「おいで」とその目に導かれ 無意識の内に視線がその姿を探して後を追う。声を拾おうと聴覚が研ぎ澄まされる。ほんの微かな匂いを捉えるだけで細胞がざわつく。
いくつもあるその厄介な体質の兆候に、チリチリと苛立ちが募った。乱暴に顔を洗って火照る身体を冷まそうとしても、水道水の温度くらいでどうにかなるものでもない。滴る雫をぐいと拭って、もう今日は帰ろうと籠もる熱を散らすように息を吐いた。
ミツキが俺を受け入れてくれたおかげでか、獣耳や尾が顕現するほど酷い症状が出ることは随分稀になったものの、それでも不定期に訪れるこの波を煩わしいと思わずにはいられない。発情期なんてヒトには必要ない。
後世にこんな血など遺伝子など、紡がない方がいいに決まっているのだ。
どうにか一頻りに衝動が収まったのを確認し、トイレを後にする。このままデスクから鞄を取って直帰しよう。
そう、考えながら角を曲がりかけたところで、反対側からやって来た人影と衝突しそうになる。いつもなら気配を察知して絶対にそんな真似はしないのに、今は五感が過敏になり過ぎてバカになっているのを忘れていた。
「すいませ……あ」
「痛ったぁ……あ、閃光」
しかもよりにもよって、今最も顔を合わせてはいけないミツキが、ぶつけて赤くなった鼻をさすりながら若干涙目で俺を見上げている。
ぶわっ、と身体の奥底で何かが迫り上がって決壊したような感覚。
俺の様子が異常であるのを、咄嗟に感じ取ったのだろう。ミツキはわしっと俺の腕を掴むと、「来て」と短く告げて手近な空き部屋の戸を開けた。
「…………っ、」
かちゃん、と閉まる鍵に背を向ける。駄目だ、顔を見るな。絶対見るな。ここは文保局で、周りには他の奴らもたくさんいて、もし見つかったらただじゃすまない。
「閃光」
外だ。自分の部屋じゃない。聞くな。絶対触れるな。大事なものを傷つけたくないのなら。
「閃光」
そっと触れて来た小さな手が、俯いていた俺の顔を上向かせる。ぜえはあ、と呼吸も満足に出来ないで、多分泣きそうな情けない顔をしている俺の頬を、宥めるように撫でた後、ミツキはぎゅうっと俺を抱き締めた。
その匂いが柔らかな温もりが、ざわつくはずの本能を静めるのはどうしてなのか。
「大丈夫だから、落ち着いて。ちゃんと息して」
「……っ、放せ」
「ダーメ」
ああ、俺を真っ直ぐ見つめる蒼い双眸は、俺が絶対自分を傷つけることなどしない、と信じてやまない。俺を最も信頼しない俺の代わりに、何より誰より俺を信じている。その信頼を裏切るような貴方じゃないでしょう? と脅迫じみた言葉さえ聞こえそうなほどの純粋な、笑み。
焼き切れそうだった理性をぎりぎり押し留めて、恐る恐る抱き締め返す。
ぽんぽん、と叩かれる背中に突き上げて来るのは欲情よりも穏やかな愛おしさ。細く緩く息を吐き出したのが聞こえたのか、「いい子」と頭を撫でられる。
「……帰るわ」
「平気? 私も帰ろうか?」
「まだ仕事残ってんだろ? 薬飲んで寝てる」
そうは言っても、熱を灯したままの俺を案じてくれたのだろう。じっ、と心配そうに見やる眼差しに促されるまま、重ねるだけのキスだけもらった。深く追い縋りたいのをぐっと飲み込んで、何度か噛みつきそうになったのも堪えて。
それだけじゃ全然物足りないくせに充たされた気分になるから、俺も大概現金なものである。
「お利口に待ってて」
なんて煽るような強気な言葉が吐けるのも、今の内だけだと舌舐めずりをして踵を返す。