520 ① 棄つる神あれば引きあぐる神あり、という古くからの言葉があるが、今のわたしは正にその引きあぐる神に命を拾われたと言っても過言ではない。職を失い路頭に迷い、それでも音楽という細く脆い蜘蛛の糸を手繰ることでしか生きられなかったわたしを拾い上げたのは、近頃界隈を騒がせている噂の軍師様だった。
「孔明さんっておもしれー男ですよね」
渋谷のハンバーガーショップは深夜でも絶えず騒々しい。狭いテーブルで膝を突き合わせてポテトをつまみにビールを煽る。職が見つかって以来の贅沢でわたしは早くも酔いが回り始めていた。
「そうでしょうか?」
「え、そうでしょ。めちゃくちゃおもしろいじゃないですか」
「お褒めに預かり光栄です」
にこり、と微笑む孔明さんの髭にソースが付いている。
「ソースついてますよ」
「え」
「動かないで」
紙ナプキンを手に取り、身を乗り出して孔明さんに近づく。
「よし……と」
拭き取った紙ナプキンを丸めてトレーの上に投げ、気まずさを紛らわすようにまたポテトを食べた。酒のせいか心臓がどくどくと煩い。あんなに顔が近かったのに目の色ひとつも変えないんだからどうせ脈なんてないんだと、早く諦めてしまえれば良いのだが。
それから食事を終え、わたしたちは同じ寝所に帰った。当然部屋は別室だが、わたしと孔明さんはオーナーの小林さんの温情でBBラウンジに寝泊まりすることを許されている。
「おやすみ、孔明さん」
「おやすみなさいませ」
ぱたん、と扉が閉まると一気に取り残されたような感覚に陥った。がらんどうになったフロアを一周し、バーカウンターに突っ伏して眠った。
孔明さんとの出会いはクラブでのナンパだった。厳密にはわたしの素性を知ったうえでフォースキングダムへの勧誘目的で近付いてきたようだが、当時のわたしはそんな思惑にも気が付かず、初めはひたすら無視を決め込んでいた。容姿はおろか、無職で金もないわたしに興味があるなどと言い寄られたところでどうせ穴に用があるだけだとしか思えなかったからだった。無職の分際で毎晩クラブやライブハウスに繰り出していたわたしもわたしでどうかしていたが、どうかしていた時の行動をどうかしていると責めたって今更どうにもならない。
肩に重みを感じて目を覚ますと、ここで寝る前には掛かっていなかった掛衣を被せられていることに気が付いた。
「こ、孔明さん……?」
「おや、お目覚めですか。おはようございます。よくお眠りでしたね」
「これ、孔明さんのじゃ……」
「風邪を引いてしまうといけませんので」
「あ、ありがと、ございます……」
もぞりと身体を起こし、掛衣を脱ぐと微かに孔明さんのにおいがした。今までこれに包まれて寝ていたと思うととてつもない恥じらいが押し寄せてくる。
「お腹が空きましたね。これからコインランドリーに行って、それからお昼を食べようと思うのですが、菫さんも如何でしょう?」
孔明さんはそんなわたしの乱高下する感情など露知らず無邪気に誘い出してくれる。
「ハンバーガー以外でお願いします」
「では、今日は蕎麦など如何でしょう?」
「いいですね」
音楽以外で人に興味が湧いたのは孔明さんが初めてかもしれない。妙な服装や挙動などでなく、わたしにとってのおもしれー男は孔明さんになるのかもしれない。