「わあ、すごい数のウィスキーの種類。これなんてどこの国の言語だ?なんて書いてるか全然読めないや」
「それはオレにも全然わかんねえけど、どこだこれ。初めてみたな、それ」
艶やかな蜂蜜色の液体が入った瓶のラベルを見つめながらディノが子どものようにはしゃぐ。それを横目で眺めながらキースは隣の別の瓶をとった。ラベルには今から二十年以上前の年が刻まれており、年季を感じさせる。
「ここは店主の趣味で世界中の色んなウィスキー集めて売ってんだ。ほんとどこで仕入れてきてるのかわかんねぐらい店主は自分で他の国行って買ってくることもあるから、不定期に休みなことも多くてな、今日は開いててよかったよ」
「へえ、すごいなあ。あっ、見てくれよこの瓶、オオカミの形をした瓶だっ」
肝心な中身の違いにはよくわからないものの、ディノは知らない言語で書かれたラベルや変わった瓶の形を見るだけで楽しそうである。自分が酒を買いに行きたいというのにディノを付き合わせたら酒を買うのを止められるかと思ったが、そうでもないようだ。
「で、キースはどれを買うんだ?」
「ん、ああ、店主がまた海外に飛んで酒を買いに行く、って聞いたからな。良さそうだったらそれを買うか、とでも思ってただけだよ」
オオカミの頭部を象った瓶をディノが元の場所に戻しながら、へえとじゃあそれを見に行こうとキースを促す。
二人の立つ両サイドに並ぶショーケースには様々な種類の、店主が各国から趣味で集めたウィスキーが陳列している。知る人ぞ知る、隠れ家のような店舗はキースと同じような酒好きぐらいしかやってくることはなく、基本的に店主以外の人はいない。
かつて一人でぶらりと歩いているときにたまたま路地裏で見つけた酒屋。陽の差さない通りに物静かにひっそり佇む店は一見誰かの住宅のようにしか見えないものの、酒と営業中とだけ書かれた木製の扉を開けた先に広がっていたのはキースがまだ知らない沢山のウィスキーだった。
その辺の通りに売ってるものとは全く品ぞろえが違う、キースが知ってる売り場とは全く異なる世界。
酒だったらなんでもいい、その認識を変えるきっかけとなる店ともいえよう。それだけでなく美味い酒と、そうでもない酒、店主の好意から飲み比べをして選んで帰るという楽しみをくれた店でもあった。
本当に偶然たまたま見つけた人しかほとんど来ないという店は売上がなさ過ぎていつ潰れてもおかしくなさそうである。しかしだからこそか人目につかない立地と、一目では店だとはわかりにくい外観の店舗、優しいジャズが流れる店内は落ちついていて、一人でいたいときに来るにはうってつけだった。
その場所にディノを連れてくる日が来るなどと思いもしなかった。いつも一人でひっそりと過ごしてからこれまたもの静かな店主と少しだけ言葉を交わして、店主おすすめの何本かの酒を抱えて帰る、それだけの店だった。
「ウィスキー、っていっても沢山種類があるんだなあ」
店内にはキースとディノ以外は誰もいない。店主お気に入りのいつのジャズだけが二人の間をゆるかやに流れる。
「あっ、そうだ、もしここで酒買っていくならさ、俺が払うからっ」
「え、なんでだよ。どうせ飲むのオレだぞ」
「いいからいいからっ、それなら俺も少し貰いたいし、それにここの酒ならなんだか面白そうだし」
「まあ、お前がそう言うなら。ならお前もなんか好きなの選べよ。そんで飲み比べでもしようぜ」
「いいなっ、それ。じゃあ俺、さっきのオオカミの瓶のしよっと」
店の雰囲気に合わせてか、やや小声になるディノが一歩引き返してつい先ほど手に取っていた瓶を再び選び取った。今まで一人で誰にも知られることなく、ジェイやリリーにすら教えることなく訪れていた店で、ディノが酒を手している、こうして今ディノと共に訪れていることがなんだか不思議だ。現実なのに現実だと簡単には認識できずに思考がふわふわと浮ついている。
それでも並んで歩く間に時々触れる手の甲から感じるディノのぬくもりがこれが夢でも幻でもないと教えてくれる。
「じゃあ、今度はキースの酒を選ぼうよ」
屈託なくキースに向けられる笑顔が眩しい。薄黄色の、薄暗い店内でもディノの表情は輝き、太陽のようだった。
そもそものきっかけは昨晩のディノの一言だった。
「キース、明日の休み、行きたいところがあればどこでも付き合うよ」
「……寝る直前になんだよ、つうか、突然なんでだよ」
「ほら、いつもキースに付き合ってもらってばかりだし、今度はキースが行きたいところに行くのもいいかなって」
ディノが突発的な行動をとるのは今に始まった話ではないが、今まさに眠りにつこうとキースが体を横たえた瞬間とはもう少しタイミングを考えてほしい。が、それ以前にディノの意図が読み取れず、棚に遮られて見えないディノの部屋に体の向きを変えた。
「行きたいところ、な。明日は休みだからゆっくりしてえんだけど」
「えー、せっかくの休みだよ?」
「休みだからゆーっくり寝るんだよ」
そもそも寝る直前になって急に明日行きたいところ、と言われても困る。行きたいところも何も明日の休日はゆっくり遅くまで寝る、それ以外に何も考えてなどいない。むしろ何も考えずにいたい。特別どこかに出かけようとなどと思いもしていないのだ。
それでも買い物が必要になると思っているのはつまみ用の材料や、リリーに飲まれてしまった分の酒の補充ぐらいだ。
「キースが好きな酒のおいてる店でもいいし、あ、なんか服でも買いに行くか?」
「酒はともかく、服とか別に今あるもんで十分だろー」
生活のほとんどはエリオスの制服で過ごし、それ以外は部屋着だ。部屋着なんてそれこそなんでもいいし、外に出る服もさしていらない。
「んー、じゃあ明日までに考えておいてくれよ」
「いや、もう寝るんだけど」
キースから離れた空間でがさごそと布が擦れる音がする。今日はテレビショッピングを見ることなく寝るらしい。
それはそれで余計なものをキースが知らぬうちに買わずすむのでいいことではある。
「じゃあ、おやすみ!」
「おやすみ」
もう寝るというにはやたらに元気なディノの声は部屋中によく響いた。
そして、ディノに起こされるのだろうとふんでいた翌日。キースが起きた頃にはすでに太陽は高い位置にあり、朝食というよりは昼食の時間であった。寝起きのぼうっとした頭で共有のリビングに行けば私服姿のディノがキッチンに立っていた。珍しくも今日の昼食はディノが用意しており、キースがびっくりしたことにはピザはでなかったのだ。
思わず腹痛いのかと勘繰ったら俺を何だと思ってるんだと、むっとした表情で返されてしまい、せっかくディノが作ってくれたスパゲティを食べ損ねるところであった。しかしディノが作ってくれたスパゲティを食べるキースの目の前でディノは解凍したピザをちゃっかり食べていた。いや、結局ピザ食べるのかよ。
そして昼を回ってからになったものの、酒買いに行くけどついてくるか、というキースの誘いにディノは嬉しそうに頷き、今に至る。
出かけたいところ、と昼食を食べながら考えたところふいに思い出したのが路地裏の酒屋であった。ぼちぼちまたどこかの国に出かけている店主が帰ってきている頃合いだと考えていたら想定通りで、ディノを連れて行ったのにも関わらず空振りにならずに済んだのはよかった。
二本の瓶が入った紙袋を持ってせっかくだしと今度は今晩のつまみになりそうなものや、その材料を買って帰る。そのお金もどういう風の吹き回しか、ディノが支払うと言い出した。通販で金ねえだろお前と、キースが言えば一瞬ディノは言葉に詰まったものの、このくらいなら平気と言い張り、結局その場はディノが支払うこととなった。
普段ディノは自分が行きたい場所にキースも行かないかと誘うことが多い。それなのに昨晩のことと言い一体何がディノをそうさせているのだろう。
オレの知らないところでもしかして何かやらかしているのか、もしかして余計なものを大量に通販で買ったとか、だから今から機嫌をとっておこうとか、そういう算段か。
ディノの行為の裏には何があるのだろうかと探りを入れるも結局何かはわからず、これは俺がしたいだけだとディノ自身が言い張るため、よくわからないままにキースは一日ディノに奢られ続けることとなった。
しかし、それが逆にさらにキースを訝しませた。
「ディノ」
「ん?」
「お前、オレに何か言いたいことあるならさっさと言えよ。今日のお前なんかおかしいぞ」
「え?俺そんなにおかしかったか?」
「オレの行きたい場所あるかって突然聞いたり、酒もつまみもやたら奢ってきたり、昼飯だって作ってくれてたし。なんか言いづらいこと、隠してるんじゃねえのか」
時刻はもうすっかり夜だ。夕食と風呂を終えたメンティーたちも自室に戻り、キースとディノは今日買ってきたウィスキーで酒盛りをするために準備をしている最中だ。
さすがに今日のディノの行動が気になりすぎて訊かざるを得ない。今ならディノと二人だけだ。ディノが一体キースに何を誤魔化すためにキースにとって良いような行動に出たのか、そろそろ答えてほしいところだ。
キースの質問にえ、なにもないよ?ディノはキースから視線を逸らした。
「ほ、ほらいつも休みはキースに付き合ってもらってばっかりだし、たまにはって思っただけだぞ」
「ほんとにそれだけか、実はまた通販で大量に何か買ってた、とかじゃねえの」
「違うよ、最近は特になにも注文してないしっ」
じーっとキースの瞳がディノを逃がすまいというように見つめる。その視線の先から外れようとディノは二人分のグラスを用意する。
「わかった、じゃあ、なんか仕事の方でなんかやらかしたとか、そっちか」
「ああもう、そうでもないって。キースじゃあるまいし。それよりもなんでそう疑うんだ」
「だって、なかっただろ、今までこういうこと」
「そ、それはまあ」
食事代はフェアに割り勘だったりすることが多い。どちらかが一方的に奢り続けるということがあったのはディノがエリオスに復帰するときぐらいの話だ。だからこそキースは突然の何もない休日にそういうことをし出したのか不思議でならなかった。
「今はガキどもいねえし、さっさと言っちまえよ」
「え、ええー」
何かを迷う素振りをしながらディノはちらりと時計を見た。時刻はまだ二十三時前。明日は仕事ということもあり、遅くまでは飲まない予定だ。今日買った二本のウィスキーを飲み比べということで、少しだけ飲んで、つまみを食べてそれで解散しようと決めていた。
だから日付が変わるまでにはまだ遠い。
「でぃーのー」
早く吐いてしまえと、大きな氷だけが入ったグラスを片手にキースがゆっくりとした口調で名を呼ぶ。
「ああーもう、まだ言うつもりなかったのに!せめて日付変わってから言いたかったのに!一時間早いけど誕生日おめでとう!今日一日は俺からの誕生日プレゼントだよ、キースに何をプレゼントすればいいか全然わかんなくて、酒もきっと好みが何かあるだろうしなって思ったし、ならキースに選んでもらえばいいやと思ったの!日付変わるまでは黙ってようと思ってたんだけど、キースがなんか疑うからっ」
そこまでうつ向いたまま一気にまくし立てると、大きく肩で息で一呼吸してから、ディノは顔をあげた。その先ではぽかんとキースが想定外という感情を覗かせていた。
「……マジか。つうか、明日はオレの誕生日だったのか」
そもそも自分の誕生日が目前だったことにすら気づいていなかった。その上でキースがディノの気持ちに気づかず、逆に変な疑いをもってしまっていた。急に申し訳なさが湧いてくる。
「明日は俺たち仕事だろ、だから今日ぐらいしかないと思って。それに明日は皆が祝いに来るだろうから、その、俺が沢山キースに何かできるのってやっぱり今日ぐらいしかないなって思ったから」
だんだんとディノの言葉が尻すぼみになっていく。
まさかそうとは知らず、つい先程の自分を叱りたい。
「俺がキースを祝いたかったんだ。改めて、少し早いけど誕生日おめでとう、キース」
そう言いながら深緑のラインが入ったウィスキーのボトルをディノは手に取った。今日購入したばかりの、店主おすすめの一品だ。
「……ありがとう」
ディノの手によってなみなみとキースの持つグラスに蜂蜜色の少し粘り気のある液体が注がれていく。
ディノなりにいっぱいキースを祝いたかった。プレゼントもあげたいと思っていた。だが、当日にキースを祝う人はいっぱいいるだろう。だからこれしか思いつかなかったのだ。
ようやくディノの行動の謎が解けたキースは嫌な事態を想定していただけに、まだ少し疑ってた罪悪感が気持ちも残るものの、それ以上に嬉しさとくすぐったが心内を満たしていく。
「んじゃ、お前も飲めよ」
ディノの手からボトルを取り上げると、今度はキースがディノのグラスにウィスキーを注ぐ。
「変に勘繰ってわるかったな」
キースがグラスを顔の高さにも掲げるとディノもそれに合わせる。
こつんとガラスのぶつかり合う、甲高い音がウエストのリビングに響いた。
本当はまだ沢山言いたいことはディノにも、キースにもあった。それは今の一瞬はただ、二人で買いにったウィスキーと共に喉の奥に流し込んだ。
カウンターに置かれたカルパッチョをつまみながら、キースが言った。
「……お前だけだよ、今日の店、連れて行ったの。いつもあそこには一人で行ってたんだ。ずっと」
のど越しのすきっりとしたのにも関わらず、味の深い、やや苦みのあるウィスキーの余韻を感じながらぼそりとキースはディノに告げた。
「そうなの、か。だとしたら嬉しいな。キースの特別な店。教えてもらえて」
残ったウィスキーを混ぜるようにディノがグラスを揺らす。
「お前と行けてよかったよ、お前と休日を過ごせてよかった。オレはただそれだけでも十分なんだよ」
キースの手が伸びる。少しがさついた指がディノの頬にわずかに触れた。
その手にディノ自身の手を重ねて引き寄せるように、キースの手に頬を擦り合わせる。
きっと明日には沢山の祝いの言葉がキースにはかかるであろう。その中ではディノは沢山の人々の中の一人にしかならないのだ。だからこうして少し早いけれど、誰より先にキースを祝いたかった、なんて独占欲にまみれた気持ちをウィスキーで溶かす。
またキースが一つ年を重ねるまでの僅かな時間を今はディノが独り占めできるという優越感に浸りながら、キースはただディノが隣いるそれだけの事実を喜びながら二人静かに、日付が変わるのを待った。