2025-07-20
ミューズにたどり着いて、しばらくここに滞在する事に決めた。紹介された医者の先生のところで仕事にありつけたのは運がいい。砂漠を無理やりに一往復半したのは本当に良くなくて、怪我をする前の状態に戻れるのがいつになるやら分からない。今はとにかく休養が必要だけれど、ビクトールに養われている状態は本当に無理だ。理由もなければ、理屈もへにゃへにゃ。ビクトールだけがそれでもいいだろ、なんて軽く背中を叩くのもまた腹立たしい。
「べつに養われてりゃいいんじゃねえの」
「理由がないって言ってるんだ。自分の飯ぐらい自分で世話する」
「はー、真面目だねえ」
ジョウストンに来てからこっち、ビクトールの昔馴染みと話すことがよくある。村を滅ぼされて復讐に逸ったからと言って、奴の持つ人の懐にするりと入り込む性質が変わるものではなかったらしい。
どこの街へ行っても声を掛けられ、昔話に花が咲く。帰ってきていたのか。久しぶりだな。どこに行ってたんだ。目的は遂げられたか。そのすべてに笑みを浮かべて応える男に、昔馴染みたちは常に一瞬だけ驚いた顔をする。
いま、一緒に卓を囲んでいるこいつらもそう言う顔をした。傭兵としてジョウストンで働いてきた奴らだ。ネクロードを追うなかでも、日銭を稼がずに生きていくことは出来ない。復讐とは関係なく日常は新たに作られる。こいつらとビクトールはなんだかんだと仲良くやってきたはずだ。
「お前の世話ができるのが嬉しいんだから、受けとっときゃいいのに」
白身魚の餡掛けをつまみながら、赤い髪の男がいう。
「意味が分からん。あいつのお節介なんて分かり切ってるだろ」
「ありゃお前に懐いてるんだよ」
もう一人、年かさの傭兵がしみじみと言った。
「俺たちはビクトールって男は懐かないタイプの生き物だと思っていた」
強い酒を三つのグラスに均等に注ぎ、俺ともう一人の前に差し出した男は、自分のグラスをゆっくりと傾ける。多分、俺たちの父親と言ってもおかしくはない年の男だ。グラスを傾ける手はしわとしみだらけだが、まだ弱弱しさは欠片もない。
「蛇を身近に飼ったことはあるか」
突然の話題の転換に面食らいながらも首を振った。家畜の類はいくらでも身近にいたが、爬虫類はあんまりだ。男は一つ頷き、だろうなとささやく。
「蛇は懐きゃしない。こいつは自分に危害を加えねえなと判断する。まあそれでも十二分にありがたい関係性ではあるんだが」
「わかるな。ビクトールってそういうところがあった」
赤毛は年かさの言うことにうなずくが、俺はいまいち理解が及ばない。危害を加える気がなんて、まあ、最初は……お互い様だろそんなの。
「何があったかは知らねえけど、そう言う風に距離を取る人間なんだとは思ってたんだけどな」
どうやら違ったらしい、と男は笑う。皺が笑みの形に深くなって、彼が笑い慣れている人間だという事が知れた。
「……それは、たぶん」
俺だって良くは知らないが、故郷の村にいた人間の全部があいつに取っては身内で、内側にいる人間で、それを理不尽に奪われたせいじゃないだろうか。外から来た奴にいきなり食いちぎられれば、まず判断するのがそのラインになるのは理解が出来る。
こいつは自分に危害を加えない。
こいつを内側に入れれば、奪われた時の痛みのすさまじさたるや。
懐かないという言い方が正しいかは分からないが、理解はできる。
差し出されたグラスを傾ける。強い酒精が喉を焼いた。同じ料理をつつき、同じ酒を飲む。輪の中の一員だと許容される感覚があった。
男たちが輪の中にビクトールを入れようとしたのは確かなんだろう。それを拒絶した。笑いあって、酒を酌み交わしても、次の日にはふいと消えてしまう。ビクトールはたしかにそういう奴だった。
変わったのはいつ頃からだっただろうか。ふわふわと酩酊した思考ではもう定かには分からない。いつの頃からか、ビクトールは俺たちのところに『帰って』くるようになった。
へへ、と年かさの男は嬉し気に笑う。
「この年になるとな、幸せそうなやつを見てるだけでいい気分になる」
「幸せそう」
「ビクトールの奴は帰ってきてからこっち、ずっと笑っている」
そりゃあ良かったと思う。憎悪の元凶を殺し、あいつもやっと元に戻ったということなんだろう。あの人恋しい男が誰かに属さず生きていけるとは到底思えず、属さず生きていかざるを得なかった10年の苦しさは想像さえも出来ない。
「めでたい話なんだな」
「他人事みてえに言いやがって」
赤毛が手を伸ばして俺の肩を叩いた。
「お前が身内なんだろ。だから世話を焼く」
「焼きてえんだろ。焼かせてやれよ」
その話に戻ってくるというわけか。一つため息をついて、付け合わせのキャベツを齧った。あまり食えてないけど、もう入らないな。良くないなあ。ばれたらあいつがまた心配する。