かぞくのとびら(The way to say I'm home.)5.
3学期制の幼稚園は、7月の終わりに1学期の終業式があった。とは言っても、働いている親には夏休みなんかは関係ないから、子供たちは8月だって登園だ。ちょっと申し訳ないな、と思っていたけれど、彼らは相変わらず楽しく通ってくれた。悠仁に感謝。
その8月の間に、野薔薇は6歳の誕生日を迎えた。ケーキを食べながら、恵に「恵は12月ね」と言うと、珍しく嬉しそうな顔をした。二人の誕生日を祝うのはいつも悠仁が主導だったな、と思い出す。そっか、こんな気持ちだったんだね。
幼稚園では、入院していた副担任のスズキ先生が復帰し、9月の初め、悠仁は大量の花束と園児たちからの手紙を抱えてまた別の園へと行った。
恵と野薔薇の話によると、方々からの引き留めが凄かったらしい。二人も相当落ち込んだようだった。
「そりゃそうだよね〜」
子供たちが寝静まった夜、僕は独りごちながらスマホを取り出し、メッセージアプリを起動した。
実は、悠仁にメッセージを送るのは久しぶりだった。3人揃って熱を出したあの日に連絡先を交換したものの、子供を預ける親と預けられる先生である以上、個人的なやりとりはあまりしないほうがいいと思ったからだ。何か変な噂でも立てられて、悠仁が働きにくくなるのは本意じゃない。園の駐車場で偶然会う時に、少し話したり、こっそりおすすめの映画のブルーレイを貸したり、ゲームを借りたり、その程度。
だからこうやって、改めて何か言葉を送るのは、少し、緊張するな。
「って童貞かよ……」
似たようなもんか。
「えーと……」
『副担任、お疲れ様でした。うちの子供たちが大変お世話になりました。幼稚園では会えなくなるけど、これでほんとの友達だね』
送信してから、気が早すぎて引かれるんじゃないかと心配したけれど、杞憂だった。すぐに既読がついてよくわからない犬のスタンプと、今にも声が聞こえて来そうな『よろしくおなしゃす!』が返ってきた。
「アェア?!」
へ、変な声が出ちゃった。マジで童貞かも。気を落ち着かせるために、長く息を吐く。悠仁に会えなくなって相変わらず悲しんでいる子供たちには悪いけれど、僕の戦いはこれからだ。(決して最終回ではない)
次会ったら何を話そう。そればかり考える。
声が、聞きたい。
早く、逢いたい。
◇
そんな僕の気持ちとは裏腹に、それからも直接悠仁と会えるタイミングは、なかなか訪れなかった。
僕自身の仕事はもちろん、悠仁も新しい職場に慣れるのに忙しいようだったし、子供達の幼稚園も秋は遠足やサツマイモ掘りなどイベントが多い時期で、それに加えて少し出遅れたけれど来年から使うランドセルを買ったりと、親としてもそれなりに目まぐるしい日々が続いた。
10月に入り、あんなに暑かった日差しはいつのまにか弱くなり、入道雲は鱗雲に、街の樹は少しずつ葉を減らしていた。半袖で走り回っていた子供たちは、また、ブレザーを着て登園するようになった。
悠仁からは時々メッセージや写真が送られてきた。
『もうすぐ運動会じゃね?恵と野薔薇、かけっこ練習してる?俺のとこは今週終わったよ!』
『自転車派手にパンクして、チューブ交換だって〜ショック!今直してもらったとこ!』
『五条さんおすすめの映画見た!最後全員死ぬじゃん!嘘でしょ!』
今日は新しい職場近くによく来るというの猫の写真だった。昼休憩のときにでも送ってくれたのかな。野良にしては白くくて毛足が長くて、なんか……ふてぶてしいな……そう思いながらスクロールすると短いメッセージがついていた。
『ちょっと五条さんに似てね?』
「いや似てねーよ」
素早く返信を打ち、車のエンジンをかける。
仕事がうまく片付いた金曜日。悠仁がいなくなっても延長保育の癖が抜けない子供達を迎えに行き、3人揃ったその足で、少しだけ遠くの大型スーパーで買い出しをした帰りだった。
空は、すっかり日が沈んで濃紺になっていた。
「きょうのごはん、なに?」
「たこ焼きしようと思って。どう?」
「べにしょうが、かいましたか」
「買った買った!国産のやつ〜!」
ジャンクな晩御飯のほうが、ウケるんだよなあ。まあ、たまにはいいよね。シートベルトを締めながら後部座席を軽く振り返り、子供達に「帰るよ」と言おうとしたその時、恵がいつかと同じように外を指差した。
「いたどりだ」
車からほど近い店舗入り口の駐輪スペース。子供達の幼稚園で働いていた頃と同じ、赤いマウンテンバイク。
「ほんとだ、悠仁じゃん」
この辺に住んでいたのか…。
今来たばかりなのかマウンテンバイクを停めてワイヤーロックを手にしている、黒いパーカーを着た悠仁と、それから、
「え」
その腕にぴたり寄り添う女がいた。
上品そうなスカート、暖かそうな上着、ゆるく巻いた少しだけ明るい髪、小さなバッグ、悠仁よりいくつか年上か?何者だろうと僕は考える。友達?……には見えない。前に聞いた時にはいないって言ってたけれど、まさか彼女?え、うそ、そんな。
すると今度は野薔薇が口を開いた。
「いたどり、こまってる」
困ってる?
見ると悠仁は確かに硬い表情をしていた。暗くてよくわからないけれど、顔色も悪い気がする。女にばかり気を取られて気づかなかった。腕だって組んでいるんじゃない、巻き付かれた腕を振りほどきたいのにできない、そんな様子だった。
僕は手元のスイッチでかけたばかりのエンジンを止めて、子供達に叫んだ。
「恵!野薔薇!フォーメーションY!」
どう言うわけか子供たちには伝わったようで、バックミラーに映る二人は顔を見合わせて頷くと、自分たちでシートベルトを外すしてドアを開け、悠仁の元へ駆けて行った。
「ちょ、え、マジで?!」
今のでわかったの?そもそもYってなんだ?あ、YUJIか。慌てて車から降りてまわりを見渡す。幸い動いている車は1台もなかった。シートベルトは勝手に外してはいけません、駐車場では走ってはいけません、は後で言うことにして(そもそも僕が嗾けた。反省してる)、急いで僕も子供達の後を追う。
「パパ!」
野薔薇が声を上げて悠仁に飛びついた。
突然の子供達の登場に、悠仁も、そして女も意識が逸れたのがわかった。
「パ、え、あ、の、野薔薇?!恵も!?」
悠仁の腕を掴んでいた細い手が緩む。追いついた僕は、悠仁の反対の腕を引いて下がらせ、女との間に割り込んだ。いきなりパパだなんて呼ばれた悠仁は、何が起こったのかわからないような顔で、瞬きをしていた。
っていうか、さすがに「パパ」は無理無い?
少し焦ったけれど、女はひどくショックを受けている様子だった。意外と効果はあったのかもしれない。ナイス野薔薇。さとる先生(ヴァイオリン講師・28歳独身)の出番がなくて良かった。
「お待たせ悠仁!」
「ご、五条さん」
「材料はもう買って車に積んだよ。あとは君が乗るだけだ」
場違いなほど陽気に、適当な嘘を並べると、それに合わせるように子供達も無邪気に悠仁の手を引っ張った。
「パパ、いこ?きょうのごはん、たこやき!」
「いこ?べにしょうがも、ある」
これぞフォーメーションY(YUJI)。
まだ何か言いたげな女に「友人に何か?」と訊けば、彼女は小さく「いえ…」と、足早に大通りのほうへ消えていった。
女の足音が聞こえなくなって、しばらくの沈黙の後、
「あ、ありがと……助かり……ました……」
悠仁がようやく口を開いた。駐輪場の蛍光灯に照らされた顔色は、思っていた以上に悪かった。
「どう見ても普通じゃなかったけど、喧嘩?彼女……とか?」
聞くと悠仁はすぐに否定してかぶりを振った。
「彼女じゃ、ない……」
「あ、そう」
「……いくつか前に働いてた幼稚園……の人で……」
「え!?元同僚?」
「……うん……いや、同僚っつーか、偉い人の娘さん……」
それっきり、悠仁は黙ってしまった。なんとなく、今この場でこれ以上聞き出すのはよくない気がした。僕は「まあいいや」と話を区切る。
「ね、今日のところはうちにおいでよ」
「え……でも……」
「またさっきの彼女に来られても困るでしょ。まだその辺にいるかもしれないじゃん」
「それは…」
「買い物もまだみたいだし。僕たちが熱出した時のお礼だと思って、ごはん、食べていきな。たこ焼きなのは、ホントだから」
断られないために勝手に悠仁の自転車を押して歩く。子供達が「いたどりはやく!」と、まだ戸惑っている悠仁の手をひいた。
後部座席のシートを一部だけ倒すと、マウンテンバイクはギリギリ入った。やっぱりこの車にしてよかった。子供達が座るスペースが少し狭くなったけれど、家に着くまでの距離だし我慢してもらおう。
助手席のドアを開け「どうぞ」と悠仁を乗せてから、僕も運転席に乗る。エンジンをかけてシートベルトを締め、アクセルを踏んだ。窓の外に、秋の夜の街がゆっくりと流れ始めた。
「チャリ、ごめん、車汚れちゃう」
親の顔色を伺う子供のような、不安そうな顔だった。多分、気にしてるのは自転車のことだけじゃなくて。
「そんなの全然いいよ。僕が誘ったんだし」
「でも」
「後ろの子供達見てみな」
悠仁が顔だけ後部座席に向けた。自転車と一緒に無理やり並べたジュニアシートに座った子供達は「いたどり、うちにくるの!?」「くる?」と口々に言った。久しぶりの大好きな〝いたどり〟に、バックミラーが騒がしい。
「ねえ、おとまりするの!?」
「おとまり、する?」
おっ、お泊まりは……まだ……しないんじゃないかなあ?
「お泊まりは、しないけど……」
ですよね!
「俺……またおじゃましても、いいかな?」
子供達が「はーい!」と揃って元気よく〝おへんじ〟すれば、ずっと強張っていた悠仁の顔が、ようやく緩んだ。
「五条さん……」
悠仁の声に「ん?」と返しながらハンドルを切る。規則正しく並ぶ住宅街の明かりの向こうに僕のマンションが見えた。
次会ったら何を話そう。ずっと、そればかり考えていたけれど。
それに、さっきのことだって本当は気になるけれど。
「ありがと」
「どーいたしまして」
真横からの声と、肩が触れそうで触れない距離が、まだお互いに恋を知る前の、いつかの地下室によく似ていて、
今は何も思いつかないや。
The way to say I'm home.