「なに食ってんの?」
喫煙室に入ってきたフリックが開口一番そう言った。慣れた仕草で取り出したタバコで俺の口元を指す。
本来ならタバコがあるべき場所にはおんなじような細さの、別のものがあった。
「チョコ。業者にもらった」
「ああ、バレンタイン……」
忘れていたと呟いて、フリックはタバコを指先で回した。使う人間のめっきり減った喫煙室は俺たち以外の誰もいない。
「なんでここで食ってるんだ」
「だってお前が来るし」
微妙に答えになっていない事を言ってみた。
部署の違うこいつと一緒にいられるここは、煙草が吸える以上に貴重な場所だ。喋る必要も、話題を探す理由もなく、ただ同じ時間を共有出来る。
煙草を吸うのは二次的な快楽に過ぎない。
フリックは取り出したタバコに火もつけず、かといって立ち去るでもなかった。俺のとなりのちゃちなパイプ椅子に腰を掛け、煙草を眺めて結局仕舞いこむ。そうして、ため息をついた。
「お前、煙草止めんのかと思った」
また唐突な。止めるとここに来る理由がなくなる。そしたら、どこでこいつと二人になればいいんだ。
同じ事を考えていれば良いと身勝手に願われている男は、俺がくわえたチョコを見ていた。長いまつげがちいさな窓から差し込む午後の光をはじいている。
「止めてくださいって誰かが頼んで、それを受けて……いや、おかしいよな」
俺に聞かせる気のない言葉を俺の目の前で吐いた男は煙草もないのに深いため息をついた。情けないとの呟きは午後の光の中にとけていく。
口の中でチョコレートが甘くとけていく。スーパーで買えるような安物だ。付き合いのあるすべての会社に配ってるようなやつ。
たぶん、フリックにだってそれは分かってる。分かっていてこの態度。口元が緩み、チョコが落ちかける。それを慌てて支えるふりで、どうも締まりに欠ける口を抑えた。
ポケットの中の残りのチョコレートを取り出した。子供が背伸びして遊ぶような菓子だが、大人の恋など分からぬ自分とこいつにはきっと相応しいに違いない。
「お前も食う?」
お膳立ても何もなく、成り行きで育った間柄だ。似合うのは選ばれたチョコレートではない。
それでも十分に甘かった。
「俺はどうかと思うけどなあ」
チョコを差し出す手に指が添えられる。その感触の慣れなさに、始めて触れたのだと気づいた。わずかに力が込められる。引き寄せられた、と思った瞬間に、くわえていたチョコレートが音を立てた。
一瞬触れあった唇はチョコレートの甘さだけを残した。半分になったチョコの片割れを、フリックが神妙な顔で食べている。
「やっすい味がする」
そっぽを向いても、赤い耳も頬も隠せない。
笑みを隠すことなど考えもしないうちに、俺は手を伸ばして細身の体を抱き寄せていた。
「チョコは買うからな」
「いらん」
フリックは俺を振り払いもせずに、むしろ体重を預けて言った。
「煙草、吸わなくてもここには来いよ」
「止めねえって。お前が来るのに」
妙な勘違いは残ったが、大した話ではない。二人で過ごす理由が、煙草に限らなくなっただけの話だ。