end point③快晴。外出日和。こんな日は自分の帆船で海に出るのも悪くない。
しかし、龍水は今日も手土産を持って不死身の屋敷に足を運んでいた。果物は何が好きだろう。リンゴ?グレープ?とにかく近場で採れたものをひと通り詰めてもらった。屋敷に段々近づいていくといつもは聴こえない音色が聴こえてくる。
ピアノの音?
以前屋敷を一部見たときピアノの置いてある部屋があったなと思い出す。まさか彼が弾いているのだろうか。屋敷に近づくと音が止み、いつもの帽子を被った彼が玄関から顔を出した。
「よくもまぁまた来る気になったね」
「行くと言ったら行く。先程の音色は貴様か?」
「なんだ聴こえてたの」
「ここ一帯は静かだからな。音がよく通る」
話していると青年はドアを開けたまま中に戻っていった。入っていいということなのだろう。
「今日は随分素直に入れてくれるんだな」
「どうせ君と玄関で話しても何かしら理由をつけてきて面倒そうだ。それならさっさと招いて満足してもらってさっさと出てってもらえばいいと、思っただけ」
何だかんだ理由をつけて招き入れてくれるのは貴様の方では?と龍水は思ったが口にしたところで相手を不機嫌にさせるだけなのでやめた。先日指摘した言動と行動の一貫性の無さについて彼はどう思っているのだろう。今何を考えているのか、察しの良い龍水でもさすがに彼の考えが全てわかるわけではない。そう、わからないのだ。わからないなら、知っていけばいい。龍水はピアノのあった部屋に行きたいと青年に声をかけた。
夜見た部屋とは違いカーテンは開け放たれて温かい陽の光が床を照らしていた。真ん中に置かれたピアノは青年が先ほどまで弾いていたからだろう、ピアノの屋根が開いていた。
「貴様がさっき弾いていた曲が聴きたい」
「君に弾いてあげる義理あるの?」
「義理はないが遠くで聴いても美しかったから、近くでも堪能してみたかった。ただそれだけだ」
龍水は帽子で見えない青年の顔を覗き込んで「ダメか?」と目を合わせて伝えた。不死身の青年は急に顔を覗かれて少し驚き、表情を見せないよう帽子を深く被り直してしまった。だけれど、ピアノの椅子には座ってくれたので弾いてはくれるのだろう。少しだけ耳が赤くなっていたことに当の本人は知る由もなかったが龍水は見逃さなかった。態度の割には随分可愛らしいと思った。
青年が鍵盤を叩く。動く指先がとても滑らかで力強い、優しい音。でもどこか寂しげで抱きしめたくなる。この音だけでも、彼の人間性が少しだけわかった気がした。
曲は短く思っていたよりすぐ終わってしまった。龍水は青年の後ろで聴いていたが近づいて彼の隣を陣取る。
「上手いな貴様…プロ顔負けの技術じゃないか」
「それはどうも。」
「聴いたことが無い曲だった。自作か?」
「長いこと生きてるとやることもないから」
だからと言って関心が無ければここまで上達はしないだろう。彼がどこまで出来るのか少しだけ気になった龍水は譜面台の脇に土産で持ってきた果物を置いて、自分も半分椅子に座らせろと身体を寄せた。
「何だよ急に」
「貴様と連弾したくなった」
「君は僕が呆れるようなことばかり言うなぁ」
「知ってる曲だったら途中で入ってくれ」
聞いてないし…不死身の青年は龍水を横目に見た。龍水は軽快にテンポよく弾き始める。彼の雰囲気に合った厳かでも明るくなりそうな曲。弾いてる姿が真面目で楽しそうで……青年はその姿につられ、知らない曲だったけれどアドリブで龍水に合わせた。
そこからは追っかけっこのようだった。龍水の音を青年が追って、青年の音を龍水が追う。部屋中を使って子供が楽しく駆けまわり遊んでいるような弾ける音。テンポは段々速くなっていくけれどズレない音の羅列。最後は揃って終着した。
二人して集中していたからか互いに息が漏れる。
「はっはー!貴様上手すぎだ」
龍水は笑って青年の方へ顔を向けると、窓から入る日の光の逆光で銀髪が輝いていた。
「ふふ、君も思ってたより上手だった」
そう言って向けられた表情は彼の心の一部に触れた気がして、もっとその心が見たくて、龍水は青年の帽子を取った。
「…貴様の笑った顔を初めて見た」
龍水は慈しむような目で不死身の青年を見つめる。青年はハッとして龍水から帽子を奪い取り被らずに顔を隠した。
「君と話してても笑顔を向けることはあったと思うよ」
その声は帽子で少しくぐもっている。
「あれは作り笑いだろう。俺は今の顔の方が好きだ」
不死身の青年は先程よりも耳を真っ赤に染め上げていた。長年生きていても照れて自分の耳が赤くなるということには気付かないらしい。
助け船が必要かと考えた龍水は持ってきた果物でも食べるかと話を切り出そうとした。だが、手にしようとした袋を握り損じてしまい床へ落としてしまう。そこから溢れたリンゴがコロコロとピアノの下に行ってしまった。
「果物を打ちつけるなんて勿体ない…」
未だ顔に帽子を当てたままの青年は音だけで判断してそう龍水に言った。それに対して悪かったなと声をかけながらピアノの下に潜りリンゴを手に取る。
リンゴを取るのに、ピアノの裏側が目に入る。木材部分の残った箇所に字が綴られていた。
「羽京…?」
この文字…名前?はどう言う意味だ?所有者の名前だろうか。それにしては字が汚いし見えないところに書きすぎな気もする。
龍水はピアノの下から出て不死身の青年に声をかける。
「なぁ、羽京というのは貴様の主人の名前──」
彼は大きく目を見開いて龍水を見た。
龍水は確信する。
あぁ、不死身の彼が羽京という名前なのか。
会って数日。龍水はようやく不死身の青年、羽京の名前を知ることになった。
(どうしたんですか坊っちゃん)
(ここを見てみろ羽京)
(僕は字がまだ読めません。なんて書いてあるんですか?)
(これは羽京の名前だ。羽京は俺より音楽が上手いからこれは羽京のものだ!)
(!消してください。こんなの書いたら旦那様に叱られる…)
(羽京は自分の物があまり無いだろう?叔父上には秘密だ。大人はこんなところ見ないさ)
そう言って秘密のプレゼントをしてくれた坊っちゃんの笑顔を、何百年経った今でも覚えてる。
願わくばその笑顔をまた自分に向けてほしい。
ねぇ坊っちゃん、いつ帰ってくるの?
不死身の青年、羽京は龍水の落としたリンゴを頬張りながら不服そうな顔をしていた。
「口に合わなかったか?」
「…美味しいけど?」
ピアノの部屋から早歩きで逃げようとする羽京を追っかけ、ひとまず食堂まで戻ってきた龍水たちは果物を食していた。羽京は思いもよらない事態で自分の名前が龍水に知られてしまったことがどうやら気に食わないらしい。
「なぜピアノのあんなところに名前を書いたんだ?貴様か書いたのは」
「坊っちゃんが遊び半分で書いただけだよ」
それ以上のことを羽京は答えてはくれなかったが果物は問答無用で全て平らげていた。
「羽京、そんなに名前を知られることが不服か?何がそんなにいけないんだ」
「気安く呼ばないで」
「不死身であることと名前を知られることに何か関係性があるのか」
「違う」
「名前に何か不都合が?」
「違う」
龍水はただただ質問攻めをし羽京の様子を観察しているがいつもどおりに紅茶を飲んでいる。
「名前を呼ばれ慣れてないから嫌だとか?」
「もうそれでいいよ」
質問への回答が段々雑になってきたぞ早く正解を当てたいところだ。
「主人以外に名前を呼ばれたくないとか?」
流石にこんな子供じみた理由では…
「ち、がう…」
あったようだ。紅茶を飲む手が少し止まった。龍水がそのような理由か…と伏せ目がちに羽京を眺めるとしばしの沈黙が流れる。
「ッ…そんな理由で悪いかな?!」
居た堪れなくなった羽京は声を上げた。今まで聞いた中で一番大きい声だった。飄々としていた羽京の化けの皮が剥がれていく。不死身だなんだと恐れられていた男はただ照れ屋な普通の青年に見えた。
「特別な相手に名を呼ばれたい、別に悪いことはないさ」
羽京は何か言い返そうと口を開けたり閉めたり、視線を彷徨わせていたが龍水があまりに自然と肯定してしまったから中々言葉が出てこなかった。
「俺の名前は呼んでくれて構わないんだが羽京はいつ呼んでくれるんだ?」
「……僕の要望を理解した上で何で僕の名前言うかなぁ」
「俺にとって羽京はもう特別だからな」
何年も生きている羽京にとっては些細な、刹那的な数日かもしれなかったが、羽京との数日は龍水の中で充実感のある数日だった。
「そうやって気に入られようとして土地を寄越せと言う気だろ」
「いや、その話は白紙だ」
「え?」
建物の管理が行き届いていること。他に迷惑をかけていないこと。羽京が今でも住んでいること。それらが理由だと龍水は羽京に説明した。
「そんな理由だけで?立ち退かなくていいのかい」
「俺は除け者のように人を排除するのは嫌だ。貴様は罪人でもなく慎ましやかに暮らしているだけだ。誰しもが幸せと感じられる環境を手に入れたい。それに、家主が帰ってくるんだろう?帰ってきて家がないんじゃあ困るだろ」
羽京は疑念の目を龍水に向けていたが言葉と共に顔に緊張感が消えていく。
「うん…無いと、困る」
今にも泣きそうな笑顔で羽京は言った。龍水は彼の心の縁にまた触れられた気がして嬉しくなった。
「じゃあ君がここに来る理由はもう無いんだね…よかった。また静かに暮ら「いや、ここにはまた邪魔するぜ?」
「…え?」
「貴様のことが気に入ったと言っただろう!またピアノも一緒にしたい。今度は俺がヴァイオリンを持ってくるから合わせるのもいいな!」
ちょっと勝手に話を進めないでよと羽京は困った様子で龍水と話をした。最初に会った時よりもその拒否は随分と和らいでいるのは傍目から見てもわかっただろう。気づいてないのはきっと羽京だけ。
龍水は次の手土産は何が良いかと楽しげに問いかけていた。
ここの家主が本当に帰ってくるのか。いつ出て行ったのかを、龍水はまだ知らない。