いいふうふトン、ころ、トン、ころ、トン。
まな板の上の根菜が転がされながら切られている。ころ、の音が小さい。人参の乱切りかな、と思いながら俺は寝返りを打った。布団のぬくぬくとした暖かさが恋しい季節。夜明けが遅いのも相まって、起きようという気になれない。俺は布団をさらにかぶった。バシャ、と塀をへだてた向こうから水の音がする。隣の親父が起きて顔を洗う音だ。奥さんがせわしなく動く足音も聞こえる。家族七人分の朝御飯ともなれば朝から大忙しなのもわかる。
(お隣の今朝のご飯は人参の味噌汁かな……)
と、寝ぼけた頭で考える。禰豆子ちゃんは朝ご飯に極力包丁を使わないからあの音は隣の家からだ。根菜を切る音で俺が起きるのを気にして、朝は豆腐を切るか、牛蒡をささがきにするくらいしかしない。仕事で疲れてる俺をめいいっぱい寝かせてあげたいっていうその気持ちがもう愛だなと思う。本当に俺は果報者。
禰豆子ちゃんに暖めてもらってから起きよう、と隣の布団に潜り込む。揉み手をして手の温度を上げて、禰豆子ちゃんの寝巻にお邪魔する用意もしてある。「きゃ」でも「あ」でも「おはよう」でもいい。禰豆子ちゃんの声は俺にとっての一番鶏で眠気覚ましによく効く。もぞもぞと芋虫のようにうごめくが、あるのは冷えた布団ばかりだ。
(お手洗いかな……)
しばらく待ってみても禰󠄀豆子ちゃんは戻ってこない。足音をたどろうと耳を澄ます。
シャク、ころ、シャク、ころ。
また野菜を切る音が聞こえてくる。今度はたぶん蓮根。
(朝から煮物作るのかなぁ)
ぴた、ぴた、とまた違う音がする。水からあげる音もしたから今度は干し椎茸か切干大根だろうか。
禰󠄀豆子ちゃんの布団と冷たさが俺を覚醒に導いて、俺は目を覚ました。
さっきから聞こえてきている音は隣家じゃない。もっと近く。この家の中から聞こえてきている。
すんすんと匂いを嗅ぐと、炊き立てのご飯とみそ汁の香りに混じって、よだれを誘う梅干しと少し癖のあるぬか漬けの匂いもする。我が家の朝の匂いだ。朝御飯に出てくるものは揃っているのに、まだ包丁の音がするとはなぜだろう。
俺は寝ぐせでぼさぼさの頭をかきながら、台所へ向かった。厚手の足袋は履いたものの廊下の冷たさが足裏から伝わってくる。一歩歩くごとに体温を奪っていく。羽織も引っ掛けてくるべきだったな、と後悔するも時すでに遅く、体の末梢はもう氷を思わせる冷たさだ。「おお、寒い」と震えながら、明るい台所を覗く。
ぱぁっとそこだけ春が来ていた。窓からは低い日差しが奥の壁まで照らしまぶしいほど明るい。先週禰󠄀豆子ちゃんに渡した一輪の花が窓辺で陽を浴びている。水切りで少しずつ丈が低くなっているが、禰󠄀豆子ちゃんが毎日水を換えてくれるおかげで今朝も生き生きとしている。
その中にほっかむりにかっぽう着姿の春の女神様が輝いている。「あ、」と俺に気づいて顔を上げた。俺は花盛りの梅の精へ「おはよ」と朝の挨拶する。
「おはよう。起こしちゃった?」
禰󠄀豆子ちゃん(春の女神様)は、「これのせいだよね?」とまな板の上の野菜に視線を落とした。禰󠄀豆子ちゃんのいるところが、廊下より一段下がっているせいでひどくしょんぼりしているように見える。禰󠄀豆子ちゃんは申し訳なく思うことなんかない。一緒に起きるつもりが寝坊した夫の俺の方が問題なのであって、決して禰󠄀豆子ちゃんのせいではない。
「起きようと思ってたから大丈夫だよ!!……それより、朝から煮物?」
「うん。この後出かけるでしょう?帰ってきたらすぐ食べられるようにと思って」
俺たちはこの後銀座までデエトの予定だ。昼にはいつもは食べられない洋食を食べて、夜もどこかで食べてくればいいやと思っていたが、節約家の禰󠄀豆子ちゃんが二食連続で外食にするはずがないのは、少し考えればわかることだった。
「私ね、楽しみで起きちゃったの。それにね、せっかくだしカフェーに行って奮発するのはどうかなって思って」
単にケチって夕飯を作っているわけではないところが禰󠄀豆子ちゃんらしい。さすがという他ない。カフェーでおやつだなんて、デエトとしては最高なわけで、やっぱり俺のお嫁さんは世界一だ。
「ウィヒヒヒ。アイスクリーム食べちゃう?それともケーキ?あ、両方食べちゃう?」
「うん!」
禰󠄀豆子ちゃんの弾ける笑顔に、俺の眠気は遥か彼方に飛んで行った。愛しの禰󠄀豆子ちゃんとデエトだ!これは気合を入れねば男がすたる。俄然、燃えてくる。まずは顔を洗って、そして、世界一の朝ごはんで腹ごしらえだ。「顔洗ってくるよ」と俺は踵を返した。髭も伸びていれば寝癖もひどい。このままじゃ禰󠄀豆子ちゃんの隣を歩く夫としては締まりがないのだ。
「あ、善逸さん」
「なぁに?禰󠄀豆子ちゃん」
締まりのない顔のまま振り返る。
とん、と一段のぼった禰󠄀豆子ちゃんが近くなる。
ほわ、と禰󠄀豆子ちゃんの髪から椿油の香りが立つ。
ふわ、と今度は頬に柔らかなものが触れた。
ちゅ、と音がしたのを俺の耳は聞き逃さなかった。
もじ、と頬を染めた妻の姿に朝から叫びそうになる。
「今朝はまだしてなかったから……」
可愛いが過ぎる。悶絶必至。ぱうっと一瞬魂が体から抜けた。
俺からばかりの朝の定番が今朝は禰󠄀豆子ちゃんからとは思いもよらなかった。家に閉じ込めておいて他の男の目に触れさせたくない衝動にかられる。が、デエトが楽しみで早起きしちゃった禰󠄀豆子ちゃんにそんなことはできない。ならば、最高な一日にしよう。いや、してみせる。俺は心の中で誓った。