あした世界が終わってもいいよ 1~4 都内某所、緩やかなジャズの音楽が流れる静かなカフェの端っこの方に、五条は座っていた。目の前のテーブルにはあたたかいコーヒーと、旅行雑誌や観光案内なんかが置いてある。これらは、撮影機材であると同時に、これから五条が入る仕事の資料でもあった。詳しくは知らない場所なので早速目を通したいところだったが、今はまず、入り口の方から向かってくるカメラの対応をしなくてはいけなかった。
五条悟。最近人気の若手俳優だ。十八歳で銀幕デビューし、その後も映画やドラマなどに多数出演し、今やその勢いは破竹のそれである。俳優ではあるが、百九十を超える高身長ということもあって、コレクションなどでモデルの活動も並行して行っている。正直五条としてはモデルはやめて、俳優一本でやっていきたいと思っているが、どうにも事務所がそれを許してくれない。
プラチナブロンドにも見える白髪に、果てがない青空を映したような碧眼。そこに恐ろしく作りのいい顔がくっついているこの容姿を生かさない手はないと言う。そこは何度事務所と話し合っても平行線でしかなくて、その中でも俳優の仕事を優先するという条件で五条は今の事務所に所属していた。次の更新で必ずは独立してやる、と心に決めている。
これからの仕事は、一週間かけて外国に住む、というドキュメンタリー調の番組だ。
その番組は、よくある芸能人の観光をメインとするのではなく、実際地元に根ざした生活をするところに特徴がある。もちろん、どこであっても追従する通訳なんかもおらず、現地の人間とのやりとりを含め、生活のどれも自分でこなさなければならないというのが売りで、もちろん一緒についてくるカメラスタッフの助けも借りられない。衣食住の何もかも全て自分達で解決する必要があるのも特筆すべきところだ。とはいえ、五条はコレクションなんかで欧米諸国に行くことも多かったので、ある程度の英語は話せるし、特に困ることは起きないだろうと思っていた。
近付いたカメラに、いつも通りの笑顔を作る。サングラス越しにじっとカメラを見つめると、ちょっとカメラマンの顔が赤らんだのがわかった。五条に見つめられると、みんなこうなる。もう慣れた反応だ。
この仕事に対して、大きな不安はなかった。強いて言うなら、ペアになる相手が誰だか相手の到着までわからない、ということくらいだ。とりあえず、同業の、同年代の人間になることはないと聞いている。たぶん年嵩の、何らかのジャンルの人間がキャスティングされるらしい。元々そういう趣旨の番組だ。五条は、その容姿以外には毒舌でも有名な人間である。せめて馬の合わない人間でないといいが、と思いながら、すらすらと五条はインタビューの内容に答えた。
―五条さんは、この国に対してどんなイメージを持っていますか? この国に行きたいと言われたのは五条さんだと聞きましたが?
それは台本にもある、想定されていた質問だった。それなのに、どうしてだかそう聞かれた時、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
「……北よりは、南に行きたいと思っていて。そうですね。この国には、とてもパワフルで、ホットなイメージを持っています。日本では出来ないような、そんな経験が出来るんじゃないかな」
そう、気を取り直して撮影をしめた。
五条がこれから向かう国はキューバだ。アメイジング・キューバ。そう評されることもある、南の国である。社会主義国家であり、物資不足をはじめ、そこでの生活は容易なものではないと聞いている。だが、そこに暮らす人々の笑顔が印象的だった。一枚の写真に写されたその笑顔に、五条はこの国への旅を決めたのだった。
キューバへの到着は、深夜になった。カナダのトロントを経由して、日本からは結局一日以上をかけて到着した。なにせキューバまでは、飛行距離の関係で直行便というものがない。五条はコレクションの関係で海外遠征したことは何度もあるが、これまでに体験したことがない長いフライトだった。自分のことはわりとタフな方だと思っていたが、さすがに五条にも若干の疲労が滲んでいる。というのもの、飛行機から全く荷物が出てこなくて、到着からさらに軽く二時間は待たされたからだ。最初はパッケージロストかとさえ思ったが、エア・カナダではこれが当たり前のことらしい。周囲には特に焦っている人間もおらず、五条はまんじりと荷物が吐き出されてくるのを待つことになった。
空港から滞在場所までの移動はタクシーだ。空港からレンタカーという手もあるようだが、この疲労の中、慣れない道を、さらにはこの暗さで運転したくはない。イエローキャブの運転手に滞在場所までの運賃を確認し、荷物を詰め込む。日本とは違い、運賃は事前交渉式なのだ。車内での撮影のためにスタッフがひとり同乗したが、残りの撮影スタッフは別の車で追いかけてくるということだった。
過ぎていくタクシーの窓からぼんやりと眺めた暗い海は、当然のことながら時間帯もあって人っ子ひとりおらず、なんだか寂しげだった。たぶん昼間になれば夏だし、ビーチには人が溢れ、これより活気のある姿を見せてくれるのだろうが、今はそういう印象しかない。いつか写真で見たキューバの景色とは程遠かった。
五条は、これまで基本的にいつもひとりだった。そもそも、最初から誰かと過ごすという頭がない。自分についてこられる相手というのは案外少なくて、これまでも好んで誰かひとりと連むようなことはしてこなかった。親しいと言えば俳優の家入硝子や七海建人、灰原雄くらいで、特にそれで困ることもなかったし、これからもそれでいいと思っている。その考え方を淋しいと言われることもあったが、五条はそんな風には思わない。ぼんやりとそんなことを考えながら海を見ていると、程なくアパートに到着した。同乗したカメラマンも何か話しかけてくることはなかったので、タクシーの中では終始無言だった。
アパートは高層建ての五階だ。エレベーターがないから、荷物を運ぶのは結構面倒だった。トランク一個に纏めていたからいいものの、これでもうすこし荷物を持ち込んでいたら、ここまでの疲労も重なって、たぶん途中でギブアップしていただろう。その日は到着が深夜二時に及んだのもあって、撮影は台所とリビングなんかにカメラをセッティングするだけで終了した。五条の寝室にも、一台の固定カメラが設置される。二部屋あるうち、ひとつの部屋に荷物を運び込み、転がるようにベッドに飛び込んだ。ちょっとだけ休んだら、その後は固定のカメラに向かって、到着の印象なんかを軽く話して、その日の仕事は終わりだ。あまりに長い一日が、終わった。
正直言って、さすがにすこし疲れた。でも、ひとりの夜は今日だけだ。明日からは見知らぬ誰かと一週間、否が応でも生活を共にしなければいけない。上手くいくといいとは思うが、だからといって合わないなら合わないで仕方がない。撮れ高は少々少なくなってしまうかもしれないが、まぁやれることはやろう。そんなことを思って五条は眠りについた。
その晩、久し振りに夢を見た。根っからのショートスリーパーの五条が夢を見るのは稀なことだ。いつも深く眠りに入ったら、すぐに目が覚める感じだから、夢と知りながらも、ちょっと戸惑った。
その日見た夢は、昔、地元で見た、ある写真展のことだった。五条が地元である京都から東京に来る前、百貨店の催事で見たものだ。幼い頃、見上げた写真はどれも美しかった。その中でもキューバの夕焼けを映したものが今でも印象に残っている。それともう一枚、地元の子どもの笑顔を写したものも。たぶん、今回行き先にキューバを選んだのもその写真が影響しているのだろう。
あの夕焼けを、実際にこの目で見てみたいと思った。だから、事務所からこの番組のオファーがあると聞いた時、その対象になる行き先はたくさんあったが、すこしも迷うこともなくキューバを選んだのだ。社長からはインフラもよくないし苦労することになると言われたが、そんなのは全然気にならなかった。別にインスタだとか、SNSなんて出来なくても困らないし、キューバなら行く、と答えたのを覚えている。社長は深く溜め息をついたが、珍しく五条がドラマや映画以外に興味を示した仕事だ。文句を言うこともなく、すぐに受けてくれた。局にその旨を伝えて、それからは展開が早かった。既に相手の配役は決まっていたらしく、トントン拍子に出国に至った。
南なら、どこでも良かったはずだ。なのに、あの夕焼けが忘れられない。あの夕焼けを、あの笑顔を、この旅では見ることが出来るだろうか。夢の中でそんなことを考えた。
五条が朝起きてまずしたことは、最低限の身だしなみを整えて、朝食の調達をすることだった。キューバには、日本にたくさんあるようなコンビニなんて便利なものはない。何か作ろうにも冷蔵庫はまだ空っぽだ。食材を手に入れられる市場や商店もどこにあるかわからないし、今回はどこか朝からやっている食堂でも探そうと思った。
相手役の到着は、昼過ぎになると聞いている。まだ時間はじゅうぶんにあるし、それまでにアパートに戻ればいいだろう。そうなれば、気楽な散歩だ。朝になって明るい光の中で見たアパートはコンクリ建てで、この辺りでは随分と背が高い。日本で五条が住んでいるマンションのようなオートロックなんかのセキュリティなんてものはないが、それでもスタッフは治安のいいエリアを選んでくれたのだろうと思った。
地図なんてものは見ずに、適当に歩く。スタッフは当然のように後からついてきた。ガイドブックも一応は持ってきているが、あまりそれに頼り過ぎるのも楽しくない。こういう無計画な外出は、ちょっとわくわくした。
今は、朝の八時前だ。それなのに、通りにはたくさん仕事に向かうのであろう人々がいた。キューバの活動時間は南国ということもあって午前中がメインらしいとは聞いていたが、ほんとうのことだった。
そうして小道を抜けて大通りに出て、そのままぶらりぶらりと散策していると随分と人が並んでいる店を見つける。雰囲気から見て、どうやら何か食べられるようだ。五条は物怖じせず、列の後ろを確認して並ぶと、店の中からはふわりと甘い匂いが漂ってくる。五条は無類の甘党だ。どうやらこの店は甘味を売るところらしい。有り難いことだ。
店の中が見えるようになると、どうやら一階の店で購入したものを二階のカフェで食べられるようだとわかる。食べられなければ、買うだけ買ってどこか道か公園で食べようと思っていたので、ラッキーだ。入り口に差し掛かったところで、店のスタッフに話しかける。英語が通じなかったので拙いスペイン語で撮影が大丈夫か聞くと、笑顔で了承が得られた。並んでいるのはみんなキューバ人のようで、どうやら地元で人気の店のようだった。
入り口の上に掲げられた看板には、現地の言葉で店の名前が書いてあったが、さすがにそこまでは読めなかった。店内に入ると、明るい店員が応対してくれる。名前も味もわからなかったが、適当に甘そうなものを何個か選んで注文する。キューバでは定番らしいコーヒーも一緒に頼んで、二階のカフェに移動した。
カフェはこじんまりしていることもあり、テーブルは結構埋まっていて、そのうちひとつを確保すると、物撮りが始まる。五条はこれが何なのか知らないが、スタッフは店の人間に確認して名前もわかっているようだ。どうやら五条が買ったものは、レオネサというらしい。物撮りが終わってからぱくりと食べてみると、ふわふわの食感で、程いい甘さだった。キューバ人は特に甘いものを好むと聞くので、これもかなり甘い部類なのではないかと思っていたが、そうでもなかった。五条は生粋の甘党なのでもっと甘くても大丈夫だが、たぶん日本人にはちょうどいいくらいの甘さなのだろう。
「これから何をしますか?」
「うーん、観光とかはお相手さんが着いてからでいいかな。何か、歓迎のために準備したいんだけど……」
キューバの特徴は、なんといっても社会主義国だということだ。基本的に生活物資は配給で、物資の類はあまり潤沢ではない。食器などはアパートに備え付けられていたし、そういうのは必要そうになかったから、何を用意すればいいか悩む。
「あ、花でも買おうかな? 花ならさっき売ってたよね」
そういえば来る途中、小さなワゴンのような屋台で花を売っていたのを思い出す。日本の花屋のような煌びやかな花束とはいかないが、じゅうぶん歓迎の気持ちは伝わるだろう。穏やかで、素朴な花が店には並んでいたように思う。
「というわけで、花を買いに行きます! どんな人かな~」
途中にあったワゴンに戻ると、店には思っていたよりいろんな花が並んでいた。中にはその辺で摘んできたのではと思うような野草のような花もある。どれも素朴で、大きな花束にするような華やかさはなかったが、なんだか懐かしい感じがした。その中から、明るい黄色の花と、それに合わせて紫のものを選ぶ。店の人は親切に花の名前を教えてくれたが、さすがにキューバ訛りが強くて上手く聞き取れなかった。
キューバと言えば、なんだか黄色のイメージがある。そこに住む人々のエネルギッシュさというか、明るさが滲んでいるように思う。今日は天気もいいし、あの明るい窓辺に生けるのがいいだろう。あのアパートに花瓶はないかもしれないが、コップはたくさんあったから、なければそれで代用しようと思う。
鮮やかな花を連れて、来た時とは違う道で帰る。街並みはどこか古くて、道なんかは結構デコボコだ。そういえば、キューバは道路事情が悪いから、日本のような暴走事故は殆どないと聞いたことを思い出す。確かにこんな道でスピードを出したら、一発で事故になってしまう気がする。
「そろそろ戻ります」
花束を持ったまま、ふらふらと開いている店を覗きながら、アパートへと戻る。いろいろと散歩していたから、あと一時間程で相手役の到着予定時刻だ。これから来るのがどんな人間かはわからないが、自分と同じ、あの長い航路を辿ったのだとしたら、それだけでちょっとは親近感が湧く気がした。
家に戻ってから、家中花瓶を探してみたが、やはり花の高さにちょうど合うものはなかった。インテリアとして飾られていたかなり大きな花瓶は見つかったが、流石に大きすぎる。一体何を生けるのだろう。代わりにちょうどいい高さのコップを見繕って、綺麗に洗った。台所にあったナイフで器用に花の長さを調整し、色毎に生ける。ちょっと離れて見てみると、我ながら悪くない出来だ。五条は旧家の出身なので、実は華道も嗜んでいる。大っぴらに言ったことはないが、これくらいは余裕だった。窓辺に飾り、相手の到着を待つ。これから来るのは、どんな相手だろう。そう思いながらドアが開くのを待つと、程なくしてドアが開かれた。
そこにいたのは、大きなトランクを引いた背の高い男だった。肩より長い髪をハーフアップにして、随分と大きなサングラスをかけている。違う、顔が小さいからサングラスが大きく見えるのだ。身長も五条とさほど変わらなくて、一瞬モデルかと思う。けれど、首から提げていたのは随分と使い込まれた様子のカメラで、どうやら職業はカメラマンらしい、と気付いた。
「初めまして、俳優の五条悟です」
向こうから名前を聞かれる前に名乗ってしまう。日本ではそれなりに有名になったとは思っているが、同年代以外はわからない。いちいち名前を知らないだの何だとの、余計な手間はかけたくなかった。
「五条くん。私は夏油傑です。カメラマンをしています」
随分と穏やかに話す男だと思った。サングラスを外すと細い目が現れて、それは自然と弧を描いている。きっと普段からこういう顔をしているのだろう。喋り方によく似合う顔をしていた。
「だらしない格好でごめんね。こんなに長いフライトは久し振りで……」
そう言われて、夏油が荷物も下ろしていないことに気付き、慌てて五条は部屋の中へと案内した。荷物を下ろして、ふぅ、と一息吐くと、夏油は大きく首を回した。
「五条くんも疲れなかった? 一日以上かかったでしょう」
「夏油さんも同じでしょ。トロント?」
「私はメキシコ。旅には慣れているつもりだったけど、さすがに疲れたよ」
そのまま大きく伸びをして、夏油は椅子に座る。そこはちょうど窓の見える位置で、飾られた花に気付いたようで、その細い目が大きく見開かれた。
「もしかして、この花、買ってくれた?」
「はい、歓迎の意味も込めて」
「ありがとう。すごく素敵な花だね。撮っていいかな?」
そう言って、夏油は自然にカメラを構える。その手つきは当たり前だが慣れたもので、パシャパシャと数枚写真を撮ると、満足げに笑った。夏油に撮られて、花もどこか満足そうに見える。
「これからどうしようか? 観光に行く?」
「疲れてませんか? 僕は午前中にすこし見てきたから」
「これでも体力に自信はあるんだよ。一応ね、戦場カメラマンなんだ」
だから、こんなに余裕のある旅は久し振りだ、と夏油は笑った。
戦場カメラマン。意外だった。カメラマンというから、日本で自分みたいなモデルを撮るようなカメラマンをしているのかと思ったのだ。どうやらその驚きが顔に出ていたらしく、夏油はびっくりするよね、と言った。
「ついこの間まで紛争地帯にいてね。これからはしばらくオフなんだ」
言われてみれば、夏油は結構がっしりとした身体をしていた。五条もモデルをしているので、身体のつくりはわかる。そうと鍛えられた身体だ。五条も人に見られる仕事なのでそれなりに鍛えている方だと思うが、たぶん脱いだら夏油の方が見応えがあるだろう。モデルと言われても全く遜色がない。
「すごいですね。想像出来ないなぁ……」
戦場に立ち入るなんて、生命の危険すらある仕事だ。そんな荒んだ現場にいるような男にはとても見えなかった。人は見た目によらない。
「決して楽しい現場ではないけどね。やりがいはある」
「そうなんですね」
戦場の写真というのは、テレビのニュースで流れるくらいしか見たことはなかった。だから、正直あまり凄惨なものは見たことがない。日本は平和だが、世界には今も紛争に巻き込まれている地域がたくさんある。夏油はそういう場所ばかりを巡ってきたのかと思うと、なんだか自分は随分と薄っぺらい生き方をしているような気がした。俳優という仕事にもちろん誇りを持ってはいるが、それが世界に貢献しているかと言われれば、そうではないと思う。
「昔は風景写真とか、人物とかも撮ってたんだけどね。今はもうこっち一本」
不意に、出来れば夏油の写真を見てみたいと思った。
彼のレンズ越しには、どういう世界が映っているのだろう。正直、興味があった。五条が人に興味を持つのは珍しいことだ。なんだか、初めて会った気がしない、というのが事実だ。これまで関わったことなんて一度もないのに、不思議とそう思った。
「あの、写真って見られませんか。興味があって」
「私の写真? さすがに今回は持ってきてないなぁ……」
申し訳なさそうに夏油が言う。確かに、普段ならまだしも、今回のような旅行にポートレートを持ってきているはずもない。思わず残念そうな顔をしてしまったら、夏油が笑って日本に帰ったら見せてあげるよ、と言ってくれた。社交辞令かもしれないが、それでも嬉しい。
「この撮影の後は、しばらく日本にいるんですか?」
「その予定だね」
日本に帰ってからも何か繋がりが欲しくて、連絡用に、と言って携帯番号を教えて貰った。後になって海外用の携帯だったら意味がないな、と思ったけれど、今はそれ以上のことは言えなかった。
「なんだか、不思議だね」
「?」
「君とは初めて会った気がしない。なんでだろう?」
夏油も、同じように思ってくれていたらしい。それがすごく嬉しくて、自分もそうだと伝えると、夏油は驚いたように目を丸くした。
「こんなおじさんに言われても嬉しくないよね」
「おじさんなんて! 同年代かと思いましたし!」
「はは、褒めても何も出ないよ」
ほんとうにそう思ったのに、夏油はそれは信じてくれなかった。でも、ほんとうに夏油は若く見えると思う。聞けばもう四十代も半ばだと言うことだが、たぶん二十代だと笑って言えばみんなそれを信じるだろう。そんな魅力が夏油にはある。
「さて、一休みしたし。晩ご飯も何か買い出ししなきゃだよね?」
「食べに行くのもいいかなって思ってたんですけど。初日だし」
「そうだね、地元の味を知るのもいいね」
出来れば外国人向けのレストランなんかじゃなくて、地元の食堂に行きたいと思っていた。それを告げると夏油もそう思っていたと言ってくれて、夕食までの間は、食べられる店探しも含めて街を散策することになる。まだ随分夕食には早いから、いろいろと見て回ろうと話し合った。
「ご近所に何があるかも知りたいしね」
「朝、ちょっと歩いてカフェに行ったんですけど、美味しかったですよ」
「キューバのカフェかぁ。楽しそうだね」
そうやって無邪気に笑うところなんか、ほんとうに可愛いと思う。四十代の男に抱く感想ではないのかもしれないが、事実そう思ってしまったのだから仕方ない。
そう思って、はた、と自分が夏油に強い興味を抱いていることに気付かされた。普段、こんなことはない。仕事の相手に興味を抱くなんて、これまでにあったことはなかった。どんな相手であろうと自分の仕事をするだけと考えていて、それ以上、何か知りたいなんて思ったことはなかったのだ。
「そうだ。名前、なんて呼んだらいいかな? 五条くん?」
「悟がいいです。呼び捨てで」
「じゃあ私も傑でいいよ。敬語もいらない。普段通りに話して欲しいな」
「そんな」
あまりに目上の相手に失礼じゃないか、と思って、これもまた普段思ったことがないことだと思う。この世界はどこまでも実力主義で、大御所と呼ばれるような相手に外面を装うことはあっても、敬意をもって接したいと感じたことなんてなかった。
「だって一週間も一緒にいるんだよ? 気軽にいこう」
「わかりまし……、わかった」
その返答に、よし、とでも言うように頭を撫でられて、なんだかそれも心地がいい。まるで幼い子ども扱いされていると思うのに、決してそれが嫌ではないのが不思議だ。とはいえ、自分が年下なのは事実だし、だけど、なんだか特別扱いをされているような気にさえなって、気分が良かった。
「じゃあ、散策へ行こう。何があるかな」
そう言って、夏油はすぐに財布とカメラだけを持って、外に出ようとする。五条もすぐにそれに続くと、撮影スタッフが慌ててついてくるのが見えて、すこし笑ってしまった。
ちょうど時刻は昼を過ぎて穏やかな午後に差し掛かっている。公園のような場所では地元の少年達が野球をしていた。キューバはどうやら他のスポーツより野球の方がメジャーらしい。確かそんなことがガイドブックに書いてあった。
「近くに市場とかないのかな? さすがに三食外食するわけにもいかないし」
「ガイドブックによると、えーと」
すぐ近くというわけではないが、歩けない距離ではない場所に市場があるのがわかった。旧市街のあたりだ。歩くのは嫌いではないと夏油は言うので、とりあえずふたりで様子を見に行こうということになり、そちらに足を向けると、すいっと横を自転車が通り過ぎていく。そういえば、観光客向けのレンタルサイクルもあるらしい。キューバといえばクラシックカーが有名だが、地元の人間は自転車やバイクをよく使っているようだ。すこしハバナから離れて田舎の方に行けば、現役で馬車が走っているのも見られるガイドブックには書いてあった。
「へぇ、色々売ってるんだね」
「野菜とか肉とかだね。そういえば塩とかどうするんだろう」
「キューバは配給制だからね。どこかで売っていればいいけど……」
見る限り、市場には調味料のようなものは見つけられない。フルーツや野菜、肉や魚なんかがそのまま売っている。たぶん市場の人間に言って、必要量を買うようなシステムなのだろう。
「そういえば、キューバでは見つけたらすぐに買わないと、そうそう次には出会えないって聞いたことがあるよ」
日本のような便利なスーパーはなく、少ない個人商店では入荷したものを纏めて売りに出すから、早め早めに調達しておかないと後で困ったことになるらしい。あのアパートには食材はもちろん、油や調味料の類は何もなかったから、そのあたりも調達しなければいけない。今晩は外食するとしても、明日の朝に困ってしまう。
「地元の商店も探さないとね。キューバの店はどこも看板が小さいから見つけにくいんだよね」
思ったより夏油はキューバに詳しかった。前に来たことがあるのかと聞くと、一度だけ、と答えが返ってきて、なんと来る前に何冊もガイドブックを読み込んだのだという。五条も数冊は読んだが、そんなことは書いていなかった。たぶん記憶力もいいのだろう。
「明日の朝用にフルーツとか買っておこうか」
と言っても、日本で売っているようなものとは違い、どれも名前も味もわからない。それもまた面白いか、とふたりで言い合って、適当にフルーツを選んだ。味は、明日になればわかる。夏油となら、それもまた楽しい気がした。
「他にも買う? 肉焼いたりするの楽しそう」
「調味料を手に入れてからかな。探しに行こうよ」
確かに味もしない肉というのはつまらないかもしれない。夏油の言うように商店を当たってみるべきだろう。主食になる米もパンもないし、フルーツだけではさすがに足りない。
「この辺りに店あるかな?」
「探すのも楽しいよ」
そう言って、夏油とふたり、市場を後にする。周囲を見渡すと観光客がたくさんいたが、地元の人らしき人間は少なかった。旧市街はメインの観光地だからそうなるのだろう。周辺を散策して、ようやく店を見つけたが、確かに看板が小さくて見逃してしまいそうだった。店内でまずは主食となる米とパンを買い、調味料を探したが、やはり塩は見つからない。塩と胡椒があればとりあえずやっていけると思うが、見つからないのだから仕方がない。店員に塩があるか拙いスペイン語で聞くと、困ったように首を振られた。よくわからないが、もしかしたら塩は配給制なのかもしれない。
困ったな、とふたりで顔を見合わせていたら、店にいた他の男の客が拙い英語で「塩がいるのか?」と聞いてきた。素直に頷くと、ついてこいと言う。何がなんだかわからないが、まぁそれも面白いか、と夏油と一緒についていくと、どうやら彼の家らしい場所に連れてこられた。入ってこいと言われ、スペイン語でコーヒーでも飲むかい? なんて聞かれる。それが目的ではないので断ると、ちょっと待っていろと言われて、彼は台所の方に向かった。
「一袋いるの?」
「いや、そんなにいらない。すこしあれば」
ガイドブックを見ながらスペイン語でそう答えると、彼はビニール袋に塩とついでに胡椒を分けてくれた。驚いていると、持っていけ、と笑顔で言われる。お礼を言って、握手すると、気にするなとまた笑ってくれる。気のいい男だ。五条がちゃんとサングラスを外して笑うと、ちょっと顔を赤らめていて、この顔は世界中に通用するのだな、なんて思ったりもする。
「どうにかなったね」
「すごいね、キューバ」