ねえ?(サイド美観) 真夜中の空を通り過ぎた雨は幻だったのではないかと思えるほど、美しい朝だった。
早朝の招集がかかっていたのに、わたしは寝坊してしまった。――だって、昨夜はいろいろあったから。
橋を渡りきったところで制服のポケットから携帯電話を取り出し、時間を確認する。集合時間から既に二十分は経過していた。
こんな時間に顔を出したら、「まったく、大遅刻ですよ」と、先輩くんに嫌味を言われちゃうかな。「おや、眉美くん。何かのっぴきならない事情でもあったのかね?」と、リーダーに心配されちゃうかな。
火照りを残したままの身体をひきずって、まだ眠たい目をこすりながら、わたしは朝の空気で冷やされた廊下を抜け、美術室へと向かう。
扉を開けると、春の陽だまりのようなあたたかさがわたしを出迎えた。
だけど……、どうしたのだろう。部屋の中に、誰の姿も見えない。
わたしの到着を待たずに、とっくに解散したのかしら。
と、テーブルの上に、ひとり分の朝食が用意されていた。
トースト、オムレツ、ヨーグルトサラダ、そして紅茶。バターとハチミツの香りがわたしの鼻をくすぐって、ぐうっ、お腹が鳴った。
とりあえず、椅子に腰を下ろして、トーストを一枚手に取る。
ちぎったかけらをもぐもぐしていると、厨房の方からかすかな鼻歌が聞こえきた。
誰かいるの?
すっかり冷めてしまった、でも、じゅうぶんおいしい紅茶でトーストのかけらを喉に流し込む。
厨房の中をのぞくと、ふわりと浮かぶ小さなシャボン玉が、わたしの視界に飛び込んできた。調理台の前に立って食器を洗っていた不良くんが、こちらを振り返る。
「……よう」
『よう』って何よ?
今朝、はじめて顔を合わせて、はじめて交わす会話がそれ?
「不良、くん……」
文句のひとつも言いたかったのに、うまく言葉が出てこない。
「あのね……、ええっと、きのう……、送ってくれて、ありがとう」
「ああ」
「帰り道で急に雨が降ってきて……、びっくりしちゃったね」
「こっちこそ、タオルとシャワーと乾燥機……、助かった」
「ううん。雷もすごかったし、家に誰もいなかったから……、不良くんがいてくれて安心したよ」
「よく……、眠れたか?」
「――おかげさまで」
「えっと……、身体は、大丈夫なのか?」
「……うん……」
うそ。
本当は、まだちょっと、じんじんする。
でも、不良くん、わたしが痛がるの、あんまり好きじゃないでしょ?
わたしを見つめて、安心したようにふっと目を細める、そのしぐさが好き。
お皿を洗う大きな手。
泡だらけの長い指。
つい見とれてしまう。
包丁を握ったり紅茶を淹れたりする時とは全然違う、不器用だけど甘ったるい手を思い出して、わたしの胸の奥がじんと熱くなる。朝の空気に冷やされた身体が、再び熱を帯びはじめる。
強い磁力に吸い寄せられるように、わたしは不良くんへ歩み寄った。
不良くんの肩に、ぽすっと額をくっつける。
「眉美?」
ねえ、不良くん。
わたしが、いま何をしてほしいか、わかる?
「……眉美?」
もう一度、斜め上から、どうかしたのかと訊ねる声が降ってくる。でも、わたしは答えない。
ねえ、不良くん。
わたしね、わざわざ言葉にしなくても無言のうちに心が通じ合うとか、そんな都合のいいこと、ちっとも信じてないわ。でもね、わたしの表情やしぐさだけで、わかってほしいって思う時もあるの。
時間にすると、おそらく取るに足らないほどわずかな間。
だけど、不良くんと一緒じゃなくて、わたし、さびしかったの。目が覚めたら、不良くんがわたしの隣にいなくて、心にぽっかり穴があいたような気持ちになったの。
ねえ、不良くん。
わたしが不良くんにあけた穴は、わたしじゃないとふさげないし、不良くんがわたしにあけた穴は、不良くんにしかふさげないの。不良くんじゃなきゃ、ふさぐことはできないの。
ねえ、不良くん。
わたしが、いま何をしてほしいか、わかる?
言葉にせずに、ただ甘えるように、わたしは不良くんの瞳をのぞき込む。――ほら、早くしないと、予鈴が鳴っちゃうわ。
不良くんの唇からこぼれる、ため息にも似た小さな吐息。まるでスローモーションのように、わたしに近づく切れ長の瞳。
――あ、鼻の頭に石けんの泡。
気づいてないのかしら、かわいい。
昨夜と同じ、頬を優しく包み込む体温を感じて、わたしはそっと目を閉じる。
重なる唇から、ほんのり石けんの香りがした。