
「それも筋金入りのな」
「あれ? 褒めてないよね?」
「自他ともに認める事実だろ」
俺の胸に頬をすり寄せて、くつくつ喉を鳴らしながら、眉美は伏せた睫毛を震わせた。
「こんなクズにまいっちゃうなんて、不良くんってば、ほんとに、もう、どうしようもないモノ好きよね……」
「おまえが救いようのないクズだってことも、俺がどうしようもねえことも数寄者なことも手遅れなことも、俺はとっくに知ってるよ」
――とっくに承知で、クズを選んだんだよ。
ふいに眉美が顔を上げる。背伸びをして俺の頬に涙で濡れた唇をぶつけると、「奇遇だね!」と、いたずらが成功したガキみてえな顔で笑った。
「わたしも好きだよ、不良くん」